「我が信心の歩み」 (連載第96回)


[九十六] どんなに悪い運命でも(2)


 ただ、ここで大切なことといいますと、二代目を継ぐ者に、この初代の徳を受け継ぐ熱意があるかどうかということです。折角、初代が徳を譲り渡そうとしても、それを受け継ぐ二代目が、「私は何にも知らない、分からない」で、徳を受け継ごうとする心がなかったら、親の徳を譲り受ける立場にいても、自分から逃げてしまうことになるので、神様の思召しも、むだになってしまいます。そこのところを注意しなくてはなりません。

 ところで、めぐり、めぐりといいますと、すべて、それを「親先祖の罪」にこじつけて、自分の信心は棚上げにして、何でも、親先祖の罪だと言って片づけてしまいたがる人がないでもありません。しかし、これは大きな心得違いであって、無茶もはなはだしいと言わなければなりません。めぐりといっても、決して親先祖の罪ばかりをさすものではありません。一、二の例をあげてみます。

 学校は出た。しかし、学校であまり勉強しなかったために、学校を出ても何の役にもたたないとします。これはめぐりであります。これは誰のめぐりでしょう。昨日暴飲暴食して、今日病気になって寝るはめとなります。これもまためぐりですが、これは誰のめぐりでしょう。言うまでもなく自分の罪―めぐりです。めぐりといっても、何もかも親先祖の罪で片づけられるものではありません。

 何か失敗したというような場合、自分の不勉強や不注意が原因であるのに、自分自身のして来たことを反省しないで、悪いことはすベて先祖のめぐりと言うようでは、まったくお話になりません。しかし、信者さんの間には、めぐりについて、このような取り違いが相当にあるようですから、それを指摘しておきたいと思います。何でも親先祖の罪めぐりのためだと、親先祖になすりつけるようなことをしては、親先祖に対して相済まないことであり、それこそめぐりの上にめぐりを積むようなことになります。

 ことわざに〃まかぬ種は生えぬ〃とありますが、このことわざは、うら返しますと、まいた種は必ず生えるということになります。としますと、どんな種まきをしなければならないか、してはならないかということが、大事なことになってきます。

 ある時のことでした。私は、ものはためしだと思って、バケツに土を入れて、それに一粒のもみをまき、水をやって育ててみたことがあります。すると大きくなって、穂が三十九本出ました。一本の穂に、お米が百粒ぐらいずつついています。それで勘定しますと、ざっと四千粒になります。昔から〃一粒万倍〃と言われていますが、一粒が万倍にはならなくても、四千倍にはなった。これは間違いのない事実です。そこで、私は、このことからこんなことを感じさせられました―― 

 これは油断のならない大問題だ。もしも、自分がおかしな種をまいたら、とてもつぐないきれない。これは容易ならんことだ。気をつけなければならない。
 仮に、一粒を一円とすると、一粒が四千倍になるのだから、一円ごまかせば、四千円にして支払わなければならないことになる。四千円とは大きい。高利貸の利息がどんなに高くても、とても足もとに及ばない。これでは、悪い種をまいておったら、とても助からない」。

 私は、このお米の事実から、お互いは、一挙手一投足を慎んで、決してゆるがせにしてはならないということを、はっきりと見せつけられた思いがして、何とも言えない感じにとらわれたものです。お互いの一挙手一投足が原因となって、どんなに広く長く結果を及ぼしてゆくかということを考えなければなりません。ここに仮に、酒や女におぼれ切った放とう者があるとします。その人の子孫が殖えていくにしたがって、肉体的にも精神的にも欠陥を持った人が、いもづる式に殖えていって、どんなに世間に迷惑を及ぼすことでありましょうか。これは、科学的にもはっきり証明できるところでありましょう。

 ここで、ぜひ申し上げておきたいことは、お互いがどんなにめぐりが深くても、信心しておかげを受けてゆくのには、何の差し障りもありませんから、それは心配しなくてもよいということです。それはなぜかと言いますと、どんなにめぐりが深くとも、それを助けずにはおれないという神様のお情けは、さらに深いからです。そもそも、金光様が、この金光教というお道をお立てなされ、お開きなされるようになったのは、何のためであったのでしょう。それは、難儀な氏子を助けたいという天地の親神様のご悲願から出ているのであって、難儀の多い、めぐり深い氏子ほど、そのご悲願の対象となっているのであります。

 私は、めぐりの話を始めた時に、御理解第三節を引き、『天地の間に氏子おっておかげを知らず。神仏の宮・寺、氏子の家やしき(宅)、みな神の地所。そのわけ(理)知らず、方角・日柄ばかりみて無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる』と申しましたが、この御理解には、まだそのあとに神様のお言葉が続けられているのであって、『このたび、生神金光大神を差し向け』と仰せられて、さらに『願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁じょう(昌)いたすこと。氏子ありての神、神ありての氏子。上・下たつようにいたす』とお約束くだされたのであります。

 そうだとしますと、天地の親神様が、生神金光大神様をお差し向けになったのは、一にも二にも、めぐりで難儀をしているお互いにおかげを授けて、お助け下さらんがためです。それを「立教神伝』では『世間に、なんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子もたちゆく』と仰せられているのです。ですから、たとえ、今自分がおかれている身の上・境遇が、どんなに暗いめぐりの一筋道であっても、このお道の信心を知らせて頂いたからには、これから開けてくるのは、明かるいおかげの一筋道であって、どんなにお互いのめぐりが深くても、神様のおかげで救い上げられないことはありません。

 お互いが、あらゆる苦難に耐えて、改まりによって、親先祖から子々孫々にいたるまでおかげを蒙る信心に骨折らせて頂いていましたら、どんなにめぐりが深くても、「さきの世までも持ってゆかれ、子孫までも残る』という神徳を受けさせて頂くことができるのであります。
                                    つづく

(この「我が信心の歩み」は、2013年7月に掲載されたものです)
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