かんべむさしのこぼれ話
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 かんべむさし

  1948年1月16日生れ 兵庫県出身の小説家、SF作家、エッセイスト。
  (かんべむさしWikipediaより)  金光教玉水教会信徒

 

連載第1回

散財と米相場


――私は二十一の年(明治二十三年)に家の都合で、奉公することになり、大阪へ出てまいりました。私はどないぞして、クニ(郷里)の親に安心してもらわんならんという思いと主人の家をも富まさんならんという思いで、一方では神さまに一心にお願い申し、他方では商売大事と、一生懸命に働いた。が、主人はどうや言うと、一向に本気に商売しようとしません。商売が調子よういって、お金がたまっても、それ持って、散財(ちゃや遊び)に行くか、堂島(米相場)へ持って行って、つかいはたしてしまう。この分では、店の立ちいきそうなはずがありません。――(『信話第一集』39頁)




「散財」という言葉を三省堂の『辞林』でひくと、[多額の金銭を使うこと。また、金銭を無駄に使うこと]と書いてあります。一方、『大阪ことば事典』(牧村史陽編。講談社学術文庫)には、次のような説明が載っています。

[金をまきちらすこと。相当大きな金を使う場合(飲食・買い物など)に「えらい散財やなァ」など。転じて、色町や料亭などで三味や太鼓で馬鹿騒ぎをすることをいう]

上方落語に出てくる茶屋遊びでは、芸妓に舞妓、ときには幇間(ほうかん)(太鼓持ち)まで呼んで遊びますから、かなりのお金がいったのでしょう。

昔の大阪には新町や堀江、そしてもちろんキタやミナミなど、散財の場所はあちこちにありました。ただし大阪の商人や町の人たち、自分の甲斐性でそれをやってる人には寛大だったようで、大きく儲けて大きく遊ぶ大店の旦那さんなどには、尊敬や羨望の気持ちも抱いていたようです。


「米相場」は、いまの言葉で言えば商品取引のひとつです。江戸時代、大阪(明治初年あたりまでの表記は大坂ですが、いちいち書き分けると煩瑣(はんさ)なので、以下、大阪で統一)には諸藩の蔵屋敷があり、米をはじめ各地方の特産品が運び込まれていました。

堂島で米の取引が始まったのは元禄時代の初めだそうで、享保年間には幕府公認となり、以後さまざまな曲折を経ながらも、昭和14年(一九三九)8月末の、取引所解散までつづきました。取引所が解散したのは、同年4月に米穀配給統制法が公布されたからで、戦時体制、統制経済の色が濃くなってきたこの時代まで、現在の石油や金(ゴールド)と同じく、米の値段は相場で動いていたのです。

堂島の米相場で財を成していた旦那衆は、江戸時代以来、色町でも大変な力を持っていたそうです。『冬の遊び』という上方落語には、新町の太夫さんたちが仮装して練り歩く「道中」、奉行所の許可のもと、役人も検分に来る毎年の夏のその行事に、彼らがそっぽを向く部分があります。ある年、その高額な費用を出してもらってる堂島へ挨拶に行くのを忘れていたため、「来年から費用は奉行所に出してもらえ」と、臍(へそ)を曲げたのです。

もちろん、大儲けする人がいれば、一方で大損する人もいるのが相場のならいです。

 
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