かんべむさしのこぼれ話
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 かんべむさし

  1948年1月16日生れ 兵庫県出身の小説家、SF作家、エッセイスト。
  (かんべむさしWikipediaより)  金光教玉水教会信徒

 

連載第2回

新町、堀江の賑わい


――すると、その時、私の頭に浮かんできたのは何やったかと言うと、朝の八時に家を出て、日暮れの五時まで、一枚のゴザをかぶせた剣先鯣(するめ)の入った一個のカゴさげて、新町・堀江の花街の三百何十軒という家々をまわりあるいた私自身の姿でありました。――(『信話第一集』42頁)




 大阪は豊臣秀吉の時代以来、「天下の台所」と称され、江戸時代を通して日本最大の経済都市でした。ですから当然、その豊かさは消費や娯楽の分野にも及び、新町や堀江をはじめとする、色町(いろまち)と呼ばれる遊興街も大いに賑(にぎ)わっていたのです。

 新町は、江戸の吉原、京都の島原とともに三大郭(くるわ)といわれた、幕府公認の遊び場所です。大阪落城の翌年、あちこちにあった遊女屋を一箇所にまとめたいという願いが幕府に出され、数年後にそのための新しい町ができたので、新町と通称されるようになったとのこと。堀江はそれより80年ほど遅い、元禄時代につくられました。

 詳しい説明は避けますが、大阪では昔、娼妓と芸妓が同じ色町で営業していたそうで、新町は芸妓の方が多く、堀江はその逆だったとのことです。

 これ以外にも、ミナミには「南地五花街」と呼ばれた宗右衛門町や難波新地をはじめとする色町があり、キタには曽根崎新地、堂島新地があって、それぞれ賑わいを見せていました。明治以降は新町や堀江より、これらミナミとキタの方が発展したそうです。

 しかし、安太郎先生が小売り商いをしておられた時代には、まだまだ活況を呈していたわけで、新町と堀江で三百何十軒という家数には驚きました。芸妓たちが踊りの稽古(けいこ)をしたり、おさらいの会を開いたりする、新町演舞場という歌舞練場もあったとのこと。

 現在、西区の新町2丁目に、なにわ筋に面して出版取次会社「大阪屋」の本社がありますが、あの煉瓦張りのレトロな建物は元来、大正11年(一九二二)に建てられた、二代目の新町演舞場の玄関部分なのだそうです。そんな歌舞練場を、新築できるだけの財力があったという点だけからでも、当時の新町の繁昌(はんじよう)ぶりが想像できそうです。




 落語ファンの私は、故・桂枝雀師匠がお元気だった頃、若手の噺家(はなしか)さんや落語作家と一緒に、一度だけ新町のお茶屋さんへ連れていってもらったことがあります。普通の民家のようなこじんまりした建物で、二階の狭い座敷に上がって、師匠たちは浄瑠璃をうなったり、着物でも何でもない、普段着姿のおばさんが弾く三味線に合わせて踊ったり。

 何もできない私は、「こういうところで遊ぶためには、やはりそれだけの素養と、それを仕込む元がいるんだなあ」と思いながら、ひたすら見学させてもらっていたのです。

 そして、そこは師匠のなじみのお店だったのですが、予約なしでいきなり行ったためか、それともそれが普通なのか、酒の肴として出たのは、目刺しのような干し魚を焼いたものと、小鉢が一品くらいでした。お茶屋は貸座敷業ですから、本格的な料理は仕出しを頼むわけで、自家製だとそういうことになるのでしょう。

 まだ信話集に接してない時代でしたが、後年この部分を読ませてもらって、「なるほど。干し魚と同じく剣先鯣も保存が利くから、お茶屋にとっては便利な品だったんだろうな」と思いました。だから、それが断られつづけて夕方ぎりぎりまで売れなかったのは、決して先方にとって不要な、見当違いの品物だったからではなく、やはり神さまの「お試し」だったからだろうとも、納得しやすかった次第です。

 
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