かんべむさしのこぼれ話
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 かんべむさし

  1948年1月16日生れ 兵庫県出身の小説家、SF作家、エッセイスト。
  (かんべむさしWikipediaより)  金光教玉水教会信徒

 

連載第3回

阿倍野の墓地と岩崎


――大阪の阿倍野の墓地は、もと岩崎(西区の西南端)というところにあったのを、移転させたんですが、その移転の時、岩崎の墓を掘りおこしておった人夫が、「これ、ナマやろか、やいてあるんやろか」と言うて、まるで人の死骸を魚のように話し合い、埋めてから三年くらいしかたっておらない、とても臭うて、ネキ(傍)へ寄りつけんような死骸を、平気の平左で掘っておりましたが、ね。――(『信話 第一集』46~47頁)




 この移転の史実は知らなかったので、ちょっと調べてみました。まず阿倍野の墓地というのは、現在の「大阪市設南霊園」で、阿倍野橋筋四丁目、阪神高速14号松原線の南側にあります。できたのは明治7年(1874)で、江戸時代には刑場だった千日前の墓地なども、ここにまとめたとのこと。最初は私設だったのか府設だったのか、明治40年(1907)に大阪市が買収したそうです。昭和初期には火葬場も設置され、以来、阿倍野斎場と呼ばれてきましたが、それは瓜破霊園に統合されて、いまは墓地だけです。

 次に岩崎の墓地ですが、京セラ・ドーム大阪や大阪ガスのビルがある西区千代崎、その旧称が岩崎です。手元にある昭和33年(1958)発行の大阪市地図では、随分広い区画がまだ岩崎町と表記されています。大阪ガス発祥の地で、工場やガスタンクが並んでいた場所です。墓地については、インターネットで検索したところ、大阪中部ライオンズクラブの公式サイトに西区の史蹟巡りのページがあり、そこに載っていました。

 その一部を引用させていただきますと、ここは江戸時代に新田としてひらかれ、「明治6年7月火葬禁止令が出たとき大阪府はこの地に墓地を設け、岩崎墳墓地としたが、同8年5月ころ禁止令が解除され、八弘社によって火葬場が建設された」とあります。

 「同40年2月経営は大阪市に移り、市営葬儀所となったが、翌41年6月末日をもって廃止された」とのこと。だから安太郎先生のこのお話は、時系列を考えれば正確には、「岩崎の墓地も阿倍野に移した」ということになるのでしょう。

  「ナマやろか、やいてあるんやろか」の会話、火葬禁止令が解除されてからも、まだ焼かずに埋葬した例が少なくなかったのでしょうか。




 銀座教会発行の『湯川誠一 教話』第六集には、「当時西区の岩崎にあった初代白神先生のお塚へも時々はだしでお参りして」、「雨降りの中をはだしで一日に三回もお参りしたこともあり」という、修行生時代の回顧談が載っています。
 これを現在に当てはめると、玉水教会もしくは北新地の近くにあったという実家から、ドーム大阪あたりまで裸足で三往復ということになるわけです。

 なお、初代白神先生というのは、教祖直信で大阪布教の開祖、現在の大阪教会の基を築かれた白神新一郎師です。『初代白神新一郎』(金光教徒社)という本に載っている年譜によると、明治15年4月に亡くなられて岩崎墓地に埋葬、明治42年3月、「阿倍野墓地に御遺骸を遷す」とあります。

           ――以下編集部が補筆

 奥城の移転と一口に言っても、それは大変な事業だったようです。深くふかく埋葬された御遺骸を掘り起こすためには人手も要ります。

 また、岩崎から阿倍野までといえば4㎞ほどもあろうかという道のりです。初代白神先生の御遺骸は駕籠に載せられ、お供の行列を従えたたいそうな道中であったそうです。

 初代大先生は、この奥城移転についての功績をたたえる感謝状を添えて、紋付きの羽織を、大阪教会・二代白神新一郎先生から贈られています。

 明治42年といえば、教会を持たれて4年ほど。大先生39歳のころです。きっと恩人の奥城移転に一生懸命になられたのでしょう。

 ひょっとしたら、墓地の現場に立たれて、あれこれと気配り目配りしておられたのではないか。そう考えると、「とても臭うて、ネキへ寄りつけんような…」という妙にリアルな表現も腑に落ちる気がするのです。

 
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