かんべむさしのこぼれ話
TOP > アーカイブ > かんべむさしのこぼれ話

 かんべむさし

  1948年1月16日生れ 兵庫県出身の小説家、SF作家、エッセイスト。
  (かんべむさしWikipediaより)  金光教玉水教会信徒

 

連載第4回

太閤さん・豊臣秀吉


――すべて、物には順序というものがある。順序というものを忘れて、いっそくとびに物ごとをしようというわるグセだしてはなりません。 (中略)太閤さんかて、始めから天下取りではなかった。始めは、まあサムライになりたかったんだ。それで草履取りになったんだ。そして、やっとサムライになった。サムライになると、せめて一国一城のあるじになりたいということになり、だんだんと経なけりゃならん順序をへて、しまいに天下取りになったんである。――
                    (『信話 第一集』76頁)




 豊臣秀吉は、大阪に巨大な城を築いて町並みを整備し、商業や交易も発展させた人ですから、その死後、徳川の天下になってからも、根強い人気をたもってきました。生まれは尾張の国(現在の愛知県)なのに、大阪の町人たちは「太閤さん、太閤さん」と、まるで地元出身者の出世頭のように、親しみを感じていたようです。

 家康に「狸親爺」という、油断のできない、陰険なイメージがまつわりついていたのと対照的に、派手で明るく陽気な印象があり、一介の水呑百姓の子が、日吉丸→木下藤吉郎→羽柴筑前守→豊臣秀吉と、自身の力と才覚で出世していって遂に天下を取ったという、その一生が大阪人の感覚にマッチしたのでしょう。

 ただしそれらのイメージは、史実よりはフィクションによって作られた面が大きく、庶民にとっては、江戸中期に大阪で初演された人形浄瑠璃の『絵本太功記』、明治末期から大正時代に大阪で多数出版された講談の筆録本、「立川(たつかわ)文庫」などが、その代表例。そもそも日吉丸という幼名からしてフィクションですし、生まれ育ちについても、諸説あってよくわかってないというのが本当のところだそうです。

 また、上方講談の『太閤記』や『難波戦記』、立川文庫の『猿飛佐助』『真田十勇士』などでは、家康の狸親爺ぶりが強調されていたようですから、江戸時代以来、反「役人」、反「お上」意識が強かった大阪の人たちは、それらに接して義憤の念にかられ、その反動で、なおのこと太閤さんびいきになったのかもしれません。

 講談は本来、続き物として毎晩少しずつ口演していくものですが、昔、『太閤記』を続演すると、出世を重ねて天下を取るまでは客の入りも多いのが、大阪冬の陣から夏の陣、そして落城が近づくにつれ、その数が減っていったという話を聞いたことがあります。

――始めから、天下を取る気だったら、あほらしゅうて草履取りなどできなんだじゃろうとおもう。物には順序をふまんなりません。――               (『信話 第一集』77頁)

 安太郎先生のお話の、この「あほらしゅうて」という部分に私は思わず笑ってしまったのですが、先生は子供の頃から講談がお好きだったそうですから、当然『太閤記』なども御存じで、そのイメージでしゃべっておられたのでしょう。

 そして当時の信者さんたちも、藤吉郎が織田信長の草履取りをしていた時代の冬の日、ふところに主人の草履を入れて温めていたという、そんな講談的エピソードなども常識として知っていて、納得しながら聞いていたのではないでしょうか。

 
TOP
 
  Copyright(C) Konko Church of Tamamizu All Rights Reserved.