かんべむさしのこぼれ話
TOP > アーカイブ > かんべむさしのこぼれ話

 かんべむさし

  1948年1月16日生れ 兵庫県出身の小説家、SF作家、エッセイスト。
  (かんべむさしWikipediaより)  金光教玉水教会信徒

 

連載第14回

 人力車あれこれ


――何でもイの一番に入ってきたのが、俥屋さんだったそうだ。「帳場から来ました」と言われて、“背中に冷水をザアッとかけられたようにヒヤッとしました”と言うてましたが、日頃えらそうにそりかえって乗っていた俥屋に、頭をさげて払いをのばしてもらうんですから、身を切るよりつらかったに相違ない。――(『信話 第三集』124頁)




 「俥」は車と同じく、「くるま」と読みますが、人偏が付いていることでわかる通り、人が引く車や人力車を表し、漢字ではなく、日本で作られた国字とされています。ただし、「畑」や「峠」などは正真正銘の国字ですが、俥という字自体は実は中国にもあったので、そういう場合は厳密には、国字ではなく国訓と言うのだそうです。

 明治時代以降、人力車は外国人には「リキシャ」や「リクシャ」という略称で覚えられ、「フジヤマ」や「ゲイシャ」と並んで、良くも悪くも、日本の異国イメージを作り上げてきました。当時、海外の博覧会で日本が人力車を出展したところ、まさか人間を乗せた車を人間が引っぱるとは思わないので、馬車でもなさそうだし、どうやって走らせるのかと、観客たちが不思議がったという話があります。しかし昔のヨーロッパにも、形状は違っても人が人を乗せて引く車はあったそうですし、人力車の発明者はアメリカ人だという説もあるようなので、これは日本の異国イメージを誇張した作り話かもしれません。


 私たちがイメージする人力車は、明治元年(一八六八)に、和泉要助という人を初めとする三人が、東京で発明したとされています。それまでの駕籠(かご)より速くて便利なのでたちまち普及し、明治11年(一八七八)には大阪で約2万7千台、明治30年代には日本全国で20万台を越す俥が走っていたとのこと。業者や引き手は営業組合に加入しなければならず、俥1台につきいくらと、税金も納めていたそうです。

 人力車には横並びで二人乗れる物もあり、「合乗り俥」と呼ばれていました。上方落語『三十石』にも、笑福亭系列で演じられるものには、女性と二人でそれに乗った男が、「合乗り、幌掛け、ほっぺたひっつけ、テケレッツノパー!」と奇声を上げる場面があります。『三十石』は江戸時代からある噺(はなし)ですが、明治時代の人力車全盛期に、誰かがこんな場面を追加したのでしょう。『いらち俥』『稲荷俥』など、まさに人力車を題材にしている噺もあり、これらは明治時代の「新作」が残ったわけです。

 「帳場」は、普通は店のなかで金勘定する場所や係を言いますが、この場合は、大阪ことば事典から引用すれば、「町の人力車の溜まり」のことです。業者が所有する何台かの俥を引き手にひかせ、その収入の一割と損料などを徴収するという営業方式。だから現在で言えば、ごく小さなタクシー会社だと思ってもらえば、わかりやすいでしょう。色町はもちろん、船場や島之内には各町内に一、二軒の帳場があったそうで、安太郎先生のこのお話のごとく、馴染み客にはツケで乗ってもらい、月末に集金にまわっていたのです。

 それとは別に、自分が所有する俥、または賃貸しの俥を引いて、町中や街道などで営業するのは、「辻待ち車夫」と呼ばれていました。なかには借りた俥で「もぐり」で走る無登録者もおり、タクシーにたとえるなら、これはレンタカーで白タクをやっていたということになるわけです。

 
TOP
 
  Copyright(C) Konko Church of Tamamizu All Rights Reserved.