「教風」 (連載第5回)


生活の中に信心を現していく


 今年は、九月の末に、はや阪神タイガースのリーグ優勝が決まりました。ところが、久しぶりの優勝にわいた二年前とは、経済波及効果が大違いで、半分ほどの額だそうです。そこで、「そんなにしょっ中優勝せんでもええ。二十年に一回くらいでええ」などと言語道断なことを言う人もいるそうです。

 私は、本当のファンなら毎年優勝を願うはずやないかと憤っています。それでも、暗い事件の多い昨今、いやなニュースを聞いて心がかげっても、「それでも阪神がリーグ優勝や」と思えば、心が明るくなる気がします。

 甲子園にも、切符を頂いて二度行きました。娘たちを連れて行ったこともあります。しかし、下の娘は野球にはあまり興味がないらしい、ゲームよりは応援団の方ばかり目がいっていたようでした。

 たまにゲームを見ても、「どっちの方向に走るの」。野手がフライを捕ると、「どうして一塁へ投げへんの」「あれでアウトだから」。ゴロを捕って一塁へ投げると、「今度はどうしてアウトでないの」などと聞いて私をとまどわせます。

●高校野球の清々しさ


 八月には、わずか一時間の観戦でしたが、高校野球を見に行きました。この時は下の娘が喜んでついてきました。野球のルールは分からないものの、金光大阪の応援以来、高校野球の雰囲気がすっかり気に入ってしまったようでした。

 試合プレイの技術で言えば、プロとの差は歴然です。けれども私も高校野球は好きです。何よりも清々しい。だから見ていて勝敗は二の次になります。

 母などは、高校野球では、いつも負けているチームを応援しているらしく、一つの試合で応援する側がころころ移り変わったりします。

 試合の後がまた初々しい。勝っても負けても「応援のおかげです」「応援のおかげでここまでこれました」など、純情なことをいってくれます。 心からそう思っていることがこちらにも伝わってきます。

 最近ではプロ野球の選手たちも、「応援いただいて……」と言うようになりました。しかし言葉とは裏腹に、その口ぶりからは、やはり「自分の実力で」という思いがにじみだしているような気がします。

 以前、私がアメリカにいた頃、テレビで野球を見ていると、選手たちが勝利インタビューのなかで「神のお力で」「父母に、妻に感謝している」「ファンの声援で」などの言葉をごく自然に話しているのに感心した記憶があります。

 日本人が、「神の……」などと口にすることは滅多にありません。やはりアメリカでは日曜礼拝などキリスト教が生活に浸透していることがうかがわれます。

 このお道は、アメリカのキリスト教はもちろん、他のどの宗教より生活に即した信心を目ざしています。その信心をしている私たちが、ごく自然に「神様……」の話が出来なかったらおかしなことと言わざるを得ません。

 生活の中に信心を現していく、いつも神様を心の中に頂いていれば、違和感なく「神様……」の話が出来ると思います。
 肩肘張らずに自然体で信心を求めてまいりたいものと思っています。

(この「教風」は、2005年11月に掲載されたものです)
TOP
バックナンバー一覧