「教風」 (連載第8回)


玉水新世紀



 玉水教会は、昨年うるわしく布教百年祭を執り行ない、いよいよ今年から新世紀へと踏み出しました。新世紀を迎えてその信心の目指すところをひとことで言えば「神様への御恩報じの信心」ということではないかと思います。神様に喜んでいただけるような信心を私たちがしていくことだと考えます。

 具体的に言えば、初代大先生が教えてくださった「信心の四つの目的」を私たちが真剣に頂いて、行っていくことだと思うのです。

──常に心を清らかに持たせていただくために。角立つ心を丸くするために。災いを転じて仕合わせにさせていただくために。自分の役割を明らかにして責任をはたさせていただくために。──

 まずはしっかり心にたたき込んで信心させていただきましょう。

●初代大先生の御用姿勢の厳しさ


 私は「百年祭までは三代大先生がなさることだから」と申してまいりました。となると百年祭以後は「三代大先生の…」とは申せなくなるということです。信奉者の方々に新世紀の信心を願うことは、私自身も日々の御用姿勢においてこれまでよりもっと厳しさが問われるということでもあります。

 そうした思いで『信話集』なり、『あゆみ』掲載の「遺教」なりを拝読しますと、初代大先生のみ教えの深さはもとより、御用姿勢の志の高さと申しますか、自分を律していくことの厳しさに何とも言葉を失う思いが致します。
 初代大先生という山が高く、またその山壁が屹立していて全くとりつくこともできないように立ちはだかっているのです。

 まねでもいいから、初代の御用の一端にでも手を届かせることが、はたして私にできるのだろうか。そういう日は来るのだろうか。きわめて難しいといわねばならないでしょう。

 そうしたとき、ふと思い起こしました。
 初代大先生という高い高い峰のすぐ後ろには、二代大先生という峰が連なっていることを──。
 二代大先生も高い峰ではありますが、二代を頂いていくことはそのまま初代に直結するのです。

 そして、今やほんの僅かになってしまった初代にまみえた人たちに比して、二代の取次を頂いた方は、まだ数多く健在であり、私自身も二代の最晩年──力をふりしぼってお祭りをいただくあの奇跡のような姿に感動してお道の教師となったわけですから、二代の信心を頂くのは、ただ教話集をひもといてみ教えを頂く以上に、さまざまに豊かなイメージをもって頂けるということがあります。
 つまり、高いことには高いに違いないわけですが、けっして足場も何もない山ではなく、私たちを導いてくださりやすい山ではないかということです。

 その二代大先生の二十年祭が、あと二年後に巡ってまいります。
 信徒会では先月のお日柄日から毎月、「二代大先生敬仰ご祈念」に取り組むべくスタートを切りました。
 『あゆみ』誌上においても二代大先生に係わる企画をはじめたいと願っています。

 教祖金光大神様が開いてくださったこのお道を歩むについて、初代大先生は事細かに教えてくださいました。さらに二代大先生がそこを丁寧にお示しくださいました。「玉水新世紀」の信心と申しても、改まったことをするのではありません。初代・二代のみ教えを今の時代に確かに現す信心をしていくことだと思います。

(この「教風」は、2006年2月に掲載されたものです)
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