「教風」 (連載第19回)


信心と感受性


 新年明けましておめでとうございます。
私たちの国では、こうして注連縄(しめなわ)をかざって新年を祝い、そのうちに寒さもゆるみ桜の花が咲き暖かくなったと思うと、梅雨になり明ければ夏本番、夜に虫が鳴き出したと感じているうちに紅葉の季節へと……という具合に四季の移り変わりがはっきりしています。私が留学していた米国のサンディエゴなどは、夏のあとには長い春があり再び夏という感じでした。本来自然の移り変わりがしっかりしたところでは豊かな感受性が育まれやすいと申します。私たちの所ではどうでしょうか。 私は豊かな感受性こそ人間らしさの土台であり、また信心の大切なよりどころであると考えます。それを説明する一例として、私自身の話を聞いていただこうと思います。

 ●担任の女性先生が恩人
 中学生のときにクラスに天然パーマの女生徒がいました。みごとな髪で黒人のアフロヘアーのような、と言えるほどでした。その女生徒は気にしてしきりに髪をおさえたりしていました。
 あるとき私と仲間がその女生徒の髪について「前が見えへんぞ」と、後ろの席からからかいました。私からすると、からかいにもならないようなほんの軽い気持ちから口にしたことでした。
 女生徒の訴えを聞いた担任の先生から呼ばれ、手厳しく叱られました。女性の先生でした。午後の授業中だけで許されず、放課後まで立たされていた記憶があります。

 さらに反省文を書いてきなさいとのことで、「自分はこういうことをして悪かったです」と書いて提出しました。ところが先生は反省文を読んで、「こんなん反省文と違う」と突き返されました。
「何を書いたらいいんですか」と尋ねると、「相手の気持ちのことを書きなさい。それだけ言われてどれだけ辛い思いをしているのか、自分がもしそういう立場になったらと考えて書きなさい」と言われ書き直しました。

 その女性の担任の先生から、した行為に対する謝罪だけでなく相手の気持ちに立ってということを教えてもらいました。中学生ですから素直に、というわけにはいきませんでしたが、いまでも彼女の髪と心の痛みを思います。あの担任の先生は私にとって恩人でした。

 ●神様のお働きを感じる御礼を
 信心の上でも相手のことを思いやるということは大切なことです。なかで一番は、初代大先生のおっしゃる「あなた」、すなわち神様のお働きに思いを致すということです。

 問題が起き、我が力ではどうにもならないので日参する、おかげ頂き御礼する。そのとき御礼の中身として、神様のお働きを感得して心から御礼申し上げるということが仮に少なく薄かったらどうなるか。また次に問題が起きて自分の思うようなおかげにならないときに、自分は頑張った、日参もしたのにおかげがない、どうしてなのかということになる。神様のお働きが心底腹にはいっていれば、たとえどんな結果でも神様に心から御礼が言え、さらなるお繰り合わせを願おうというふうになるのです。

 信心していくうえで、自分のことばかりになって神様の大いなるお働きに思いが到らないというのは、感受性が貧しいからだと思います。大きな大きな感受性を持たせてもらって今年も信心を進めて参りましょう。
(この「教風」は、2007年1月に掲載されたものです)
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