「教風」 (連載第21回)


思うままのおかげ

初代大先生は、信心して十三年目に「思うままのおかげ」を、その二年後には「言うままのおかげ」をいただいたとおっしゃっておられます。
 自分の思うことや言うことがその通り実現したら、どうでしょう。    
夢のような話ですが、初代大先生は、はっきりと「私は思うまま、言うままの天地に住んでいるといえますやろ。一般にはままならん浮世ということを言うてますが、私のは思うまま言うままのおかげですから」(『信話』第十四集21頁)と断言されておられます。

 ●信心して十三年目とは
 信心して十三年目と申しましても、初代大先生は途中、お参りをやめてみたらどうか、おかげはかわりなくあるかと実験されて、その間の商売の実績をそろばんではじき、確かに「お参りは金儲け」と実証された、その間のことをきちんと差し引かれているので実際には十五年目と言うことになります。

 長く信心されて信話集をよく読み込んでいる方々はおそらくお分かりでしょう。この信心して十三年目というのは、初代大先生が「神様はご主人、自分は奉公人」の境地に到達されたころなのです。
 商売をなさっていた時に初代大先生は、はじめは現金売り一本でやっておられたのが、お得意が次第に増えてきて、ひとつもっと大きく手を拡げてみようと貸し売りもなさるようになった。するといっぺんにお得意は増えたものの集金が思うように集まらない。問屋への支払いも滞る。そこでつい手を出したのが頼母子で、入るとまず落としてくれてお金がはいり、やれやれですが後は空掛けをしなくてはならない。それも今の無尽と形態は似ていますが高利貸のようなものでかなりの額の利子をもっていかれたようでした。

 その頼母子の地獄のなかで、これまで自分は神様を拝まずに自分の腕を拝んできたと気付かれて、これからは神様を親方として、自分は神様とお約束した八つのことを守って番頭としての役割をおろそかにしないよう励みますと、「神様はご主人、自分は奉公人」の信心に進まれたのでした。そして「思うままのおかげ」とはこのころにいただいたおかげなのです。

 自分の欲望をふりかざして神様に「ああ働いてくれこれを実現してくれ」と迫るような類のものでは全くないのです。むしろ自分の思いを神様に合わせていく、奉公人としてご主人の気持ちに沿った思いを持たせていただく、そういう「思い」なのです。とはいえこれは、それでも並大抵のことではありません。
 私たちが難儀にぶつかって、懸命に信心する、一心の祈りを捧げる、としてもすべてのことが私たちの思い通りに解決するかと言ったらそうではありません。それはひとつには神様のおはからいということがあります。私たちには目の前のことしか見えませんけれども神様は遠い将来のことも見通しになっていらっしゃる。そして遠い将来のためには今目先のおかげを下さらないことが本当の助かりに通じることもあるわけです。

 その私たちの目先をはるかに越えた神様の「思い」に自分の思いを合わせていくとはどんなことでしょう。信心の奥深さに改めて感じ入り、すこしづつでも進ませていただけるよう願っております。
(この「教風」は、2007年3月に掲載されたものです)
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