「教風」 (連載第22回)


出社教会の年祭

 四月二十日の天地金乃神大祭を堺に、玉水教会は布教百二年目にはいります。早いもので玉水百年の記念大祭からまる二年がたったわけです。

 百二年前、明治三十八年の四月二十日に土佐堀裏町のお広前で始まった玉水教会の布教は、年ごとにぐんぐんと教勢が伸展していきました。それにしたがい修行生の数も増え、修行生はやがてご本部の金光様のお取次のもと初代大先生の手代わりとして信心の道を広めるため、各地に派遣されて出社広前となりました。

 年表を繰りますと、大正時代はまだ出社教会の開設もぽつりぽつりという状態ですが、昭和にはいると玉水教会自身の参拝者が急激に増大したのに比例して毎年複数の出社教会が開設されていくという勢いになりました。
 今年の二月は週末の全てに、出社教会の年祭を仕え、大変な忙しさでした。
 週末からの休みにだけお参りされる信奉者の方も相当おられると思いますが、二月だけは「いつ来ても先生はお結界におらんなあ」とがっかりされたのではないかと気をもんだりしました。
 私も日曜など休日は特にお結界に腰を据えて座らせてもらい、しっかりお取次の御用をさせていただきたいと腹を決め、願ってもいます。しかし出社教会の年祭だけは親教会長としてのつとめでもあり断るわけにはいきません。信奉者のみなさんにもご了解いただきたいと思います。
 出社教会が数十ヵ所ありますし、二月の寒い時期に出社教会長のご命日が重なって年祭の集中を結果したわけです。

 ●ゼロではなくマイナスからの出発
 さて出社教会の成立は、新しい土地へ一から開拓布教に出るという場合ばかりではありませんでした。既存の教会において諸々の事情から担当の教師がいなくなり、そこで玉水教会ならたくさんの修行生の中から後継者を出していただけるのではないかと関係者から依頼があり、三代金光様のお取次をいただいて玉水の出社として再出発するというケースも多々ありました。
 考え方によれば、誰も信奉者のいないところへ飛び込んでいって布教する開拓布教より、ある程度地盤もある後者の方が楽に進められるような印象があるかも知れません。
 しかし、実際に楽であれば、元々の手続きの中で後継者問題を解決するはずなのにそうでない。それは簡単に収拾がつかず、後々まで尾を引くような問題があって困難だからこそ玉水教会にお鉢が回ってきたのです。いわばゼロからの出発というよりマイナスからの出発でした。
金光教についての悪い風評を覆し、清く正しい宗教であることを地域の方に再認識してもらい、おかげの事実を見せて布教していくという険しいむずかしい道でした。今年年祭を仕えた出社の物故教会長は、どの方もみなそうした道を歩んだ先生でした。

 おそらく年齢的には、二十代そこそこの、とても修行成就して徳の備わった先生という感じではなかったでしょう。そういう若い先生らが初代大先生に教えられた道を奉じてそれぞれの土地で夢中になってお取次ぎされた。傍からみれば「ご苦労でしたなあ」というところです。でも私は、当の先生たちはそんなこと考えもしなかっただろうと思っています。神様を信じ初代、二代大先生を信じ、玉水教会で仕込まれたあふれるバイタリティーで神様から差し向けられた苦難をつぎつぎ乗り越えられたのです。私も祭主の御用をしてありがたい思いのするお祭りばかりでした。
(この「教風」は、2007年4月に掲載されたものです)
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