「教風」 (連載第29回)


お使い頂く


  本教では「させて頂く」という言い方をよくします。何をするにも「〜させて頂きまして」というので、舌をかみそうになってしまいます。若いときには「〜します」でええのになあ、とよく思ったものです。

 これは教祖さまが「氏子、信心するという心におかげはないぞ。信心さしていただくという心におかげはあるぞ」とおっしゃっているように、金光教の教えの根幹部分であるだけに、なかなか言わずにすますわけにもいかないのです。

 私は、もう一歩進めて、「させて頂く」は「お使い頂く」であると思っています。神様にお使い頂くという気持ちを常に忘れないことが信心であると思います。

 ○平穏な老後を願っていたのに
 先日、お結界に八十を越した女性の方が来られて、お孫さんの夫婦仲のことをお願いされました。夫婦の間にもめごとがおこり、お孫さんからおばあさんが聞かされて、お願いに来られたのでした。聞いていると、どうしても自分の孫の肩をもつような話になります。こういうことはどっちがどっちと決めつけるわけにはいかないので、じっと聞いていました。

 すると、「これまで、戦争もあり戦後の困難な時代もあり、そのつどおかげ頂いてきました。それはほんとうにありがたいことでした。でも、こうして人生の最後にさしかかってまたこういうことが起こってくるというとやりきれません。平穏な老後がすごせるように願っていたのに」と、不足まじりのことを言い出されました。
 私は、今度ははっきり申しました。
「それは違うのではありませんか」

 その方の家では、熱心に信心しているのはその方だけのようでした。でも、皆に全く信心ごころがないわけではなく、ご家族の方それぞれに問題が持ち上がると、「お願いしといて」とその方に頼んでこられるのだそうです。まだ年若い曾孫さんまで、「こうこうした事があったから、ひいおばあちゃんお願いしといて」と、わざわざ言いに来られるそうです。

 年がいき、まあ八十にもなれば力仕事はできません。根気のいることや新しいこともできないかもしれません。
 しかし、ご祈念はできます。そしてご祈念こそもっとも大切でもっとも確かなことです。こんなすばらしいことに神様からお使い頂けるとはありがたいことです。

「平穏な老後なんて考えんことです。家族のことをずうっと祈りつづける、お願いしつづけることです。どうぞ神様、死ぬまでこの大切なご祈念の役目にお使い頂けますように、とお願いしてください」と申しました。

 そして、その方がしっかり祈り通していけば、お孫さん夫婦もきっとおかげを頂ける。それがもとのサヤに戻るのか、あるいは別れてしまうのか、今はなんとも言えません。けれどもお孫さんが助かった、という事実がきっと現れるはずです。そうなったら神様ってあるな、たいしたもんやなというふうにお孫さんも神様に心が向かうはず、それを楽しみに一層ご祈念に精出してください。こんな話をいたしました。

 すべて、「自分がする」と思ったらおかげはありません。神様に「お使い頂く」、そのことを肝にめいじて信心させて頂きましょう。
(この「教風」は、2007年11月に掲載されたものです)
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