「教風」 (連載第39回)


食物は人の命のために


 教祖様の御教えには、難解なものはありません。ことばはやさしくわかりやすい。それでいて実行しようとするとこれがなかなかできない。そしてひとつの御教えが本当に守れるようになれば他のすべての御教えも守れているものだ、と言われるように一つ一つが奥が深く、またそれぞれがつながっているものなのです。

 数多い御教えのなかで私にとって一番身近なものをあげるとすれば「食物はみな、人の命のために天地乃神の造り与えたまうものぞ」「何を食うにも飲むにも、ありがたくいただく心を忘れなよ」(神訓1-13、2-15)の二つでしょうか。申すまでもなく食事訓として毎日食前にお唱えする御教えです。

 幼い頃カブスカウトの時代から接してきた御教えですから、なじみ深い御教えです。ただ小さい時の私は、ずいぶん好き嫌いの多い子供でしたから苦手な御教えでもありました。

 成長するにつれ好き嫌いが少なくなってからも、学院生のときのことですが、この御教えをお唱えして、さあ頂こうとすると、おかずに山盛りのひじきがデンとおいてありまして「あんまりやなあ」とつい思ってしまい、われにかえって御教えをお唱えして次の瞬間に逆のことを思うとは、と苦笑してしまったことがあります。
このように簡単にみえる御教えの実行がむずかしいのです。

 ○三代大先生の食事の姿
 私が知る限り、何でもおいしそうに食べるのは三代大先生が一番でした。おいしそうに食べるだけでなくマナーもきれいでした。そのことは他の先生方の記憶にも鮮やかに残っているようで今でもよく話題に上ります。

 銀座教会の直会の席でいつも隣に座られる年配の先生が、結構ボリュームのある料理も残さず平らげられるので「先生、いつも残さず召し上がりますね」と申しますと「うん、これはあなたのお父さんに教わったんだ。それまでは平気で残していたんだが、あなたのお父さんの食べ方をみていて、こういう風にするものだと思い、それからは残さず頂くようになった」とおっしゃっていました。おそらく前後の食事を軽くするなどして直会に臨まれているのでしょう。

 出社の先生が先日、玉水教会での修行生時代を思い出して次のような話をしてくれました。
あるとき若先生(のちの三代大先生)の随行をして宅祭に行きました。直会になるとき、どういう事情があるのか、その家の方が「今日は大先生(二代大先生)だと思ったのでビフテキにするつもりでしたが若先生だったので豚肉に変えました」と言い出しました。

 まるで格下の先生だからメニューの格も下げたといわんばかりの言い方です。随行の先生はカチンときて一言言ってやろうとすると、三代大先生が目で制して「何も言うな」とサインを送られたので黙ったそうです。本来なら気分を害するところですが、三代大先生は機嫌よく、いつものようにとてもおいしそうに出された物を召し上がった、ということでした。
 おいしそうに食べるということは、ただ食欲に任せてガツガツ食べるということとは違います。

 神様への感謝はもちろん、食事を作って下さった人、食事を供して下さった人への心配り、自分の体調を整えるといった自制の心など、この御教えの背後にも様々で深い信

(この「教風」は、2008年9月に掲載されたものです)
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