「教風」 (連載第40回)


信心の改まり


 広島県御幸教会の初代教会長・熊田秀雄先生の年祭の折、お話をさせていただく参考にと、『あゆみ』を調べていますと秀雄先生が寄稿した記事を見つけました。その中で秀雄先生は、初代大先生の「私たちの心とは、銀紙貼ったたどん(炭の粉を固めて丸めた燃料)」というお言葉を引いて話を進めています。

 なるほど「銀紙貼ったたどん」とは初代大先生らしいたとえです。
 私たちの心は、ほんのわずかこすっただけならきれいそうに見えます。しかし本腰を入れて磨こうとすると後から後から汚いものが出てきます。信心の目的の「心を清らかに」持たせていただこうと勉めていると、心が汚くなるようなことばかり起こります。「角立つ心を丸く」しようと励んでいると、そういうときにかえって心が角張るようなことが持ち上がったりします。ふだん澄ましてきれいな心の持ち主を装ってもわずか銀紙一枚程度のことでその奥は真っ黒けなわけです。

 ではどうしたら良いか。
 初代大先生は、神様という火に身を投じれば、黒いたどん、つまり私たちの心は赤く輝いて熱を放つことができる、と説いておられます。
 そしてそのことが信心の改まり、ということだとおっしゃっています。
 私自身も「こんなにご祈念して御用しているのになんでおかげ頂けんのやろか」と思ったこともありました。その「なんで」の矛先は神様に向けられているわけです。言わば自分で自分の心をこすっている、黒いたどんをこすっている状態です。「なんで」の矛先が自分に向かい、自分のどこが足りないのか、と求めるようになったら神様という火に燃やして頂けている段階になったと言えましょう。

 ○寝込むこと繰り返して
 私自身について申せば、私は若いときから季節の変わり目には熱を出して寝込むことがよくありました。教会長という立場に置かれますと、大切な御用が目白押しですので一ぺん寝込むとあちこちにご迷惑をかけるということになりました。さすがに、「これではいかんな」と思うようになりました。

 ある時御用に対して「喜びが足らん」ということに気づきました。
 教会に生れてなに不自由なくお育ていただき学校にもやってもらい、そのことにもどれだけ感謝しているのか、考えてみれば喜ばねばならんことばかりです。

 ところが、少し御用がたてこんでくると、「辛いなあしんどいなあ」と思ってしまうのです。「こんなに楽しいことはない」と打ち込んでおられた初代、二代大先生のお心を少しでも頂かなければと、それからは御用を喜ぶことに取り組みました。辛い、休みたいと思うから神様は休ませて下さるのです。喜ぶことに取り組むうちに寝込むこともそれ以来なくなりました。

 目先のおかげを頂いたことも嬉しかったのですが、御用を喜ぶということに気がつき取り組むことになったことが一層ありがたいことでした。

 考えてみれば、神様は高熱を出して私に御用のありがたさを教えてくださったのかもしれません。

 改まり、と言うことは目先のおかげを超えたところにあります。そして難儀は神様が私たちに改まりを迫るために起こしてくださっているともいえます。改まりなしでは、同じような問題を何度も繰り返すことになってしまいます。自分自身に目を向けて取り組んでまいりましょう。

(この「教風」は、2008年10月に掲載されたものです)
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