「教風」 (連載第58回)


お伊勢さんにお参りして


二月の三代大先生十年祭・神睦旅行は好天にめぐまれました。二月は雨が多く心配されましたが晴天のもと楽しい旅行ができました。

 私が一番興味深く思ったのは伊勢神宮参拝のときの人の多さでした
 私は金光教教師となってから既に八回はお参りしています。それでもこんなに大勢の参拝者をみたのは初めてです。昨年末には宇治橋がかけ替えられるなど式年遷宮が迫ってきたからでしょうか。

 ぞろぞろ他の参拝者にまじりながら移動して、私はお伊勢さんに代表されるような世間一般の神様参りと金光教の信心とはどこが違うのだろうか、ということを考えていました。

 ○ご利益がなかったら
 神様にお参りするのは、ご利益を求めて、つまりおかげいただくためと言ってよろしいでしょう。ですから物事が成就すれば、ご利益があったなあと思います。しかしそれだけです。

 でも金光教の信心ではそれだけでは足りません。おかげをいただいたということは神様の御心にかなったということですから、そのわけを整理しておかねばなりません。でないと喉元すぎれば熱さを忘れるで、じきにまた同じような問題が起こってきてアップアップしなければなりません。

 ひとつおかげをいただいたならば、たとえばお金に対する思いを変えたからだとか、生かされて生きているということを身に沁みて考えたからだとか、なにか理由があるはずで、そこのところをしっかりと忘れないようにしなければなりません。

 そしてなかなかおかげにならないとき、この時が大切なのです。世間の神参りだったら、ご利益がなければ、ああこの神様は力がないんだといってお参りをやめてしまったりその神様へ悪態をついたりします。辛い苦しいときですから、それもわからなくはありませんが……。

 初代大先生も信者時代、おかげがいただけなかったとき、信心やめてしまおうと考えたことがありました。                 

 ちょうど歳末の忙しいときで、やってきた物乞いに、「こんな忙しい日に気のきかん奴じゃなあ」と、言うつもりはなかったのについ口から出てしまった。するとその物乞いが、「まいどおおきにありがとうございます」とお礼をいって立ち去った。何もやらないのにお礼を言われて大先生は考えました。
 あの物乞いにくらべ自分は何回も何回も神様に大きなおかげをいただいてきて、たった一回おかげいただけないからと信心をやめようとしている。じつにあの物乞いに劣る自分であると。そこから神様のおかげ、ご恩に深く思いを至らせてご自分の信心を反省されました。
 このように神様は信心を伸ばさんがためにおかげを下さらないということさえあるのです。

 神様のお心に自分の心を寄せて冷静に考えれば、その事柄自体は成就していなくても、多くのことに神様がお働きくださっているということがわかるはずです。

 そして神様のお心を中心に考えていけば、いままでみえなかったさまざまなことが見えてくるはずです。それが信心の世界だと思います。
 あくまで神様中心、神様のお心がどうなのかにまず心をよせて信心を進めていくこと。それが金光教の信心の要であると私は思います。
(この「教風」は、2010年4月に掲載されたものです)
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