「教風」 (連載第59回)


ご祈念


 手続きの先生方と話していて、ご祈念のことについて尋ねられました
「いつかの『教風』で先生は、大手術を受ける信者さんが『生きても死にても天と地とはわが住みかと思えよ』とあるから死んでもおかげだ、と思ったのを死なせてたまるか、と神さまにご祈念しておかげいただいた、とありました。あのときはどんな気持ちでご祈念なさったのですか」
「どんな気持ちと言うてもねえ。まあ、がむしゃらにというか夢中で神さまにお願いしました。それと私の願いがその信者さんに分かってほしい、信者さん自身も生かしてください、と祈れますように、とはお願いしました」

 信心始めの人はそうでもないのですが、たくさんのおかげを頂き信心もかなり分かっている人がかえって、こういう「死んでもおかげやから」という思いになってしまうことがあります。
 私の方ではそういう人こそ、また命を頂いてたくさんの働きをこの世でしてもらわなければならない、と神さまに懸命に命乞いのお願いをするわけです。

 すると先日もそうした方が、
「大手術の前、医者から相当むずかしいと言われて、家族も覚悟し、私も、まあ向こうへ行ってもお慕わしい初代大先生にまたお目にかかれるし二代、三代大先生にもご挨拶(あいさつ)できるし、父や母ともゆっくり話ができるのだから、また向こうへ行ってもそれはそれでおかげや。こんな気持ちでいましたのや。すると親先生が私のことをご祈念してくださる声が聞こえてきましてな。あっ、これは今度の病は助けていただける、と確信しました」
と言われてびっくりしました。

 その方も家に帰ったら自分の荷物がかたづけてあったというほどの重病を、おかげ頂きました。私の願いが通ったというより、生きてもっともっと神さまのご用をしてほしいという神さまの思いであったと感じています。

 ○声を出す
 声のことが話に出ましたので申しますと、私はご祈念するときにあるイメージを頭のどこかに置いています。それは『教燈』にある、初代大先生の教会はじめの頃のご祈念の姿です。いつも一生懸命声を出してご祈念していたので、近所の人から苦情を言われたという話です。
 やがて大先生はどうも声を出してのご祈念なされなくなったようですし、私自身も本当は声は出しません。でもイメージとして夢中になって声を出してご祈念している大先生を思いうかべながら自らを励まして少しでも大先生のご祈念に近づきたいと思っているのです。

 そんな話をしますと他の先生も、
「そういえば、今日は調子が出ないなというときに声を出してみると、声につられてご祈念が体から出て行くような気がすることがあります」
「声を出してご祈念する信者さんがいまして、なんだかあれはおかげいただいた自慢でもしとるんかいなと思っていました。でもそうではなくてご祈念に実がはいって夢中になってるんですね」
こんな話になっていきました。

 ご祈念ということは理論的なこととは違って頭で習得するわけにもいきません。実際に日々積み重ねていくなかでひとつひとつ自分で会得していくしかない道です。

『信話集』はじめ大先生が丁寧におっしゃってくださっていることに励ましていただきながら稽古(けいこ)していきたいと思います。
(この「教風」は、2010年5月に掲載されたものです)
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