「教風」 (連載第62回)


行き届いたご祈念


 あるとき、学生さんが初代大先生に「学期試験が近づいています。どうぞよい成績がとれますように」と御届けしました。すると大先生は「あほらしい、そんなお願いようせん」とけったばかりか「だいたいあんたは親不孝者や」とまでおっしゃいました。学生もそこまでいわれて「私のどこが親不孝ですか」と聞き返すと「それかいな、あんたはいくつや」「はたちです」

 二十歳といえば大学などの高等教育を受けている学生です。戦前は今と違いこうした人はほんのわずかでした。親によほどのゆとりがあり本人も学業優秀でなければ上の学校に進めませんでした。二十歳の男子といえば大阪では親の商売を手伝ったり、商売を覚えるためにほかの店で働いたりしているのが普通でした。しかし学生がのんびりしてしまうのは昔も今も同じで、この学生もテニスや野球など今で言えばサークル活動に夢中だったようです。

 で、大先生は「手が足りなくて困っている親の手伝いをさせてもらおうとは思わんか」「私の体が二つないと、勉強も手伝いも、では」「いや、信心さしていただき神様に足していただけば、たった一つしかない体でも事足りるようにすることができるねん」「そんなら、どうすれば」。
「”金出して人の手まで借りて忙しい目している親の様子をみますと、私が手伝いにひと肌脱いで働かねばならんところでございますが、学校へやっていただいておりますので、それが思うに任せません。どうぞ、神様、あなたが親の営業を助けてやっていただきまして、万事都合よくおかげをこうむり、ますます商売繁盛いたしますように”とこう一生懸命お願いしたらええねん」

 まことに行き届いた大先生の御理解、祈りのお言葉で、こんな風にお願いされたら神様だってぜひともおかげをやらねばと奮いたってくださるに違いありません。
 実際その学生は成績も上がり親の商売も一層繁盛し、学校から帰るとすぐに仕事着にきがえて手伝うようになったそうです。

 ○書けば一行の言葉だが
 お願いはごり押しにただ押していくだけが能ではありません。自分にかけられた神様の願い、思いをわかり、それに沿って願っていかねばなりません。

 例えば貸しビル業の方がお願いに来るとします。今の厳しい経済状態で、テナントが入らなかったり、出て行ってしまったりする事があります。そんなとき、ただ「良いテナントがはいりますように」と繰り返すだけでは足りません。
 ご祈念帳には一行そう書いてあるだけですが、実際の祈りはもっと深くしなければなりません。

 神様のお土地をいただき、神様の建物を神様に建てていただいたのです。まずそのお礼を心から申さねばなりません。テナントが入っていることのお礼、そして商売繁盛を願います。本来なら神様が建てたビルならつねに満室でなければおかしい、それが空いているとしたら、神様がサボっている? いえいえ自分の腕で入れた、といった思い上がりの心があったりして神様のご機感に適わなかったのでしょう。ですからお詫(わ)びもしなければなりません。――というように深くなっていきます。
 そして神様が働いてくださる、行き届いた祈りができるように、お話を聞かしていただき自分の信心を磨いていかねばなりません。

(この「教風」は、2010年8月に掲載されたものです)
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