「教風」 (連載第69回)


願いははっきりと


 入学試験のシーズンです。お結界にも受験のお届けをされる方が次々にこられます。

「先生、子供がこの学校をどうしても受けたいと申しますので受けさせます。どうぞよろしくお願いします」

「はい」

「ただ合否判定ではABCDE5段階でDでした。ちょっと難しいのだそうです」

 お取次ではお願いの受け方が大事です。

 お結界に座りはじめたころの私ですと、こう信者さんに切り出されますと動揺して、 “うーんDか。難しいなあ。落ちたら本人が傷つくやろうなあ。しかし、受かったら受かったで、レベルの高さに追いついて行けるやろうかという心配もある。となると、落ちるのもおかげかも知れん。ここは、末為のよろしいように、どのような結果になりましょうともおかげになりますように、とこうお願いしとこう” などと考えたりしたものでした。「末為のよろしいように」というお願いの仕方はあります。時にはそうお願いすべきこともあります。

 しかし、この場合は、腰の引けた願い方だといわざるを得ません。お結界で願いを受ける受け方としては間違っていると今は思います。

 まず、どうしてもその学校に行きたい、という受験生の気持ちを無視しています。更に「落ちたら傷つくかも」とか、「入ってもついていけないかも」などと心配するのはおかしい。そのつど、そのたびごとにおかげを頂いていけばいいのですから。

 ○明瞭な願いが一心の祈りに通じる

 初代大先生が布教当初、大病のお願いをすると神さまが、「こら、いかん」と仰せになる。それを大先生は押して願われる。すると神様から押さえつけられる。それでもまたご祈念する。今度は横倒しにされる。それでも起きてすがりつく。四へんも繰り返して、とうとうおかげを頂き、「そちが助けたのじゃ」と神さまがおっしゃった、ということがありました。

 あくまで願ってくる人の思いを尊重するのがお取次です。私には欠けていました。

 取次を担う人間でさえも、つい迷ってしまうのですから、願い方というのは間違えやすいものです。それは「こんなお願いしてもどうせ無理だから」とか、「できっこないから」と、始めからあきらめてしまうからです。しかし、願いは明瞭にはっきりしたものでなくてはなりません。

 受験なら合格、借金なら完済、と願いを立て、その願いを押して押して神さまに持っていくのです。それが一心の祈りです。「ああも言えるしこうも言えるし、どっちにしてもおかげ」などというあいまいな祈り方では一心の祈りにはなりません。

 祈りは身に張り付いていなければなりません。親の後を引き継いで、「わて、今日から商売します」という娘さんに大先生はしつこく聞きます。「なにをお願いする」「お客さんに気受けのよいように」「わかった」。帰りがけに、「なんのお願いやった」「お客さんに嫌われんよう」「よっしゃ」。あくる日また……、という具合に何度もたずねます。本人に願いを自覚させ、体に張り付かせるためです。

 明瞭な願いを、勢いこめてお結界で渡してくれたら一心はすでに通っています。あとはその願いを身に張り付かせて、願いぬくことです。

(この「教風」は、2011年3月に掲載されたものです)
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