「教風」 (連載第83回)


聴かせていただく


 「近頃は以前のように働けなくなりました。お参りさえ足腰が弱って日参できずお祭日にやっと参拝するくらいです」。お結界でこう嘆かれる信者さんがよくあります。

 初代大先生の「人間、何しに生まれてきたか?」「働くために!」と明快に説かれたみ教えが入っているので、体が思うように動かなくなるのが歯がゆいのでしょう。しかし精力的に働くことだけが、初代大先生の「働く」の中身でしょうか。たとえば「祈る」ことがあります。「聴く」ことがあります。これらは年をとって家にいても立派にできることです。

 ○聴きさえすれば、と思ったが
 三代大先生から、「お結界に座らせていただくように」と命があったときはさすがに考えました。自分のように何にも分かっていない人間が滔々(とうとう)とご理解するなんてことはできない。ならばせめて信者さんの仰ろうことを聴かせてもらおう。聴くことに徹しよう。こう思いました。

 その頃は、しゃべることは大変だが聴くことは少なくとも話すよりみ易いことにちがいない、と考えていたからです。今では、聴くことのむずかしさを身にしみて感じます。話すことよりむずかしい。
 お結界で信者さんのお願いをお取次させていただくと毎日同じことを仰る方があります。はじめは「いい加減、信心が展開していくことはないのかな」などと思ったこともありましたが、こちらが日々さらの心で受けていけばよいので清新な気持ちで聴くことに努める。愚痴不足を述べたてる方もあります。他のどこでも言えない心の奥底をお結界でだけそっと聞けるのでしょうから、こちらも真剣に聴かせていただく。

 聴くということは受動的なだけに中々しんどいものです。受けきれずに途中でつい言葉をはさみたくなったりします。しかし人間心で発する言葉はやはりよい結果は生まないのです。話さねばならないときは神様が話させてくださいますが、そういうときというのは実はあまりないものです。

 私は、ほとんどご理解らしいご理解をなさらずに延々とお取次をなさっていた二代大先生のお姿を思いうかべてお手本としています。じいっと信者さんの願いを受けて受けて神様に持っていく。
 うなずいたりあいづちを打ったりするだけでぐいぐいお願いを引き出していく。二代大先生のお取次に少しでも近づけるように願っています。

 というように、お結界のことを申すとそれは取次をする先生だからと言われそうです。そんなことはありません。聴くことに精進しなければならないのは信心する全ての人にとって同様です。なぜなら、聴くことこそ布教の第一歩だからです。話すことの前に聴くことがあります。おなかいっぱいの人にの前にどんなご馳走を並べても食欲をそそりません。腹にたまった不平やらさまざまな感情をいっぺん取り出さなければ、ありがたいとかお礼とかいっても相手に響きません。しっかり聴かせていただいて、おなかのなかをさっぱりさせてこそ、こちらのいうことも入っていくのです。

 「おばあちゃんおじいちゃんは真剣に聴いてくれる」「お父さんお母さんは一緒に悩んでくれる」と思ってもらえれば信心継承は始まっています。そしてこの「働き」は足腰が多少弱っても十分できます。
 神様にお願いしてしっかり働かせていただきましょう。

(この「教風」は、2012年05月に掲載されたものです)
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