「教風」 (連載第91回)


 信心の改まり


 あけましておめでとうございます。神さまのお恵みのもと共々に新年をお迎えすることができ、ありがたいことです。
 さて年の初めですので、信心の最も根本のところをおさえておきましょう。教祖さまが、「信心は改まりが第一」とおっしゃる改まりです。私たちが改まりをして信心を向上させていくことが神さまの願いであり、改まりにより私たちの「受け物」の穴がふさがれば、より大きなおかげがどんどん入ってくるわけですから「改まり」ということは大切でありボロイことでもあります。

 しかし、それだけに成し遂げるのは意外にむずかしい。自分の至らない所に気づきお詫びしていけば良い。言葉でいえばそれだけです。

ところが、私たちは自分の欠点といったものには容易に気づかないし、またお詫びということが中々わかりにくい。お礼、お詫び、お願い、を祈りの三要素といったりしますが、生きている以上願いは誰にもあるし、できるかどうかは別にして感謝の心というのは分かることは分かる。しかしお詫びというのは、しにくいという以前に分かりにくいものなのです。ここで壁に当たってしまいます。

 ○「お礼が足りない」
 暮れに金光様三霊神祭が挙行されました。
 その折、三代金光様のお言葉にふれました。三代金光様は、わずか十三歳でお取次の御業(みわざ)を継承され、「初めのうちは辛(つろ)うて辛うて、よう泣きましたがなあ」。やがて、「有難うて有難うてならぬようになり、なんぼう、お礼を申しても足りませんのじゃ。お礼の足りませぬお詫びばかりしております」。いつも聞いているお言葉ですが、「あっ、お詫びという言葉が出てきた」と気づきました。すぐに四代金光様のお姿を思い起こしました。

 昭和三十八年に三代金光様がお隠れになったとき、残念ながら私は一歳でしたので覚えていません。しかし四代金光様となると、学院生のときに懇切なお取次ぎを頂いた尊い存在です。
「お礼を土台に」とみ教えくださったとき、「私も下駄をはくとき、いちいちお礼がなかなかできなかった。それがお結界に座って教祖さまの信心をいただいているうち、お礼を申すことができるようになった」。こうお話しくださったのです。「具体的にはどうなさったのかなあ」「どうすればいちいちお礼申す、なんていうことができるのかなあ」と思っていました。

 父君である三代金光様のお言葉に改めてふれたとき、「きっと四代様もお礼の足りないお詫びを重ねられたのだろう。そのうち、お礼がそのつどお出来になられたのだろう」と分かってきました。
「どれほどお礼申しても足りない天地のお恵みに、なあに当たり前のことと平然としていることがご無礼である」と初代大先生も教えてくださってます。お礼の足りないお詫びというのは、細かいことのようで、実はとても深い大事なことなのです。そして、やろうと思えばできるお詫びです。

 さらにこうしたお詫びを日々積み重ねて自分と向き合っていけば、神さまが私たちに自分の至らない所をきっと気づかせてくださいます。それが見えてくればしめたもの、お詫びをしつつ短所を補うことに努めれば、改まりはすぐそこです。
 今年が充実した年になるよう共々に骨折ってまいりたいと存じます。まずは、お礼の足りないお詫びをさせていただきながら、信心向上に努めてまいりましょう。



(この「教風」は、2013年1月に掲載されたものです)
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