「教風」 (連載第102回)


 痛い時にこそお礼を



 二代大先生が風邪を引いて休んでおられるときにお客さまが来られたという話があります。「神さまに叱られまして休んでいます」と小さくなる二代大先生に、「いや叱られたのではない。神さまが休めとおおせられているのだ。ありがたく休ませていただいたらよいでしょう」とお客さまが言われました。二代大先生もそういう考え方もあるなあと思われました。

 二代大先生は、お取次のご用がなにより好きで、まだ足らん、まだ足らんと自分に鞭打ってご用に取り組んでおられた方です。その大先生が休むことを余儀なくされたのですから、「何か神さまのご機感にかなわぬところがあったのだろう」と反省とお詫びを重ねておられたことでしょう。 

 そんな体調の悪いときに押して会われた大切なお客さまは、想像ながら二代大先生が日頃お取次のご用に打ち込んでおられることをよくご存知だったと思われます。ですから「神さまが休めとおおせられている。ありがたく休んで」と言ってくださったのでしょう。その言葉に対して、単なる挨拶のやり取りだとか、お世辞の言葉だとかとらずに、真正面から信心の問題として捉えて、なるほど神さまのおはからいということであれば、お礼をまず申しあげるべきだったかという風に柔軟に展開していくところは、さすがに二代大先生だなあと思わされます。

○お礼のむずかしさ
 私たちが苦難に出会ったとき、まず思うのは、何で自分がこんな目に遭わされなければならないのか、ということでしょう。「それは神さまからみれば足りぬだろうが、自分なりにそこそこ信心もしてきたつもりや。他人と比べてもそう遜色ないはずや。それなのに何で自分だけがこんな目に遭うのや」。少しわかってくると「こんな目に遭うとは自分はよっぽどメグリが深いんやなあ。しゃあない」というくらい迄でしょう。しかし教祖さまは、「あれもおかげであった。これもおかげであった。とわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ」と御教えくださっています。

 冒頭の二代大先生の話のように、まずは起こってくることすべてを「神さまのおはからい」と、ありがたく受けとめて、そこから「ご祈念はお詫びから」と初代大先生が教えてくださっているように自分のこれまでを振り返って反省し、至らないところを改めていくのが信心の筋でしょう。
 今年は、三代金光攝胤君(せつたねのきみ)五十年祭のお年柄に当たり、ご本部では十二月八日の布教功労者報徳祭にあわせ、また当広前でも十五日に金光教三霊神様として五十年祭が執行されます。三代金光様は「お礼申すことばかりでお礼のたりないことをお詫び申し上げています」とおっしゃいました。そのお跡を継がれ、三代様どおりのお取次をくださった四代金光鑑太郎君(かがみたろうのきみ)も常に「お礼が土台」と御教えくださいました。

 その中味は、起こってくることすべてを神さまのおはからいと、ありがたく受けとめるということです。しかし痛いとき、苦しいときにありがたいとはなかなか思えるものではありません。

 やはりふだんからお参りして話を聞いて、いつもいつも神さまの息吹を身に感じ、神さまの御思いをいただく稽古をしていかねばなりません。 共々に「本当の信者」になれるよう一層励んでまいりましょう。


(この「教風」は、2013年12月に掲載されたものです)
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