「教風」 (連載第107回)


 まことの信心の道



 ある信者さんが、「まことの信心 まことのおかげ」と言われる、その.まことの信心に、ぜひたどり着きたいものです。いつになったら行けるでしょうか.と話しかけてこられたことがあります。

 私は、それは死ぬまで続くことです。努力して努力して信心の道を歩き続ける。それが.まことの信心の道.ではないでしょうか.と答えました。

 私はそれを、一つの定まった境地のようなものではなく、懸命に信心していくと次の課題が現れ、どこまで行っても続いている一筋の道のようなものとしてイメージしています。

 私がそう思うのは、晩年の四代金光さまのお姿に強烈な印象を受けたからかもしれません。

 私が学院生のころ、お取次くださった四代金光さまが、「私も修行中じゃ」とおっしゃいました。一学院生から見れば仰ぎみるような存在の金光さまでした。しかし、そのお姿は一教の教主というより、日々真剣に信心の道に取り組む一人の求道者という感がありました。

 年を取っても、いや年を取ったからこそ、なお一層ひたむきに信心の道を求めていく。金光さまから気迫が溢れ、.なるほど信心というものはこういうものか.と、金光さまのお言葉はもちろん、そのお姿からも私は多くのことを学びました。

 信心の道に終点はないのです。そして神さまは、私たちがこの道を一歩でも二歩でも前進することを切望されています。ですから私たちがウカウカしていると神さまは、.何をのんびりしている、と私たちの頭をコツンとされます。

 それは私たちにとって、難儀な出来事として現れます。あわてて教会に参り、また考えます。「自分の信心のどこが足りないのか。一心の祈りの真剣さが足りないのか。お礼の心が欠けるのか。お詫びしなければならないことがあるのか」等々。こうして信心を点検しつつ、火がついたようにお参りしているとおかげになる――.やれやれ。大抵ここで一服してしまいます。が、この一服が惜しい。もったいない。
 問題があるときは、お話もよく耳に入り、道を求める心も篤(あつ)いよい信者さんでも、ちょっとおかげを頂くと、人はガラッと変わったりします。

 しかし、おかげを頂いたその時こそが、実は一番大事なときなのです。おかげを頂くということは、何か神さまの機感(きかん)にかなったからこそおかげになったのです。これまでとは違う自分の信心の行き方のどこがよかったのか、整理しておかなければなりません。

 そうでないと、神さまから同じ問題を何度も解かされます。言い方を変えると同じような病気、同じような金欠問題に何度も悩まされるということです。信心の道をしっかり踏んでいれば何度も繰り返さないはずです。

○信心継承のためにも
 信者さんなら、こういう行きつ戻りつして信心の道を歩む大変さは、よくおわかりのことと思います。胸に覚えがあるでしょう。

 私は、信心の継承のためにはこうした経験談や失敗談を話していくことが一番大事ではないかと思います。.天地金乃神さま...とか.金光教のお取次とは――.とか、ハッキリ説明できなくてもよいのです。自分の生々しい信心体験をこそざっくばらんに伝えるべきです。「そうは言っても世の中の価値観が変わって、受け継いでくれません」とおっしゃるかもしれない。しかし、自分の祖父母や両親が精魂傾けて歩いていた「まことの信心の道」というのがあるそうだ、ということは必ず心の中に残るはずですから――。

(この「教風」は、2014年5月に掲載されたものです)
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