「教風」 (連載第113回)


 なにごとも良いように解釈する



 教祖さまが取次に専念なさるようになってしばらくしたころ、江戸時代の末のはなしです。神さまから「今日は金を拾わせてやる」というお知らせがありました。弁当を持って出かけ、神さまの仰せのままに笠岡まで歩いていきましたが、お金は落ちていません。笠岡で弁当を食べ、神さまから戻るようにと仰せがあったので、お金を探しながら帰りました。帰って一日の御礼(おんれい)を申し上げると「金は落ちていたか」と神さまからたずねられました。「いいえ、落ちておりませんでした。しかし銭金にかえられぬおかげを頂きました」「それはなぜか」「ひさしぶりに足腰をのばさせてもらい、ありがたいことでした」「その方(ほう)はどちらから仕向けてもよいほうへ受け取る。その方の気持ちがよく分かった」と神さまから告げられた、というご事績です。

 お金を拾う、というおかげはなかった。しかし教祖さまはひさしぶりに歩いて足腰をのばさせていただくというおかげを頂いたと御礼申されたのでした。

○サボる仲間を責めたが
 私には、金光教学院にいれていただいていたときの大切な思い出があります。学院生はたいてい班単位で行動します。特に掃除のときはそうでした。ところが私の班ではどうしたことか、八人のうち三人までが体調わるかったりサボったりして出てこない、ということになってしまいました。年輩の方にはそう割り増してやってもらえないので、若かった私には相当な負担がかかってきました。当然私はサボって出てこない仲間を責めました。金光様のお取次をいただいて、そういう仲間を祈らせてもらうということを教えてはいただきました。でも、もひとつ真剣には祈れませんでした。

 そんなある日のこと、掃除をしながらふと思いました。「自分は何しにここへ来てるのか。それは修行をしにだ。だとしたら他の人より多くの修行をさしてもらっているのはおかげやないか」と。学院では清掃のことを洒掃(せいそう)と言います。ただ単にきれいにするばかりでなく、己の心も清める修行という意味から大切な修行になっています。その洒掃をたくさんできるというのはおかげや、と私は思えたのでした。そうなると負担どころか、ありがたく楽しく洒掃に打ち込めるようになりました。ご本部のご比礼のもと私はこんなふうに信心を展開できたのでした。掃除の仕事量が軽くなるというおかげは頂けませんでした。が、本来の意味の洒掃の心に立ち返ることによって、良いふうに解釈することができ、私はより大きなおかげを頂けたのでした。

 教祖さまのお金を拾う、いや拾えなかった話もそうです。神さまは私たちを成長させるためにおかげをくださらないときがあります。そのときめざしていたおかげの、その裏のおかげを感得することが大切なのです。教祖さまの「ひさしぶりに足腰をのばせたおかげ」、私の「存分に修行できるおかげ」です。その神さまの思いに達するには「何でも良いように解釈する」ということが是非とも必要なのです。裏のおかげをわかるということは神さまに一歩近づけたというふうに言えると思います。
 ちなみに私は、こんなありがたい修行ができないなんてもったいないことだと、それからサボる仲間を真剣に祈れるようになりました。金光様のお取次のご比礼で、私の班は最後には全員そろって和気あいあいと洒掃にうちこめる班になったのでした。


(この「教風」は、2014年11月に掲載されたものです)
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