「教風」 (連載第116回)


 初代大先生、今年、生誕一四五年



 初代大先生の生まれ年は、西暦にすると区切りのよい一八七〇年です。和歌山に生まれ、幼くして父上が亡くなられたので、親戚に預けられました。そこは手広く鮮魚問屋を営んでいました。やがて商売不振となり当主も亡くなってしまったので、安太郎少年は陣頭に立って働きましたが、傾きだした商売はどうしようもなく、商売を整理して大阪へ出て奉公します。二十歳の時です。

 奉公の意味をごく簡単に説明しますと、商売を覚えるために店に入るので給料らしい給料はもらわず、休みも盆と正月のほかはなし、そのかわり食べるもの着るもの寝るところなど、生活に必要な一切は店が支給するというシステムです。
 ところが、奉公先の主人が商売に身をいれないので安太郎青年の奮闘もむなしく、商売は左前となり倒産してしまいます。

 大阪に出てまもなく患った大病からこの道に入信した安太郎青年は、三代金光様のお言葉のままに小売商いを始めます。ここでも、お金のやり繰りに苦労します。じつに少年時代からずーっとお金で苦しんだ安太郎青年の前半生でした。

 三十三歳のころ「神様はご主人、自分は奉公人」という悟りに達します。奉公人が主人に仕えるように、神様にお任せして信心していけば、商売一切のことは神様が繁盛するように運んでくださる、という信心です。こうして信心の奥義に至り、いよいよ商売でおかげを頂こうとしていた時、三代金光様より「布教せよ」とのお言葉が下がります。

 金光様のお言葉は「天地の命」と受けた初代大先生は、商売をやめて人助けの道にはいります。一九〇五年、大先生三十五歳のときです。

 ○子孫繁盛の道
 安太郎青年には、お金と並んで大きな悩みがありました。それは子どもが亡くなることでした。当時は家の存続ということが人の果たすぺき大きな役割で、たった一人の男の子である安太郎青年にはとりわけ重い課題でした。長男はじめ子どもが次々に亡くなっていく。子どもが亡くなるだけでも耐えられないのに、もし家が絶えたらというのは恐怖でした。

 信心が進んでご神意を伺えるようになっても、神様は、子どもが亡くなるのは「めぐりのお取りはらい」としかおっしゃいませんでした。一層信心に邁進(まいしん)する初代大先生でしたが、教会を持ってからもお子さんを失い、結局、ツヤさま(銀座教会初代奥様)と茂さま(二代大先生)の二人だけが成人されました。

 茂青年も二十歳のときに急性肺炎で重体となりますが、九死に一生のおかげを頂きました。

 二代大先生夫妻のはじめてのお子さん、初代大先生にとっての初孫もまた亡くなり大きな悲しみにつつまれますものの、やがて次々に子どもが誕生し成長し、初代大先生はたくさんの孫に囲まれる幸せな老後を送ることができました。
 湯川家が絶家とならず繁盛したことは玉水教会にとっても大きな意味のあることでした。

 それは、信者時代から初代大先生の信心をつぶさに見てそのお心を受け継いだ二代大先生だったからこそ、戦後の混迷から経済発展をとげた世に、初代大先生のお徳を輝かせられたからです。さらに三代大先生が初代、二代のお徳を輝かせられて、私の代に渡してくださったことはありがたいことです。

 お互いの助かりの源(もと)である初代大先生のご恩に少しでも報えるよう、信心を進めてまいりましょう。

(この「教風」は、2015年2月に掲載されたものです)
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