「教風」 (連載第118回)


 米朝さんの金光教番組



 大阪府連から教話のご用に出仕くださった先生と話を交わしていて、三月に亡くなった桂米朝さんのことが話題に出ました。「そういえば、昔、米朝さんが金光教のラジオ番組に出たことがあったなあ」「えっ、その放送聴けますか」「そこの放送センターでもらえるはずや」。早速、記念館二階の放送センターに出向いてテープを頂き、婦人会の皆さんと聞きました。

 八十九歳で亡くなった米朝さんは戦後、上方落語を再興させた噺家(はなしか)さんです。残念ながら信者さんではありません。ただご実家は姫路の神社で、ご自身も神主の資格を持ち一時は実際に従事なさっていたそうなので、金光教のこともご存知だったでしょう。

 番組は昭和40年ころに、大阪の朝日放送が制作したようです。米朝さんと駆け出しの枝雀さんというゴールデンコンビが出ています。
 筋を申しますと、多忙で疲れ気味の落語家の師匠を気遣って、弟子が気晴らしに旅に出ることを勧めます。大阪駅にやってきた米朝さんは、岡山方面へ行こうとして乗り込んだ列車で、呪文のようなものを聞いて驚きます。間違って金光教の団体列車に乗ってしまったのでした。

 呪文のような、というのは現在の拝詞が制定される前に唱えていた天津祝詞か大祓詞でしょう。そのままご本部まで同乗し大祭に参ったことから、がぜん金光教に興味をもち、旧知の金光教の信者さんの元に赴きいろいろ質問するという話です。

 ○「教えに矛盾を感じませんか」
 私が興味深かったのは、米朝さんが、信心三代目であるその信者さんに、かなりこだわって「教えに疑いを感じることはありませんか」と聞く箇所です。信者さん、「先生はああおっしゃるけれども実際はなかなか……≠ニいうようなところですね」
米朝さん、「そうです。そこそこ」と、初信の方が、教えに丸めこまれないように用心深くなっている様子がうかがわれます。人は、「こうです」と言われて、「ハイ」と素直にまるごと信じこめればそれは楽だしありがたいことです。

 しかし、離れていってしまうのは困りますが、ほんとにそうだろうかと疑うのは、決して悪いことではありません。
 初代大先生も入信当初に、教会の先生から「お参りしなさい」と言われて、お参りの賽銭ほしさにあんなこと言ってるのではなかろうか、と疑います。しかし自分で日参したり参拝をやめたりして商売の勘定をすると、お参りするほうがおかげになるということがはっきりします「先生の言うことは正しい、教えは正しい」と納得するわけです。ただ単に「言われたからやりました」というよりも、深いものを得たのでした。

 あるいは私もそうですが、ちょっと教えの本を読んで教祖さまや初代大先生のなみなみならぬ信心の苦労を知ると、教祖さまだから初代大先生だからおかげになったのであって、私どものような中途半端な信心では無理かな、などと思ったりします。

 教えにはああ書いてあるけれどと、疑ったりもします。それでも自分なりに懸命に信心を進めて、ちゃんとおかげを頂くと、これは嬉しい。私のようなものでも神さまはおかげ下さる、と感じます。さらに神さまはどんなにお働きくださったかと、神さまのご苦労にまで心が到れば信心は一層に深まります。疑うことをばねにして信心を練りだしていくのは良いことです。

 二十分ばかりの放送でしたが、聴いていていろいろのことを考えさせられた番組でした
(この「教風」は、2015年5月に掲載されたものです)
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