「教風」 (連載第200回)


 信心は一段一段



 総代さんの米寿のお祝いに出席いたしました。
 ふと思いました。「歴代の信徒総代さんたちはよく歩いてお参りなさったなあ」ということをです。教会の総代に任ぜられるで、年も召されているから、教会に車をよこづけしての参拝ばかりかというと、そうではないのです。先年亡くなった土井さんも、教会へは運転手さん付きの車で参っておられましたが、じつは車を使われたのは難波駅からでした。奈良の方に家があり、結構な距離を駅まで歩いて、電車で難波まで行って、それからのことでした。このたび、お祝いされた総代さんも車を使わずに参拝されており、「これからも」と申されていました。

 初代大先生が「おかげはわが足にあり」と教えられたみ教えが、総代さんたちの身についていて、日参すること、そしてなるべく自分の足を使って、ということを実行されておられるなあと思いました。

○はじめは反発したが
 私は教会で生まれ育ったので、お参りということを経験したのは金光教学院に入ってからでした。
 とりわけ学院に入ったのだからと、金光様のお出ましを拝するようになって、お参りということを意識しだしました。学院生の朝参りは六時ですが、早朝のお出ましを拝んではいけないわけではありません。学院から走っていけば本部広前まで五分程度でしょうが、まだ真っ暗な三時半過ぎのこととなれば話は違います。はじめは起きてみたものの、何でこんな時間に、と思いました。三時五十分といえば、それから寝る人はいるでしょうが、都市では起き出す時間ではありません。反発を感じました。

 でも、すぐやめたといわれるのが嫌なので一週間続けてみました。するとそう嫌ではなくなり、一ヵ月たつと、今度は段々ありがたくなってきました。こんな早朝に金光様は毎日毎日、なんでもないような顔をされて淡々とお出ましくださる、それがすごいことなのだとわかってきたからです。

 さらに四時からのお広前での心中祈念も、はじめは寝てばかりでした。四時になるとガラガラと扉があけられ、金光様がご祈念されているのが見える。その金光様の後ろ姿を拝しながらのご祈念の意味がわかってきました。

 金光様と一緒にご祈念できるなんて、なんてありがたいことか、と気づきました。あれこれご祈念の中身を考えて、真剣にご祈念させていただきました。

 いまでもご本部に参りお広前でご祈念することは楽しみです。学院生のときに早朝に参って取り組んだ修行が土台にあってのことでしょう。
 私の場合は形から入って思いがあとからついてきたようなところがありますが、ともかく一歩一歩進んでいくうちに変わってきたということです。信心は一足飛びにはまいりません。

 初代大先生も、石段をあがるのに「これだけ登らんならんのかいなあ」とため息ついて立ちん坊していたんではなんにもならない。よく足元を見て一段一段あげればよろしい。知らず知らずのうちに上へあがっている。大切なのはひょろつかんことだと、石段をたとえに信心の行き方を教えてくださっています。

 総代さんたちも皆さん、一段一段あがっておかげに近づいていったのです。で、そのときの苦労を忘れないように、自分で体に言い聞かせるようにいつまでも、なるべく足を使ってお参りされているのでしょう。金光教の信心は一段ずつです。一段一段踏みしめてあがっていきましょう。


(この「教風」は、2015年7に掲載されたものです)
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