「教風」 (連載第202回)


 銀座教会初代教会長四十年祭



 銀座教会初代教会長・湯川誠一先生の四十年祭が、先月八月一日に仕えられ、私は祭主の御用をつとめさせていただきました。

 ご存じの方も多いように、先生は旧姓を牧野といい、玉水教会のはじめての修行生でした。教会修行の経験のない初代大先生にとって、誠一先生の育成は、その後のたくさんの弟子養成のひな型にもなったようです。大正四年には、大先生の長女・ツヤ先生と結婚し、湯川姓となります。そして大正十二年に銀座教会を開設、昭和五十年に亡くなるまで東京布教に力をつくされました。

 誠一先生のご生涯のなかでは、初代大先生の第一の弟子であったということが一番大きい意味をもつのではないかと、私は思います。
 先生とは直接関係ないことですが、こんな挿話を思い出します。
 昭和のはじめ、初代大先生がある教会の記念大祭に参拝されました。神徳の高いすばらしい教会長先生でしたが、初代大先生は教会長先生の信心ぶりもさることながら、一方でその教会の出社第一号の先生の、行き届いた御用ぶりに目を奪われました。
「一の船がいい。で、二の船もみならい、それに三の船がならいと出社がみなならう」と感心されました。

 誠一先生の戦後の働きは、玉水教会の一の船としての自覚によったものではなかったか、と考えます。
 戦後、初代亡き後も玉水教会は、二代大先生の「帯紐解かぬ」と表現されるような、つまりいつお休みになっているかわからないようなお取次のもと、たくさんのお参りがあり、次々に人が助かっていきました。

しかしながら「湯川安太郎の行き方は金光教祖とは違う」「玉水は金光教ではない。玉水教だ」というような批判も周りにあって信奉者には辛いことでした。今日ならば簡単に反論できることでも、教祖さまのご事跡や言行録が公開されていなかった当時では、批判に反証を挙げるのはたやすいことではありませんでした。

 誠一先生は、昭和二十九年金光教祖伝が刊行されると丹念に読み込んで、大先生の信心と照らし合わせて道を求めていかれました。また、ご本部の学院講師や修徳殿輔導に出仕し、手続きを越えて全教の若い先生方に、自身のいただいてきた信心を語りました。

 誠一先生の観念的でない、実践に裏打ちされた信心は教師の間でも耳を傾ける人が多く、よく聴けば初代大先生の信心が教祖の信心そのものであることが自ずと明らかになってくるので、玉水に対する批判はやがて消えていきました。

 今でも、学院などで誠一先生の謦咳(けいがい)にふれた先生方は少なくなく、「誠一先生の温かい人柄と深い求道姿勢が心に残っている」とお話し下さる方があります。

 また、玉水の後輩たちに対しても誠一先生は一の船として道輝教師会などでビシビシ導き、一門を引っ張って行かれました。

 大きな働きを成した誠一先生ですが、その陰で二代大先生が果たした役割も忘れてはなりません。誠一先生がご本部などで活躍される間、二代大先生は大阪を動かず、地道にお取次御用のなかで、初代の信心を求めていかれました。教師会でも一会員として、末席で誠一先生の話を拝聴するなど目立たぬように、しかししっかりと支え、いわば誠一先生と二人三脚で、初代大先生の信心が異端ではなく、むしろ金光教の正統であることを証明していかれたのでした。

(この「教風」は、2015年9月に掲載されたものです)
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