「教風」 (連載第208回)


 二代大先生を通して初代大先生をいただく



 昭和十九年二月一日、初代大先生は現世(うつしよ)での働きを終え霊(みたま)の神となられました。当時は戦争の真っ只中、日本の敗色が濃くなっていました。とはいえまだ爆撃などはなく平穏に葬儀が営まれました。
 そして翌年の三月、大阪は米軍の大爆撃をうけ焦土となり、八月には終戦。玉水教会は大みかげのもと焼け残りましたものの、いつも参拝者でいっぱいであった大広前は閑古鳥が鳴くというような状況へと変わりました。

 敗戦を機に政治経済が激変し、人々の規範も変わりました。
 その中で二代大先生は、今初代がいらしたなら何をおっしゃり、どう行動するかを考えに考え、求めに求めました。言い換えれば敗戦により、初代がされていたことをそのままなぞることは不可能になっていました。変わった時代のなかで初代大先生の信心をどうすれば現していけるか。

 いまの玉水教会の骨組みはそうした二代大先生の辛苦のもとで形作られていったのです。こんにち私たちは、玉水教会は湯川安太郎先生がお作りなさったものがそのまま残っている、と単純に考えがちです。しかし建物のようなハード面も、信心の進め方のようなソフト面も、二代大先生がひとつひとつ工夫されたものです。

 大広前は戦前のままですが、「西に北にもう二間(3.6b)広げられたら」という初代の願いを二代が実現して、昭和五十三年に移動改修を行いました。道を隔てて建つ玉水記念館は戦後、二代が推進した社会事業の拠点として建てられたものが前身でした。

 ○地道に着実に
 昭和三十年代、九巻にわたって刊行された『信話集』(旧版の青い表紙)をみると、そのことはよりはっきりします。現在、初代大先生の信心はといえば誰でもまず『信話集』を開きます。しかしその『信話集』こそ、二代大先生の信心姿勢に基づくものなのです。

 かつて初代大先生の逸話といえば、どこまで本当かわからないみかげ話ばかりがよく語られたものでした。確かに初代のように神徳が高ければ、不思議なおかげをいただくこともあったでしょう。でも不思議な神徳話におひれをつけ、そんなところばかりをつまんでできた初代大先生像では、人の耳目を一時はひくかもしれませんが、助かりの役にはたちません。

 二代大先生は、そんな面白そうな話は一蹴します。『信話集』の初代大先生は地道に着実に道を求める信仰者です。それは二代が求めた初代の信心だからです。『信話集』にも二代大先生の言葉を遺した『教燈』にも、初代の神徳話はあまり載っていません。どう信心を進めるか。どうすればおかげにたどりつけるか。それをわかりやすくかみくだいて書いてあるだけです。また、二代大先生が崇拝してやまなかった三代金光様のことも、『教燈』ではよく仰ぎみて記されていますものの、ご神徳云々についてはほとんどふれられません。どうしたら金光様のような信心がわれわれもできるか――そのことのみです。二代大先生はそうした行き方こそが金光教の王道である、と思っておられたのでしょう。
 つまり私たちは、二代大先生を通して初代大先生をいただいているのです。

 あと二年で、二代大先生の三十年祭をお迎えします。二代大先生の信心をしっかりいただくことが初代大先生の信心に近づく一番の早道なのだということを、共々によくわからせていただきたいと存じます。



(この「教風」は、2016年2月に掲載されたものです)
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