「教風」 (連載第209回)


 恩を受ける



 初代大先生が、教会をもたれて間もないころの話です。信者時代から懇意であった六十歳くらいの女性が難しい病気を患いました。神さまも「助けてやれん」というところを初代大先生が無理やりお願いを押し通して助けていただきました。一晩のうちによくなって、医者もびっくりしてしまいました。

 ところがその後なんのおとさたもないので、二月ほどして初代大先生は「心安い仲でもいっぺん御礼にいらっしゃい。そうせんと帳面が消えん」とことづけしました。……」。

 今年、景慕勢祈念期間中に拝読した『先代を語る』にある話です。サラッとこの話を読むと、実は大先生でも信者を追いかけて御礼を言わせたかったのかと、意地悪く読めないでもありませんが、そんなことはまったくありません。それを説明するには話をもう少し知る必要があります。

 この話は信話集にも出てくる話で、初代大先生は教祖さまの奥城(おくつき)でこの女性の命乞いの談判を何時間もかけて教祖さまにされたのでした。「かわいそうだが仕方ない」とおっしゃる教祖さまを押して押して「どうぞ只今、どうぞ只今」と一晩でおかげにしていただいたのでした。

 そこまでしていただいたおかげが本人の至らなさで水の泡になったら、大先生としても残念です。それで、「御礼がなかったら天地の帳面から消えん」と伝えたのでしょう。『先代を語る』に「礼を言われない方がこちらは丸儲けだ。でもそれでは先方が負債になるから注意してあげたのだ」とおっしゃってます。

 たとえば他の手続きの先生が「神さまは(信者に)すぐおかげをくださるが、おかげをいただくと信者はすぐ参らんようになる。もう精も根も尽き果てる」とこぼされたことに対し、初代大先生は「おかげいただくとやめてしまう。そんな人がせえだい出来んといかんねん。それは捨石や。ほっときほっとき。こちらは損にならんのやから。一遍でも助け得やないか。そのつもりでなくちゃ先生にはなれん。捨石はなくちゃならん」と励ます大先生なのです。

 ○恩を受けない
 私たちは他人の好意に甘えて、助けてもらってもどこかちゃっかりしていて、なかなかその恩に報いることは出来にくいものです。でもそんなことをしていれば天地の帳面に負債が残ってしまう。

 では大先生はどうしたか。
 他人からの恩を受けないよう逃げ回ったのでした。『信話』をみると、講究所(いまの金光教学院)時代「湯川はん、おなかが痛いんとちがいますか。お洗米ありまっせ」と言われても、「いりません。いりません」とことわり続け、「何もお洗米やお神酒がなければ腹痛がおかげいただけないわけでなし。そんで私は頭を下げまへんねん。頭下げるなら天地一切を自由にしてなさるこの神さまにです」と言い切っておられます。
 そして、「恩」ということは初代大先生の信心の根幹ですから、初代大先生は恩について考えに考えぬき、「そのゆえに私は人の恩からは逃げられるだけ逃げようとしています」と。

 こうした初代大先生のお姿を外からみると、なんと高潔な、なんと清廉な方と見えます。しかしそうすべきだからしているというような倫理的なものというよりも、初代大先生の清らかさとは、実証的なものに裏打ちされた金光教の恩の信心からきているものなのです。



(この「教風」は、2016年3月に掲載されたものです)
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