「教風」 (連載第212回)


 天地に貯蓄



 初代大先生は「天地に貯蓄する」ということを仰いました。ふつう貯蓄というのは、お金を銀行に入れることです。しかし、信心で言う貯蓄は、これとは少し違います。

 例えば、水を天地に貯蓄するという場合、水そのものをどうにかするということではなく、水を大切に使うという徳が天地に積み上がっていくということなのです。天地に貯蓄できるのは、水のようなモノばかりでなく、時間もヒトさえも貯蓄できる、と初代大先生は説かれます。

 徳というと抽象的な感じがします。が、私たちが何かする場合、徳を積むかメグリを積むかどちらかで、どちらでもないということはない。どちらかに二分されるようなはっきりした言葉です。

 モノを神さまのお恵みとしてありがたく頂き、大切に使うと徳となる。これは、信心している人には分かりやすい話です。では、ヒトを貯蓄する――ヒトとの係わりを天地に貯蓄するとはどういうことでしょうか。

 ○教祖のみ教えのままに
 教祖さまは「天が下に他人ということはなきものぞ」(理V神訓2・34)「信心する人は、わがことより他人のことを先に願え。そうすれば他人も助かり、わが身にもおかげがたくさんある」(理U 津川春雄の伝え5)と御理解されました。こういう金光教の教えは信心を始めた湯川安太郎青年にとって、心にぴったりはまるものでした。もともと情にあつい人柄で、その上、商売してお金に苦労し、やがて「神さまがご主人 自分は奉公人」の心境に達すると、おかげを頂いたことがうれしく、それを人に話さずにはおられませんでした。ただ、商売をすましてその余暇に信心話をするというのならよいのですが、安太郎青年の場合、そんなどころの話ではありませんでした。

 集金に出掛けて泣き言や言い訳を聞かされると気の毒になってしまい、すっかり同情して集金したお金を置いてくる。「私は一文無しでもやっていける。心配せずに使うてください。その代わり信心しなさい。やっていけるようになります」と商売そっちのけで信心話に時間をつぶす。案じた信心友達が忠告しても「そうでしたなあ。商売に身を入れます」と素直に答えるものの実際には少しも変わらない。信心話ばかりで片手間で商売している状態でした。とっくにつぶれておかしくないはずなのに、売れ残りを引き受けてくれる人がいたり、取りに来るはずの集金が来ず、お金が入ったときに取りに来てくれたりと、お繰り合わせを頂いていたのでした。

 こうして商人時代から、他人に尽くす、人を思うという徳を初代大先生は天地に貯蓄していかれました。
 ですから明治三十八(一九0五)年に布教を始められた時、目に見える布教資金がなくとも天地に貯蓄してあったヒトの貯蓄はたっぷりあり、次々にお参りがあってお広前は熱気を帯びていきます。

「人を思うこと人後に落ちず」の言葉は、初代大先生の長年にわたる天地への貯蓄を背景にしてこそ生きてくる言葉だと思います。
 教会開設後も、布教に役立つからなどという功利的な考えはかけらもなく、ただただ人を思い、導いていかれました。

 昭和に入ると、大先生がお一人で数千、数万の人達にお取次するという空前の働きを現されました。まさに利子が利子を呼んだのです。
 その貯蓄は二代大先生に受け継がれ、今の玉水教会の基となっています。私自身も徳を積ましていただきたい、そして一層神さまにお使いいただきたいと願っております。





(この「教風」は、2016年6月に掲載されたものです)
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