「教風」 (連載第213回)


 信心の改まり



 教祖さまは、「信心は日々の改まりが第一なり」と教えてくださっています。神さまの方では私たちに平等におかげを授けようとされているのに、実際にはおかげが頂けたり頂けなかったりする。

 それは、私たちのおかげの受け物に問題があって、せっかくのおかげが漏れてしまうことがあるからで、その漏れる穴をふさいでいこうというのが「改まり」なわけです。と、道理は分かっても現実に取り組んでみると「改まり」はむずかしい。

 たとえば、他人を批判するのは慎もう、と取り組むと、ひとこと言いたくなるようなことばかりが目につく。

 神さまのお恵みに少しでも御礼を申そう、と思っていると、とてもそんな気分になれないことばかり起きてくる、といった具合です。

 初代大先生も、自分の腹立てやすい所を改まろうと、神さまに「腹立てんようにしてください」とお願いすると、それからというもの日に五へんも六ぺんも腹の立つようなことが起きてくる。後でお詫びばかりしなければならないので、「神さま、なんぞ取り違えなさっているのではありませんか」と申し上げると「腹の立たんようにしてやっておるのじゃ」と、こたえられたのでした。

 つまり、腹の立つようなことが周囲に起こらなければ腹は立たない。それで腹立ちがなおったわけでは全くない。腹が立つようなことが次々起こってきても持ちこたえて腹を立てなかったら本当に腹立たない心になったのだ、というわけです。(『信話』第五集・二一九頁)

 初代大先生は、後に癇癪(かんしゃく)持ちの信者さんに、「一ぺん考えるんや。これは腹立てんならんことか腹立てんでもええことか、考えてから怒っても、汽車の時間のように早くしないと間に合わんというようなことはないのやから」と諭しています。ご自身がこういう工夫を積み重ねていかれたのでしょう。

 ○思(おぼ)し召しを窺う

 「改まり」といえば、銀座教会の初代先生の話を思い出します。
 銀座教会では初代先生が頭痛を病んだりすると、決まって初代奥さまが修行生に納戸の整理をさせました。納戸には乾物類が収納してありました。日持ちするだけに、つい賞味期限の過ぎてしまったそうめんや醤油などが出てきて、そのご無礼をお詫びして、先生は回復されました。

 世間の常識からするとおかしなことです。銀座の先生の頭痛と乾物の粗末はつながりようがありません。しかし、信心の世界では、関わりは大いにあります。
 頭痛が出た銀座の先生は、これは何か神さまの要求があるのだ、と考えました。そして食べ物のお粗末があるのだろうと見当を付けられ、生ものは概ね気をつけているので、乾物のお粗末かと調べると案の定であったので、一心にお詫びをしておかげを頂かれたのでした。
 初代大先生は、「私はトコンと音がしても考える」ということをよく仰いました。普通なら見過ごしてしまうような事柄からも神さまのお心、思し召しを読み取って、自分を改めていこうという意味でしょう。

 いずれにしても「腹立ちをなおす」というようなライフワークのようなテーマにしても、「トコンと音がしたらという事柄」にしても、常に、神さまのお心は何かと、いつも神さまを意識するところから始まるのです。神さまと「首っ引き」で信心生活を進めてまいりましょう。



(この「教風」は、2016年7月に掲載されたものです)
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