「教風」 (連載第235回)


神さまをお祀(まつ)りする



 信心の継承ということは誰にとっても切実な課題であります。次の世代へ信心をつなげていくにはどうしたらいいだろうか。悩まない人はいないはずです。

 私は、一つのことは言えるはずだ、と考えています。それは「神さまを家にお祀りしないで信心継承はない」。おじいちゃん、おばあちゃんのうちには神さまがお祀りしてあるが、家にはない。こういう状況では信心のつながっていくのはむずかしい。

 なんで神さまをお祀りしなければならないのか。ちょっと理屈いう人ならば、金光教祖は「にわ(土間)の口を外へ出てみよ。空が神、下が神」(金光教祖ご理解第十二節)と説かれたわけで、神さまは天地にあまねく満ちているのに家にお社(やしろ)をお祀りするのはおかしい。そしてお祀りすることが信心にとってそんなに大事なことなのか、とこう反論するかもしれません。

 それについては初代大先生が丁寧に説明されています。私たちの祀る神さまはお社にお鎮まりするだけのそんな小さな神さまではない。天地に満ちわたっている神さまなのに、私たちの心には神さまがいたりいなかったりする。で、神さまを忘れないように形の上で神さまをお祀りして失わないようにするのだ。

 こうおっしゃっています。さらに神さまをお祀りした以上その家の主人、主宰者は神さまである、と。

 お結界に座っていると代が替わったりしてお社(ご神璽(しんじ)、ご霊璽(れいじ))を返しに来られる方がいます。悲しいことです。逆に「家を建てるのですがどう神さまをお祀りしたらいいでしょう。ここは日当たりが悪いので明るいこちらのほうが、と思ってますが」とか「床の間がないので家族の集うリビングにお社をお祀りして家族をみていていただきたい」とか話す方もいて、この人わかっているなあ、とうれしくなったりします。

○信心は形からはいる

 金光教の信心は「おかげはわが心にあり」とか「わが心で我が身を救い助けよ」のように、心を重視した教えが多いのは確かです。しかし心を育て培うのは形です。お社という形をもって神さまを心にいただいていくのだ、と初代大先生は御教えくだされたわけです。

 この形から心へ、という信心の練り方はあちこちに見られます。たとえば私が金光教学院で学んでいたとき祭式、お祭りでの作礼の仕方をならったわけですが、極めて厳格で形を覚えるのに精いっぱいでした。教会に帰って場数を踏むうちに、細かいそれぞれの作法に意味があり実意をこめてその形を現わすことで神さまに通じていくのだ、ということがわかってきました。祭式ばかりではありません。婦人会のお道具拭きは掃除ではなく神さまのお体を拭(ぬ)うという思いをもたねばなりませんし、青年会や道輝会の御用も同じこと、形をとおして信心する心を育(はぐく)んでいくものです。

 家に神さまをお祀りするというのは信心の形の一番はじめでしょう。お社を朝晩拝みご神飯を供え、家族のメンバーとして神さまをいつも意識する。
 こうしたことが自然にできていくならば、ああ、これが普通なのだ、いつも手を合わせるのが当たり前なのだとお子さんたちも感じていきます。
 もちろんお参りも形を通して心を培うものです。信心はまず形からです。


(この「教風」は、2018年5月に掲載されたものです)
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