「教風」 (連載第242回)


恩をもとにして



 明けましておめでとうございます。

 教祖さまは「日々うれしゅう元日の心で暮らせ」とご理解くださっています。

 お正月にはふだん信心しない人でも初日の出を拝みに行ったり、初詣にお参りしたりします。
 そうすることで、広やかな清らかな存在に改めて接して心が洗われるからでしょう。

 初代大先生は「信心の四つの目的」の第一に「心を清らかに持たせていただく」ということをあげておられます。神さまのお心は、いわば清浄で傷のない心で、私たちはその心をいただいているのだから――というみ教えで、教祖さまの「元日の心」にも通じる金光教の根幹のみ教えだと言えます。

 私たちは、清らかな心をいただいているはずなのについカッとなって怒ったり、不浄なことを考えたりします。そこからが信心の稽古です。
 初代大先生は「自称神になる」という妙な方法を思いつきました。
 
 ○「自称神」になる
 仮にムカッとするときがあると、「私は神だ、私は神だ」と自分に思い込ませる。そして「神さまがこんなことに怒るじゃろうか、怒りはせん、だから怒ってはならん」というように自分で神さまを自称するのです。自分の在り方を神さまの思いに当てはめていきます。「自分を神とみたてて、いかん思いや悪いことを心からはらいのけていった」とおっしゃっています。つまりそうすることで「元日の心」に達していったと。

 話として聞くと「なるほど」と思います。初代大先生のようにいつもいつも神さまが心にいらしたならばしよいことだったかもしれません。でも初代大先生のレベルでないわが身からすると、やろうとしても、うーむと考えてしまいます。

 ところがこれを実際にやり通した人がいます。
 二代大先生です。二代大先生の場合は、正確には神さまというより初代大先生ですから「自称初代大先生」ということになりましょうか。それでもなさったやり方は同じです。自称神が「神さまだったらどう思われるだろう。こんなことをするじゃろうか」と考えたように、自称初代大先生で「大先生だったらどうするだろう、どう思われるだろう」と一つ一つ初代の心になりきって歩んでいかれました。

 こういうことを成り立たせるもの、それはそれは強烈なものでしょうが、それはなんなのだろうかとじっと追い求めてみました。
 私の答えは、それは「恩」ではないか、ということでした。
 自称神の方は、改めと申すまでもありません。初代大先生のお心は、信心当初から神さまへのご恩、天地のご恩にどう報いるかでいっぱいでしたから。

 一方、自称初代大先生の方は少し難しい。親として育ててくれた初代大先生、大病から命を助けてくれた恩人、もちろんそういう面もあります。しかし一番の恩は、人助けという尊い道に自分を導いてくれた恩なのではないかと、私は考えています。

 その恩を強く感じるからこそ、なんとか初代大先生のような働きを現わすことでそのご恩に報いたいと、二代大先生は必死でお取次くださったのです。

 昨年は、二代大先生三〇年のお年柄でした。
 ことしは三代大先生二〇年のお年柄です。三代大先生もまた「初代大先生のお心をどういただくか」ということをすべての事項の基準にして信心を求めていかれた一生ではなかったかと思います。共々に三代大先生のみ教えや足跡からしっかりと学んでまいりましょう。


(この「教風」は、2018年1月に掲載されたものです)
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