「教風」 (連載第255回)


信心は喜ぶこと



二月一日は初代大先生のお日柄日です。その初代大先生の『信話』に「信心にはこの喜ぶ≠ニいうことがなによりも大事でありまして、もし信心というものに、喜びというものがなかったら、それは信心ではないと申しあげても、言い過ぎではないように考えられます」というお話があります。
 とは申しましても、初代大先生も信心はじめの若いころは「そない、喜べ、喜べというても喜ばれへん。こっちの言うままに喜ぶことくれさえしたら、こっちも喜ぶ。どっち向いても喜ぶことがちょっともないのに、喜べ言われたかて、そない喜べるかい」と口にしていたようです。
 ところが、そんなことを言っておりますと、翌日から枕かついで休むことになりました。熱が四〇度以上出て、ものを言うのもつらい、しんどい。眼が上へ吊(つ)り上がって真っ赤になった。苦しくてたまらないので病床から一生懸命にお願いすると、一日でおかげ蒙(こうむ)って熱が下がった。こうなると「これで助かった」と、本当に心からありがたくお礼が申せたということで、初代大先生は「そこまで患わんことには嬉(うれ)しいありがたいということがわからんのですなあ」と締めくくっておられます。

○喜ばなければ損だ
 お正月のある日、もう高齢の女性の信者さんがお結界に参られ、「日々おかげを頂いてありがたいことです」と申されました。
 ところが、客観的に第三者からみると、その方の生活はおかげを頂いていると言うには厳しいものでした。商売をされているのですが低調で、闘病中の弟さんも抱えているというのです。「お客さんが一人もない日もあります。それでもお願いしていますと、月末の支払いはきちんとできるのです。ほんとうにありがたい」。そう言われてさらに、「なによりありがたいのは信心さしていただいていることです。もし信心していなかったら、いまごろ弟と心中していたかもしれません」。こうニコニコとお礼を申して帰っていかれました。

 この方にとって「信心をしてお礼を申す」というのは、暴風雨のなかで、命綱をたぐりたぐり進んでいるようなものではないでしょうか。吹き飛ばされてしまってもおかしくないようなところを、神さまからの命綱をたぐりつつ「ありがたい、ありがたい」と進んでいけるのですから。
「ちょっともおかげがない。こんなに一生懸命になってるのに、神さまは私の願いを聞いてくださっているのか」と思い思い、愚痴(ぐち)や不足をならべたてたくなるときがあります。私たちの心には、愚痴や不足を言いたい卵が潜んでいるからです。しかし、それでは不足のおかげにしかなりません。言って悪いことは、思っても悪い。思って悪いことなら、言ったらなお悪い。

 不足のおかげとは、不足を言わねばならんようなことが次から次へ、あっちからもこっちからも起こってくることです。
 よいことが一つで、悪いことが五つも六つも、となると、よいことの方は放っておいて、悪いことばかり数え立てて不足や愚痴ばかりを言う。
 初代大先生は「十のうち、一つでもよいことがあったらそれを喜ばしてもらうんだ。ただむりやりに喜べと押し付けて言うのと違います。それを喜んでおったら喜ばしてもらわなければ損だ≠ニいうことがわかってくるからです」と教えてくださってます。
 私どもも共々に喜ばせてもらうという、信心の稽古に取り組んでまいりましょう。



(この「教風」は、2020年2月に掲載されたものです)
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