金光教玉水教会
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教風 大先生の講話
玉水教会月刊誌「あゆみ」に
毎月連載されています
巻頭の「教風」より転載しています。

 物に好かれる


 いわゆる「ごみ屋敷」という問題を、テレビで取り上げていることがあります。物が豊富で安価に手に入るということが背景にあるからでしょうか。大抵の家で使わない、捨てられない物がたくさんあるという時代です。
 では、物が比較的に高価で貴重だった戦前――初代大先生のころにはこういう問題はなかったのでしょうか、実は、同じようなことが『信話集』に載っています。

 玄関でどすんと音がしたので目を向けると、お参りの信者さんが、重ねた大きな板を置いた音でした。
「違い棚にするのです。安かったから。いくらだと思います?」
大先生は「三銭か四銭か」と応じます。いまの値段でも百円以下という価値です。
「あほらしい、大工さんが削る手間代だけでも十円はします。それを一円で買うてきました」。
 今で言うと何万円とするものを二、三千円で買えたと得意げに言う信者さんに、
「それ必要なのか」
「いえ、しまっときます」
「差し当たり必要でないなら、やはり三銭か四銭の価値しかない」
 死蔵するなら価値はない、というのはいまの私たちにはとりわけ厳しく響くお言葉です。

 大先生は、物は天地の御物(おんもの)であって、その場合その場合において価値を生かすことが大切なのだ、と説かれます。水を飲んでいて、もういらないとコップの水を捨てるのはわずかな水でもお粗末になる。しかし洗っていて、もったいないからと、とろとろの水しか出さないのでは汚れもとれず、かえって粗末になるというわけです。

 ○物が逃げていく
 私が学院生であったとき、お結界で四代金光様から、「下駄にお礼を申す」ということを教えていただきました。金光様も「はじめは、下駄にお礼するということができなかった。稽古(けいこ)するうちにできるようになった」とおっしゃいました。
 お道では、物も人とおなじように大切にすれば寄ってくる、大切にしないと逃げていく、ということを申します。大事に使うとは、金光様のようにお礼を申し申し、使うことでしょう。

 よく「履物をなくした」ということが起こります。口には出しませんが、「お礼を申して履いていましたか」と聞いてみたいときがあります。
 靴をなくした、というより靴に逃げられたのではありませんか。もっと大切に履いてほしい、という神さまからのお気付けではないでしょうか。厳しいことを言うようですが、そんなことを思います。
 四代金光様には、その時のお結界で、メガネにもお礼を申すことができるようになった――一つのことに取り組んでできると、ほかのこともできるようになるということを教えていただきました。

 金光様は身の回りのあらゆる物に感謝して、そしてその物を私たちのもとへ差し向けてくださる神さまにお礼を申して日日を暮らしていかれたのでしょう。
 さすが金光様、我々にはとてもできない、という話ではなくて、金光様も手元のことから稽古されていかれたと気づかされるのです。
 物はすべて、天地のお恵みから生み出された天地の御物であると心に留めていれば、物への接し方も変わってくるはずです。







<2020年3月掲載>
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