「教風」 (連載第258回)


事があったら安心



 初代大先生が、まだ信心をはじめてまもない頃のこと、不思議に思うことがありました。それは大阪教会のお広前にお参りしている信者さんのご祈念の時間が、信心の長さと比例していることでした。つまり、信心が古い人ほどご祈念の時間が長いということで、これは当時の初代大先生の理屈からすれば、おかしいことでした。初代大先生は、こう思っていました。信心して年限がたち、だんだんわかってきたらお願いすることが少なくなってきて、ただもう「ありがとうございます」というよりほかない。そういうことになるはずなのに、それが反対に、信心の古い人ほど長い時間をかけて祈念しているのはどういうわけか、という疑問でした。

 「先生の教え方がわるいからと違いますか」と、先生に談じ込んで、逆に先生から諄々(じゆんじゆん)とお話しをうけていくことになりました。
 このことの意味は、信者さんならよく分かることでしょう。信心が深くなるにつれ、ご祈念は長くなる。信心とは、一言でいえば自分が小さくなるということです。つまり、神さまのお恵みの広大さに感じ入れば入るほど、おのれの非力さを実感することになり、従って神さまへのお願いも次々増えていく、ということになります。あれもお願いしとこう、これもお頼みしとこうという具合に。

 そもそも、初詣などでの一般の人たちの願い方を大ざっぱに言えば、「家業繁盛、家内円満、アーン」とかしわ手を打って、それだけを願います。事が起きないこと、問題が起きないことが願いなのです。信心とは、世間一般の人にとって事が起きないように神さまの力を頼むことなのでしょう。

 しかし金光教の信心をしていけば、自分が、いかに力のないものであるか、ということがわかってきます。とても自分ごとき力ないものの手におえることではないから、一から十まで神さまのお力をいただく。事が起こる、起こらない以前の問題なのです。
 初代大先生はそこのところを「〃事のないのが心配で、事があったら安心〃という信心に骨折りました」とおっしゃっています。事がないと一見うまくいってそうで、なんでも自分の力でできると思いがち。事があると、一心にお願いすればおかげをこうむるに決まっているから心配ない。こう言われる。
 
 ○御礼と喜びの心が
 このたびの新型肺炎の流行により、非常事態宣言まで出されて大変なことになっています。ですが、初代大先生がいらしたら「おかげいただくときがきた」とおっしゃることでしょう。
 新型ウィルスに感染して健康が脅かされるという心配ばかりでなく、店や会社がどうなってしまうだろうかという不安も、当然大きい。ですから私たちがいまなすべきは、おかげいただけるように信心を培うことです。なかなか私たちは、世のことを祈るということが普段からできにくい。事実、そういうところがあります。本来信心とは、社会を祈ることが大切だとわかっていながら、もう一つピンときていない、というのが実情でしょう。しかし、テレビなどで世界の惨状が毎日伝えられています。まさに明日は我が身かも、と一心に祈らせていただきましょう。神さまは私たちのその祈りを喜んでくださいます。

 たしかに気が滅入ることが多いことでしょう。でも私たちは信心しているのです。年初から申しているように喜びの信心をさせていただきましょう。
 十のうち一つでもよいことがあったらそれを喜ばしてもらう。むりやり喜べというのではありません。それを喜んでいましたら、「喜ばしてもらわにゃ損だ」ということがわかってくるのだと、初代大先生も保証なさっています。今こそそういう信心をさせていただきたいと念じています。




(この「教風」は、2020年5月に掲載されたものです)
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