「教風」 (連載第261回)


お詫びして改まる



 先月、ご本部の会議に出席した折のことです。
 ある先生から尋ねられました。
「玉水の(初代)大先生はお詫びが一番大切
とおっしゃられていますが、そうなんですか」と。

 突然のことで「えっ」と一瞬思いました。
 申すまでもなく、金光教の祈りは「お礼とお詫びとお願い」からなりたっています。その先生は、玉水の大先生と言えばお願い、力強くお願いしていくことこそ大事だ、という流れになると思ったのに、お詫びが大切とは? と、意外に思われたようでした。

 そこで、どこでその話を聞かれたのですかと、大先生がおっしゃったという言葉のもとをお尋ねしました。澤田定治郎先生(阪南教会初代)の『尊師に侍して』だとの答えを得ましたので、申しました。
「おそらく澤田先生のその時の祈りを、初代がご覧になっての言葉かと思います。その人その人によって違うのではないか」と。

 すると、「祈る姿を見ただけで、どんなご祈念をしているのかわかった、ということですか」と切り込んでこられました。

「ええ、初代の時代にはご祈念の試験のようなものがあって、修行生に順にご祈念をさせて、それぞれの祈りの強さ、中身を指摘されたということです」と、お話ししたことでした。

 ただ、帰ってからもそのことをずっと考えているうちに、「やはりお詫びが一番大切≠ネのかもしれんぞ」と考えるようになりました。
 というのは、信心で最も大切なのは「改まり」です。改まるからこそ悪い運命も良い運命に振り替えていただけ、助かりの道においていただける、そういうことなのですから。

 ○原因を探して改まる
 信話集に、のどが腫(は)れてものが食べられなくなった人の話が出てまいります。

 明治四十年のことといいますから、初代が布教を始めてまだ何年もたっていないころのことです。
 ある信者さんののどが腫れ、声も出なければものも食べられないということになり、息子さんが参ってきて「なにかご無礼でも…」とお届けしました。「あんたのお父さんは口が悪いから、それを直さんとおかげにならん」と大先生は答えます。

 その後、大先生がその信者さんの家を訪れた機会に、家人にお神酒と食事を用意させ、口の悪いその人に食べさせました。不思議と大先生に食べさせてもらうとのどを通りました。しかし夜分に息子さんが、「あのときだけでまた食べられません」と訴えます。「あした本人をお参りさせなさい」。すると大先生に食べさせてもらおうと、翌日、本人が人力車で参ってきました。「これだけお詫びしているのに」。「そう簡単にはいかん。これから私のかわりに百人のご祈念をさしてもらいなさい」。「私のようなご無礼しているものが」。「そらわかっている。さんざん口で悪いことしてきたんやから嘘でもいい、口で良いことしなさい」。
 ご神前でふうふうと苦しそうに、汗ぼとぼとになってご祈念し、それから声が出るようになり、ご飯も食べられるようになったのでした。
 おかげが頂けないのは原因があるからで、その原因をお詫びして改まっていけば、必ずおかげが頂ける、と初代大先生は説いておられます。
 私たちの場合、この原因を突き止めることから始めなければなりません。どうぞ神さまおかげ頂けない原因を教えてくださいとお願いすれば、きっと神さまは気づかせてくださいます。





(この「教風」は、2020年9月に掲載されたものです)
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