「教風」 (連載第262回)


信じる



 たまたまスイッチを入れていたテレビから、女優さんが映画の宣伝のためにインタビューを受けている映像が流れていました。映画のテーマが「信じる」という内容だったようで、そのことを質問されていました。女優さんの答えがとても素晴らしかったので、エーッと思いました。

 「裏切られたとか、期待していたのに≠ニ言うけれど、その人が裏切ったとかいうわけでなく、その人の見えなかった部分が見えただけで、見えなかった部分が見えたときに「それもその人なんだ」と受け止められる揺るぎない自分がいるというのが、信じられるということなのかな?
 もちろんこの女優さんは、他人を信じるということについて話しておられるわけです。
 ただ私自身も、信じるということについて常に考えている人間です。人ではなく、神さまのことですけれども。相手を神さまに置き換えてもよくあてはまるなあと、この方の言葉に刺激されてあれこれ思いをめぐらせました。

 ○空き家に声をからして
 神さまは目に見えません。声も聞こえません。初代大先生も、信心はじめには、お広前でご祈念していてもお扉の向こうに神さまがいるとは感じられず、空き家で声をからしているような気がしたと仰っています。誰でもそういう感覚を持つことはあるだろうと思います。

 形や色やにおいのないものは多い。風だってそうです。目には見えません。しかし草木がそよいだり商店の幟(のぼり)がパタパタしているのをみると、風が吹いていること、風の存在がわかります。

 神さまの存在も、神さまに祈っておかげがあると、ああ神さまが働いてくれたんだなと信じられる。ただそうして神さまを信じていても、拝んでおかげがなかったら、神さまに裏切られた、神さまは救う力なんてないのだと、信じることをやめてしまう人も多い。

 実はこのときに、これまで見えなかった神さまの部分が見えてきたのだという思い方ができたとしたら、それは本当にたいしたことなのです。
 おかげが頂けないのは、神さまから私自身に要求があるから。もっとこうしてほしい、という。祈る力が弱いのか。祈りながら愚痴不足言って、祈りを台無しにしていないか。あるいは大きな思い違い、考え違いがあるのか。おかげを下さらないのはなぜなのかを真剣に求めていく、神さまの見えない部分をみていくというのは実際にしんどいこと、辛いことです。

 しかしそのことをしていくのが信心です。神さまを信じていくということです。
 教祖さまが、二代白神先生に仰せられました。
「神を信じるものは多くあるが、真に神さまの思し召しにかなったものはこれまで三人をかぞえるだけである」「だれだれでございますか」「一人はその方の父である。他の二人はまだ生きているから名を明かせない。その方の父はもう心が変わらない人となったが、生きている人間はどのような機会に心変わりするかもわからないから、今それを言って聞かすことはできない」

 教祖さまは明治16(1883)年に神上がられましたが、初代白神先生は前年の明治15年に帰幽されているので、こういうお言葉になりました。教祖さま最晩年のお言葉です。どんなに立派に信心している先生と言われるような方でも、心変わりすることはあるのだという厳しいお言葉です。
 信心は、拝んでおかげを頂くことではありません。神さまを信じて信じていくこと、自分が思いもしなかった神さまの部分が見えたとしても、揺るがず神さまを信じていくことなのです。





(この「教風」は、2020年10月に掲載されたものです)
TOP
バックナンバー一覧