「教風」 (連載第263回)


結界取次



 本教の制度で定められた資格の中に「輔教(ほきよう)」というお役があります。信徒の方が自ら志して、教会や教団の活動を積極的に担うお役です。定期的に教団の講習を受けます。玉水教会でも輔教の資格を得られた信徒の方が多数おられます。

 また輔教の講習会が玉水記念館で開催されることもあり、そのときはあちこちの教会の信者さんが受講に来られます。中には会場の記念館から道を渡ってお広前にお参りし、お結界でお届けされる方もあります。

 あるときちょっと戸惑いました。
 そういう信者さんから「金光様、日々ありがとうございます」と、お届けの言葉を受けたからです。
 私もご本部参拝の折りには、お結界に教祖さま以来の生神金光大神様の働きが現わされている感覚があって自然と「金光様、日々ありがとうございます」と、まず御礼申し上げます。
 とはいえ、それはご本部広前だからで、ご本部以外のお広前ではなかなかそういう言葉は出てきません。
 あの信者さんはご自身の教会で、お結界では「金光さま」とお届けさせてもらうことを教えられ、それが身についているから、口をついて出てくるのだ、とそのとき思いました。

○「人の不行状を見て」
 他人の長所や美点を見出すことは中々難しいことです。それに反して、短所欠点をみることはたやすい。というより、いやでも目につきます。
 お結界で、よく他人の欠点を並べる方があります。誤解がないように申すと、私は別に責めているわけではありません。

 お結界はきれいごとを並べ立てるところではありません。普段は人に言えないような本心を吐き出すところでもあります。ですから、他所でうっかり言えば「あの人、誰々さんの悪口言うてた」と問題になることでもお結界ならOKです。胸にたまっていたことをお結界で吐き出せばすっきりするでしょう。私も、全て聞かせてもらうつもりです。

 ただ、お結界で申し上げるということは、「あー、言ってスッキリした」で終わってしまっては意味のないことになり、困るのです。
「人の不行状を見て我が身の不行状になること」(神誡)という教祖様の戒めがあります。

 このみ教えについて信話集では、「ひとの欠点が見えるのは、その人の欠点として見えるのではなく自分の欠点を神さまが見せてくだされている。『さあ、よう見ておけ』とね。ですから、よく見て覚えておかねばなりません。すべて神さまが見せてくだされているのですからね」と説かれています。

 他人の行状を厳しく見る目を自分に向けて、自分の欠点を見つめ直し改まりへとつなげていけ、それが信心する者の態度だ、というわけです。

 鬱積(うつせき)したものをお結界で聞いてもらってスッキリする。そのあとです。ああ言ったが自分はどうだろう、と今度は自分を振り返り、悪いところに気がつかされお詫びする。ほんとうにお結界の働きをいただくことができていればこうなるはずです。普通ならできない働きが生まれてくるのがお結界という場なのですから。

 冒頭で「金光様」と言葉を向けられて戸惑い、その信者さんの身についた習いなんだろうと思った、と申しました。しかしよく考えてみると、輔教を志すような信心の篤(あつ)い人です。お取次を願う側のいただき方によってお結界の働きが違ってくる、ということをよく分かっておられるのでは……。「金光さま」と頂いてかずかずおかげを蒙(こうむ)ってきた人なのだろう、と思い返しました。真剣にお取次をいただいてまいりましょう。





(この「教風」は、2020年11月に掲載されたものです)
TOP
バックナンバー一覧