「教風」 (連載第265回)


何のための信心か



 新年おめでとうございます。

 「おめでとう」とは申したものの、大変厳しい新年の門出となっています。コロナウィルスの蔓延(まんえん)により昨年は世界中で多くの人たちが亡くなり、経済活動も大打撃を受けました。
 教会も門を閉ざすという前代未聞の事態となり、信奉者の方々にもご迷惑をおかけしました。そしてなにより、終息の糸口がなかなか見通せないという重苦しさです。
 こういう状況のなかで、どのような信心を進めていくかが私たちに問われていると思います。

 「何や知らん、とにかくお参りしてればおかげになるのや」というだけでは、お参りの足を止められれば信心は成立しないことになります。こういうときこそじっくりと、なぜ信心しなければならないか、を考えてみたい。幸い、初代大先生は「信心の四つの目的」という指標をお示しくださっているので、それに沿って話を進めてまいりましょう。

《常に心を清らかに持たしていただくために》
 私たちの体は、長い間風呂に入らず手入れもしなかったら臭くなってきます。心もそうなのです。放っておいたらいやらしい汚いものになってしまいます。
 信心して常にお話を聴くことによって、心を手入れして清らかに保っていかなければなりません。

《角立つ心をまるくするために》
 初代大先生は、心を玉にたとえられて丸いものように言われもしていますが、実はとげだらけのイガ栗のようなものだともおっしゃっています。
 トゲというのかカドというのか、人に何か言われるとすぐカチンときて、それで相手を突き刺したりします。カドがないという人でも二十八角はあると初代大先生は申され、信心で角をとっていくことを教えてくださっています。

 しかし、信心が進んでも全く角が立たなくなる、ということはありません。どんな人でもやはり角は立つのです。ではどうするか。
 例えば教会は、大きなすり鉢のようなものだと仰せられます。いまでもゴマの風味をだすためには、すり鉢にいれて擂粉木(すりこぎ)ですりますが、あれの大きなもの。角立っている人が、教会というすり鉢でがらがらかき回されているうちに角がとれていく。何かあったら、たとえば人と衝突しそうになってコチンときたら「ああここに私の角があったか」と、神さまのお気付け、思し召しとありがたくとっていただく。そうしないと瘤(こぶ)になります。

《災いを転じて仕合せにしていただくために》
 目先のおかげを蒙(こうむ)っていくということはもちろん大切なことですが、つい、そこばかりに気を取られて、おかげをいただく受け物である心をつくっていく方については案外おろそかにしがちです。

《自分の役割を明らかにして責任を果たさしていただくために》
「役」割りといいいますと、なにか演劇とかドラマの役を連想します。が、まさにそうなのです。私たちは社会で役を演じているのです。家庭では「父」の役、会社では「経営者」の役というように。父には父として踏むべき道があり、社長には社長の、社員には社員の道があり、それを全うしようというのが信心の行き方なのです。「役」にふさわしい、あるべき姿を求めなくてはならないし、自分を客観的に繰り返し見つめ見つめて、「役」に近づけなくてはなりません。

 信心だけがそれをなさしめるのだと思います。初代大先生が「私は自分の腕を拝んでいた」と自分の姿に気づかれたように、神さまに無心で向かったときにこそ、自分の姿というのは鮮明に見えてくるものなのですから。




(この「教風」は、2021年1月に掲載されたものです)
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