「教風」 (連載第268回)


心はころころ



 初代大先生は、心とはコロコロが縮まった言葉で、それくらい心は、ころころと転がりやすいものだと説かれています。ところが、転がるにしても良い方向にはなかなか転がっていかない。横着したり、わがままだったりする方につい転がりがちで、それは私たちの心にはタヌキが住んでいて、そのタヌキにだまされてそんなことになるのだ、とユーモアたっぷりに教えてくださっています。

 とはいえ、転がってどこかにガチッと嵌(は)まり、動かなくなってしまうのであれば、どうにもしようがありませんが、また転がして良い方向に向けることもできないことではありません。信心していると、そういうことができるようになる。信心の骨折り、信心の稽古(けいこ)を積んでいくとできるようになる。

 その一例として、初代大先生が布教当初、「不自由をさしていただく」行き方を求められた事が思い起こされます。
 言いたいことがあっても、それをそのまま言えば自由をすることになるから、言わずに不自由をさせていただく。行きたいところがあっても、それを行きたいままに行けば自由になるから、行きたいところを行かないことにして不自由をさせていただく。ああしたいと思っても、それを思うようにしたら自由だから、ああしたいこともああせんで、不自由をさせていただく。眠いところを寝ないで不自由をさせていただく。楽したいところを楽しないで不自由をする。そして「今日は五つ不自由しました」「今日は六つ不自由しました」とひとりで喜んでいたら、五年してなにも不自由することがなくなってしまったと、振り返られています。

 初代大先生の軽妙なお話しぶりに、このようなことが自分にも簡単にできそうな気が、ついついしてきます。――しかし取り組んでみると、そうではないということはすぐわかります。
 

 ○熱い思いをもって
 コロナ禍のなかで、私も何か具体的なことをさせていただこうと考えました。
 玉水教会では勢祈念を毎日三回仕えています。
 朝六時と昼二時、晩八時です。朝と昼は他に特別なご用がないかぎり、お参りの皆さんと一緒に奉仕させてもらいます。しかし晩八時の勢祈念は、その後の晩十時から「おしまい」といって、その日のお下がり、お掃除、翌日のお供え、というご用が通常にあるため、任せておきました。

 夕方までお結界に座り、夕食をいただいてぼんやりテレビを見たり、時にうつらうつらして時間を過ごしていました。

 晩八時のご祈念も頂こうと願いをたてました。これだけのことと思ってはじめたものの、なかなか大変でした。気を緩める時間が持てないということもあります。とくにプロ野球が始まるとかなり厳しい。八時といえばゲームもたけなわという頃合いです。それでも贔屓(ひいき)のチームが負けているときならば見きってすぐ立てますが、勝っているとき、負けていても攻勢に転じようとしている場面では、正直なところ後ろ髪を引かれる思いです。

 しかし、ここです、ここが大事です。なにも感じずに立てる事なら信心の稽古(けいこ)になりません。
 初代大先生は「神さまからさせられる修行は辛いで。信心は骨折ったら骨折っただけの値打ちはきっとある。どうしても信心には熱がないといかん」と弟子たちを励ましておられます。

 コロナによる厳しい時期が続きますが、熱い思いで信心に取り組んでまいりましょう。





(この「教風」は、2021年4月に掲載されたものです)
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