投稿No507〜510を追加しました (2023/1/16)
投稿No 510 角立つ心を丸くするために 匿名希望 男性 70代

ある教会の祭典後の御教話の中で「3年間腹を立てずに何事にも有難く頂く事が出来ればかみさまと会うことが出来、話をすることもできる」と教えて頂きました。信心の四つの目的の中に「角立つ心を丸くするために」という項目があります。3年間ならと思い実行に移したのですが3日どころか3時間も持ちませんでした。神話集の中に「腹が立つ時にこれは腹を立てなければならないのかどうかよく考えなさい」と諭して頂いております。そうしますと腹を立てなくても良いことに腹を立てていることが数多くありました。腹を立てる前にそれを考えますと腹を立てる回数がかなり減ったように思われます。お陰で3時間くらいなら腹を立てずに済む様になりましたが3日となると全く自信が有りません。何事にも有難く頂く心を持つことにも少しずつ稽古をさせて頂き、3日が3ヶ月になり、3年になるように努力をしたいと思っております。

投稿No 509 ご神酒さんを頂く GGK 男性 70代

 玉水教会の信者さんはお神酒さんを頂くことで、怪我、病気を治していただくことをよく知っている。小さいころから親に身体に噴いてもらったことは古い信者さんではよくあることであり、私も例外なく親しんできた。このお神酒さんを頂く時どのようなことに心がけをすることであろうか。それは一心になることである、つまり心を込めることであろうが、この心を込める場合の参考するために私の身近でおかげ頂いた実例を紹介したいと思う。
 現在から約10年前になる平成20年代である、当時私は信州つまり長野県の大町市のはずれにある美麻地区に大阪からよく出かけていた。美麻地区で居住型の塾を開くため大型の田舎屋敷を改造し準備を進めていた。近所の方とも自然と交流するようになっていったが、その中にとりわけ懇意に私に目をかけていただいた方がおられる。名前はY(吉沢峯夫)氏で当時78歳を回っていたが実に元気で日々農作業に勤しんでいた。彼は近隣の工業高校を卒業後、ながらくこの大町市の僻地で農業に勤しみ三人の子供を立派に一人前に育て上げ村の多くの仕事・課題に取り組んでおられた。明るい性格で村に新しく移住してきた我々にも分け隔てなく接する好人物であった。
 ある時いつも明るい顔でいた彼には珍しく神妙な面持ちで私に打ち明けた。彼は心臓が不調で松本にある信州大学の付属病院で診察してもらうと、やがて心臓のペースメーカーの埋め込みが必要になると診断されたと。
 日ごろよくしてもらっている彼の深刻な状態に、いたく心配になった私は大阪に帰った折玉水教会で取次をいただきお神酒さんの紙パックをいただき次の信州行きの時持参した。彼にこの神酒はお祈りが込められているので仏壇に供え、毎日少しずついただき心臓の回復を祈るようにと教えさせていただいた。それから大阪に帰った私は大阪での所要が重なり暫く信州から遠のいていた。
 二三か月後に信州に行き久々に彼に会うと、実にうれしいことに彼の胸の症状はよくなり当分ペースメーカーの必要はないとのことであった。御かげをもらわれたのである。ビギナーズラックというか、こうも簡単におかげを頂かれたのにいささか驚いた。それにしても当初私が頂いてきたお神酒はとっくに無くなっていることを問うてみた。彼は約一か月ほどで私の持って行ったお神酒は無くなったが、町のスーパーで同じような紙パックのお酒を買い、私が持って行ったお神酒の空になった紙パックにお酒を詰め替え、そして仏壇に供えて前と同様に祈っていただいていたという。私が持って行った紙パックに何か神様のお守りがあり、もったいなくて捨てられなかったという。なんという純粋な心を持たれた方であるかといささか感動した私であった。私なら空になった紙パックは邪魔物のようにすぐゴミ箱に入れ、お神酒さんは教会でまた頂いたらいいと便利主義になっている自分になっているはずであった。
 教会にいつもお参りさせていただいている我々は、お神酒さんを容易くいただくことができるので、中身が無くなった紙パックにそんなもったいないという思いをもったであろうか。慣れ切った我々はこの平凡な純粋さに遠のいている自分に気づかされたことであった。玉水教会の信心の四つの目的の最初に、常に心を清くすること、が謳われているがここのところを教えられたのであろうか。この純粋な心、心を清く保つことが何より神様が喜ばれ全て御かげの源泉であることを教えられたのだろうが、我々古い信者にはかえって難しい。信心の慣れはこの純粋な心に気が付かないことが多いのではないだろうか。お神酒を頂くことは日常の家庭生活の中で自分の心の原点をハタと問う機会ではないだろうかと。
 我々が一心に祈るとは、通常自分の願いを叶えるために何が何でも脇目もふらず一心に祈ることであるが、またそれが大前提でもあるが、その一心に祈る中で、いわばもっとそれを通り越した先にどこかおおらかで囚われのないすがすがしい心が現れるとすれば、きっとそれは、心が純粋になり御かげの予兆が芽生えてきているのではないか、と考えてしまう。心を清らかにすることその難しさと大切さを想う。

投稿No 508 昭和、平成、令和に世界平和を 久しぶりまりこ 女性 70代

 ロシアとウクライナの戦争が連日テレビを賑わしています。ここ日本国にも、友人、知人をたよって多くのウクライナ人が来日していますが、若者も強制的に徴用するというロシアのプーチン首相のメッセージを受けて、逃げのびようと必死なのでしょう。その人達の声をテレビやケイタイなどで耳にする機会がありますが、みんな平和を望んでいるようです。
 玉水の初代大先生は昭和19年2月にお国替えされました。それは、この国が太平洋戦争真最中の時で、私は同年6月に生まれています。日本は広島の原爆を落されてやっと終戦を迎えることになりました。あれから80年近くが経ち、平和になったものだと、ロシア、ウクライナ戦争をみて改めて感じます。平和が長く続いた日本では、戦争中、終戦を語れる人も少なくなってきています。この度の戦争に実感を持ててる人がどれほどいるのだろうかと考えてしまいます。
 私より年上の方からは、終戦直後、家も焼かれていたので教会広前で寝泊まりさせて頂いたと聞いております。日本は、親の借金の片かわりに娘を売る様な時代もあったのです。玉水教会信者さんの中にもそういうことから北海道から逃げて、九州に行くつもりが大阪で降りたのが縁で玉水教会にお参りするという人もおられたのです。中学を出てすぐ労働者として"金の卵"と言われ働く人もスカウト仲間にもおりました。そんな中、多くの信者さんが、どんどんお取次ぎ頂いて、大きな、大きなおかげ頂いて来たのです。
 私が幼かった当時の玉水教会へ参拝道中の景色は、チンチン電車(路面電車)が石たたみの上の線路を走り、荷馬車、荷牛車が重い荷物を運んでいる姿が当り前のように見られました。町にはまだまだ焼野原も有り、崩れかかった煙突にスズメが巣を作っていました。遊び道具のない子供達は、瓦礫を組んでスズメ取りを作って、動くスズメを手にしては逃がす、何回引っかかるかを楽しむ遊びをしていました。
 家族を支える大人たちは、これから先の仕事、立ちゆきを願う必死のお届けですから、二代大先生がお座りのお結界にはズラーッと二重三重に並ぶ人、人です。当時の若先生(三代大先生)が二代大先生の前に机を置き、向え合わせのお結界が出来る程で、ものすごい熱気でした。
 少し大きくなると、朝参りを始めました。阪急の始発電車に乗った後、梅田から肥後橋まで歩き、教会参りしたことがあります。その時間だと、やっと書生さんがお結界の御用を始めようとしている頃ですからお広前はまだ明かりがなく、御神前を灯す微かな明かりの中、二代大先生がご祈念なさっているのです。あの神々しいお姿は目に焼き付いて今でも忘れることがありません。あの二代大先生のお姿を拝見出来たからこそ、「祈って頂いている」との確信を持ち、今までこうしてこれたように思います。この「祈って頂いている自分」は今の教会長先生のお姿からも感じるときがあり、「大先生のお祈り下さっていることを私は感じ受けましたので、ここまで元気でお参りに来れました。有りがとうございます。」と、今もお礼のお届けを申し上げることが出来るのです。
 私はスカウトにも入団させて頂きました。寿雄先生(高槻南教会長)の"お道のわかばのスカウトを"を受けて、ボーイ、ガール合同で日曜日礼拝をして集会が始まりました。寿雄先生、弥寿善先生、憲一先生がスカウトに一生けん命力を入れて頂き、お道のわかばとして楽しく信心の道をつけて下さったのです。青年会では若先生(三代大先生)が青年らしく、信心を追求する集会ではお道の話ばかりでした。楽しかったです。
 また当時の御本部は、今の修徳殿が本堂で三代金光様がお取次ぎ下さっていました。大祭の時はその周りに白いテントが張られゴザが敷かれて参拝者で溢れていました。行きも電車ではなく、煙の出る機関車に乗ってのお参りです。淡オレンジ色の電灯がなかなか神秘的な雰囲気でした。玉水教会控え所も木造の建物で大祭の時はいっぱいでした。その後、今の控え所が出来た時、二代大先生、若先生(三代大先生)が並んで下から眺めておられた姿がありました。全建物には信者さんが列車ごとに利用され仮眠され、3時頃起きて金光様お出迎えをされたのです。今の会堂(本堂)が出来て、三代金光様のお取次がされ、四代、五代、現金光様のお取次ぎがされています。斉場も教祖九十年祭だったと思います。「柱のない斉場」と大きく新聞に載りました。その頃(昭和39年頃)では珍しがられましたネー。
 玉水教会でも、大祭になると、あゆみ社の前が、お献備受付です。また玄関前(現在と同じ)の時もありました。教会入り口で履物と番号札を交換し、荷物を少なくして詰めて座るのですから、コロナがこの時来ておれば、どうなっていたのかと思います。また、表の道路もゴザを敷いてほとんど玉水教会の為に使っているような感じでした。今ではチラシ1枚配るのも警察の許可が必要らしいと聞くと時代を感じます。教会横も長屋がずうっと続いており、横も旅館の様な、別荘の様な立派な建物がありました。すべて買い取られたと聞いております。
 圧巻なのは、広場にプレハブ建てて広前を移動させたときです。その時の光景の神秘的なこと。金光教の神様の移動ですからねー!教会は、お結界の横に中庭があり、その向こうに式場があり、中庭の横に事務所がありました。私は他のスカウトとガリ版ずりをこの事務所奥でしたものです。また、昔の式場で上級スカウトと一泊したこともあります。消灯の少し前の時間には先輩に社会勉強のヒントがもらえる素敵な時間でした。教会での朝食はこの頃は麦が入った麦御飯と味噌汁です。食前食後の「食物はー」が心に響きました。
 銀座初代大先生のお話も子供なりに、心に残ってます。いつも「親孝行」「親孝行」と聞こえてきました。声に特長があったので(高い声でハッキリとした口調)印象が残っています。お火鉢も二重三重と囲んでの状態でしたねー!婦人会も和服で御用されていましたね!覚醒会が道輝会に変りましたのは、覚醒剤犯罪が増えてイメージが悪くなったのが理由だそうです。覚醒とは(目をさますこと、心の迷いからさめること、自分の非をさとること)で良い意味でしたのに残念です。
 平成になって、六甲の間、典楽の練習の部屋が出来て、トイレもきれいになり、玄関奥にあった井戸の上も使える様になり、今では井戸水がトイレ用に使われているそうです。技術って凄いですね、建物を動かすことで信者さんが少しでも多く広前に座れるよう、二代大先生は祈っておられたそうです。記念館も、昔は二階建てで、スカウトがいつでもランドセル背負って寄れる場所でした。一人、二人と学校帰りに来るような親しみのある記念館でした。これも平成に建て替わり、ホールのある立派な記念館になりました。いろんな方々に使用して頂き、落語や音楽祭等、色々な催しもあって、私の大好きなコーラスの練習にも使ってます。また、放送センターのスタジオや宅祭の祭壇もあり、葬儀にも使われます。会議室としても、奥には立派な厨房もあります。和室もあります。全て初代大先生、二代大先生、三代大先生、現大先生が信者さんのことを思って用意下さったのですから、しっかりと1人1人があり難く、お礼の心を持って使わせて頂きますよう、願ってます。
 昭和から平成、令和へと時代は変わり、玉水教会も二代大先生から三代大先生、そして現大先生のお取次ぎとなりました。その間、たくさんの信者さんが助かって来たということです。私も、今この年まで一生懸命生きてきて「あれもおかげ、これもおかげ」ほんとにありがたい、お礼しかないなぁと思う毎日でございます。この先も、生かして頂いて少しでもお役に立てる年寄りであると同時に、出来るだけ迷惑をかけないよう明るく、楽しい毎日を過せますようお参りさせて頂きたいと願う毎日です。来年は教祖140年のお年柄、再来年は初代八十年祭があります。私も同じ様その時に80才です。油断なく健康第一でお取次ぎ頂きながら嬉しいお年柄を迎えたいと思っております。思い出話をつらつらと書きました。世界平和を祈りながら、ペンを置きます。

投稿No 507 私達が生きる目標について 訓練生 男性 70代

〜国内でのコロナ禍と政治・経済〜
 一昨年初から始まったコロナ禍は、医療機関の迅速な対応等にも拘わらず、変異株の出現や国内治療薬の開発が進まないこともあり、日本国内でも感染者は高止まりです。政治・行政の面でも思いがけない元総理の銃撃死や政治・行政の諸問題が表面化し、また経済についても高度成長後のこの20〜30年間、我が国の貿易立国としての具体策不足が顕著で、日本の大きな課題となっています。
〜多くの国際問題〜
 世界を見ましても、ロシア・ウクライナ関係は、ウクライナがEUに加盟したことに起因して、ロシアがウクライナの国家主権と領土を侵害することに発展、今年初めから欧米を巻き込んだ国際的な大問題となっています。また、ロシア・日本間でも、例えば日本がロシアから今後も適正価格で天然ガス(サハリン2)を購入できるか否かが、日本でのエネルギー政策に大きくかかわる問題です。
〜民主主義とは〜
 我々日本は「民主主義」を目指しています。アメリカ国務省の見解によりますと、『民主主義社会は、寛容と協力といった価値を何よりも重視する。』としています。アメリカの実態がどうかは兎も角、日本では、他者を認識したうえでの自分であるというこうした概念を毎日の生活の中でもさらに徹底することが大切です。
 以上申し上げたこれらのどれ一つ不都合があっても、日本の将来は不安定なものになります。日本でのコロナ禍発生時、私はひょっとするとかつての第二次世界大戦に匹敵するような政治・経済・国際問題に拡大するのではないかと危機感をもっていましたが、今でもその可能性は否定できません。念のために申し上げますと、日本の今年7月末の国の借金は1250兆円で、20年前の2倍になっています。世界のトップレベルの借金大国です。世界の真の平和とその中での日本の安定を真剣に心に刻み、国民全員が自分でできる範囲で心底から向き合うことが極めて大切です。
〜「人を思う 人の役に立つ」ことの大切さ〜
 そうした状況で、我々はどのようなことに取り組んでいけばよいのか。中身は各人により異なりますが、
(1) 人間一人では生きていけない。周囲があって自分がある。これが根本です。
 国においても同じです。取り分け、順風満帆や苦境にいるときはそれを忘れ「自分中心主義」に陥る。これを失くすことが心の大切な訓練、死ぬまで続く修行です。我々は一人で生まれて来たのではない。私の父は死の直前「大先生の所に行くのだから怖くはない」、母は「当たり前と思っていることが全て特別なことなのよ」と言い残しています。こんな両親・先祖への恩返し、勿論、歴代大先生と神様へのお礼ができたらと思っています。
(2)信心の4つの目的はどれも大切です。『常に心を清らかに持たせていただく』、『角立つ心を丸くする』、『災いを転じて仕合わせにさせていただく』、という3項目があって、『自分の役割を明らかにして責任を果たさせていただく』ことになり、『人を思う、人の役に立つ』心が生まれます。限りなく大きな目標を掲げたいものです。

 第二次世界大戦末期の昭和20年3月の大空襲で、大阪は焼け野原と化してしまいましたが、ご承知のとおり、玉水教会は木造作りであるにもかかわらず何ら被災せず現在に至っています。こうしたことを「有難い」の一言で終わっては真に申し訳ないことです。私達も、この厳しい日本・世界の状況下で、改めて大きな目標を目の前に掲げ、人のため世のために役立つ生涯としたいものです。

投稿No 506 神様からの年金 難儀な後期高齢者 男性 80代

 毎月15日は嬉しい日だ。年金が振り込まれる日だからだ。その日は銀行のATMに人が並ぶ。給料日と重なるからかもしれないが。どちらにしても一か月の命をつなぐ大切な糧だ。
 さて、我が家の庭には柿の木が1本ある。72年前に、柿が大好きだった父が別の場所に植えた柿の苗木4本、そのうち残った1本だ。以来、豊作不作を繰り返しながらも、毎年たくさんの実をつけ、家族やご近所を喜ばせてきた柿の木である。
 ある日のまだ明るい夕方、ふと柿の木を見上げたら枝の間から吸い込まれるような青空が広がっているのが見え、神様がニコニコと笑いかけられておられる気がした。
 同時に我が家の柿に限らず、スーパーに並んでいる全ての食品はまさに神様の贈り物、減る事のない年金じゃとうれしい感動を覚えた次第であります。

投稿No 505 母の晩年の思い出−ふたつ GGK 男性 70代

 母は四年前103才で生涯を閉じた。亡くなる前一か月前まではほぼ私の車で玉水教会に日参した。決して人に言えるような上等の信心ではなかったが、約80年間にわたる信心一筋の生活であった。その母の晩年のエピソードを二つ紹介し、当時の自分の至らなかったことを反省したい。
 教会の参拝を終えると何時も、私は助手席に母を乗せ、駐車場を出る。右折して暫くすると今度は四ツ橋筋を左折して車を北上させる。すると間もなく土佐堀川の肥後橋に差し掛かる。私としては年老いた母は後ろの席に乗ってほしいのだがいつも私の隣をあたりまえのように陣取る。そして朝日新聞社とフェスティバルホールのツインタワーを見上げて決まって言うのだった。
 「うちの家はこれまでずっと朝日新聞とってたんや」これを毎回聞いているとまるでうちの家が朝日新聞をずっと購読していたおかげでこのツインタワーが建った様に聞こえてしまうのでついおかしくなってしまうものであった。私は年老いた母の発想はまるで子供のようだと捉えていた。しかし、ほどなく自分の考えがまるで浅いことに気が付くことになった。
 両親は戦中から戦後にかけて母の郷・丹後に疎開していた。戦後5〜6年後に大阪に帰ってきたときは五人の子供を抱えて艱難辛苦つづきの毎日で、それこそ二代大先生にすがりきった毎日であった。その日食べるものを整えるのがやっとで学校に払う僅かの学費もままならなかった。その中で朝日新聞を購読しつづけることは並大抵でなく、そんな苦しい時代を我々子供は忘れかけていた。
 私は中学時代のある時期には朝三時に起き新聞配達をして家計を助けていたことがあった。ある時新聞配達の給料日に私だけが貰えなく、それは溜まっていた自分とこの新聞代を配達給料で払わされていたからであった。こんな苦難の時代のことは我々子供とっては遠い昔の話となり、次から次へと未来志向の考えに塗り替えられていき殆ど忘れかかっていた。しかし、未来志向の少ない親の世代はたとえ生活が楽になった現代でもいつまでもその苦難な時代の意識の延長が残っていたのだ。それは、現在の自分は過去の苦労した親の恩恵によって育てられてきた自分であったことを忘れていたことを思い知らされたことでもあった。
 二つ目の想い出も、このお参りの帰りの車中での母の姿である。いつものように教会から帰る時、交差点で幾度もなく信号で車を止める。そのとき助手席の母は交差点で餌を探しているハトや雀の姿をよくおいかける。そして幾度もなくその小鳥たちが餌にありつけただろうかとつぶやく。一見我々健常者が見過ごしそうな.生き物の姿に目を止めるのである。当時の私は単に母は小鳥が好きなのかなと思っていたものであった。しかし最近これも我々の思慮が浅い故と反省させられている。
 人は晩年誰もが人のお世話、介護の中で生きる。今まで当たり前のようにしてきた行動は殆ど制限され、やっと食べやっと排泄するという限られた中で余生を過ごす。そこでは今まで当たり前のようにしてきた食べることでさえ誰かのお世話にならなければならない自分であること"閉ざされた孤独な世界"を自覚する。その時飛び込んでくる小鳥が自由に餌を探す姿は新鮮に映ったに違いない。母は自分の元気な過去を思い出し、それを小鳥たちの活発な動きに無意識になぞらえていたのだろう。
 人間は本当にその人の立場・境遇にならなければ、その人の想いを理解するのは難しいものであることを痛感し、単純に現在の自分の現在の基準で他人を思い図ったり評価することの限界に気づくこととなる。想いはどこまでも深化させねばならないのだ。
 初代玉水教会長・湯川安太郎師は「人を想うこと人後に落ちず」と言われた。その証として、人の立場・境遇になりきられて神様に向かわれ、尊いおかげを信者たちにもぎ取られてきたのであった。その想いの深さを改めて垣間見る思いがした。それに気付かせて頂いたのも、母のおかげであると感謝している。

投稿No 504 息子の大学受験から就活までの軌跡。全て神様のおはからいの中で おんぷちゃん 女性 50代

 このたび、息子の就職が内定したことを多くの方が喜んでくださり、そのことを是非記事にしてくださいとの依頼があり、私自身もこのお陰をきちんと書き留めさせて頂きたいとの思いから投稿することに致しました。
 息子は6年前に京都大学工学部に合格させて頂きました。第一志望の物理工学科ではなく、第二志望の工業化学科での合格でしたが、それでも息子は合格できたことを喜び、化学の勉強を進めていました。しかし、時が経つにつれ息子は物理の勉強をしてみたい気持ちが強くなるばかりで日々悩んでおりました。一生懸命お願いさせて頂いた結果、決まった化学の道なのだから、きっと楽しくなる時が来るのでは…先を楽しみにお願いしながら頑張ろう!と励ます私でした。
 なかなかその時が来る様子はなく息子の悩む姿を見て私自身もつらい日々を過ごし、そのたびにお届けさせて頂き、お願いを続けました。
 そして物理の勉強がしたいという気持ちが変わらないまま4年が経ち、とうとう息子は大学院の入試で転学科したいと考えるようになりました。その後、教授に相談したようなのですが、「4年間物理を専門的に勉強してきた人には太刀打ちできないだろうから辞めた方がいいのでは…」と言われ、少し落ち込んでいました。
 それでも、諦めきれない息子は、そのリスクを承知で1年間休学をして院試で物理の専攻を受けると決心しました。そして、そのことを大先生にお届けさせて頂きましたところ「勉強させて頂けることに感謝して、頑張りなさい」とのお言葉を頂き、私も安心して応援することができました。
 物理への転学科を決意したものの、次はどの研究室を志望するかで悩んでいました。教授から言われたように、リスクがあるのだから受験する研究室のレベルを下げてはどうか、と内心思う私の気持ちとは違い、息子は1年間休学して勉強するからには自分の行きたかったトップレベルで人気の高いN研究室を受けることに決めたのでした。それから1年間一生懸命に勉強に取り組んでいました。
 これらすべてにおいてお取り継ぎお願いをさせて頂き、神様のお働きのお陰で、何とその第一志望のN研究室に合格させて頂くことが出来たのでした。本当に有り難くて心から感謝申し上げました。しかも、あとから分かったことなのですが、そのN研究室内でトップの成績で合格させて頂くというお陰までも頂いていたのでした。そのことによって、転学科したことに引け目を感じることなく自信を持ってその研究室で学ばせて頂くことが出来たのです。
 また、そのような結果を頂けたのは、先輩が物理の授業をまとめたご自身の勉強ノートを譲ってくださったり、友達が物理の勉強を快く教えてくれたりと、たくさんの方のご好意によって今があることを知り、胸が熱くなりました。
 そこから、ようやく息子のやりたかった物理の研究に励むことができ、日々楽しそうにしている息子の様子に心から神様にお礼を申し上げる日々でした。
 そして、神様が息子になぜ化学という道を付けてくださったのかということが、その後、はっきりと分かってきたのです。
 振り返ってみると、化学で勉強させて頂いたからこそ自分のやりたいことが明確になり精一杯努力する事ができたこと。そして、何より就職活動でどの企業においても物理だけではなく化学の勉強もしてきたことを大変評価して頂け、それが息子の強みとなったのでした。
 息子の第一志望は、ある電機メーカーでした。調べてみると、その企業はとても競争率が高く、息子も内心無理だと考えていたようです。しかし、その企業の説明会を受けるたびに行きたい気持ちが強くなり面接を受けることに…。
 すると、N研究室だからこそ出来た研究の内容をその企業に大変評価して頂け、今まさにその知識を必要としてくださったのです。また、物理と化学の両方の知識があることは勿論のこと、1年間の休学で転学科できたことや、自分の意思を最後まで貫いたことなども評価して頂き、内定を頂くことができたのです。
 もし、化学の道に進んでいなければ、このような貴重な経験をすることもなかったと思うと、大学受験から神様の大きなおはからいの中で学ばせて頂いていたことに気づきました。
 神様は、本当に先の先までお見通しで今何が必要なのか、その時々で必要なことをお与えくださっているのだと身をもって感じさせて頂きました。それがたとえ一時つらいことでも先々の幸せのために今がある。そう思うと、神様のおはからいを知らずに不安な日々を過ごしていたことが申し訳ない、と思わせて頂きました。そして、私自身何よりも嬉しかったことは、神様を模索していた息子が「これはお陰でしかない!」と神様の存在を肌で感じてくれたことです。
 就職先は関東の電機メーカーなので、来年には親元を離れてしまうことになりますが、この経験が今後きっと生きてくることと思います。これからの人生、いろいろな困難にぶつかることもあるでしょうが、これからも神様と共に乗り越えて行ってくれることと信じています。

投稿No 503 おかげの受け物 老いて分かったこと 北斗七星 男性 70代

 「2021年(令和3年) 生神金光大神大祭のしおり」 を読ませていただいて、ずしんと感じました。
改めて出典元と思われる神話集第5集P105 「おかげを入れてくださる受け物」を読み、このみ教えを青年期の頃に今回のように感激して受け止め、考え整理し、毎年少しづつブラッシュアップして、この年を迎えていたら、違った人生を迎えていたのではと、残念に思いました。この話は特に若い人に読んで考えていただき、ご自分で受け物を考えられ、ご自分の豊かな人生を築いていただきたい。そのために、せめて老いた今だからこそ出来る事を、と筆をとることにしました。
 「おかげを入れてくださる受け物」は、祈り、勉強、始末、経済、真実 この5つであると書かれてあります。私なりの理解で整理してみると次のように考えられるのではないでしょうか。

祈りは、目標 こうなりたいと思う事 なりたい自分を実現する為に、次の4項目を神様に誓い、実行する力を与えていただく事を願う事。
勉強は、目標を実現するために、何をしなければならないか、考え、知識を吸収する事。
始末は、目標を実現するために、無駄使いをしないで、物を大切にする事。
経済は、目標を実現するために、必要な物を考え、蓄える事。
真実は、目標を実現するために、人と仲良く、友人、周囲の人を大事にする事。

家庭円満 目標、実現する為の行動が、独りよがりにならないために、心がける事。

このように整理したうえで、私の人生を振り返り、経験に当てはめてみました。

1.「祈り」 小中学生の頃、私の両親の仲人さんが、私をかわいがってくださり、「大きくなったら、会社の取締役にならないといけない」とよく聞かされていました。
この言葉が、私の頭の中に染み付きいつしか、目標になっていた気がします。この目標設定が、まず大きな過ちでした。
2.「勉強」 目標設定の過ちから、仕事に関する専門分野に偏り、人生の大切な生き方等をバランスよく、学ばなかったこと、考えなかったことが、偏った考え方になりました。一番の反省点は、話相手を嬉しく楽しくさせる話術ではなく、屈服させる話術を身に着けてしまったことです。
3.「始末」 貧乏人の見栄っ張りが抜けきらなかったこと。貧乏人の見栄っ張りは、心理的には相手より優位な立場に立ちたい、特徴の一つには、プライドが高く自分の行ったことを曲げようとしない、と書かれています。その通りだったと思います。
4.「経済」 蓄財に努力してきましたが、見栄っ張りの性で始末が不十分、自分の関係者にお金が必要となり使う等、結果的に十分な蓄財ができませんでした。しかし関係者にお金を使えたことはありがかったと思いますが、幅広い知識に基づいた先を見据えた使い方があったと思います。
5.「真実」 会社生活において周囲の人を本当に大切にしたか考えると、仕事を優先したところがあった気がします。時代がそうであったとしても反省点があります。人には、それぞれ違った能力が備わっています、その能力をうまく見つけ、活かす努力をしたか、「祈り」があったかと思います。このように新たな目標が生まれ、その為の、勉強、始末、経済、真実を展開しなくてはなりません。
そして、それでも足りぬ場合の 6番目の受け物 「家庭の円満」について 努力したつもりではあるが、自分の思いに向かそうとしたとこがありました。思いを相手に楽しく嬉しく伝える話術、相手の思いを聞き出す力を身に付けたら、もっと良かったと思います。生真面目すぎるのもよくなかった気がします。口では「不真面目ではなく、非真面目」になりたいとか「清濁併せ呑む」と言っていましたが、変われない自分がありました。ここにも変わるという「祈り」が生まれます。おかげの受け物の5項目を思い、祈ることから始めたいものです。
 以上、私の至らなさを参考にしていただき、多くの方がおかげの受け物を日常生活の中で築かれ、おかげを受けられ、より豊かな人生をすごしていただきたいと思います。至らない私ですが、おかげをいただいて、生活できていること、神様にお礼しかありません。

投稿No 502 信心継承 老いてわかったこと 北斗七星 男性 70代

 信心継承は、子供が小学校から中学校の時に子供と一番長く接している方が、信仰されているか否かが大きいと思います。子供が、朝起きて、自宅のご神前に家族が参拝される姿を日常的に見ていれば、いつの間にか感化されていくでしょう。又、何かあればご神前に向かってお願いする姿、参拝される姿を脳裏に記憶されることが、信心継承に大事なことだと思います。合わせて、なぜ参拝するか、なぜ教会に行くか、子供に話すことです。伝えることです。入試があり合格を願う。病気になり回復を願う。日々健康に過ごせること、食事を頂けることにお礼を言う等々。
 高校生、大学生、社会人と成長するにしたがって、考える力つき、吸収した情報も多くなってきます。その成長に伴って金光教を子供に伝える、身に着けることは難しくなっていきます、金光教に関する知識も必要ですし、話し上手でなければできません。
 宗教とは、日常の中で、皮膚感覚で伝えることが一番素直な気がします。
 私の家内は、結婚した時には無神論者でした。また子供が小中学校生の頃は高度成長期であり、当時の私は、子供が寝ているときに出社し、寝てから帰宅するという毎日でした。このような両親ですから、冒頭に記載した日常生活の中でご神前にお参りする姿を見せることが少なかったです。そして私はしてはいけない過ちを犯していました。子供が、小中高校生の時には、教会行事と子供の行事の開催日が重なった時に、子供に参拝強要したことです。仕事に没頭し、日常的に参拝できない人が、落ちりやすい過ちです。このことは、子供は親に対して、そして金光教に対する反発しか生まれません。良かれと思ってしたことがマイナス効果です。
 今思うと、子供の行事を優先し、次の休日に、子供と一緒に参拝し、子供の行事に参加できたことのお礼を一緒に願うことがよかったと反省しています。
 自宅で商売をされているご家庭は、両親がご自宅に居られる時間が長いので、親の行動を見る機会が多いので、信心継承が自然にできているご家庭が多い気がします。平成令和の時代になり、共稼ぎと表現される親が増加しています。子供と生活時間を共有する時間が短かくなる中、上手く日常生活の中で信仰する姿を伝えていただきたいものです。

投稿No 501 「人の役に立つこと」 訓練生 男性 70代

私達が生きるためのベースにしていることは、「自分のことは神様に任せておくこと。大切なことは、人を思うこと、人の役に立つこと」です。若い時から何度も何度も聞かされてきた言葉です。そうは言っても、そんな簡単にできることではない。それでも、この言葉を信じて毎日を暮らすことが私たちの役割です。
 個人の立場を尊重していくことが今の世の中で問われています。しかし間違ってはいけないことは、尊重するのは相手に対してであり、自分の立場を擁護することではありません。思いがけないコロナ禍の中で、私自身も自分や家族そして周囲の人達・国内外の状況を考えると、そういうことにはっきり気付かされます。
 理屈っぽい話になりますが、「民主主義」と言う言葉があります。アメリカ国務省の公式見解によりますと、10項目にわたって、個人の立場で民主主義を表現しています。その中で、最後の10項目目に、『民主主義社会は、寛容と協力といった価値を何よりも重視する。』としています。
 アメリカにおいても、他者を認識したうえでの自分であると言う概念が明確にされているのです。日本で、こういう概念が国として定められていないことは真に残念なことです。明治以降、日本の歴史に大きく貢献した渋沢栄一の顔が何年か先に発行される新紙幣に登場します。ご本人が生きておられたらきっと嘆かれることでしょう。私も高齢となりましたが、これからでも遅くないと反省しきりの毎日です。
以上

投稿No 500 お参りを初歩から考えてみる 生駒のばば 女性 80代

 お参りを初歩から考えてみるのも面白いんじゃないですか。
 皆さんはお教会にお参りをして最初にされるお賽銭のことは、信心を教えて頂いた時にどの様にお聞きになりましたか。私はお参りすると先ずお賽銭を入れさせていただきます。そして、お届をして、おかげを頂いた時は、当然神様からみかげを頂いたんですから、改めてお供えをさせて頂いております。
 みなさんはいかがでしょうか。
 それ以外、日頃お届けまでしないお願い、たとえばお参り一つ取ってみましても、家を出る時に留守番している人に、お参りさせて頂きますと申し上げて出れば二人分のお参り、たとえ、一人住まいの人でも、霊(みたま)様、仏様にでも留守をお願いしてお参りしても、霊(みたま)様共におかげを頂けると教えられています。電車に乗れば、無事にこの列車が終着駅に到着します様にと願い、降りる時は、お礼を申し教会にたどり着いた時のお礼がお賽銭ならば、たとえ百円玉一個でも心を込めてお礼申し上げられるんじゃではないでしょうか。
 その次に、お参りさせて頂き、最初にご挨拶申し上げるのは、神様ですが、お結界ですか。どちらと教えて頂かれましたか。お参りの初歩です。
 昔、郡山教会にお参りしていた時、今の若先生のお祖父様が教会長の時、お参りしたらお結界に先生がお出ましになっていたから、急いでお結界に参りましたら、「神様が先」と厳しく言われ時以来、今でもお広前に上がったら、たとえ、お結界に何方も並んでみえなくても神様にお礼を申し上げて、お結界に並ぶようにしています。皆様は信心始めどの様にお聞きになりましたか。
 さて、皆様、お結界に並んでおられる時、どの様な思いで並んでおられますか。私が教えて頂いたのは、並んでいる間、お届の内容を一つ一つ神様に申し上げ時間が有れば何度も繰り返しお願いし、ちゃんとお結界でお届けさせて頂けます様にと願い、私は、基本的にメモはしません。メモはその時点で忘れてしいまいますから。
 お届けが済んだら後、もう一度、これこれお届けさせて頂きましたと神様に申し上げ、お願いして始めてお届けが終わったことになると思います。
 並んでいる間、スマホをしたり、お喋りして居る方は殆どないですが、実意丁寧を心がけるように取り組んでおります。それでないと一心にご祈念下さる歴代大先生に相済まないと思いますから。型じゃないと言われる方がおられるかもしれませんが、きっちりした信心、お願いをしたら楽にお陰を頂け無理のない信心をさせて頂ける様に思います。
 皆さんがお届けした全てその夜、ご神前で身を削りご祈念下さるのです。お届けして終わりじゃなく、日々、自分のご祈念の中でもお届けした事柄は、お願いさせて頂き、おかげを頂いた時点で、お結界でお礼を申し上げます。お礼だけは書いて下さらないと聞きますが、神様はちゃんとお聞き届け下さってます。
 歴代大先生から今に至る現大先生、彌壽善先生のご祈念の中でのお教会でありその祈りの中でお育て頂いている。その中でも忘れてならないのは大先生、彌壽善先生の身体丈夫を願わせて頂くことが、信者としての勤めの様に思います。
「いい加減な信心をしていたら相済みません。思いつくままに‐‐‐又、今度」

投稿No 499 虫さんよろしく にがうり 女性 80代

 毎朝、目を覚ますとまぶしい太陽があり、きょうも洗濯日和と喜んで一日を気持良く過ごす。そんな幸せな一日が当前と思っていました。ところが新型コロナウイルスという言葉を聞いたと思ったら、たちまち世界中、日本中に広がり身の回りまで近づいて来て毎日の生活に大きな影響を及ぼしている。
 この先どうなるのかと心配していた時、ある先生がお説教で「コロナウイルスは人間の犯したご無礼である。皆しっかりお詫びせんといかん」と厳しくおっしゃったことを覚えています。
 人間は人間の良いように勝手に生きているのだと思わせて頂きました。朝日新聞の連載小説『新ドリトル先生物語』の中で医者のドリトル先生が「人間は特別な生き物と思っているそれはとんでもない間違いだよ、他の動物がいて植物が葉や果物をみのらせ、昆虫や動物が生きていてその命の一部を頂いて初めて人間は生きられる。また、人間が吐く息や排泄物を他の生物の働きで自然に戻る。私達人間は他の生物たちに感謝することはあっても、それを好き勝手に搾取権利はない」と言っていました。先生のおっしゃることは全くこの事かと思います。
 私はマンションの上階に住んでいます。常に蚊や蠅がいなくて快適と喜んでいますが、私も全く考え違いをしているなと思うことがありました。ある日ゴーヤをプランターに植えて日陰があり、実が取れて一石二鳥と考えました。葉は強い風の吹く中一生懸命のばしてくれました。花が咲きましたから実がほっておいても出来ると思っていたら、実は虫が交配をしてくれなければ出来ないと知りがっかりした次第です。私が上階でいる限り我が家ではゴーヤは食べられないということです。虫を嫌になった罪でしょう。勝手に虫を嫌い、草がはえたら抜き、好き勝手にしていましたが、それ以来、虫の見方が少しかわりました。部屋に入って来た虫はそっと外に出し、ヤモリを見ても気持ち悪いとは思いません。反省しています。
 神様は地球全て平等に廻るようつくり与えていて下さっていることを改めて感謝させて頂かねばと思いました。どうか人間をお許しくださいまして、この難儀を乗り越えさせていただきますようお願い申し上げます。

投稿No 498 今更の思い にがうり 女性 80代

 私は玉水教会にお参りさせて頂いていることを感謝しています。学生時代の友達が最近次々と亡くなっています。皆同じ年となると仕方のないことですが寂しいことです。また、残っている友達の話を聞いていると、体の不調、不安、愚痴ばかりです。一人暮らしで近くに身寄りもなく、近々家を売ってホームに入る予定の人もいます。体力が衰えないうちにと家の整理をしていると、とても寂しくなるそうです。また、ホームは安全なのかも心配になってくると言ってました。その気持ちは私にもよくわかります。
 私はそういう人こそ信心させて頂いたら、寂しさ、不安を感じずに済むのではないかと思います。そんな思いから、お手引きを試みたこともあったのですが、その時は残念ながら今一度進みませんでした。その方のことを思うと、私は本当に毎日不安なく安心して体の不自由もなく過ごさせて頂いております。ご近所の人達にも、「お元気ですね」と感心なされています。
 もちろん私も友達が減って寂しさはあります。今一人暮らしで、呑気なところもあるせいか幸せです。教会にお引き寄せ頂き、神様のとても大変なお働きを頂いているおかげでしょうか。私にもここ迄には色々ありました。思い起こせばお結界でのお言葉も軽く考え、全てが神様のメッセージと分からず自分勝手に振舞いをしてきたと、申し訳なく恥ずかしくもなります。時が戻れるならやり直したいとも思う程です。それを考えると心が折れます。
 そんな時、先生のお話(お説教)をお聞きして、我が心が癒され、慰められます。本当に心が救われます。お教会にお参りさせて頂いていることはありがたいことですが、これからは心得違いのないよう、後悔をしないよう一生懸命私なりにお詫びとお礼をさせて頂きたいと思います。
 先生方のお話(お説教)には本当に救われてます。ありがとうございます。

投稿No 497 自利利他 訓練生 男性 70代

 世界的なコロナ禍の中で、日本もその例外でなく大変な状況に立ち至っています。医療体制が逼迫しコロナ感染者の一部の方々が入院できず自宅で暮らさざるを得ない状況までに深刻化しています。
そうした状況下で、関西経済連合会(関西の企業中心の団体。以下、関経連と言う。)が、大阪にコロナ感染者用の「野戦病院的な施設」を設置する案を国に提案しました。有難いことです。
 さて、ご記憶の方もおられると思いますが、昨年初のコロナ禍発生直後、関経連は、直ちに国に何千万円?かの対策費としての寄付をしており、私はそれに感動しました。
それを契機に私は、経済団体連合会(日本全体の経済団体の総本山。以下、経団連と言う。)も同様に1兆円でも寄付し、国が主導してコロナワクチン・治療薬の国内開発を目指し、皆さんご承知・ノーベル賞を受賞された山中教授を軸に開発して貰えればと、心から願っていましたが、寄付も具体的な行動もないまま最近まで経過しました。その間自分なりにも、感染が少ない地方の行政にアイデアを電話で聞く等の努力もしたつもりです。
 そうした中、本年6月に経団連会長が別の方に交代し、先日、その新会長から「企業の在宅勤務を促進する」発表がありました。企業活動に少なからず課題はありましょうが、コロナ対策としては嬉しいことです。加えて翌日、追いかけるように関経連が冒頭の提案をしたのです。
関経連の寄付後1年半の経過を経て、私が「何としても・・・」と願っていながら何も進展なくコロナ禍が日本全体に蔓延し始め危機的な中での朗報です。国民の一人としても真に嬉しいことです。
 私的なことを申し上げ恐縮ですが、経団連・関経連のトップ(会長)は、私が長期にわたりお世話になった企業集団グループの各トップの方々です。その企業集団の基本理念は、「自利利他 公私一如」、つまり「事業は自分を利するとともに国家を利し、かつ、社会を利するものでなければならない」と言うことです。まさに、時あるごとに奉唱している初代大先生拝詞の一部『神人一如・・・』に通じる考えであり、誠に嬉しい限りです。「神のなかに生かされ、心に神をいただく」・「人を思う、人の役に立つ」、これが全てです。折れそうになっていた私の心が蘇った気持ちです。
 なお、初代大先生信話第16集に、(1)大正8年の流行性感冒(スペイン風邪)で、日本でも多数の感染者・死亡者が出たとあります。初代大先生も感染されたそうですが、「(回復を)願い通す気持ち」の大切さが記載されています。また、(2)明治から平成初にかけての白米等の価格推移が記載されています。大きく変化する日本100年間を物価変動で示し、その中での信心の大切さを示して頂いているものと私は考えています。ご参考になれば幸いです。

投稿No 496 我が家の信心の歩み3(485の続き) カオナシ 男性 50代

 前回、勤めていた製薬会社の福岡支店から東京本社に転勤になった所まで書かせて頂きました。福岡支店で私がいた正社員部門の部署はその後3年くらいで閉鎖となりました。私は、リストラになる前に、東京の部門に脱出できたわけです。私は当時の支店長に業績を認めて頂き本社に推薦して頂いたのですが、転勤の際に支店長から「東京は(九州とは違い)全国から頑張る人が集まってくる場所だから競争が大変だぞ」と言われ、後にまさにその言葉通りと実感しました。外資系の製薬会社で、全国どころか社外からどんどん人材が入社し、又、他社と合併を頻繁に行い、いわゆる間接部門(総務・経理など)は、同じ部門でダブついた人数は必要ないという環境で、どんどん淘汰されていくという環境でした。
 このような状況を含め、その後様々な問題が続く期間が計13年程ありました。この13年の間に経験した問題は以下の通りです。@製薬会社では、東京本社で全社を動かす大きな仕事の後、左遷を経験。左遷先では私が自分から辞めると言わせる為?に、私の日々の行動を全て監視し、どんな小さな事でも改善指示の繰り返しに合う(合計200項目くらいありました)。その改善指示の繰り返しのおかげ?で逆に私自身が大きく成長できた、その後製薬会社をリストラされた)A私の転職。(リストラ後の数度の転職で行く先々で大変勉強。その経験が実家貸家業の維持に生きる。最終的に現在勤めている先の職場に就職のおかげを頂く)B家族の大阪移住成功のおかげ(馴染んでいた横浜から私の地元大阪に帰る。違法建築の家を購入寸前で回避。腎不全で住宅ローンが組み現在の家を購入。妻、息子達も大阪の環境に馴染む)、C息子達の進学と長男の就職のおかげ。(長男は高校から、次男は中学から大阪で進学、部活動で成長。勉強が苦手だった長男は、部活仲間との勉強会で得意な友人に教えてもらい苦手を克服、卒業後進学の後、コロナ禍で希望の業界に就職)D両親の問題のおかげ。(母は大きな病気を抱えながら進行遅らせ現状維持。長年懸念だった父親と私の親子関係を改善。私の妻も私の両親になじみ介護に積極的に参加)E私の持病治療のおかげ。(医者から腎不全で、2〜3カ月後に透析移行と宣告を受けた後、透析にならず約7年間腎臓を保ち、その間、会社で奇跡的に健常人と同じ仕事に従事。強烈な食事制限で難渋するも何とか乗り切る。腎臓移植の成功、その際の長期療養では会社に助けて頂く。製薬会社入社以来、約25年間健常人と同じ仕事に従事できた事が、その後のリストラの際の退職金査定に大きく寄与)F生活の収入面の危機に対し工面のおかげ(持病の悪化で働けなくなると思った事が何度もありました。持病の治療・数度の転職中で、住宅ローンも継続して支払えました)G実家の貸家業の維持(問題多発の賃貸先から借地権を取り戻す、長年の空室から満室のおかげ)H持病以外の体調悪化・回避のおかげ(大腸に穴が開くが体の外側だった為、腹膜炎にならず助かる。肺に血栓が詰まり呼吸困難気味になるも、緊急入院で治癒)。等々さまざまな事がありました。
 上記の状況の中で、私はとにかく教会にお参りしお結界でお届けをさせて頂くの繰り返しでした。子供の頃から親がお参りをしてお届けしおかげを頂いていたのを見てきた事が大きかったです。いつも問題のお届けばかりで申し訳ございません。道輝会に入会させて頂いた事も大きかったです。道輝会の会長さんが勧誘の際「道輝会の御用は宝の山です。是非、みなさん御用で宝を多く拾って下さい」と言われており「婦人会に入っていた母の言っていた事と同じだ」と思いました。入会当時、問題の真っ只中だった私は、「何とか問題におかげを頂きたい」と思い入会しました。
 又、彌壽善先生のお話を通じ、祈りが本当に大事だ、と気付かせて頂きました。金光大阪高校の設立準備の際のお話でしたが、準備があまりにも大変で、最後の手段でご本部の金光様にお届けをされて際に、金光様が「ここが一番大事だ!」と言われ、どん、と机をたたかれた、そして教会に帰った際、三代大先生の奥様が「この難局を乗り切るためにみんなで祈りましょう」と言われてお祈りをされたお話をされておりました。私は会社勤めが長いので、物事は具体的に取り組むものだ、いう感覚があり、学校設立という非常に多くの費用を要する事業と「祈り」というものがなかなか結びつきませんでしたが、ここまで大切にされているんだ、と大変驚きました。教えの「祈りは最後の手段ではない、最上の手段」という言葉をまさに思い出しました。
 最後に、教会で知り合いになった皆様には大変助けて頂きました。教会横の鍼灸院は、長年腎臓と内蔵全般のケアでお世話になっておりました。前述のように私は腎不全で約7年間腎臓を保てましたが、鍼灸をすると、疲れがスっととれ、病院の検査値も不思議と何とか維持できて透析寸前で持ちこたえる事ができました。又、道輝会の友人が、私が転職を繰り返している時に、自分自身が情けなくなりその事を伝えますと「転職を繰り返すのはよくある事ですよ。以前の転職先は1カ月でやめた事もありますよ」と言って頂いて、自分を取り戻せました。又、信徒会仲間の方と朝参りの始発電車の中でよくご一緒させて頂きました。大阪駅に着くまでの30分ぐらいの間、ご自身の経験を話して下さいました。おかげさまで「私も今は様々な問題で大変だが、信心を頑張れば必ず問題を乗り越えられる」と気持ちを新たにする事ができ頑張れました。最後に、団体参拝の随行の先生には、私の長男への接し方で「子供はできるかぎり叱ってはダメだ。なぜなら、叱ってばかりだと叱られる事になれてしまって、一番聞いて欲しい時に親のいうことを聞かなくなる」というお話下さいました。長男の中学時代叱ってばかりでしたが、高校時代が一転叱る事をやめ、できるだけ長男自身が自信を持つように心がけました。部活動で上位入賞し自信をつけ明るくなり、進路決定の際には親子で十分にスムーズ話合う事ができました。
 最後になりましたが、こんなにも沢山の様々な問題に対し、お教会を通じ助けて頂いております。何とか何かの形で神様に使って頂き、少しでもお礼・お役に立つ働きをさせて頂きたいと日々お祈りをしております。 

投稿No 495 胎教 たまちゃん 女性 50代

 私は「胎教」について書かせて頂きたいと思います。
結婚してすぐ私は、主人の両親との同居生活が始まりました。義母はお料理がとても上手で、親戚一同が集まる時には、手際よく、美味しい手巻き寿司を作り、今でもそれは忘れられない思い出の味です。
 長男を出産し、私が2人目を授かった頃、あんなに元気だった義母は病気を患い、台所に立つ事も少なくなりました。家族5人の食事作りは私の役目となりお料理は好きな方とはいえ、毎日の事、週末や、夕食の買い物をする時など、「外食したいな…。」「外へごはん食べに行きたいな…。」と、食事を作ることを不足に思う事がありました。
 次男を出産し、月日が流れやがてこんな事を言い出したのです。「お外でご飯食べたい。」「今日の晩はお外がいい。」「お外、お外。」
 初代大先生の旧信和第五集『原因が子にあるだけでなく親にもないとはいわれぬ』にありますように、後に神様に気付かせて頂きました。
 身に覚えないといわれない私は、次男が言いだす度に、当時の心得違いをお詫びし続け、やがて次男は言わなくなりおかげを頂きました。
 また、もう一例あります。次男を妊娠中、甘いものが好きな親はおやつを食べることが楽しみでした。人数分が無いとき、まず先に親に食べてもらおうと、私は気を配っておりました。すると、次男はおやつを食べる度、「いるか?」と私に聞いてくれるのです。譲る心はそのまま、教えることなく備わっていました。初代大先生の旧信話第六集『すべての働きの上でその働きを全うして』に、末々かけてのおかげを蒙(こうむ)るには、徳の種子をまかせて頂くこととあります。妊娠している時の母親の心「胎教」が大切であると感じ、理解させて頂けたことは、有難いことに思います。

投稿No 494 コロナ渦で思うこと 訓練生 男性 70代

 昨年初からのコロナ禍は、国の内外で大きな犠牲をもたらし終息する気配はありません。私は当初から、これは大変なことになると予想していましたが、不幸にもそのとおりになっています。
 第二次世界大戦の末期には、爆弾投下でお教会の周辺は南北にかけて限りなく焼け野原になりました。しかし、お教会は木造建築にも拘わらず焼失を奇跡的に免れました。
 今回のコロナ禍は、爆弾被害とは違い目に見えない点でさらに厄介なものです。さあ、どうしたらよいのか。自分が注意できる範囲は限られてはいますが、私は昨年2月以降、自宅外で一切食事、コーヒーの一杯もとっていません。人混みを避けるため参拝頻度も激減、 自分の家のお墓にも参拝していません。これも信心辛抱の実践と自分に言い聞かせています。

こうした辛抱の中で、常に心掛けていることがあります。それは、自分がこれまで数々の大変な問題に遭遇したにも関わらず、全ておかげと思わせて頂いていることです。限りなくありますがその一部を記載します。些か古い時期ですが体験した苦しい中での有難かった内容です。
1.42歳の東京勤務時代、仕事の過労のためか体調を崩し緊急入院、生死の境をさまよいました。深夜、電灯が消えた暗い病院の公衆電話でお教会にお電話すると、丁度、二代大先生がお国替えされ何週間か経った時のことで、今後のお祭りのご準備でお教会におられた彌壽善先生に直接お届けできました。その夜だったでしょうか、私が寝ているベットの足元に三代大先生がお立ちになり、細い紐でしっかり私と繋がっていることを感じました。お言葉はありませんでした。その感覚は30年以上経った今もはっきりあります。その翌日でしたか担当医が替わり適切な治療が開始され、1カ月を超える入院を経て退院の運びとなりました。その後、高齢の父は大阪から病院の責任者を訪れ、お礼のご挨拶をしてくれました。また父は私に対して、一切叱責することも病気を話題にすることもありませんでした。それから20年近く経って、私が出張で不在中に父は亡くなりましたが、父は「ここに大先生がおられる。皆静かに!」との言葉を最後に息を引き取ったそうです。素晴らしい父でした。
 また、47歳の時には阪神大震災が発生。私はその朝を会社の豊中にある単身寮で迎えました。その前年、家族は名古屋、私は単身での東京勤務で、待ちに待った地元大阪への転勤の辞令がありましたが、子供の進学の区切りを考えて家族は名古屋に留まり、取敢えず再度の単身赴任で一家は震災を免れました。転宅先としていた西宮の一戸建て社宅は全壊。早朝の出来事でしたから住んでいたらまず家族全員の現在はありません。
2.二代大先生の五男・憲一先生は私の幼い時から大学までの友人でした。お正月2日のお誕生日にお招きいただいた等、楽しかった思い出が限りなくありますが、思いがけず、布教地であるアメリカ・サンディエゴで急なご病気で亡くなられました。亡くなる前にもお元気なお手紙も頂いていました。そのお手紙の発信消印は2月1日、初代大先生のご命日でした。泰然とした中にもきめ細かな素晴らしいお心があったのです。葬儀は現地で執り行われました。私は突然お亡くなりになった辛さと初めてのアメリカ本土行き、かつニューヨークテロの直後であったことで訪問を躊躇しましたが、大先生のお言葉で葬儀に参列。これを機会に、仕事に忙殺される無趣味な人間であった私に、その後一人で欧米に音楽や美術鑑賞に行く楽しい機会を与えて頂きました。大先生と憲一先生のお計らいです。

 例えば、音楽鑑賞のため訪問したオーストリア・ウイーンを拠点に、モーツアルトの生誕の地ザルツブルクに行った時のことです。ウイーンから鉄道で行く予定だったのですが、たまたまホテル専用のタクシーで現地まで行くことになりました。運転手さんは、現地の観光地を色々案内してくれ、取り分け現地で最も歴史のある教会に案内してくれました。私はそんな由緒ある場所ならと、教会内のあちらこちらを観たり写真を撮っていました。ふと見ると、運転手さんは教会の最前列でお祈りしているのです。後で、私は本人に何を祈っていたのかと聞きましたら、「今、自分が元気におられることのお礼と、これから今日一日無事に楽しくおらせて貰えるようにとお願いしていた。日本人は、自分に自信があるから祈ることはしないだろうが・・・。」との言葉が返ってきました。観光で訪問している私にとって全く思いがけない返事でした。しかし、よくよく考えると、全くその通りだなあと気付きました。取り分け、日本人は自分に自信があるから云々いう言葉には私も大いに考えさせられることになりました。

 まだまだ限りなくありますが、こうした様々なおかげの中でのコロナ禍。色々な原因や已むをえないと言わざるを得ないこともありましょうが、入国管理の問題とワクチン・治療薬の開発遅れが大きい原因と私は思います。また、変異株に対する対応も行政によって異なり、コロナ禍を長引かせる要因となりそうです。要するに、医療従事者の方々の命を懸けたご尽力にも拘わらず自分中心に考える様々な施策がこうした結果になっていると思います。冒頭申し上げた第二次世界大戦を凌ぐ日本の存立に拘わることのないよう一心に祈るのみです。
 焦ることなく時節を待つ心を忘れず自分の役割を果たすこと、言い換えると「人を思うこと・人の役に立つこと」が、初代大先生を始め歴代大先生への恩返しです。
 私の部屋には神様と先祖の神壇、その横に祖父母・両親の写真、その一番奥に『中央にお座り頂いた初代・二代大先生と祖父母、親族等の集合写真』(昭和10年代の写真)を据えています。
私は、常に大先生と親先祖に見て頂きながら生活しています。
日本と世界の真の平和と繁栄を目指し努力していきたいものです。

投稿No 493 お風呂場でご祈念 aki 男性 70代

 ふれあいの広場をよく読ませて頂いております。
 歴代大先生にお取次を頂き、おかげを頂かれたお話しは多いですが、どのようなご祈念と信心をして、おかげを頂かれたかのお話しを知りたいと思っています。
 昨年の越年祭後、壽雄先生のお話で、初代大先生は布団の中で神様にお願いして、おかげを蒙られたとお話しになったのを伺って、自分のことを思い出した事があります。
 それは、小学生の低学年の頃、家は貧乏なのでお正月が近づいても新しいジャンパーや靴を買ってほしいと言い出すことが出来ず、私は晩に布団を頭から被って、ただ一心に「神様、ジャンパーと靴を買って貰えますように」と毎晩、何百回と祈りました。
 すると願いが叶えられました。高尚な願いではありませんでしたが、神様に真剣にお願いすれば叶えて頂ける、これが私の信心の原点です。
 中学校卒業で就職する時も学校の授業後、父の仕事を手伝わなくてもよい日は、教会へお参りして、ただひたすら希望していた会社に合格するように、一心不乱に祈りました。入社試験が近づいてきたある日、教会から帰る途中の肥後橋を歩いていたとき、「大丈夫」との強い思いが沸ききました。
 昨年の金光教報「天地」の中で、ある教会の先生が信者さんの事をご祈念していると「大丈夫」と心に頂いたと書いておられました。この記事を読ませて頂いた時、私の中学生の頃の「大丈夫」も神様は一生懸命にお願いしたので分からせて下さったのではないかと思っています。地区の信徒会で、私の生い立ちの話しをさせて頂いた機会に、今まで神様のおかげ、そして、多くの人にお世話になったことをつくづく分からせて頂き、それからは、毎朝、家のご神前で30分ほど、これまで数々のおかげを蒙らせて頂いた事やお世話になりました多くの人と、御霊(みたま)になられた人のお名前とお顔を思い浮かべてお礼を申し、そして、御霊(みたま)様のお道立てをお願いしております。
 3年ほど前からは、お風呂の浴槽に浸かっている短い時間ですが、日々のお礼と身近な人や家族の願いを祈るようになりました。
 お風呂では雑音や雑念が無く、お湯に浸かっているとゆったりして、心を集中して祈ることが出来ます。
 これからは、もっと多くの御霊になられた人や、身近な人のご祈念が出来るようになりたいと思っています。

投稿No 492 片翼飛行中 カズヒト 男性 60代

 今年より信徒会地区委員長の、御用をさせて頂く事になりました。わからないことが多い中、前任者もお元気なので、何かとご指導を受けながら進めて行こうと考え、本年を迎えました。
 地区初会、信徒会総会を終え、本格的に委員長御用の引継ぎを進めて行こうと考えていたところ、新型コロナウィルスの感染が広がり始めました。春季御霊祭をなんとか終えたころには社会はコロナ一色になり4月7日緊急事態宣言が発せられました。
 御用引継ぎどころではなくなり私自身の生活環境変化の中お教会の緊急事態対応を地区の信徒さんにどのように通知するか?各案内を郵送させて頂くことにし、結構大変な作業でしたが、御用をさせて頂く、よろこび、充実感を改めて頂きました。満点ではなかったでしょうが布教110年 "日々のいのり" より「すべてに一生懸命だれも見ていなくても神様は必ず見ていてくださいます」のみ教えを、あらためて思い浮かべ一生懸命やらせて頂いたつもりです。地区の信徒さんに、安心して頂いたでしょうか。先行き不透明で困難なときですが、神様は必ず見守って下さいます。
 一心の祈りは苦難の中でも、癒しや活力を与えて下さいます。今こそ 嬉しく 楽しく、信心をさせて頂き、信心を大切にご祈念させていただきましょう。
 これからも、一生懸命御用をさせて頂きます。
ありがとうございました。

投稿No 491 自分の役割 未熟者 男性 50代

 この春から大きな仕事を与えて頂く事となりました。私は物心ついた時から、毎週日曜日の朝は家族揃って自宅の神様にご祈念、また父は毎日朝晩神様に頑なに祈る信心深い父でした。そんな両親と祖母の祈りのお陰で今日が有ると感謝しています。
 「信心の四つの目的」の最後に「自分の役割を明らかにして責任を果たさせていただくために」と有ります。最近この言葉を意識する事で、自分自身への覚悟の気持ちを高めています。
「役割」とは自分の命の使い方「使命」だと私は思います。今まで沢山の方に支えて頂きましたので、これからは今まで私を祈って頂いた先生、ご先祖様、会社で共に働く仲間、そしてお取引会社の方々の為にお役に立つ事が、私の命の使い方だと思い精進して参ります

投稿No 490 後期高齢者 彷徨う高齢者 女性 70代

 わたしは、昭和20年1月に生まれ、二代大先生に名前を頂きました。初代大先生の二十年祭のあった年からお教会でご用させて頂き、いまでも元気にご用を続けさせて頂いております。
  そんなわたしに、昨年末「後期高齢者」の保険証が送られてきました。自分の中ではまだまだ元気、若いつもりでしたのに、急に「老い」という言葉を身近に感じました。確かに物忘れは頻繁(忘れた事を思い出せればまだ大丈夫だそうですが)、足腰の痛みを覚えるようになり、お医者さんにかかれば「加齢ですね」と一言で片付けられ、「あーあー」となりガックリときました。あーあー、ガックリの思いの中にはここまで生かされて生きてきたという感謝の思いがすっかり抜けていました。大きな病でおかげを頂いた事のお礼の気持ちも薄れていました。
 改めて今日まで元気に生かせて頂いた事へのお礼を申し上げ、今の年齢の体力と知力に合ったご用を一生懸命にさせて頂けますよう、気負わず、機嫌よく、穏やかに過ごさせて頂けますよう願っています。
 人生のゴールもチラチラと見えていますが、先へ追いやって、大先生の八十年祭にも元気でご用出来が出来、米寿の祝いも人様の手を煩わせず元気でお参り出来ますよう大きな目標を持っています。

投稿No 489 信心の芽生え 諏訪 性別年齢不詳

 私にとって金光教玉水教会は祖父母を感じられる場所であり、幼い頃の記憶を鮮明に蘇らせてくれる場所でもあります。
幼いころ祖父母の家にいくとまず「かみさんにお参りしておいで」と言われていました。最初に4回手を叩く、そしてお祈りをしてからまた4回手を叩く。そうやって教えてくれた祖母の横で、見よう見真似で手を叩いていた私。みんなはどれくらい目をつぶってお祈りしているのかな?と気になり横の人を確認したりした記憶があります。
また、孫たちがケガをしたと知るとお神酒を吹きかけてくれた祖母。痛くて泣きじゃくる私に「お神酒かけたからもうこれで大丈夫。はい、もう泣かない。ジュースでも飲むか?」と聞いてくれていたな〜と思い出します。
こうやって振り返ってみると、私は祖父母を通じて信心を学ばせて頂いたように思います。
教会にお参りさせてもらうときは、まず近況の報告をして家族が健康で仲良く過ごせるようにお願いしています。その時には祖父母に話すように本当に小さなことも報告し、今後の予定も伝えます。お参りを終えた後は少し背筋が伸びますし、報告をすることができたと満足できるのが大きいような気がします。
家族が毎日無事に過ごせていることこそが、なにより大きなおかげをいただいている証拠だと感じますし、遠回りをしていても自分の進むべき道を間違えずに選べていることも、おかげをいいただいてのことだろうと思っています。
幼い頃に見よう見真似でお参りをしていたおかげで、いま鮮明に祖父母を思い出すことが出来る。これも大きなおかげです。今もこうして多くのおかげをいただけていることをとても嬉しく思っています。

投稿No 488 新聞に! じゅぴ 性別不明 40代

 5〜6年前の夏の暑い日、家族総勢8名で岡山の本部へ参拝しました。私にとっては初めてのご本部参りでした。
当時、幼稚園児だったにもかかわらず何度もご本部へのお参り経験があった甥は、得意顔で道案内してくれました。勝手知ったる場所だと言わんばかりに先頭を歩く甥の姿が可愛く、今でも脳裏にやきついています。
石の階段を上がると砂利道があり、綺麗に手入れされたお庭、会堂までの道のり、スロープのある入口・・・と、先を歩く甥の姿と共にご本部内が思い出されます。
お参りを終えてお食事処で美味しい食事もいただき、ぞろぞろと商店街を歩いていたところ、カメラを持つひとりの男性が私たちに声をかけてくださいました。「〇〇新聞です。皆さんの写真を撮らせていただいても良いですか?」「自然に歩いてください」そのようなことだったと思います。
 さて、そんな夏の日も思い出になりつつある頃、我が家に新聞が届きました。なんだなんだと新聞を見てみると、私たち家族の姿が新聞に掲載されているではありませんか!!まさか本当に写真が使われるなんて思ってもみなかったものですから、驚きと照れくささ、嬉しさともに当時の記憶が蘇り、家族で思い出話に花を咲かせました。
 家族揃っての本部参りの日に並んで歩く私たちの姿を撮ってもらい、そのうえ写真が新聞に掲載されるなんて、これはおかげいただいたのだと思わずにはいられません。新聞を送ってくださった新聞社様にも感謝です。こんな素敵な思い出があるでしょうか。
 おかげさまであれから家族も増えましたので、また皆でご本部参りにお伺いしたいと思います。

投稿No 487 当たり前のこと全てが特別なこと 訓練生 男性 70代

 「おかげ様で・・」という言葉がチョッと前まで良く使われていた。たまに会った人同士の最初の会話の言葉で、色々あるが何とか元気にしているという証の意味合いが含まれている。
 しかし、『おかげ』とは神様からの思し召し、つまり、人間の奉公人としての努力について、ご覧になっているご主人である神様のお計らいの結果である。
 その結果が良いこと、悪いこと、どんなことでも意味がある。我々が『当たり前』と思うことであっても、神様は無意味なことを我々に与えられることはない。全て『特別なこと』として与えられるのである。それらを有難く受け止め、受け入れることが大切である。
 振り返ってみると、「あれもこれもおかげであった。当たり前と思っていたことが有難いことだったと気付く」ことはある。それが間違いではない。しかし、生かされている今その瞬間、その時に『特別なこと』と受け止められるよう楽しく努力することは、極めて難しいことではあるが、このことが何より大切であろう。『当たり前』の中に神様のお計らいがあると思うからである。
 今回の新型コロナウイルス問題との遭遇の中で、心の中で世界真の平和の実現を祈り、『まことの信心 まことのおかげ』を求め、私なりの努力を重ねたい。 以上

投稿No 486 春の霊祭を頂いて 生駒のばば 女性 80代

 春の霊祭で大先生のご教話をお聴きしながら、銀座だより3月号のうら表紙の「ひだまり」の記事にあった「湯川誠一語録」よりの一文を思い出しておりました。
「この助かる元は、子の祈りによって、両親の霊が子を守る力、徳を頂かせてもらうことにあります」と言うくだりです。たとえ先祖が生前信心をしなくても、現在生かされ、信心させて頂いてる私たちが、先祖の生前の罪めぐりをお詫びさせて頂くこと、そして子孫の為に働きのできる霊にお引き立て頂きます様にとひたすらご祈念させて頂くことが、信心させて頂いている者のつとめであり、先祖と子孫が共に立ち行く道なのだと昔から教えられています。かみ砕いたらそういう意味だと思います。
 病気を治して下さい等、目先の自分の助かりばかりを願うのではなく、先祖を祈らせて頂くことにより、自分のみならず、先祖や子孫が助かるおかげを頂きたいものです。

投稿No 485 我が家の信心の歩み2(475の続き) カオナシ 男性 50代

 前項(投稿475)では、私の祖父の入信、母の信心、私の20代前半まで信心について書かせて頂きました。今回は続きを書かせて頂きます。私が大学を卒業し製薬会社に営業担当として入社し宮崎県で仕事をし始めていた頃の話です。
 私がお参りをさせて頂いた宮崎県のお教会では「お礼の信心」に力を入れられておりました。会社の仕事上の事や父との関係の事、私の体調(慢性腎炎)をお届けしておりましたが、そこに「お礼」を見出す事を教えて頂きました。例えば、「会社の仕事が大変でも、今生活できている、又、会社で理不尽な事や人間関係が大変でも勉強させて頂いている、この人間関係を乗り越えれば、次の職場でも通用する」「父が理不尽でも、両親のおかげでここまで大きくならせて頂いた。人間は生まれて赤ん坊の時は自分で生きる事はできない」「腎臓が悪くても毎日小便が出るのでありがたい、そもそも神様のお力がないと人間は自分で小便を作る事はできない」等です。私は若くてなかなか納得がいきませんでしたが、お届けの際は私の話をじっくり聞いて頂き、教会から帰る際は先生の言う事に納得している、そしてしばらくして、問題が発生するとお参りして話を聞いて頂く、の繰り返しでした。やがて時間はかかりましたが「お礼」を言う習慣が徐々についてきました。この習慣は、その後の私の人生に大きな影響がありました。
 又、そのころ妻を付き合いはじめましたが、教会長先生のご夫婦は大変仲が良かったので結婚のコツのような事をお聞きすると「とにかく、付き合っている時にお互いにちょっとでも気を使うのなら結婚はやめた方がいいよ。なぜなら、付き合っている段階で気を使うと、結婚した後は、一緒にいる時間が長くなり気を使う時間がもっと長くなるので余計にしんどい」と言われ、「なるほど」と思いました。この話は結婚を決断する際に大いに参考になりました。
 ところで私の体調ですが、結婚の1年前に忙しい営業の仕事がたたり持病の腎臓病が激しく悪化しました。元々定期的に医師にかかっておりましたが、特に普通の生活をしておれば透析になる前に寿命が来る、と言われており安心しておりました。ところが、営業の接待や休日のゴルフ続きの生活がたたったようです。医師もそれまでと言う事が180度変わり、「このままでは2〜3年以内に腎不全になる」といきなり言われて大変驚きました。宮崎では十分な治療をできないという事で会社を長期休み大阪に帰り治療を受けました。ステロイド剤を大量に投与するという治療で、「効果があるかどうかはやってみないと分からない」と主治医に言われました。入院前に三代大先生にお届けをし、このままでは数年後に腎不全になる事、効果があるかどうか分からないが治療を受ける事、しかしこのような治療を受けられる事自体ありがたいとお礼をお届けした際、驚いた目をされておりました。
 入院中はお礼の信心を実践しました。こうして入院ができ治療を受けられる事、頂ける薬がある事、排尿排便がある事、食事を頂ける時、すべてもお礼を言って入院しておりました。付き合っていた結婚前の妻には入院前に腎臓病の事を話し「もしかして治療に効果がないと最悪会社を解雇されるかもしれない」と話しました。妻から「その時は、私が食べさせて上げるから心配しないで」と言われた事を今でも覚えております。
 結果的に大変なおかげを頂き、ステロイド治療はかなり効果があり腎臓病の進行は緩やかに戻りました。仕事にも復帰できました。ただ「もう営業はやらない方が良い」という事で宮崎を離れ福岡で内勤の仕事となりました。妻とは福岡で結婚致しました。
 福岡に転勤し地元のお教会にお参りを致しました。仕事の内容は、最初の数年は定型的な経理業務等の仕事が多く比較的余裕がある状態でした。ところがその頃から、世間で内勤社員は派遣社員に切り替わるようになってきました。私の会社も派遣社員が新規で2名採用されておりました。正社員の私は今まで通りの仕事を続けておりましたが、やがて整理の候補になったようで上長に呼び出されては、「お前の仕事の成果は派遣社員と変わらない、もっと成果を出せ」と言われる状態が続きました。尻に火がついた私は、会社に貢献する為にはどうしたら良いか、営業員の支援を出来る事はないか、自分から仕事の幅を広げていくようになりました。休日には自費でパソコン教室に通いスキルを磨きました。おかげを頂き私の仕事の幅も自然と多岐にわたるようになり、社内・社外の仕事で大きな仕事も任さて頂けるようになりました。大きな問題も何度か発生しましたが、お教会にお参りしその都度何とか乗り越えさせて頂きました。やがて支店長はじめ営業員に大変喜んで頂けるようになり、最終的には東京本社に転勤する事になりました。
 一方家庭の面では、3年間子供が生まれず不妊治療に通いました。診断の結果私たち夫婦のケースでは過去に妊娠できた例はほとんどないとの事で一時は里親になる事も考えましたが、おかげを頂き長男と次男も授かりました。息子たちは18才と15才になりましたが、どんな事があっても、子供が授からない所を授かった事を忘れてはいけないと思っております。  続く

投稿No 484 私の信心の土台 Teddy 男性 60代

 涙が溢れて止まりませんでした。47年前の12月のとある日、予備校の最後の模擬試験で2000人ぐらいの受験者の中、私は1500番台でした。普通なら希望している大学には全然入れるレベルではありません。でも、その涙は悲しくて泣いたのではなく、うれしくて、うれしくてたまらず溢れ出た涙でした。神様はこうまでして気付かしてくれるのか、と本当に神様の思し召しを感じ、「これで必ず合格する」と確信を持った瞬間でした。
 その1年前、国公立大学や私立大学、3校全て不合格となり、玉水教会の近くの土佐堀のYMCA予備校にようやく合格できました。数学は基本が大事だということなんかもわかりましたので、予習だけはそこそこに、毎日教会に日参しておりました。そして毎日10時30分から「お火鉢」で於勢先生のおじいさん先生のして下さる初代大先生のお話を聞くのが日課で楽しみでもありました。ある日、信者さんが世間話を十数分もされており、先生はずっと頷いて聞いてられました。私は初代大先生の話が聞きたくて「お火鉢」に来ているので、つまらなさそうな顔をしていたのでしょう、そんな私の方を向いて、「テディさん、先代はなあ〜」と話をして下さった、というのが非常に有難い思い出です。
 そんなふうに、予備校に行っているのか於勢先生(おじいさん先生)のお話を聞きに教会にお参りしているのかわからないくらい、先生にはお世話になりました。勉強で行き詰ったときは、信話集にもありました「憂きことの尚、この上に積もれかし、限り有る身の力試めさん」や「立てそむる己が心の違わずば、龍の顎(アギト)の珠も得るなり」などを座右の銘に頑張りました。
 話を冒頭に戻します。現役の時は、同時期の模擬試験で段々と成績が上がる中、神様にお願いしながら自分で心配していました。当然のごとく全て不合格でした。でも神様はどこまでも優しく、玉水教会の近くの予備校に入れていただき、日参できる環境をつくっていただきました。そしてほぼ9カ月した時でした。冒頭の模擬試験での成績です。去年の僕ならぐんにゃりとなっていたと思いますが、この9カ月の日参のご褒美に「自分でどうあがいてもいかんのや、全て神様にお任せしよう、もう自分では心配しません。やることはやりますから、後は頼みます。」と不思議にそういう気持ちにならせていただきました。その時のことです。「絶対合格させてもらえる」と感じ、うれし涙が出て止まりませんでした。
 翌年2月になり、私立の2校3学部の合格通知がきて、二代大先生が、次の公立大学が本命やなあとおしゃったときも、心安らかに「そうです」と答えることが出来、その後、見事に合格しました。この予備校の1年間は、私のその後の信心生活の土台となっております。

投稿No 483 思い出 浜っ子 男性 60代

 あっ危ない!!オート三輪が黒い煙を吐きながら石畳の上を揺れながら向こうからやってくる、もう少しで電車にぶつかるとこや・・・。母に連れられ大阪市電の難波駅〜江戸橋駅間の車窓から見た出来事でした。当時は車社会のはしりで、市電が走る中を車がスピードをあげ追い抜いて行く光景がよく見られました。市電の窓からその様子をみているだけで退屈しなかったのを昨日のように思い出します。(1955年頃)
 わたしは6人兄弟の三男ですが、どういう訳か私だけが幼少の頃からよく教会に連れていかれていました。後に分かったのですが、私はしっかり者だからとの理由で幼稚園に通っておらず、そこで母は4歳年下の妹をおんぶし私の手を引き、毎日のように教会へお参りしていました。教会で母がお結界で並んで待っている間はとても退屈で、お広前を走り回っては南側の黒い金網越しに見える地下を覗き込み、よく叱られておりました。
 ある朝早く、父に「汽車に乗せてやるから起きろ!!」と叩き起こされ、付いていくと、そこは大阪駅。岡山方面行きの夜行列車がとまっていました。すぐに蒸気機関車は汽笛を発しながら大阪駅を出発。父に頼み少し窓を開けて貰うと、石炭が燃えるなんとも言えない匂いがしました!そこまでは良かったのですが、トンネルに入ると瞬く間に車内は煙だらけに。慌てて窓を閉めましたがとき既に遅し、私の顔も煤で真っ黒になりました。これが蒸気機関車での初めての金光教ご本部参りの記憶です。
 私の両親はとても熱心でした。晩年は二人揃って365日の朝参り、雨の日も木枯らしが吹く寒い季節でも、5時の一番電車に乗り朝のご祈念に足を運んでいました。私など足元にも及びませんが、少なくとも信心の継承だけはとの思いです。そして、子供たちにもこの信心が継承できればと願っております。

投稿No 482 女房孝行したい時に女房なし 匿名希望 男性 70代

 私はつい最近妻を亡くしました。妻は69歳でした。結婚して44年間、夫婦として生活させて頂きました。妻はなくなる前、天地の親神様のおかげの中で69年間生かされて来たこと、又44年間夫婦として生活させて頂けたことに感謝申し上げていました。若い頃は喧嘩もよくしましたが、晩年は喧嘩もなく妻の言うことをよく聞く良い夫だったと思います。私は妻を亡くされた方から「女房を大切に」と言った話をよく聞いておりましたので妻のことは人一倍大切にしてきたつもりでした。しかし、妻を亡くしてから改めて妻の大切さに気付かされ、まだまだ感謝が足りなかったと日々悔やんでおります。もし今妻が生き返ってくれたらもっともっと感謝の気持ちを伝えたいのですが、今となっては妻は何も言ってくれません。夫は妻に感謝し、それが妻の喜びとなり、互いに喜び合い感謝し合うような夫婦であれば最高だったのになあと後悔しております。

投稿No 481 パワースポット ひとりあるき 男性 70代

 私にとって、玉水教会の広前は、紛れもなく最高のパワースポットです。一人でお参りをはじめてから18年程になるでしょうか。お参りのきっかけは家内がお参りする時のアッシー君で、年に2〜3回のことでした。やがて一人でお参りするようになり、その後7〜8年は、金光教とはなんぞや、全く知識を持たないまま一人でお参りしていました。当然、他の信者様との会話もなく、右も左も分からないままお参りだけしていたことになります。しかし、広前の雰囲気がものすごく居心地良く、有難い気持ちになれました。広前はまさに自分にとっての最高のパワースポットなのであります。今日、このパワースポットでまことの信心、そして改まりをさせて頂いている自分は、とても幸福者と感謝しております。

投稿No 480 神人一如 訓練生 男性 70代

 コロナ禍の続くストレス発散のため少し遠出の散歩に繰り出した。そこでふと、知らない墓地にある墓石に気付いた。それは、私が何十年間にわたり勤めた企業グループの事業理念の一部『公私一如』という言葉が目に留まったからである。その理念は一言でいうと、自分の利益だけでなく国家や社会の利益、つまり公益との調和を事業の目的としている。実は、この言葉は頭の中に染み込んでいたから墓石に気付いたのであろうが、それを意識して企業活動に邁進していたわけではない。
 こうした思いがけない体験をした数日後、「え〜」と思うことに気付かされた。それは、時あるごとに奉唱している初代大先生拝詞の一部『神人一如なる道理を』の意味の一部が経営理念と重なっていたことである。
 振り返ると、幼少期は親先祖の元で育てられ連れられ参拝、こうした事業理念を基にする企業で長年務め、退職後もこまめに参拝とお結界取次を頂き、今日に至っている。企業生活一つとっても、家庭や自分を犠牲にするような言い尽くせない苦労の連続ではあったが、自分の力ではとてもできない数々の有難いことを神様から頂き、今あることははっきり解る。
 『神の中に生かされ、心に神を頂く』という大切なことを、会社生活の中でも知らず知らずのうちに真似事でもさせて頂いていたのだなあと、コロナ禍によるストレス発散の散歩を通じて気付かせて頂けた次第である。

投稿No 479 私の信心 ようじろう 男性 80代

 私は、金光教の信心を始めてまだ1年目です。80歳を過ぎるまで無信心で生きてきた私が信心を始めたのは、金光教を信心していた家内が昨年7月17日に亡くなってからのことです。家内の御霊をどう祀ればよいか、いろいろ考えましたが、家内は私が信心することを望んでいましたので、ここは私が金光教を信心して御霊を祀るのが自然な形ではないかと思ったのが信心を始めるきっかけになりました。生前から家内は「死んだら玉水教会の御墓で眠りたい」と言っておりましたので、教会にお願いして玉水会館で葬儀を執り行って頂き、今年の3月に瓜破霊園の玉水教会の御墓に納骨もして頂きました。
  生前中、家内は玉水教会へのお参りを欠かしませんでした。そんな家内は7年前から足が痛いと云うようになり、それ以来杖をついて毎日お参りをしていました。そんな中、お参りの帰りに大阪駅の人ごみで杖を払われて怪我をすることがあり、お参りに行くのが怖いと云ってしばらくお参りを休んでいました。
  ただ、やっぱりお参りをしたいと云いますので、丁度その頃勤めていたマンションの管理人の仕事を辞めることが決まっていた私は『それでは私が杖になろう』と決め、その日から家内の手を引いて玉水教会へお参りをすることにしました。
  手を引いてのお参りを始めて6年経ち、御祈念の拝詞も覚えてしまいましたが、それでも自分が信心をしようとは思っていませんでした。ところが、家内の臨終の間際には、家内の手をにぎりしめて神前拝詞を唱えていました。そして、家内が亡くなった後、何とも言えない後悔におそわれました。あれ程私が信心することを望んでいた家内の願いを叶えてあげなかったことを悔みました。これが、私が信心をすることになったいきさつです。
  それから半年後の今年1月、信心を初めて半年しか経っていない私が信徒会地区委員長の大役を仰せつかりました。私は金光教もまだよく理解出来ていないのですし、信徒会がどういう会かもわかっていません。なによりも私自身の信心がどちらを向いているかまだ定まっていないのですが、これが家内の供養になればと思って、お受けすることにしました。全ては今始まったばかりです。これから勉強させて頂き、一日も早く誠の信心を理解させて頂きますよう努力致したいと思います。

投稿No 478 私の信心のあゆみ 継ぎ木 女性 70代

 私が信心をわからせてもらったのは、20才半ばになってからです。
それ以前、小学生に入った頃は母に連れられて一番電車でお参りしていました。母が「お金よりもっといいものを持っているから幸せ」と言ったことが記憶に残っています。やがて大きくなるにつれお参りすることも少なくなり、社会に出てからは人間関係で苦しむことが多くなりました。家の中でイライラしてあたっていると、母に「そんな事をしたら徳を失う」と言われましたが、自分には「徳」と言うものがどんなものかわかりませんでした。
 そんな折、急に血尿が出ました。会社を休みあちこちの病院で検査をしてもらいましたが、どの病院でも原因不明と言われ、たくさんの薬が渡される日が続きました。母は心配して「お参りしなさい。そして先生の話を聞きなさい。」と言い、私はそのたびに「お参りしている」と口答えしていました。母は二代大先生にお取次をいただき「親子ゲンカはいけません。お母さん、祈ってあげなさい・・・・」と言われたそうです。
 ある日、先生と信者さんが"おひばち"で話をしている会話が耳に入ってきました。(それまでは、"おひばち"には行っていなかった)信者さんが「先生、難はみかげですネー」と言われているのです。その時、私は「ハッ」としました。自分がこんなにも苦しんでいるのにみかげとはどう云う事なのか?今の私の考えとまったく反対の考えに驚き、毎日のように話しを聞きにいくことにしました。(その頃は自殺しょうとも考えていました)
 そうすると、今度は「この神様は親孝行が一番喜ばれる」と言う言葉が耳に入ってきました。親孝行ならば私でもできる。それで助けていただけるのならば、と改めてこの神様に手を合わせることにしました。「姿が見えないので自分ではあなたを信じられません、おられるのでしたらおかげをください、そしたら一生信心します。中途半端は出来ませんので信じられなかったら一生信心しません。これから親が喜んでくれる事を毎日続けさせてもらいます!」そう言いながら病院からたくさんもらっていた薬を全部捨てました。医者に絶対安静と言われたにも関わらず、それから毎日炊事洗濯掃除をして、それが終わるとお参りして"おひばち"で先生のお話聞くようにしました。そうする中で、足があるからお参り出来る、痛みがないからお参り出来る事に気づかされ「神様、有難うございますー」とお広前で大声で泣きました。するとその次の日から血尿がまったく出なくなりました。
 そして家の本箱にある「わが信心のあゆみ」や信話集を読んでみたら、驚いた事に、今まで悩んでいた人間関係やお金の問題について書いてある事がわかり、今自分が求めているものは「これだ!!」と解らせてもらいました。(それまで親に内緒で他の宗教を覗いてみても自分がもとめているものがなかったのに!)又、今まで自分が外ばかり見ていた事に気づかされ、自分を見つめることで心も落ち着きていきました。そしてとうとう職場に復帰しました。 復帰してからも、出勤前、退社後毎日"おひばち"でお話しを聞かせてもらいました。その後、後輩をかばった事で人間関係に苦しむ時もありましたが、立行きのおねがいをしていると人事異動があり、落ち着いてきました。
 結婚の事では「良縁」をお願いしていましたら、先生からどんな人と結婚したいのかお願いしなさいと教えていただき、誠実で健康でフィーリングがあい信心している人、そして、玉水教会の人(御霊まつりの事を考えて)を、と神様に祈りつづけました。なかなか願いが叶わないので、祈るのはやめようかと思った事もありましたが諦めずに祈りつづけました。すると他の教会の先生(その時縁談のご用をしておられた)から釣書をいただくことになりました。釣書を見て、まだ会ってないのにこの人と決めました。
 結婚後、みたま祭りの話しをしていると、お互いの家の呼出し時間が3分違いである事や、そしてなんと主人の母と私の父が信心友達であった事などがわかりびっくり、あらためて神様にお礼申し上げました。主人には既に3人の子供がおり、初婚の私にはつらいこともありましたが、祈り続けると、3人の子供達が「お父さん、この結婚はまちがってなかったナー」と言ってくれ、又前妻さんとも仲良くさせて頂くなど、信心させて頂いたおかげと感謝しております。
 これからは、子供や孫達の信心継承が私達の役目と思い、頑張ってご祈念させてもらっています。

投稿No 477 信心の四つ目的「かどたつ心を丸くするために」 匿名希望 男性 70代

 私は自分ほど短気な人間はないと思っています。他人から見れば私は温厚で優しい人間に見ていますが、その実態は何にでもすぐ腹を立てるどうしょうもない人間です。腹を立てることは「百害あって一利なし」です。今まで短気で随分損をしてきました。信心の四つの目的の中にも「かどたつ心を丸くするために」とういう項目があります。私は自分の短気を改めようと努力することを決心しました。まず私は何に腹をたてているのかを考えてみました。すると勘定しきれないくらい色々なことに腹を立てていました。日常生活、仕事上のこと、家庭のこと一つ一つ例を挙げませんが「世の中に腹立つことの種は尽きまじ」です。私は改まりをするにあたって自分の考えは間違っているのだとの立場からスタートしました。何か腹立つことがあった時は自分の方に原因があるのだと考え、どこか悪いところ、間違っているところはないか考え、改まりに努力します。勿論、自分の方に原因があると思えばよいのですが、そう思えないこともあります。そう言う時にこそ改まりに骨折りをして一歩前進したいと思っております。3年間何事にも腹を立てず有難いという気持ちで過ごすことが出来れば神様と話しをすることができるそうです。私は3年どころか3日も無理ですが、一歩一歩目的達成に向けて頑張ろうと思っております。

投稿No 476 コロナ禍でおもうこと 訓練生 男性 70代

 コロナ禍は大変な状況に差し掛かってきました。最初は第二次世界大戦の疎開の気持ちでいましたが、まったく違っています。将来の日本と世界の運命に係る問題です。健康と経済のどちらを優先するかについて、立場によって様々な考え方があります。
 関東だけでなく関西等も日に日に感染者が増えています。人間、元気でなければ食事も、旅行も、帰省も、車の運転も音楽鑑賞も何もできません。買うことも、でかけることも何もできません。これでは経済は発展しません。したがって、健康で元気であることが経済活動の基盤です。『体の丈夫を願え』のみ教えのとおりです。
 お盆休みにたまに子供さんを連れて故郷に帰って一息つくことも大切ですが、単にそれだけならもう少し適切な時期にすることも必要かもしれません。私は永年毎月下旬に決まって行く我が家のお墓参りは、今回の問題発生の2月以降1度も行っていません。お教会参拝も激減しましたが、お教会のライブ配信のおかげで月例祭等の遙拝とお話を自宅で毎回楽しみにさせて頂いています。
 将来に係ることですが、子供たちや若い人たちは、『健康な身体に健康で他者を思う心が宿る』という言葉を知らないでいます。そう考えると、我々やその周辺の世代の責任も大です。こうしたことを、政治や行政に考えて貰おうと暗黙のうちに期待していたこと自体、大きな間違いをしていたのかも知れません。また、医療関係者その他の方々の献身的な姿を見て反省する毎日です。
 いずれにしても、心身ともにダメになったこの国を蘇らせることは至難の業です。この年齢になった私にも、大きな宿題が提示されました。しっかり受け止め、これを機会にできることを今日から行動に移したいものです。

投稿No 475 我が家の信心のあゆみ カオナシ 男性 50代

 私の家が金光教にご縁を頂いたのは、母方の祖父が始まりです。祖父の信心は母が継承しました。私の名前は父が候補を3つくらい考え2代大先生に選んで頂いたそうです。今、私が大切にしている事は、「お礼」「改まり(改善)」「お祈り」です。この3つにたどりつくまでの事柄を、長くなりますが祖父の信心から振り返らせて頂こうと思います。

  私の祖父は若い頃(おそらく大正時代か昭和の始めくらいと推測します)結核に患ったそうです。その当時の結核は死の病で治療する手立てもなく、ただゆっくり療養しておくしかないという事で祖父は温泉でブラブラして毎日を過ごしていたそうです。その時、温泉街のタバコ屋さんが金光教の方で「若いのに働きもせずブラブラして何してるねん」という事で、ご本部にお参りに連れて行って下さいました。祖父は自分では歩く事ができず抱えられるようにご本部にたどり着いたそうです。そこで信者さん達がご本部のご神水を口に含んで祖父の体に吹きかけご祈念をあげて下さったところ、これまでふらふらだった体がシャキッとなり、病気が快方に向かったとの事でした。その祖父は初代大先生にもお会いして事があるそうです。初代大先生はお火鉢に座り、問題を抱えている信者さんが参ってくるとお届け用紙を丸めて、その信者さんに投げられたそうです。祖父の弟さんも投げて頂いた事もあるそうで、祖父は「○○(祖父の弟)も投げて頂いた」と喜んで家で話していたそうです。
  その祖父の信心は母が継ぎ、婦人会に入りお参りをしておりました。私が生まれて間もないころです。転職することになった父は、当初転職先になじめず会社を長らく休んだことがありました。母は何とか生活をしていかなければならないと日参をしておりました。私も母の手にひかれお参りした事を覚えております。教会のタタミのお広前が広くて、タタミの縁が線路のようにどこまでも長く続いていた事や、肥後橋商店街で買ってもらったコロッケがおいしかった事を覚えております。父はその後元気になり会社に復帰しました。父は二代大先生のお祈りで快方したと母は大変感謝しておりました。母から聞いた話ですが、特に体が悪い信者さん場合は、二代大先生の奥様がお神酒を二代大先生の体に吹かせて頂く、その際信者さんの体の悪い箇所に吹きかけてお祈りをして下さる、ということがあったそうです。 会社に復帰させて頂きました父ですが、仕事が忙しく、家では当時の私からみれば理不尽に子供(私と弟)を叱る事が増えました。そのため、私と父の親子関係はぎくしゃくしてきました。その関係は、その後私が40才を過ぎる頃まで続くことになります。

  私が子供の頃、母から信心の上でよく聞いたのは「朝参り・二時のご祈念はおかげを頂ける」「ご祈念の神前拝詞の後にお願いをするとよく叶う」「困った事があれば瓜破でご祈念すればおかげを頂ける」等でした。私は、進学や就職で困った事があると、母に教えてもらったようにお願いをしておりました。実家は昔から小さな貸家業を営んでおり、父は会社の仕事の傍ら休日に貸家の管理に携わっておりました。トラブルや建て替え、その他大きな案件(裁判等)の際は、両親は必ずお届けをしておりました。両親がお届けしその後おかげを頂く姿を見ておりましたので、私も大事な案件は、必ず事前にお届けをさせて頂く事が習慣となりました。
  大学4回生の際、私の就職先がなかなか決まらずやっと1社決まりました。薬の営業の仕事で私の希望とは違っており、今の大先生にお届けの際にこの気持ちを申し上げますと、「これだけお祈りして決まった会社やからなあ」と言って頂き、私は大先生が私の就職の事をそこまでたくさん真剣にお祈りをして頂いた事を知りました。知らずに愚痴を言ってしまった事が恥ずかしくもあり、逆に、お祈りして頂いて決まった先だから何があっても大丈夫だ、と心強く思った事を覚えております。

  さて私は、就職して宮崎県に赴任致しました。宮崎では、地元のお教会にお参りをしておりました。その時のお届けの主な内容は薬の営業の仕事にやりがいを見いだせない事、父との関係などでした。その当時の薬の営業の仕事は得意先を接待して自社の薬を病院に採用してもらい、処方を増やしてもらう事でした。しかし、私は「薬は必要以上に使ってどうするんだ」という意識がどこかにあり、悩んでおりました。拝詞の「迷いある人導きては甲斐ある命に目覚しめ」を唱える時は「いつこの通りになるんだろう」と思っておりました。玉水教会の信心の4つの目的の「自分の役割を明らかにして責任を果たせて頂く」が該当すると思いますが、その当時の私は自分の役割が見いだせない状態でした。
  教会の先生からも「薬は患者さんの役に立っている事は間違いないのだから」と言われておりましたが、「売上重視の会社の雰囲気はそういう信心の世界とは違う」と思っておりましたし、先生に反論した事もあります。又、実家は長年小規模貸家業を営んでおりましたが、父と貸家の話をすると、ぎくしゃくした関係であった事もあり最後には喧嘩になる事が多くて、全く興味が持てませんでした。

  以上が、私の20代前半までの話です。その後、製薬会社は結局40代後半まで勤めましたが、その間に大きな病で2度入院、結婚と様々なライフステージを経験致します。また、父との仲が劇的によくなったのですが、そこに信心(お礼、改まり、お祈り)がどう関わったかについては、改めて投稿させていただきます。

投稿No 474 三代大先生ありがとうございます マリコ 女性 70代

三代大先生の若先生時代の頃の話です。当時、スカウト活動から青年会に入会したばかりの私は世間知らずでしたが、青年会の先輩たちは社会に出ていますので、一歩引くような気持で御用させて頂いていました。
  ある日のことです。親の厳しい躾に耐えることができず、滅多にお結界に行くことがなかった私は三代大先生のお結界に行きお届けをしました。どの様な言葉でお届したのか覚えておりませんが、一喝されました。私は何も悪いことしてないのになぜ、なぜと心に問いながら、お広前で神様ゴメンと泣きました。1〜2時間自分に問うご祈念をしました。そのあと家路につくと、梅田までの道中の看板が御教えに見えて心の中も落ち着いてきました。三代大先生を怒らしてしまった自分が情けなく、電車の中で何度も何度も神様ゴメンナサイと唱えました。
  それからは、親の言われる様に素直に受け入れることにしました。そして辛いこと、悲しいこと、腹が立つことなどマイナスのこと全てを感謝し「ありがとうございます」を何度も唱えることによって貫き通す心を養わせていただきました。
  おかげで、介護制度もなく大病院でも夜八時にはお湯が止まるそんな時代に、不自由を不自由と思わずにとにかくしなければと自分に言い聞かせながら、両親の最後の最後までお世話できました。あの時の三大大先生のお祈りがあったからだと思います。
  その後も人の世話で結婚もできました。主人に「神様にお参りしたい」というと一緒にご本部に行ってくれました。ありがたかったです。悔いなく過ごさせて頂きました。バカな私ですが、たくさんの人に親切にして頂いて幸せ者です。三代大先生ありがとうございます。

投稿No 473 ライフ ピース 女性 60代

 ふれあい広場に投稿させて頂いたのは平成の時代に1回、令和では初めてです。金光教玉水教会にご神縁を頂いて今年で20年になります。この20年間で私の生き方、考え方が大きく変わりました。
  そして私の周りの人々とも沢山の繋がりを頂く事になりました。毎日の出来事を通じて自分にはこれがホップ、ステップ、ジャンプと心の中で祈ります。
  命を頂いている限り、玉水教会のお徳の中に生かされて今があるということを忘れずに生き抜きぬきます。

投稿No 472 三代大先生 カスミソウ 女性 60代

 三代大先生20年祭を令和元年12月13日(金)にお迎えさせていただきます。それに際して、どんなことでもいいのでお書きくださいとの依頼を受けました。私にとって三代大先生とは【まことの信心 まことのおかげ(2005年玉水100年の看板)】これしかないです。
 2004年お広前に掲げられてからずっと『すご〜い、なにかしら。ええことばやなあ〜』と思ってました。そして口癖のように「まことの信心 まことのおかげ」「まことの信心 まことのおかげ」と、いつもいつも毎日毎日、見て口にして頭に思い浮かべ、安心して教会に足を運んでました。あれから15年、今なお「まことの信心 まことのおかげ」が一番強く心に残っています。私のまことは「うそをつかない」「人を責めない」これだけは心して行きたいと思います。
 三代大先生有難うございました。お守り下さい。

投稿No 471 大奥様の笑顔 ナマクラ 女性 70代

 大奥様がお国替えされました、との連絡を受けた時は淋しさが込み上げてきました。遷霊式、告別式には大勢の方々がお参りされました。道路の両側は最後のお別れを偲ぶ人々でいっぱいでした。
 大奥様はガールスカウトの団委員長もされていましたので、お子様のご誕生ごとにお祝いご一緒にさせて頂きました。お祝い品のデコレーションの様なつまみ細工の小箱は今も持っています。
 昔の記念館の少し離れた所に白石先生のお屋敷があって、スカウト活動の中(広 場)を通って行く三代大先生が、ヨチヨチ歩きの現大先生の手を取って大奥様と三人で教会の方に向かうお姿を何度も拝見しました。大奥様はスカウト達にも笑顔を絶えさずお通りになられました。
 現大先生が教会長になられた頃、きめ細かな動きをされていた大奥様が印象に残っています。いつも誰にでもやさしいお言葉をお掛けになり常に笑顔でいらっしゃるお姿は、私の心の中に残っています。どんな時も大奥様の様に笑顔でおれる様、信心の稽古に努力します。大奥様有難うございます。

投稿No 470 心と体の健康 道端の花より 女性60代  

 月曜日の朝、つけっぱなしのテレビから「病院ラジオ」という番組が流れてきた。お笑いのサンドイッチマンが病院を訪問し、ラジオの生放送を行う。闘病する子どもたちや家族に、普段言えない思いや本音を聞くという内容だ。こういう番組を見ると「健康で働けるって、ありがたいなぁ!本気でお礼申さないとなぁ!」とやたら感動してしまう。
 以前、四代金光様に、結婚のお礼をお届けさせて頂いた時、「トイレに入る時『金光様』とお願い申し、終わったら『金光様』とお礼申し、お風呂に入る時も・・・・ずーっとね」と優しくみ教え下さった。以来一日も頭から放れることはありませんが、一日も「今日はさせて頂けた!」という日もありません。すみません 金光様
投稿No 469 お礼の信心と改まりの信心 鉄ちゃん 男性40代  

 私の信心初めは、物心のつかない時から親に連れられて玉水教会にお参りさせて頂いたのが始まりで、学生時代も玉水教会に継続してお参りしておりましたが、社会人になり約20年の間に九州→東京と転勤し、その土地のお教会にお参りさせて頂いておりました。
 その中で、社会人1年目にお参りした九州の教会では、教会長先生が「お礼の信心」に力を入れておりました。その先生の10歳頃のお話ですが、近所の子供が投げた石が頭に当たり、これが原因で高熱が何日も続き、医者の診察を受けましたが、脳に原因がありそうな事は分かるが脳を開けてみないと分からない、実際はそんな事はできないとの事で、時間の経過とともに衰弱し、いよいよ今夜がヤマなので親・親戚が集まって下さい、という事態に陥ったとの事でした。この時は、戸外の日光すらまともに見られない状態で、部屋中のカーテンを閉め寝ている状態が何日も続いていたそうです。この時先生の父親が「もうお前は医者からもうすぐ死ぬと言われたのだから、これまでの事を神様にお礼を申そうや」と言われ、部屋のカーテンを開け、二人でご神前に行き父親がお礼を言われたそうです。0歳から10歳まで人並みにお育て頂いた事、小学校も行かせて頂いた事、等々お礼を申し上げたそうです。そうすると、これまで全く飲めなかった水を頂くことができ、茶褐色をもっと濃くしたような小便がでて、その後薄皮をはぐように回復し無事に小学校に復学し、その後成人されてとの事でした。このおかげをどのように受けていけばよいのか、ということを信心の一生の取り組みにされているとの事でした。
 私は社会人1年目で営業をしておりましたが、その後体調を崩した後、内勤への配置転換・結婚・二人の子供の授かり(私達夫婦は3年子供ができませんでした)・東京への転勤と、様々な事がありましたが、その時々で「お礼の信心」を思い出し、今お陰を頂いている面にお礼をもうしつつ信心をしてまいりました。
 東京ではこれまでとは違った大きな仕事も任せてもらえるようになりましたが、私の能力をはるかに超えた仕事が多く大きな壁にぶつかり、山積みの問題を解決する日々で、私は大変疲弊し体調も大きく崩しました。「お礼の信心」も最初は継続できましたが、こうした状況が続くに従い、「何がお礼だ」という心境になっておりました。
この時は信心から一番離れていた時だったと思います。「自分は頑張っているのにも関わらずおかげを頂けないのであれば信心をする意味があるのか」という気持ちです。思い余って「(私は完璧なはずですが)もし私が改善する点があれば教えて下さい」という破れかぶれのお願いをしておりました。それくらい追い込まれておりましたし、自分の改善すべき点が自己認識できない状態に陥っておりました。
その後、転勤となり20年ぶりに大阪に帰ってくる事ができ、玉水教会にお参りをしておりましたが、この私の破れかぶれの願いが成就する時が来たのです。それは願いが成就したというどちらかといえば甘美な経験ではなく、私にとってつらく厳しい改善(改まり)の日々でした。私の配属された部署は、仕事の性格上ミスは絶対に許されない、又、無駄な仕事はしない、効率的に動くとう事を当たり前のように求められる環境でした。また上記に外れる行動をした場合は、社員同士全く遠慮なくガンガン指摘を行う風潮でした。私も100項目以上は指摘があり、電話応対からExcelの操作方法、物の収納方法・掃除方法など内容は多岐に渡りました。まさに改まり(改善)の日々でした。
こうした状態が3年程続きました。私は相変わらず指摘される時がありますが、「改まり」で私が気付いた事は、自分の改善点(改まる点)は自分ではなかなか気づかないし、気づいてよほど強い力がないと修正できないものだという事でした。私が何とか修正できたのは、周囲の強い指摘のおかげでした。
 以上ですが「お礼」「改まり」の信心は私の貴重な経験になっております。「お礼の信心は信心の出発点と言いますか、今お陰を頂いている事にしっかり目を向ける事は信心の土台となり次に展開に向かう推進力になると思います。「改まりの信心」は「神様はお陰をやっているのに氏子がおかげをもらす」という教えの通り、自分が改善し自分の器を広げるよう努力しないと、せっかくおかげの展開があってもうまく展開しきれなくなり、お陰をもらすと感じております。
 最後になりましたが、今後は「私の改善するべき所を気づかして下さい」というお願いはしないつもりです。なぜなら、あの過酷な改善(改まり)の日々をもう経験したくないからです(笑)
投稿No 468 信徒会のめぐみ、はからい 又三郎一男 男性80代  

 新元号「令和元年」の御代から遡る45有余年前、地区信徒会へ家内と共に初めて参加出席させて頂きました。会場で年配の某女性信者さんが、初代大先生にお取次ぎのお願いに参られた時のことお話しされました。「初代大先生は椅子に腰掛けられてお取次下さり、私の順番が来ると席をたたれる。並び直し順番が参り今度こそとおもいきや、また席をたたれる。お取次の順番を待つ事三回続きました。席をたつことをもって、その願いお取次ぎ出来ないよと初代大先生は仰せられたのです。信心の未熟な私には初代大先生の御心を受けとめられず、大変申し訳なくお詫びいたしました。」とお話されました。それは娘の縁談のお願いと話されましたが、初めて信徒会(単独区)に出席した私共には、特に心に響くお取次ぎ信心のお話しでした。以後、信徒会には出来る限り出席に努めさせて頂いております。
 子供の高校受験で家内が二代大先生にお取次ぎの御願いに上がりました。学級担任との懇談会では、希望校の合格は困難で一ランク下げての受験が良いと判定されました。家内がお取次で賜りました二代大先生のお言葉は「希望校受験を叶えて上げなさい」でした。初参加の信徒会で伺った某女性信者のお話もあり、二代大先生のお言葉は「神はからい」のお取次と頂き、希望校に受験し合格のお蔭を賜りました。 学校への合格報告では先生から「スポーツ選手で合格した生徒はいなかったのよ。よく頑張ったね」とお言葉いただきました。
 子供の高校卒業、大学受験、就職、結婚、孫の授かり、孫の成長と進学、就職、結婚、曾孫の授かり。艱難辛苦、喜怒哀楽、悲喜交々の歩みですが、どんなに辛くても全てに於いて唯々「一心に願え」「おかげは和賀心にあり」と信心に努め子孫繁盛、安寧のお蔭を頂く日々を喜びに勤しむ昨今です。 生神金光大神様 天地金乃神様 有難うございます。
投稿No 467 オレオレサギに思う 難儀な氏子 男性70代  

 毎日のように報道されるオレオレサギの記事を見て、何でこれ程までに注意を呼びかけらていながらだまされるのだろうと、だまされる人を半ば、ばか扱いに思っていたが、ふと最近、日本の親子別居に大きな原因があるのではないかと思うようになった。
 親は特に母親は、子供がかわいい、なお、孫はかわいくてたまらない。加齢につれてその思いが増してきて、いつも子、孫を思い続けている親心である。そんな心理状態につけ込んでの犯罪なのだ。そこで、この様な悲しい事件を減らすため、世の子、孫達に呼びかけたい。せめて月一回は母親に電話(メール)でいいから近況報告をかねて、絆をもってくれないか。み教えに「親先祖を大切にせよ、神はこれ以上の喜びはない」とあるように、この事が最近のつめたい世の中を明るい方向に進めると同時に、これからの日本を支える大きな力になっていくように思う
投稿No 466 「15区信徒会恒例秋の親睦旅行記(晩秋の伊根舟屋群)」 ひろっちゃん 男性60代  

 雨の伊根舟屋群をたのしんできました。高槻を8時に出発しそこから、高速道路で、伊根の舟屋へ11時に到着、伊根湾を一望できる道の駅から「日本で最も美しい村」の一つ、伊根の舟屋群を眺めてきました。「雨の伊根も良いですよ」と言う、お届けした時の、彌壽善先生のお言葉通り、日本の原風景が広がる伊根湾の風景に雨を忘れて暫くたたずんでおりました。
 そこから道を少し下って、海岸沿いに出て、ちょっと早い昼食をとりました。伊根湾で水揚げされた新鮮な魚を、舟屋群を眺めながら、お神酒とともに堪能してきました。食堂を後にして、ちょっとほろ酔い加減で、遊覧船の伊根湾めぐり、陸地からは味わえない舟屋群の風景と趣を20分程船上から満喫させていただき、下船後、展望台から天橋立を眺望できる笠松公園に向かいました。雨が少し降っていて、ややかすみがかっていましたが、股のぞき、瓦投げを楽しみ、天橋立をバックに、本日の記念撮影を無事に撮り終え、帰路につきました。その後、土産物店に数軒寄り、伊根の思い出と、沢山の土産物を持ち帰った楽しい親睦旅行でした。皆さん楽しんで頂けたでしょうか。
 日々信心に研鑚し、お蔭を蒙っていただいて、今年も昨年以上のお蔭を頂ける親睦旅行を企画したいと思っております。
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投稿No 465 おかげはわが心にあり フテミカン 男性60代  

 先日、仕事ではありますがイギリスとイタリアへ行っておりました。もうこの年になりますと旅行ならともかく仕事となると本当に気が進みませんでしたが、やはり行けば行ったで難儀なことも多いのですが、新しい感動に触れることが出来るというのがあり、そこはいいですね。多くの歴史ある建物や、民族の全く違った人々の優しさ、そして文化、空間、香りと、若いころからの好奇心旺盛さが年いった私を行動的にさせました。ヨーロッパは初めてでしたので、気持ち的にはマイナスからの出発でしたが、最初からもっとテンションあげておけば、もっといろんなことに感動したと思いますね。
 まっ、それもこれも何もなく無事日本へ帰ってこれたからであって、イタリアで合流した私の上司はミラノの地下鉄で30万ユーロ(約40万円)ごっそり抜き取られてましたから、落ち込みまくっていました。その方には気の毒でしたが、それも命あって良かったと思えばおかげ。問題はそう思えるかどうかですね。日本に帰ってからその上司はその出来事教訓に気を付けるようにとみんなに言ってましたから、さすが上司です。
 私はというと「おかげはわが心にあり」、行く前まではあれだけいやがっていたのに、あけてみれば仕事はそこそこに、よく飲みよく食べ楽しい海外出張となり感謝しています。

投稿No 464 入院して思うこと 今ある命 男性60代  

 昨年1週間ほど入院手術しました。入院は今回で4回目、4人部屋でした。20年ぐらい前から各ベッドの間のカーテン仕切は昼間でも閉じられたままで、どんな方が何の病気で入院されているのかお聞きすることもなく、まったくわからない状態でした。これも個人情報保護からきているのでしょう。
 30年ぐらい前に40日間ほど入院した時は6人部屋でした。朝になったらベッド間の仕切りカーテンは開けられ窓から部屋全体に太陽の光が入り病室は明るい感じでした。入院している同じ部屋の人ともだんだんと挨拶をするようになり、お互いの病気のこと、勤めている仕事のこと、お商売をしていることを話しし、楽しくつらいと感じたことがなかったと思います。
 今回は窓側のベッドだったので、太陽の光も入りグラウンドで野球している人や遊んでいる子供が見え、早く退院して仕事したい気持ちになりました。これが入り口側のベッドだったら窓からの光もなく、テレビ、本をみるだけで気分が落ち着かなく病気も長引く様な気がしました。入院されている内の二人はほとんでベッドで寝られているようで、看護婦さんにすべてのお世話をしてもらっている様でした。(昼間は家族の方が見ておられました)そんな状態がカーテンを通して聞こえてくると一人ではできず二人でお世話されている看護婦さんの働きを知ることができました。昼間は多くの看護婦さんがおられますが、夜間は数名の方で、この部屋以外のたくさんの患者さんがおられると思うと、たいへんな仕事でありよくできるなあと頭が下がる思いでした。
 そんな中で自分もいずれはこうなるかもしれないと思うと、子供にも家内にも介護してくれる人にもお世話にならないようにしないといけないと思い、それには日々の生活の中で生神金光大神様、天地金乃神様、初代大先生に今ある健康にお礼を申し上げ、いつまでも元気で寝込まず、御用、仕事できる様、日々の生活を祈り願い、考え努めていきたいと思いました。
投稿No 463 楽しみはこれからも 風に吹かれて 女性60代  

 テレビで災害・事故や事件のニュースが流れますと不安になります。夫や友人との間にズレが生じて、猜疑心、嫉妬心、憤怒と心おだやかになれなくて、自分自身に嫌悪を感じ、やりきれなくなってしまう時があります。心に頭に気を集めて、平らな心になりますように祈り願います。少しずつ力んでいた身体がやわらかくなり、至らない自身をいたわって下さる神様のお心にふれ、この様な者にと思いますと、ありがたくお礼の言葉が口につき頭が下がります。改めて、落ち着き思いますと、心の拠り所があることのありがたさです。
 われら神縁を蒙り限りなき神恩に浴しまつる。この一節のまま、日々を過ごさせて頂いていることを感謝しています。これからも神縁、神恩の中でどの様な機会を頂けるかと思うと楽しみであります。
投稿No 462 信心辛抱 その2 カメタロウ 男性50代  

 先の投稿No.458から構内完全復旧に向け少しずつ動きだしました。昨年11月下旬、請求していた保険金が満額+α、保険会社より振込があり、まず資金面でおかげを頂きました。当初の見積額(保険金請求金額)より、追加工事も必要となってきましたので、増額分は大変助かります。
 銀座教会初代教会長湯川誠一教話に「土地・建物」を拝む旨のお話があり、土地・建物のおかげで生計を立てている私は、このお話しを読んで以来、その事を実行させて頂いております。この増額は、「被災した建物を心おきなく修理せよ。」との神様のおぼしめし?と思わずにはおれません。
 本年1月9日シャッター交換工事が済みましたが、屋根・壁・雨樋・ケラバ等足場を組んでの工事が残っており、工期は未だ決まっていません。被災した建物には、工期の未定をお詫びし、神様には、お繰り合わせ頂き万事万端都合よく事が進む様、お願いする日々が続いております。
 「大先生にお届けをし、お祈り添いを頂いているのだから、最後まで神様を信じきる。」「今回の経験を踏まえ、更に自分の信心を進める」との思いで、改めて「信心辛抱」強い心で現状を乗り越えるべく発奮する、今日この頃です。
投稿No 461 祖母の思い出 みかん 女性50代  

 昨年から今年にかけて家の庭にある、植わって30年のみかんの木に初めて鈴なりに実がつきました。特に手入れもしていない2本の木ですが、夏頃から日がたつにつれて徐々に大きくなりまして夏みかんの様な大きさのものもありました。母もびっくり。生かされているということを実感しました。
 祖母から母へ、母から私へ教えられてきた事があります。「話しを聞けば、思いがかわる。思いが変われば血が変わる。血が変われば、運命がかわる」と。母もよく聞かされていた様子で、祖母の思い出の一つです。
投稿No 460 神様ありがとうございます はろーきてぃー 女性40代  

 未信奉者の私が、友人を通じてお手引きのおかげをいただいて今日まで数々の苦難を乗り越えさせていただきました。信心の右も左も分からない私に、大先生と彌壽善先生が神様に御願いして下さって日々暮らして行ける事に本当に感謝しております。これからの人生もどんな苦難が待ち構えているかも知れませんが全て神様に御願いさせていただいて自分自身を見失わずに、おかげをいただける様に信心を進めさせていただきたいです。「神様がご主人、自分は奉公人」この言葉が今の自分の信心の糧になっております。自分の事を願って下さる方々に本当に感謝しております。ありがとうございます。
投稿No 459 お取り次ぎを頂く有り難さ ナミナルー 女性40代  

 私は信心四代目の信奉者です。私自身も会った事のない祖父から玉水教会にご神縁を頂いて、今日まで日々のお結界でのお取次ぎを頂いてきた事に感謝の思いで一杯です。子供の頃から両親とお参りをさせて頂いてましたが、信心の事は分かっていませんでした。14年程前に喫茶店を開業してから今まで経験した事のない苦労を味わって、そこから必死のお参りが始まりました。一緒に働かせて頂いている人は未信奉者の家の人で,信心を頂ける様になるまで本当に大変な毎日でした。今も困難な事がたくさんありますが、お取次ぎを頂いて大先生、彌壽善先生のご祈念を頂きながら、まことの信心をさせて頂ける様に頑張っていきたいと思います
投稿No 458 信心辛抱 カメタロウ 男性50代  

 本年9月4日の台風21号により被災された玉水教会信奉者が、何名かいらっしゃると聞き及んでおります。
私もその一人で、工場の建物、屋根、シャッター等が破損しました。
有難い事に台風が収まるや否や、懇意にしている工務店の社長さん自らお見え頂き、破損個所の確認、翌日から雨漏り等操業に差支えが無い様、応急修理をして頂きました。おかげ頂いたと喜ぶ反面、構内通路に飛び散ったガレキを片付けながら、この先どうなるのか(いつ完全復旧できるのか?費用等は?)  正直不安になり暗い気持ちになりました。しかし、大先生のお祈り添え有ってここが「信心辛抱」強い心でこの現状を乗り越えさせて頂こうと思い直す事ができ、今日に至っています。
復旧資材の不足、工務店の方も多忙な様で、未だ完全復旧へ向けての工事は、始まっていません。
街中でブルーシートの掛かっている建物を見ると、自分よりもっと困っておられる方がいらっしゃると心のタヌキに騙されかかる自分を鼓舞しながら、神様に万事万端都合よく事が進むようお願いする毎日です。
投稿No 457 仕事のなかで 伊右衛門 男性40代  

 私は、ものづくりをする会社に勤めている。私どもの会社が造る製品は、スーパー、コンビニ、駅の売店など日常生活に於ける様々な場所、ロケーションで販売し、年齢や男女を問わず、多くの方々に提供している。なので、常にお客様がどんな製品が求められているか、どうすれば喜んで頂けるかを、ものづくりの研究所、現場では必死で思案するが、そのアイデアを製品にするには、社内、社外のとても多くの人々のお世話になることになる。
 ビジネスでは、社外のお世話になる方々の多くは仕事を請け負う受注者であり、我々は発注者の関係になるが、日常の生活、ビジネス以外になると受注者の方々も大切なお客様となる。この関係は、立場は色々あっても人はお互い支え合ってしか生きていけない事を示していて、さらには神と人、あいよかけよで立ち行く世界、正にこの関係ではないかと思う。
 人と人が支え合うなかには目に見えなくても必ず神様が助けてくださっている、と思います。

お客様に喜んでいただく製品を開発し、製造するには多くの人々の大変な労力があってこそ実現する。また、お客様が求める時期、タイミングも非常に重要で、製品の開発と生産は常に時間との戦いでもある。
 一方で社内、社外の能力にはある程度の限界もあり、どこで、誰が、何をするかにより、結果は大きく異なってくる。会社組織の中でこのマネジメントは重要ではあるが、人の動きは見えても、人の心は見えないなかで、本当のところ、多くの社員を誰が動かしているか、それは神様の”おくりあわせ”の賜物ではないか。
 神様がご主人、私は奉公人。このように考えると、上司から言われたこと、仕事仲間から言われたこと、取引先から言われたこと、全ては神様の”おくりあわせ”の中であると考えると、日々がんばらなければ、と思う今日、この頃です。

投稿No 456 両親の入信のきっかけ たんぽぽ 女性80代  

 入信・・・大正15年 改式・・・昭和5年 
長男は大正12年5月に生まれ、長女は大正14年9月に生まれたのに、長男は2歳で、長女は生後2ヶ月足らずで次々と亡くなり、両親は毎日悲しみにくれる日々を過ごして居りました。その時入信の手引をして下さる方があり、それが神様とのご縁の始まりです。子供の事は、もうあきらめていた所、昭和5年に兄が、昭和11年に私が生まれました。母38歳の高齢出産でした。私はお腹の中で逆子になり、当時の医療では生きて生まれ出る事は困難だと云われる程、ひどい状態だったそうです。両親はお腹の子供の無事を祈り懸命にお願いしたそうです。その後、逆子が直り無事この世に生まれさせていただきました。「神様のおかげで奇跡的に助けていただいたのよ」とたびたび母から聞かされました。私が生まれて間もなく、母が教会に出向き初代大先生に命名のお願いを致しました。いただいた紙を開けて見ると、「勝子」と書いてありました。母はびっくりしたそうです。その名前は生まれて間もなく亡くなった長女の名前だったからです。ご無礼とは思いながら母は、「先生これはどう云う事ですか?」と詰め寄ったそうです。大先生は「亡くなった子供の分まで、今度生まれた子供が丈夫で長生き出来る様おかげ頂きなさい。」と云われ、母は胸が一杯になり涙があふれ出たそうです。おかげで私はもうすぐ82歳になる現在まで、大きな病気もせず入院知らずで元気に過ごさせて頂いて居ります。
 主人との出会い
 昭和30年頃には教会に就職の紹介をしていただける窓口があり、教会の近くの会社にお世話していただきました。その会社の社長さんは信者さんではありませんでしたが、信心深い方で通りすがりにあるお寺やお地蔵さん等にも帽子を取り一礼される方でした。その職場で主人との縁があり、主人の家は仏教ですが、教会にお参りする事を了解してもらい、教会にもお届けして結婚しました。主人は真面目で優しい人で現在85歳になりますが、共に元気にさせていただいて居ります。昭和35年に結婚、昭和36年に娘が、39年に息子が生まれ、娘、息子その家族一同生活も立ち行かせていただき健康のおかげもいただいて居ります。教会の紹介で入社できた会社で主人との巡り合わせも、おかげを頂いたと思って、ありがたい事だとしみじみ思います。若いときには何も気付かず過ごして来ましたが、近頃では常に神様が身近に寄り添い見守って下さっている事が感じさせていただける様になりました。これも亡き両親が神様とのご縁をいただき、信心してくれたおかげだと感謝してます。
  投稿No455を追加しました (2018/10/19)
投稿No 455 道輝会・婦人会100周年記念式典に寄せまして 道輝会〇年生 男性40代  

 去る10月8日、道輝会・婦人会100周年記念式典が催されました。
私は道輝会〇年生(母は婦人会OBです)、当日は御用の端に加えさせて頂きました。記念式典は写真撮影から始まり、続いてお広前で祭典そして記念館でパーティー、和太鼓ありハーモニカ演奏あり記念DVDの上映ありの大変楽しい会となりました。
 当日の私の御用は受付とパーティー会場・写真撮影のセッティングといった作業でしたが、前日までの準備をご担当して頂いた方々が相当準備をして頂いていると感じました。例えば、受付は、当日の御用係がイスに座ればすぐ業務ができるよう組別の名簿やパーティー会場の席順の紙が並んでおり、又、写真撮影用のひな壇はすでに記念館から運搬だけすればよいように準備されている、又、パーティーに関しても、業者の手配から当日の演目の手配、DVDの撮影と編集、お直会の手配、前提となる資金繰りのご手配、その他たくさんのご準備があった事と想像しております。当日は当日で、おそらく前日までに上記の準備をして頂いていたであろう皆様が、先頭に立って様々な当日業務に携われている。しかも、準備が大変だったといった類のお話は一切されず、皆様と一緒に式典を心から楽しまれている。私は式典が終わって「もしかしたら神様のお姿はこういうお姿かもしれない」と感じておりました。
信心で「神様へのお礼」という事はよく語られると思います。日々、「食事を頂けるお礼」、「大小便のお礼」、「生かされているお礼」、とお礼を申し上げる事はたくさんありますが、例えば「食事を頂けるお礼」の場合、食事を頂ける体であることのお礼、又、食品を買えるお金を頂いている事のお礼等があげられると思っております。(私は昨年の初頭までは大病による食事制限の為、肉・魚他、市中で売っているほとんどの食品は制限に引っ掛かり、食べられる食品は限られていました。現在はおかげを頂き食事制限はほとんどありません)
少々話が脱線しましたが、前々段でお話しました「式典の準備係の皆様」と「神様のお姿」が(神様に失礼な想像だと思いますが)重なるという話ですが、前段の「食事が頂けるお礼」の場合、神様は私が食事を頂けるようになるのに相当ご準備(おはからい)をして頂いており、しかもその事に関して(大変だった等)一言も申し上げられず、そして(おそらく神様は)私が美味しく食事を頂き、お酒まで頂いて皆様と歓談している姿を喜んで見て頂いていると感じております。これは、記念式典の準備をして頂いた皆様のお姿とだぶって見えてしまいます。
ここからが本題なのですが、神様や記念式典の準備をして頂いた方々へのお礼はどうすればよいかと考えます。勿論、準備係の方に直接お会いして「ありがとうございました」と感謝をお伝えする事なのですが、私は式典で彌壽善先生がお話頂いた「子々孫々まで助かる玉水教会の信心に、まずは身内をお引き寄せさせて頂く事が本当のお礼になるのでは、と考えております。前述しましたが私は大病で苦しみました。医師から「このままだともうすぐに死ぬ」と本当に言われました。細い橋を何度も何度も、かろうじて落ちずに渡るようにおかげにつぐおかげを頂きやっとここまでたどりつけた、妻子があり仕事があり二人の子供が毎日元気に学校に通わせて頂けている。
 私は、このお道の信心・玉水教会の信心でしか助からない状況(難儀)があると感じています。世の中には色々な状況(難儀)があり、努力で解決できる場合もたくさんあると思いますが、やはり、(私の経験上ですが)信心でしか解決できない状況(難儀)もたくさん存在すると感じております。子々孫々まで助かる事ができるこのお道の玉水教会の信心で一人でも助かるきっかけにならせて頂く、この事が今回の記念式典に際しての神様や企画をして頂いた方々へのお礼になると思わずにはおれません。

投稿No 454 「神習の集い」に参加させて頂いて 道輝会〇年生 男性40代  

 この度は「神習の集い」に参加させて頂きありがとうございました。当初私は「泊りは荷物も多いしなあ」と参加することに消極的でございました。ところが道輝会の先輩方から「どうや、参加しませんか」と満面の笑みでお誘いを頂き「先輩方のように大きなおかげを頂くきっかけになるかもしれない・・」といった気持ちも少々あった事も事実で、そんなこんなで参加をさせて頂きました。
 さて当日ですが20時に新大阪駅を出発し控所に到着したのは22時すぎ、早速食堂で信心談議(宴会?)となりました。信心談議は大いに盛り上げり皆様と楽しく過ごさせて頂きました。(私は、会社以外の人脈の方々とこうした機会を頂けるのも玉水教会・信心の醍醐味と思っております)。夜更けとなり一人二人と寝床につかれましたが、私のテーブルは面白い方々に恵まれまして、結局午前2時前の就寝となりました。睡眠時間は1時間弱(ほとんど寝てません)、3時には起床し金光様のお出ましに参加させて頂き、その後本部広前でご祈念、その後6時より金光清治先生の御講話を聴講させて頂きました。私は前列に着席しお話を聞かせて頂きましたが、今思うと徹夜明けでせっかくのお話に睡魔が少々邪魔をする状態であった事は否めません・・。
受講後は控え所食堂にて道輝会の先輩方が作って下さった朝食を頂き(早朝より50人分の朝食を作って下さりありがとうございました。本当に美味しかったです。)
 控え所での清掃、片付けの後、玉水の団体参拝と合流して、参拝スケジュールを共にしました。
投稿No 453 終わりはすべての始まり Teddy 男性60代  

 ""AII is well that ends well""これはシェークスピアが書いた一節です。日本語で言えば一般的には「終わりよければすべて良し」とでもいうのでしょうか。私はこの言葉が好きです。物事は全てきっちりと終わらなければ次のスタートがきっちりと始められないからです。私の言葉で言うと「終わりは全ての始まり」です。
 私の人生も、全て親の信心のおかげの中での出来事ですので、えらそうなことは言えませんが、大学で英語のクラブに入り、会計学を勉強し、いわゆる一流の大企業の経理部に入社しました。その企業でのビジネスマンを37年間で卒業いたしました。その間、台湾、中国(蘇州)での各5年の10年間の海外経験や山梨県、福島県の郡山での子会社や大阪の本部での経理責任者としての仕事、また、最後には1部上場子会社のCFOもやらせていただき、37年間のビジネスマンを親のおかげで61歳の誕生日に締めることができました。私は今64歳です。5年前に父親、3年前に母親と、どちらも92歳の長寿のおかげをいただきお国替えいたしました。両親とも玉水教会にお世話になって人生をしっかりと締めましたので、肉体をもった人生は終わりましたが、御霊として、いつも我々子孫のことを初代大先生にお取次ぎしてくれている、と感じます。
 やっと玉水教会に毎朝お参りができる環境になり、3年が経ちました。「3年、5年の信心ではまだ早い、10年続ける事が出来れば……」と言われているとおり、後半人生のスタートを先ず10年間、そして20年間と、彌壽善先生が言われたように「まことの信心、まことのおかげ」を目指して、即ち、親先祖、子々孫々が助かる信心を目標にして、自分の好きな仕事で、社会のお役に立てるように、人生をしっかり親のように締めたい、と思ってます。

投稿No 452 在掌上 孫悟空 男性40代  

 小説「西遊記」の中で、孫悟空が世界中を暴れ回っても、実はお釈迦様の掌の上だったという件(くだり)があります。私もまた転勤族でいろいろな地で仕事をする機会に恵まれましたが、その先々で玉水教会の大先生の祈りの下で神様の掌の上で生かされていると感じることが少なくありません。
まず入社して初めての営業担当として任されたお客様の中で最も難しいと先輩社員から引き継いだお客様がいらっしゃいました。意を決して、自身のことを解って貰おうと学生時代のことや信心の話をすると、その方も玉水教会で信心をしていた方で、とても仲良くなることができました。
 また私が初めて車を買おうとした時のこと、良い車に巡り会えたのですが、ガレージが見つかりません。その時もたまたま近所の青空駐車場の所有者の家に訪問すると、そのお婆さんは若い頃に北新地で商売をしていた際、玉水教会にお参りをしておかげを頂かれた方で、優先的に空いている駐車場をお借りすることが出来ました。
そして東京への転勤でも銀座教会でのお参りのおかげを頂き、娘もガールスカウトにお世話になることが出来ました。
 今思えば、どこに転勤しようと常に大先生の祈りの下、おかげを頂いていたのですが、当時の私にはそのことを感謝できるだけの信心が出来ておりませんでした。
 以来、仕事の多忙さに追われつつも「おかげは和賀心にあり」と常に心を和らぎ、賀する(よろこぶ)時間を出勤前、寝る前に1分だけでも作るようにしています。そうすることで、今日も大先生の祈りの下で神様の掌の上で大暴れできるような気がするのです。

投稿No 451 西郷どん 訓練生 男性70代  

 今年は明治維新150年、NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』が今年初めから放映され、また、京都を始め各地で講演会や展示会等のイベントが開催されています。 西郷隆盛は、鹿児島(薩摩藩)の下級士族の長男として生まれたそうです。貧しい生活の中で様々な辛抱・難局を乗り越え、兄弟のごとく育った大久保利通とある時は手を携え、ある時は異なる方法で薩摩藩を動かし、遂には明治維新の大偉業を成し遂げました。 幕末のこうした隆盛の施策に反旗を挙げていたある藩は、西郷隆盛から厳しい処断を覚悟していたにも拘らず、意外にも寛大な処置を受けたことが契機となって、西郷から学んだ様々な教訓を纏め、「敬天愛人」という言葉で次のとおり説明しています。
 「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」(要約)
  そこで、初代大先生が「ある日の述懐」大正15年11月16日 お道への思い(信話16集)の中で述べておられる次のお言葉に気付かされます。『西郷さんは「金も要らん、名もいらん、命もいらんというような者は始末に困るが、そんな者でないと国家を論ずるに足らん」と言い、その精神は「人を相手にせず、天を相手にせよ」という事にあると言ったそうだが、私の行こうとする道も、やっぱり その道やなあ。(以下、省略)』   本年1月に二代大先生30年、そして来年には三代大先生20年をお迎えさせて頂く時節に、 初代大先生のお言葉『ある日の述懐』に登場する西郷さんの言葉が心に染み入ります。自分中心主義が国内外でますます加速する現在、様々な問題が山積していますが、どの時代にあっても、歴代大先生のみ教えに沿って信心を進めることが最善であると、西郷隆盛の生涯からも改めて解らせて頂けます。生かされている自分の役割は何なのかをしっかり考え、ささやかな事柄であっても油断なく実意丁寧な心で取り進めたいものです。

投稿No 450 「普通救命講習」に参加して ポンポン船 男性50代  

 先日、記念館で行われました「普通救命講習」(一次救命処置・心肺蘇生とAED)に参加させていただきました。昨年に続いて2回目の受講でした。私は、大阪市内の某公園の管理スタッフとして数年前から働いているのですが、AEDは園内にも数台設置されていますし、今は街中の多くの場所に設置されています。いつ何処で自分が誰かを救命しなければならないような事態が起こらないとも限らない。そのような時には、救命の知識や訓練の経験があることに越したことはないと思い、受講させていただきました。
 今年受講し感じたことの一つは、1年前に受講したにも関わらず忘れていることも多く、やはりもっと的確な救命動作できるようになるには、継続的に受講することが必要だということです。頭の中では分かっているつもりが、いざとなると慌ててしまって何もできない。一旦身についたとしても時間が経ってしまい忘れてしまっている。そういうことにならない様に、これからも積極的に講習に参加したいと思っています。もう一つは、消防署の方のお話にもありましたが、やはりためらわず助けようと踏み出すということです。結果がどうであろうと、今自分が出来ることを精一杯やってみる。そうすることで、助からない命が助かるかもしれない。そういう強い気持ちを持つことの大切さを改めて教えていただいた講習でした。

投稿No 449 神様のおはからい 山野草 女性60代  

 私が20代の時に不思議なご神縁をいただいてより、40数年今まで広大なおかげを頂いてまいりましたが、この度の神様のお働きとおはからいには何とお礼を申し上げたらいいのか、感謝の気持ちでいっぱいです。
 今を遡りますこと一年前、我が息子は就職の時期を迎えておりました。本人は大学院の2回生、ある会社を教授推薦で応募致しました。最終面接までいかせて頂きましたがみごとに不採用でした。本人は簡単に受かると思っていた様です。
 それからエントリー先を探すのですが、自分が希望する所は既に多くの所が締め切っていて、まだの所を何社か受けましたがすべて不採用でした。月日が経つばかりで本人も焦るのですが、どうしようもありません。私も朝参りをしてお届けさせて頂きご祈念させて頂くのですが、心配と不安で気持ちが塞ぎがちでした。本人もいらいらが募り私に当たり、投げ遣りな気持ちになっておりました。なぜ、神様はおかげをくださらないんだろうか、何がいけないんだろう。お詫びが足りないんだろうか。改まりの心が足りないんだろうか。どう向き合っていけばいいんだろうと悩みました。
 このお道では自分で心配することはご無礼になり神様にすべてをお預けするようにとおっしゃるのですが、なかなかそれができず、お結界でその事を申し上げますと「親だったら子供のことを心配するのはあたりまえです。それでいいんですよ」とおっしゃって頂きました。とうとう去年には決まらず年を越してしまい、卒業の時期を迎えましたが研究室で我が子だけが就職が決まっていない状況でした。一応上に進みそのまま研究室に残り就活を続けることになりました。去年よりは不利な条件の中、果たしてどうなっていくのだろうと不安ばかりが募りました。
 そんな中思いもかけず、教授推薦で自分が希望していた化学系の企業に最終面接まで残ることができたのです。そして一週間後内定の電話を頂いたのです。本人も最初は信じられなくて「え、本当ですか。有難うございます」と答えたそうで、そうしましたら「そんなに喜んで頂いて嬉しいです。お待ちしています」と言って下さったそうです。もしこれが一年前に簡単に決まっていたら、「ありがとうございます」という心からの感謝の言葉は出なかっただろうと思いますと、ここまで行き届いた神様のお働きとおはからいに驚くと同時にお礼の申しようもございません。それも159倍とういう難関の中を受からせていただきびっくり致しております。本当にすごいおかげをいただき神様のおはからいとお働きに心よりお礼を申し上げます。本人は昨年すぐに就職の内定がいただけるものとの甘い考えの中、神様は一年かけて一生懸命に親子共々に、誠の道を解らせようとして下さり、教えようとして下さっていた神様の暖かいおはからいに本当に感謝の気持ちでいっぱいです。心よりお礼申し上げます。信心の道、迷わず失わず、末の末まで教え伝えよ 家内むつび和らぎ立ち栄ゆべく守り導き幸えたまえ。毎日のご祈念 肝に銘じて、噛み締めております。本当にありがとうございました。

投稿No 448 不まじめ会員だった私が「日々研鑽中?」 ひろちゃん 男性60代  

 父と母が亡くなって、数十年ぶりにお参りした玉水教会。母の葬儀で地区の信徒会の皆様にお世話になったのがきっかけで、教会へ形だけのお参りをするようになった不真面目な信徒会員でした。その後、初会、親睦旅行と、地区の信徒会の皆様にお誘いを受け、活動に徐々に参加するようになり、今までに教会にどれだけお世話になっていたのかが少しずつわかってくる様になりました。地区信徒会のお誘いで和歌山奥城に初めて参拝した時に「御用奉仕を通して、信心の研鑽を願う」という道輝会を知り、道輝会にも入会させて頂きました。その後、様々な行事に参加させて頂く様になり、今度は皆様へお返しすることを考えるようになりました。今は、教会の行事にできるだけ参加させて頂き、親睦を深めている日々を送っております。教会の皆さんに助けられ、支えられて、今度は自らが、支えられる人になれる様、不真面目会員ですが、日々研鑽中です。

投稿No 447 日々、信心 TRK 女性30代  

 昨年、生まれて初めて、友人をお手引きさせて頂くおかげを頂いた時のことです。
 家に遊びに来てくれた友人が、神棚を見て「○○ちゃんを守って下さっている神様に会ってみたい。あったかいものが感じられるねん!」と言ってくれて、それから程なくして、私たちは一緒にお参りのおかげを頂きました。
今も友人は寝る前、その時にお下げ頂いた“御神米”を拝み、一日のお礼を申し、お詫びをし、そして願いを立てるそうです。
忙しい毎日の中で、ふとした心の緩みが、我欲を出すことになり、惑いを起こし、それにより、自分で難儀を生み出してしまっていた私に、『信心とは何か』をその友人を通して、神様から、今一度考える機会を頂けたように思いました。
出会うご縁の有り難さ、真心を込めて丁寧に生きることの大切さ、そして、起こり得る全ての事は意味のあること。神様は決して無駄なことはなさらない。より良いようにお道をつけて下さっているのだということを改めて感じずにはいられませんでした。
 これからも、真の信心を積み重ね、相手の立ち行きを願わせて頂きながら、お役に立たせて頂ける人になれるよう、感謝の気持ちを忘れず、日々精進したいと思います。

投稿No 446 震災地復興わかめについて NM 男性60代  

 平素は金光教大阪災害救援隊の活動に深いご理解とご協力を賜わっておりますこと、重ねて御礼申し上げます。復興ワカメにつきまして、少し説明をさせていただきますと、7年前の東日本大震災によって被災した三陸地方(宮城県石巻市沿岸)は、それまで三陸ワカメの養殖業が盛ん漁村でしたが、震災、津波によって村は壊滅状態に陥りました。
漁師さんたちは、家族や親族、友人を失い、家を失い漁具も全て津波によって破壊され流されました。
全てを失った方々は一旦廃業も考えましたが、やはり「浜で育った自分たちには漁業しかない」と、さらに「震災以降、いろんな人のお世話になったから、復興の証としてまた立派なワカメを育てたい」と言って見事に漁業の復活を遂げられました。
 昨年11月に種付け作業を行ったワカメが、半年の時を経て収穫の時期を迎えています。例年、この時期だけは、季節労働者が多く訪れ、浜の人口は平常の2倍以上に増えます。
 救援隊は七年前、収穫を目前に控えた時期に震災・津波に見舞われ、職を失ったワカメ漁師さんたちが、一時あきらめかけた三陸ワカメの養殖の復興の証として活き活き作業に励まれている姿を見て、少しでも復興のお手伝いになればと、漁師さんから譲っていただいたワカメを販売しています。
 薄利ですが出た利益はまた、被災地に還元できるようにしております。
救援隊が支援を行っている地域の一部であります宮城県石巻市小渕浜は残念ながら本年は、寒い日が続いたことで海水の温度も上がらず、また、海流の変化、その他さまざまな気象条件の悪化によって育ちが悪く不漁の年となりましたが、それでも少しでもお役に立たせていただきたく、販売させていただいております。

 なお、大切に育てられたこの「三陸ワカメ」はワカメのなかでも最高級のブランドで、そのほとんどが築地市場に持ちこまれ後、高級料亭や高級ホテルに販売され、なかなか関西に出回ることも少ないと聞き及んでおります。
 お買い求めいただくことが、復興の足しになりますのでどうぞよろしくご協力をお願いいたします。

投稿No 445 楽しく前向きな心の大切さ 訓練生  男性 70代  

 ある時、お腹に今までにない症状があり近くの医院に行った。その結果、念のためにとの医者の勧めで、病院で内視鏡検査を受けることになった。結果は心配することではなかったが、その後の調子がむしろ悪い。医者が薬を色々替えても回復しない。
 そんな状況が半年続いたある時、たまたま孫がヨーグルトやミルクを今はやりのグラノーラ(穀物加工品等)に入れて食べているのをみた。私は元々それらの乳製品が嫌いで全く口にしなかったが、試しに食べてみると美味しく感じ、好きになってきた。それとともに、徐々にお腹の調子は健常者レベル近くになり、今や朝食のメインの一つになっている。
 加齢とともに心身ともに思うようにならないものだと思っていたが、体調不良に出会い、楽しく回復する機会が与えられ、何十年も続いていた弱いお腹の調子が随分回復した。前向きな心におかげがある一例だと痛感する。 

投稿No 444 『神様はご主人。自分は奉公人』 訓練生 男性 70代  

 このみ教えは、商家の主人(神様)と奉公人(従業員)の関係のもとで、奉公人がご主人のために一生懸命働けば衣食住はご主人から保証されるという玉水教会の根本であるみ教えである。
 ところが今まで、私は色々考えてもその意味がすっきりとは解らなかった。自分に与えられた役割達成に向けて努力するのは当然である。となると、「そこそこする」から「とことんする」までの間で、どの程度することが奉公人なのかと、その部分で随分悩みつつ、遭遇する様々な課題に自分が納得できる限界まで取り組んできた。
 しかし、こうした行動はみ教えの思いとチョッと違うのではないかと事ある度に思い続けていた。これまでの自分の行動は『人事を尽くす』ことであり、『奉公人』のそれとは異なると感じつつあったからであろう。
 この2つの姿勢の違いは何か。それは『心』の在り方であると漸く気付かされた。奉公人の心とは、心配を引きずらない、我を出さない、腹を立てない等々の心、一言で言うと、結果は神様(ご主人)にお任せして、『ままよ』とほうっておく心である。勿論毎日、私なりにそうした心に向かう努力はしているつもりだが、それよりはるかに高いレベルの心である。お結界のお取次ぎを頂きながら、少しずつでも進めさせて頂きたい生涯の課題である。

投稿No 443 今頃になってようやく・・・・・ aki 男性 70代  

 数年前に地区信徒会で信心体験発表した時、そのために過去のおかげを蒙った事の記憶を整理していると、神様のおかげ、そして神様を通じてどれだけ多くの人のお世話になったかをつくづく思い知りました。
 初代大先生七十年祭奉迎百萬人勢祈念では家族以外の人のご祈念をしましょうと言われていましたが、私はその気になれず出来ませんでした。
 しかし、信心体験発表後は自然と、お世話になった人や今は亡き人のお名前とお顔を思い出し、お礼と御霊の道立てをご祈念できるようになりました。
 今頃になってようやく家族以外の人のご祈念が出来るようになったことを有り難く思っています。

投稿No 442 人生を振り返って見る 遊峰 男性90代  

 神様にご祈念をさせて頂く時、わが心が神様に向いているかと問うてみる。人間は何も無ければ、通り一遍のお礼しかできず、自己満足しているのではないか。一旦難儀が生じ、逆境に陥るとどうしよう、どうしようと思い詰めて、先が解らなくなる弱い人間である。初代大先生はそんな時は信心を忘れてしまっている、何事もおかげを頂く時がきたと思え。どうかと思えば、どうかしかならない。一心に御願いをすれば、事がおかげになるとご理解下された。

投稿No 441 自分の物差しで、神様を計る 短い物差し 男性80代  

 他人事なら笑えますが、自分が難儀に会うている最中なら、いつの間にやら神様へ不足を云うてます。「これだけ熱心にお参りもし、ご用もさせてもろてるのに、なんでこんな目に会わんならんのやろ。神様や教会にこれまで頭を下げっぱなしやったこのわしは、ただのアホやったんとちがうやろか。格好だけの案山子みたいで、なんの値打ちもないことをしてんのんと違うやろか。ほかにもっとええ方法があるのやないか」。私自身が何度繰り返したか分からん文句です。この私の物差しとは、私の欲や考えです。もしそれと同じことを人が言えば、アホなことをと、かわいそうにと思うのに、それが自分のことになると、まったく別です。なんでですやろ。本当の信心をすれば、ここの違いのわけが見えてくるそうです。もっと教えてと頼んだら、「今日までどれくらいお蔭頂いてるか、それに気がついたら、ほんとのお礼を言え、それでやっと分かるんや。あんたはまだそれに気がついとらんだけなんやで」と言われました。自分や人のことを計る同じ物差しでは、神様のお蔭は計れんそうです。どこかに「神量かんはからいは奇くすしくて、人の思いぞ及ばざる」と書いてあるそうです。

投稿No.440 先のすぼまる事は願えん 迷走ライダー 男性60代  

 四年前の夏 耐震工事中家内と参拝し記念館のお広前でお取次ぎ頂きました。私は父が始めた仕事を継いだのですが家内が将来へ向けて商売の縮小閉鎖をお願いしたら大先生のお取次ぎは『先のすぼまる事は願えん』と厳しいお言葉を頂きました。筋からいけば私がお願いしなければならんところを家内がしてくれました。パシーンとはたかれた衝撃が心に響きました。でも全然痛くありません。それどころか勇気百倍頂きました。「先のひろがる事なら願ってもらえるのや よし もう一度がんばる」と町工場の再スタートです。新部門を取得の為所轄の役所へ申請しました。多くの人に力添え頂き新たな資格を頂き仕事の幅を増やせました 。私の心を大先生にリセットしてもらいそして家内が再起動スィッチを押してくれました。業界は大手メーカーに囲まれ個人商店は厳しいですが商売に取組みました。しかし去年の夏売上があとがないところまで落込みました。「どうぞ商売繁盛おかげ頂けますようお願い申し上げます」と電話でお届けいたしました。11月のはじめでした。それから仕事を順調に廻して頂き7月から10月まで4ヶ月の赤字を11・12月で消してもらい新年を迎えるおかげを蒙りました。70歳を目前にして今の私は信心の幼稚園児です。それは今までお話聞いたり参拝するだけの格好ばかりで心が何も信心に取組んでいませんでした。四年前『先のすぼまる事は願えん』のお取次ぎが頂けたからこそ今日があります。大先生に一歩でも半歩でも近づけるよう信心させてください。先のひろがりますよう宜しくお願い申し上げます。ありがとうございました。

投稿No.439 ハニートラップ 白きたおやかな嶺 男性70代  

 ハニートラップと云う言葉をご存じだろうか。文字通り甘い罠である。普通使われるのは政界やスパイ活動において敵に美しい女性を送り込み、相手の油断・誘惑をしかけ敵の秘密かつ重要な情報の入手を行うときに使われる。しかしこのての戦術は古くから日本にも有り、例えばくノ一忍者もこの種の活動に当てはまるのだろう。男が女性の誘惑によわいことを利用している。                                      これは誘惑に負け易い人間の習性を良くあらわしている。何も異性の誘惑だけでなく物欲、お金、権力などの誘惑に弱いのが人間である。特に昨今WEBの利用のなかで他の情報が容易に手に入れられるので、その情報のもつ誘惑に陥れ易い。例えば食欲つまり美味しいものの誘惑にも我々弱い。端的にはバイキング料理などはつい欲張っておおくのものをとりすぎつい食べ過ぎになり胃が苦しくなったり、太ることになるのではない かと後から後悔してしまう。渡る世にはこの疑似ハニートラップはいたるところにあるだろう。                                  しかももっと些細なミニ・ハニートラップのようなものは日常生活ありとあらゆる所に存在する。信号が赤でも車が通っていなかったらつい走って渡ってしまうことはないだろうか。ついつい許されると勝手に思い込み、行き過ぎたことをして仕舞う。例えば子供や自分より弱い立場の人についぞんざいな言葉を発し足り、上から目線になってしまうことも信心ではトラップにつかまっているのではないだろうか。直ぐには反応がでなく卑しい優越感に浸れるこの種のトラヅプは特に要注意である。トラップのつけ、めぐりは後からやってくるので分かりにくい。                       初代大先生はこの手のトラップ・誘惑を心のタヌキと分かりやすく表現された。タヌキは実にうまい口実をつかってハニートラップを仕掛けるので用心・用心である。昨今良く聞く言葉に、頑張っている自分に御褒美を、とつい身分不相応な買い物や生活をしてしまうことがある。なるほど時には自分に御褒美をすることもいいことではあるが、問題は直ぐ実行しないでワンクッションを置くことである。時間をおくことでより冷静なそして適切なご褒美の案が実行できると思うのだが、どうであろうか,昨今心のタヌキがハニートラップとしていたるところにある。お結界で最後に「気をつけて」と優しく云われたらこのハニートラップに引っ掛からないように気をつけようではないか。

投稿No.438 2時間ドラマを見終わって 白きたおやかな嶺 男性70代  

 年末年始は特別な期間である。テレビドラマや映画も特別番組が普段より多くあり、なにか休暇気分を高めてくれる。そんな中に年末一つの時代もんの2時間ドラマを楽しんだ。原作者が私の好きな藤沢周平であった。ドラマは薄幸の江戸時代の主人公が遅咲きの幸せをつかみ取るストーリーで藤沢周平らしい人生の悲哀・人情を豊かに描いていた。主演、脇役大勢の俳優さんもそれなりに役柄になりきっていた。その物語りに深く感動を覚えたことに違いないが、今回その内容以上に心を揺さぶられることを体験した。
通常ドラマの物語りの最終シーンでは音楽が静かに流れて行くなかに、主演俳優からそれぞれ脇役の多くの俳優の名前が画面に流れて行く。それからスタッフの人達が順吹紹介されてゆく。演出、道具、照明などいろいろなスタッフが長々と紹介されてゆき、最後に監督の名が大きく映し出されて行く。 しかし、それだけではこの最後の紹介は終わらなった。協力した会社、地方、組織などつぎつぎとと紹介されてゆく。私が感動したのはまさにこの箇所である。たかが2時間のドラマにこれだけ多くの目には見えない裏方や組織などが協力して作り上げていたのかと思うとまさにドラマにはない新鮮な感動を与えてくれた。
ひるがえって我々の人生はどうであろうか。 2時間ドラマでもかくも多大な労力が費やされているのに何十年もの人生を過した私を支えた人・協力した人・士地・組織など映画のように書きだして紹介すると膨大になること間違いない。隠れた協力者・お世話になった人達など数え切れない膨大な人数になるであろう。その方々の更に後ろに神様のお世話があったとしたら、我々はこれまでの過去を感謝・お礼を申しあげるのは不可能に近いかもしれない。年末の2時間ドラマを見終わったあと暫し感慨にふける私であった。

投稿No.437 レッドカーペット 白きたおやかな嶺 男性70代  

 外国の映画の表彰式、有名なのはアカデミー賞などの表彰式で映画俳優がカップルで赤い絨毯の上をそぞろ歩いているのはよくテレビで紹介されている。その時歩くのは決まって赤い絨毯、つまりレッドカーペットである。また外国の大統領などが訪問先の国の空港でタラップからおりてきて出迎えの方と握手したりハグするのはまたレッドカーペットの上である。このようにレッドカーペットは特別に選ばれた人達がある特別な機会に歩む赤い絨毯の小道である。いわば選ばれた特別な人達の特別なそぞろ歩きの小道である。  ひるがえって我々普通の人達にそのような機会はあるのだろうか。いや殆どないに違いないと思っていた。当然私の人生にもそのような機会は考えられないと思い込んでいた。しかし、最近ふと早朝の人気のない教会への朝参りをいつものようにそぞろ歩いていると、ひょっとしたらこのそぞろ歩きは人生のレッドカーペットを歩いているのではないかなと突拍子もなく思えてきた。 別に表彰台にいくものではないが玉水教会という大阪の聖地で神様や歴代大先生にお会いしていただくための特別な機会を毎日頂いているのかもしれないと思い出した。私の場合大阪駅の桜橋口からドーチカの地下街、それに地上にあがり渡辺橋、肥後橋、旧玉水商店街のこれらの歩道に早朝には私専用のレッドカーペットがしきつめられているのである。毎朝その上を歩かしていただいている充実感に浸っているこのごろである。  さらにやがて誰にも訪れる人生の終着駅・臨終にもこのレッドカーペットが用意されているに違いない。臨終の門をくぐるなり多くの先人の御霊様に迎えられながら歩むレッド・カーペットがそこには有るにちがいない。そしてゆっくりとレッドカーペットを歩く先にはまばゆいばかりの誰かが迎えてもらえる地があるのだろう。ただし、レッドカーペットを歩くにふさわしい徳を生前積んで置けばの話しだが。こんなことを考えるようになった昨今だが、いやまだまだこの世で宿題が多く残されており夏休みの終わりの小学生のようになにから手をつけようかと悩んでいる昨今である。

投稿No.436 難儀と信心の稽古 あざみ 女性70代  

 玉水教会というお徳に満ち溢れた教会にどっぷりと浸っている自分、いつも助けて頂いて数々のお蔭を頂いているのに自分の信心は全然できておらずお礼が全然足らないでいる。神様は私にどの様になれと求められているのかわかりません。でもなんとか神様に使って頂ける自分にならせて頂ける様に願っています。 自宅の隣は炉端の店ですが、換気扇の音が非常に強く夜中まで続くので寝れません。耳栓をしても、寝場所をかえても、お酒、薬でも駄目。仕方が無いのでそんな時には遅くまでテレビや本に頼っています。二時間程度で目が覚め、それから一、二時間寝付けない事も。お休みは日曜日なのですが、そんな日に返って寝れません。その事だけは御願いを聞いて頂けないのです。良い方法があれば教えて下さい。難儀はわが心、安心になるもわが心だと教えて頂いております。一心の祈り、とても難しいです。お礼もまだまだ足りません。勉強させて頂きたいと思います。

投稿No.435 お取り次ぎ あざみ 女性70代  

 修徳殿に入殿させていただい折りの意見交換。ある方のお話し、病気の回復の見込みはないと医者から云われ、教会に参拝して祈願成就を願っているが、いつもお結界でお取り次ぎが頂けないと云われる。私達には理解できないことですが、そんな時こそ先生にお取り次ぎを頂いて信心の稽古に一生懸命、そしてお蔭を頂く時だと思うのです。自分一人の祈りでは駄目で、先生にお取り次ぎを頂き祈って頂くことによってお蔭を頂けると思います。でも必ず自分の思う通りのお蔭を頂けるのかわかりません。神様が最善をつくして下さってもここ迄しか出来なかった、この人の為にはこの方が良いのだと思われての事もあります。神様は常に私達の傍にいて少しでも良い方へと願って下さっています。 輔導の先生から伺った話、お取り次ぎを頂いたのだから、もう痛みも治ったのだとお礼を申し上げた。その夜はまだ痛みもあったが翌朝には治っていた。それぐらい神様のことを信じることが大切です。

投稿No.434 大きなおかげ 匿名 女性代  

 八年くらい前ですが、私は目上の人に人格を否定されるようなとても辛い事をされて、すっかり自信をなくして落ち込んでいました。私が信心するようになったきっかけは、なんとかその人を改心できないかとおすがりしたからでした。その考えは甘くおこがましいことでした。その人は全く変えられなくてあきらめました。でも、そのきっかけがおかげだったと思える今の私です。
とにかく、広前にすわると気持ちが落ち着き、心が浄化できて安心のカプセルで心を満タンにして強固な意思になって帰宅できるのです。大丈夫、大丈夫と頭をなでられ、背中をさすられている気持ちになれるのです。その大きな羽の中で、もしかしたら不幸の種は自分が過去にまいたからかもしれないとも思えるようになってからは誰もせめられず、立ち向かってのりきっていくことが、生かされている使命かもしれないと思えるようになってきました。私にとってその気づきを頂戴できたことが大きな大きなおかげなのです。

投稿No.433 お庭掃除 訓練生 男性60代  

 ある方の発案でお教会の北お庭のお掃除をさせて頂いた。これまで、私もお庭を見ながら暫く身体を休めたりボーと考えごとにふけったりしてお世話になっているお庭だが、お掃除のことを気付かなかった。雨上がりの直後で幸いにも土も柔らかく雑草の根っこまで抜こうと心を集中、やり始めると止まらない。 お掃除というと、瓜破奥城建立後も先祖のお墓が阿倍野にも残させて頂き今に至るが、父が死去後、私がそれまで気にも留めていなかった先祖のお墓を月に1度掃除し、最後にお礼のお祈りをさせて頂いている。苔の中で芽を出す、短く、取り分け地面にへばりつく雑草抜きは手の指の爪先を土で真っ黒にして続ける大奮闘となる。時間がないから早く抜こうと力を入れると途中で切れ、根っこの先まで抜き取れない。翌月墓地に行くと結果が明確に表われる。ここでも焦らないことや実意丁寧が求められる。 そんなことを考えながらお庭のお掃除をしていると、私が幼い頃、祖母が1日中腰を屈めて苔の間に生える草取りをしていた姿を思い出し、懐かしい何かホッとした心になる。こうした記憶が無意識ながら蘇り、お教会のお庭のお掃除も更に大きな喜びの心でさせて頂ける。 子供達は知らず知らずのうちに、親や祖父母の姿を目や心に焼き付ける。信心継承に向けて何か一つでも自分が変ったと思える姿を子孫に残したいものだ。

投稿No.432 玉水わっしょい 訓練生 男性60代  

 二代大先生30年祭奉迎『玉水わっしょい』が6月19日に開催され、彌壽善先生から初代大先生の求道のお姿や二代大先生のご幼少期から終戦に至るお姿をスクリーンのお写真も交えご教話頂きました。初代の「お結界で死んでも良い」とのお言葉や終戦までの約10年間に何10キ口も痩せられた二代大先生のお姿を通して、神様の心を求め続けられたお話に感動しました。私は30年前、丁度二代大先生ご帰幽の直後、大病のため東京で生死をさまよっいたのですが、起死回生のおかげを頂き、こうして元気に参加させて頂けている現在、これ以上のおかげはないと感じています。年齢を重ねて来ましたが、自分に甘えることなく、さらに恩返しの心を強くさせて頂きたいと思います。なお当日は、昨年末から決めていましたある用件を私に代わって、心よく引き受けてくれる友人が見つかったことも有難いことでした。

投稿No.431 理屈の世界と心の世界 訓練生 男性60代  

 複雑な今の社会の中で、人の目に見える行動自身を律する理屈の世界は勿論大切ではあるが、逆に、それらは理屈の間隙をすり抜ける知恵を出す余地作り出し、ややもすると『心の世界』の大切さを理解する姿勢が失われてゆく。 言うまでもないが『心の世界』とは、金光教の教えの根幹となる『実意丁寧』 『自分中心主義から脱却する』、『和らぎ喜ぶ心を持ち続ける』こと等である。 人間の心は目先のことでコロコロ変わる厄介なもので私自身も反省することは多々ある。しかし、折角生かされているのであるから、お祈りとお結界取炊で のお願いを通して、何かみ教えーつでも心の軸に据える努力を続けたいものだ。 主夫業に挑戦してきたが家庭の仕事の余りの奥深さに気付かされた私は、これまでの見方が随分変わった。そこで、理屈と自己主張を控えめとして穏やかな心を持ち続けることを改めて目標とすることにした。これもおかげのプロセスであろう。

投稿No.430 天地の恵み 東西南北 男性70代  

 私達は食事前に食べ物に対して手を合わせ、「戴きます」食事が終わったら、「御馳走様でした」と云っています。この意味は「天地の恵み」に対して、また私の口まで食事を届けてくれた方々、即ち、食べ物を作ってくれた人、輸送、販売、調理人、多くの方々に感謝の気持ちをこめて・・・・・・・・。         また牛、鶏、魚、これらの動物は私の食事の為に若い命をくれたものだし、植物だって同様の経緯を踏んできたものです。感謝をせざるを得ませんネ。一粒のお米だって残す訳にはいきません。 私が幼児の時は周りに居る人々、祖父母、父母、友達からの情報や経験で動いていた。当時はパソコンも携帯電話も無かった。全て自分で経験した知識や情報の積み重ねで暮らす時代だった。善し悪しも周囲の皆さんからの教えによって自分なりに判断し生活していた。 私は子供の頃、地下足袋にゲートルを巻いて田んぼに入り田植えもしました。蛭に刺されて痛い経験もした。田植えや稲刈りは短時間ですませ、隣の田畑の手伝いもした。その田んぼも稲刈りが済んだら、乾きます。その状態で土も畝にして、麦を造ります。我々が子供の時は「トン トン トンカラリと隣組と障子を開ければ顔馴染み、回して頂戴回覧板、教えられたり教えたり」と云う小学(国民学校)唱歌が有りました。 近所の方々が一つの井戸からつるべを使って水を汲んでそれを飲んだり、お母さんがお米に混ぜてご飯を炊いてくれた時代だった。当然お母さん同士で仲良くなり、子ども達も仲良くなった。今では個人情報保護法と云う法律などで守られているが、マンション暮らしだと、隣の人が何人家族でお父さんはどこで働いているのか?・・・・。この場合お互いが助け合って暮らす私の子供の頃の世の中に戻りませんか?ネ。      

投稿No.429 曇り空から晴れ 元気 女性40代  

 人間関係は難しいですね。 いろいろと、この世の中いろいろな事件があるけど、ほとんど勝ち負けの世界かもしれない。 皆、一人では生きられないのに、差別したりイジメがある。人は感情の血がかよう人間で、動物ではない。神様が人間界に導いて頂いたのはきつと何か定めがあるからだと思います。 皆もだけど、たくさん嫌な事経験したけど上向いて、顔は、空みやげて歩いて生きたいです。                                         恨みや妬みは、からだと心にわるいから。 みんなで、助け合いながら生きたいです。 朝も、小鳥達が、帰って来ました。 鳴き声が、気持ちいいです。 恨みや妬みは、からだと心にわるいから。 みんなで、助け合いながら生きたいです。 朝も、小鳥達が、帰って来ました。 鳴き声が、気持ちいいです。 ふれあいの

投稿No.428 神様にお願い事 スマイル 女性40代  

 毎日しっかりと寝て、しっかり食べる事を 目標に、したいです。 後は、余り嫌な事は考えないようにして 、良い事、楽しかった事を思い出して今ある 幸せを大切にして生きたいです。 神様にお願いしたら、ゆっくりでもいいから、お礼状を書きたいとおもいます。

投稿No.427 神様とおばあちゃんと私 ママかよこ 女性30代  

 私の家族は、祖母の代から金光教へ参拝のおかげを頂いております。私も幼い頃は、母や父に連れられ玉水教会に参拝させて頂いておりました。そんな私が、教会へお参りし、信心を意識し始めたのは大学受験がきっかけです。受験に失敗したが諦めきれず、父がご結界で私がもう1年浪人して、大学合格のおかげが頂けるようにとお届けしてくれたのです。しかし、「受からないから、ダメだ」とお言葉がさがりました。私は、その事を受け入れることができず、父にも親先生にも背き、大学がある東京で浪人生活をしはじめました。そして、父から教えて貰った銀座教会へ参拝させて頂くようになりました。同じ頃、父は私のためにもう 一度ご結界へ行き、神様のお言葉には背きますが娘のやりたい事をさせてあげたいとお願いしました。もう、親先生はウンともイイエとも言ってくれなかったといいます、、、その時初めて、私は大変なことをしたと、私のせいで長年信心をしていた父に神様のお言葉に背かせてしまったと。どうしてよいのかわからず、銀座教会で初めてご結界へ行きました。でも、初めてだし、涙が出てきて、何も話せませんでした。すると、二代教会長が目をつむり、下を向き、はい、はい、と誰かとお話をしはじめられました。少しすると、祖母の名を言い、あなたのお母さんですかと、、、驚きと混乱です。祖母は小学生の頃に他界していたので、祖母の御霊様が私と一緒に参拝してくれておりました。 その後、何とか自分の言葉で父のこと、私のことをお届けさせていただくことができました。 その後再び受験に失敗し、代わりに神様にお伺いをたてながら生かさせて頂くことを学び毎日、安心した日々をおくらせていただいております。 あれから15年が経ち、一児の母となり、神信心を末の末の代まで教え伝えてゆきたいと願い、ここに投稿します。

投稿No.426 愛について 桃源郷 男性70代  

 一つの愛も成せずして どうして多くの人を愛せよう まず自分を赦そう 自分自身を愛しきろう 自分の中に世界がある                あなた(私)が無かったら、世界はあるでしょうか。嫌いな人も好きな人もあるのでしょうか。私たちは自分を通してしかこの世界の森羅万象を見ていない。だとしたら、自分のありようによって、この世界はそのような世界として存在するのです。  多くの人を愛したいのであれば、自分自身を愛することが先だと思うのです。自分自身を愛するということは、善い自分も悪い自分もひっくるめて丸ごと自分を素直に受け入れることです。赦すということは、悪いことをしたけど赦してあげようではない。赦すということは神の分霊である本心がこの3次元の世界で働いているから、その光にふれてこの世の業が現れて浄化・消滅していく、その本心の働きを認めることが赦すということではないでしょうか。そうした本心の働きを善と認め、この肉体は本心の尊い働きの場、器であることが分かったとき人は真実自分を愛している人となる。自分を愛するということは、自分の本質である神を愛すること。自分自身を愛せる人は、多くの人々を愛せる人でもある。世界は私の中にあるのです。

投稿No.425 初代大先生 遊峰 男性90代  

 初代大先生は神様であった。いや神様である。何でも、人の思っている心の内とか、病気している人の思っている事とか、恐いようであるが、人の難儀な事をいち早く見抜かれた。初代御幸教会長、熊田秀雄師のお話しによると、終戦まもなくの頃、その当時は広島から大阪までの往復運賃は5円であった。熊田師は親戚、友人から借り集めて、その運賃を工面し,玉水教会に参拝、初代大先生にお届けをされた。お届けが終わるなり、初代大先生は、「この人は自分のことでなく、人の願いを受けて,5円の工面に難儀してお届けに来られた。20円あげておいて」と。熊田師は帰路、大阪駅にて土下座しお礼の涙が止めどもなく流れ、何もかもお見通しであったのだと大先生のお慈悲に感涙された。また、ある信者さんの話し、仕事で三つの問題をかかえていたが、二つまで解決の道筋がわかるが、あと一つどうしても解らず難儀しているとき、通り合わせた大先生が「何を考えているのや、それは・・・・」と難問を解かれた。また、ある信者が肝臓を病んで大先生にお届けになった。大先生が神様に取り次がれると,神様から「その信者の願いは知らん」とのお告げがあった。その方には、よほどのめぐりが深かったようであるが、そち(その方)のことは引き受けたと初代大先生は神様と対峙され、何としても助けてもらわねばと一生懸命ご祈念をされ、一週間でおかげを戴かれたという話を聴かせて頂く。徹し続いたご祈念が必要だなぁと思った。 

投稿No.424 親心 遊峰 男性90代  

 オギャと生まれた赤ちゃんに、親なればいい子に育ってほしいと願うのは当たり前のことである。でも、いい子っていったいどんな子を言うのかと思う。明るく素直で健康で、しかも成績が良くて生まれながらにしていい子を求められている子ども達。そのために、子どもに塾通いや習い事などを強いてしまう親たちが多いのではないでしょうか。少し考えてみると、我々も父さんや母さんの子ども、自分は本当にいい子だったか。また、子どもに圧力をかける親ではなかったか。親として子どものいい手本になってきたかどうか振り返りたい。子どもは親の願いどおりではなく、心どおりに育つのだ。親も人、子どもも人であり、親としてよい心を映す鏡になりたいものだ。

投稿No.423 我が信心の遍歴 桃源郷 男性70代  

 私のお参りは母に負われた「ねんねこ」の中の朝参りから始まった。終戦前後のことで勿論自分の意志があったわけではない。名前は初代安太郎先生につけて頂いたが少し読み辛くて時に人をこまらせた。親に命名の由来について訊ねるのも詮ないこと故聞かず仕舞いに終わったが後年、大先生の御心に想いを馳せ?「神こそあなたの唯一の理解者だよ」と自分流に解釈することにした。 親に心配かけないことが信心の第一歩、お願いごとをする前にまず生かされていることへの感謝、その後にお詫び'お願いとの手順を教わりそれらをキーワードとして信心に専念したが、真剣に取り組むほどに自分の想いが救いがたいものとして感じられ罪悪感から、自分を責め裁く不安で苦しい日々が長くつづいた。明るさ、快活さを失い外から見ると暗くて融通の利かない嫌な奴と映ったに違いない。 その後の人生は「人間としての真実(ホント)の生き方」を教えてくださいと神と対峙する日々の連続であった。仏教、キリスト教など宗派を問わず説教・講話会を見つけては労を惜しまず足を運んだものだ。何年もの時を経て、経験を重ね一段上の次元から自分を見ることができるようになったとき、自分の弱さを赦してやることの大切さに気付くことになった。そのとき初めて人も自分と同じように苦しんでいるのだと知り、自他の境界は消え本当の赦し、他者への慈しみの心が芽生えてきたように思える 信仰を志すような人は(時にとらわれの危険性もあるのですが)本来善人であり自分に厳しい生き方の人たちです。私の周りを見てもいい人ばかりです。自分の善なる本質(神性)を確信し因縁性として顕れてくる嫌な自分(消えてゆく姿=浄化してゆく自分)とはっきり区別して迷いのない人生にしたいものです。

投稿No.422 「自分が良い友人になる努力」(三代大先生の追慕勢祈念から) 訓練生 男性60代  

 三代大先生の追慕勢祈念の数日前に幼友達から喪中の葉書が届いた。それは昨年母を亡くし、続いて気落ちした高齢の父が心身の調子を崩し、最期は自宅で看取ったという内容で、私自身が昨年親を亡くしたためだろうか、何度も読み返し私の心は動かされた。 そう思いながら何日か経った勢祈念の前日、本人にご挨拶に対するお礼の返信をメールしようと思い立った。一通り書き終わり、ふと、その昔、小学校の修学旅行で私がこれまで保管していた写真をメールに添付した。それは、天保山から船にのり四国方面へ行く船上から、見送る多くのお母さん達の姿を私が撮ったものである。ただし、返信しようとする友人のお母さんが写っているかを細かく見たが遂に記憶が蘇らないままの発信となった。そして発信後しばらくして、早速その友人から返信があった。添付した写真に対するお礼のメールである。「写真には自分の母やこの秋久しぶりに東京からやって来た友人のお母さんも写っている。ありがとう。健康に留意して来年も頑張ろう。」とあった。私の心を動かした喪中の葉書が昔のお母さん達の写真に繋がり、幼友達の心を動かしたことになる。素晴らしい友人の存在を改めて気付かされた勢祈念前日の出来事であった。  勢祈念当日の三代大先生のお話(録音)のなかにあった『まことのおかげを求めるにはまことの信心が大切で、それは良い友人を探すのでなく自分が良い友人になる努力と同じである』とのお言葉は、『まことの信心に向かってさらに自分が変るよう頑張って…』との私に対する励ましであると思っている。誠に有難い。

投稿No.421 感情への感謝 桃源郷 男性70代  

 揺ぎ(ゆらぎ)は物理や生体科学の領域ではプラスの働きとして重要な意味を持っていますが、平易にいえばたえず変動している状況であり、頭に心のという修飾語がつくとたちまち「心の動揺」として悪いイメージをもつ言葉に変容するようです。 自分の来し方を省みても今日まで絶対的信念を持って生きてきたかを問われると全く自信はない、しかしこの迷いは身分・立場を超えていくつになっても人間共通の性であり生きていることの証ではないでしようか。 時々刻々揺れ動いている感情とうまく折り合いをつけて愉快に生きていくには感情想念を押さえつけるより赦し愛することだとの思い至り日々次のように祈ることにしました。    感情への感謝 感情さん、あなたは私が生きていく上で潤いと心の豊かさを与えてくれる大切なものとして、日ごろのお働きに深く感謝しております。 私は今までともすると自己中心的な意識から感情のバランスを失い、不安、恐怖、怒り、悲しみ等の想念を発し自分や人を傷つけ嫌な思いをしてきましたが、それらは全て自己防衛から起こってきたことでした。 私は今そのことに気づきました。ですから、私は今それらの感情想念を感謝をこめて解放いたします。ですからあなたも、不安、恐怖を捨てて下さい。私という人間が神の分霊にふさわしく明るく爽やかに輝いていくよう、あなたと協力してあなたを益々純化させていくようにします。有難うございます。

投稿No.420 ご聖地にて 寅馬じいじ 男性70代  

 先週、御本部へ参拝の折のこと。早朝の金光様お出ましをお迎えしお広前でのご祈念の後、歴代教主奥城への坂の途中、空に目を向けると、木立の間の澄んだ空に明けの明星(金星)、木星、三日月が寄り添って明るく輝いています。三日月を口元にあたかも微笑んでいるように見え、滅多にないこの景観と今ご聖地にいることが相まって有難さに感激もひとしおです。まさに「光と慈しみの中で」の境地です。  その昔、祖母に連れられこの地にお国参りさせて戴いておりました。今祖母と同じ年になり、祖母の祈りの域にたどり着いているのか甚だ疑問です。自身や周りの人達の立ち行きを願い、信心を後に続く者達に伝え、更には信仰を教え広める御用が出来ればと、今回の感激を機に、一層の信心を進めさせて戴くことを願うばかりです。  今回は初めての投稿で少し気取っていますが、私にはいつか吐き出したい想いがあり、次回はそれを綴ってみたいと思います。

投稿No.419 子孫へ徳を引き継ごう 訓練生 男性60代  

 40数年にわたり企業戦士としての生活を終え、早いもので何年か経過した。命を落としかけた大病での入院や厳しい処遇等、辛いことも色々あったにも拘わらずそれらを全て克服させていただき、会社では微力ながらそれなりの成果をあげることができた生活であったと思える。真に幸せである。  他方ふと、これまでの家族との思い出を振り返ると、驚くことにほとんど何も出てこない。企業では効率性と成果達成が最優先であるため自分を中心に考えざるを得なかった。私の周囲にも、朝8時から夜10時まで会社で仕事を処理し、夜帰りがけに部下にメールで指示、翌朝その部下の仕事ぶりをトレースするような人間もいた。「戦後の企業戦士の時代は皆そうですね」と慰めの言葉もあるが、このままほっておくと自分中心主義・我の塊という『負の財産』を大切な子孫に引き渡すことになるのではと心が痛む。 仕事一辺倒の生活を続けてきた人は、会社を離れてもこれまでの生きざま・過去の栄光を守るため、加齢と相まってますます我が強くなる人が少なくない。このようなことは、我々が目指したい目標とは全く異なるし、周囲にも迷惑になる。    『家庭を円満にする』、『腹を立てないようにする』等、我を取り除くテーマは色々あるが、 どれ一つとっても簡単に解決しない。効率性ばかり求めて来た私を含めた人間に課せられた大きな課題である。具体的で身近なテーマを決め、それを神様との約束ごととし、毎日自分の心に神様を祀りながら一歩ずつ前進することが大切だと痛感する毎日である。 人間が徳を積めるのは70歳からだともいわれている。子孫や周囲の人達に徳をつたえられるかどうかは自分の努力にかかっている。

投稿No.418 「ある日の述懐」 IZZY 男性70代  

 私は、初代大先生の「なあ・・有り難い・・結構やなあ・・」で、始まる「ある日の述懐」に感銘を受けます。大きな教会になっても布教の志を大切にされ、「ご恩報じに、本当の金光教、純粋の金光教を伝えたい。それが、せめてもの、ご恩報じに思うている・・・」そして、「本当の金光教が衰える亡びるという事は絶対にない。これは神様の立てなした道やから・・・どうぞ、そのお道を履みはずさんようになあ」と言いきっておられます。私などには、戦後の貧困時代に今日の恵まれた生活など想像するすべもなかったのですが、人生の紆余曲折を経て、今になって、あれもおかげ、これもおかげであったと痛感しております。私は「本当の金光教が衰える亡びるという事は絶対にない」と断言されたお言葉を信じています。尊敬する初代大先生には到底及びませんが、純粋の金光教を追究し、ご恩報じをさせていただける自分になりたいと願っています。

投稿No.417 鈍なひとりごと ちょっと鈍い人 女性60代  

 「おまえはアホやからな、何もできない人間やから何もするな!だけど、お参りだけはさせてもらえよ」と言って父がなくなりました。父が亡くなって10年が過ぎ、今では家族で御用も頂いています。父が私の為に必死にウシロ祈念をしてくれているおかげです。「もういいかげんゆっくりさせてくれや」の声も聞こえそうです。先日の信徒会で「心配事は神様に持って頂いて、持たなければいけないのは一心の祈りと喜びの心です」のみ教えを、お土産に頂きました。とても嬉しいです。アホはアホなりに一生懸命させて頂いていると、神様が手伝って下さっていると感じます。ここまでお育て頂いている事へお礼を申し上げます。

投稿No.416 人が助かる教会 キャベツ太郎 男性50代  

 先日「人が助かる教会へ」をテーマとした教師・輔教集会へ参加しました。集会終了後、私は「玉水教会は、講師の指摘する《人が助かる教会》であるポイントを全て押さえている!!」との驚き,こんな素晴らしい教会に参拝できている喜び,歴代教会長先生・教職員の皆さん・各会で御用されている皆さんへの偽りならぬ感謝の気持ちで一杯になりました。 @ 【初代教会長の願い】これが本流となり、歴代教会長に受け継がれ、初代あっての今の教会・信者があると常に原点に立ち返る。 A 各種活動は信心の稽古=人の助かり又人を育てること。 B 特に青少年育成は、A同様信心が若人を育て、次世代の良きリーダーの出現を促す 以上3点が「人が助かる教会」であるポイントです。私は、多くの玉水教会信奉者の皆様方にこの現実を知って頂きたく、今回「ふれあいの広場」へ投稿致しました。  玉水教会が更に飛躍する為、我々信奉者が改善すべき点、挑戦すべき点が多々あると思います。皆さんどの様にお考えでしょうか?以前、信徒会N会長が「信奉者どうしの挨拶が足りない。仲間内だけでなく、お参りしているすべての人が挨拶を交わせる様になれば教会も活気づく。」旨お話しされました。私も同感です。正直恥ずかしいですが、私も実践しています。  講師は「徳のある教会は、畑の土である。」とお話しされました。我々玉水教会信奉者は、玉水の清き流れ、そして教えの一杯詰まった肥えた土壌で日々お育ているなぁと思う今日この頃です。

投稿No.415 初代大先生の思い出 冬の旅人 男性80代  

 初代大先生はいつでもどこでも、神様と直接お話しをされた。御結界だけではなく、お火鉢の前に座っておられても、道を歩きながらでも神様と対話をされた。救われたのは現世の人々だけではなく、あの世で彷徨える御霊までも救われたと聞いている。 初代大先生が阿倍野墓地のお塚に参拝されると、浮かぱれない亡者たちが待ち構えていて、初代大先生に救いを求めたと・・・。しかしお側にいる人々の目には何も見えなかったそうだ。幼かった子供心には真夏の夜の怪談話のようで怖かったことを覚えている。 初代大先生は参拝人の願いに対して「よっしゃ三日で・・・とか、よっしゃ一週間でおかげをいただこう!」とか、よく日時を区切って答えられた。逆に「あんたの願いはなあ~神様には取り次げん。ハイッ次の人・・・!」と厳しく叱責されることもあった。こうしてご逝去になる日まで、何千何万という人々の願いを受け止め、骨身を削りながら神様に取り次ぎ助けてくださった。現在、我々が目にする色紙「祈」のあの文字には、初代大先生がご生涯をかけて、私達のために流してくださった汗と涙の想いが込められている。 私の記憶に残る初代大先生との出会いは小学校4年生のときだった。左の膝小僧が真っ赤に腫れ上がり、化膿していたのか・・・痛みを伴って一歩も歩けなかった。手術の前日、学校を休んで母に背負われ御結界へ、「膝を切らずにおかげを・・・」と母と共にお願い申し上げた。初代大先生は私の顔をじっとご覧になって、「そらぁ~痛いなぁ~』と言われ、ご自分の膝小僧を擦りながら暫くして「よっしゃ立って歩いてごらん!」と言われた。不思議にも先程まで一歩も歩けなかったのにスタスタと歩けた。母と一緒に喜び勇んで帰る道すがら「これは奇跡だ!」と子供心に驚いたことを印象深く覚えている。左膝の痛みはその後、75年経った今日まで再発することは一度もなかった。

投稿No.414 節年 MK 男性60代  

 私の心の中には幾つもの時計がある。生まれた時に動き出したもの、結婚した時・子供が生まれた時、そして父を亡くした時に動きだしたもの。この時計は自分から信心を求めだした時と同じ時を刻んでいる。父を亡くして今年で9年、私が生を受けて父が亡くなるまでの55年間、父の深い祈りのもと大きな“おかげ”の中で何不自由のない生活を過ごさせていただきました。9年前から動きだした私の信心の時計は前を進んだかと思えば後へ戻るといういい加減なものですが、御霊となっても祈り続けてくれる父のお蔭で都合よく生活させていただいています。来年は父の10年祭を迎える節年、信心がどれだけ進むのか?楽しみにしているこの頃です

投稿No.413 ご神米 YM 女性80代  

 長男家族に平成21年8月27日長女、二女に続いて男の子が生まれ、私は「ありがとう」の気持ちをこめて有人と名づけました。二女のお誕生日である8月30日に合わせて退院できることになり、みんな大喜びで、長男の誕生を祝いました。 その翌日、思えば残暑きびしい真昼時でしたが、母親は近医でもありほんの軽い気持ちで乳児検診に出かけ、そのクリニックを目前にして知人と出会い立ち話をしている最中に倒れ、救急車で日赤病院に運ばれ、直ちに開頭手術を受け奇跡的に一命をとりとめました。幸い有人も額に傷を負っただけで無事でした。私は家を出る時、無我夢中で「ご神米」を手にし、泣き続ける有人に藁にもすがる気持ちで「ご神米」を産着の間に差し入れました。 病院からの帰途、神様のお計らいとしか思えない咄嗟の機転で、私は退院したばかりのクリニックに駆け込んで有人を預かっていただきました。9月14日には母親が勤務する病院の乳児センターに移る手筈が整い退院する運びとなりました。朝9時、私がクリニックに着きますと父親は既に手続きや挨拶も終え、ミルクを与えてもらっている我が子を待合室で待っていました。 看護士さんは、体重も増え穏やかな表情で眠っている有人を私に手渡され、最後にポケットから大切そうに「ご神米」を取り出して、「お母様の生命ですもの」とおっしゃったのには、「ご神米」を母親の生命と受け止めてお世話してくださったことに深く感銘を受けました。 日々一刻生命と対峙している看護士さんから「ご神米」は「生命」と教えられ、神様のお働きを改めて気付かせていただきました。

投稿No.412 書いて残す aki 男性70代  

 遺言書ではありません。母が一途に日参する姿を見て、私もお参りをするようになりました。母が信心を始めた理由やおかげについて聞いた事はありませんでした。しかし、母がお参りする事によって、子供乍らに何かが違うと思ったから、私も子供の頃からお参りしたのだと思っています。中学校を卒業する頃から、神様と玉水教会が身近な存在と思うようになり、そして二代大先生のお取り次ぎを頂きおかげを蒙ってきました。私は今年72才になり、 3人の悴達はそれぞれ家庭をもっております。私が元気な内に今迄のおかげを蒙ってきた事をなんとか悴達に話しておきたいと思う心が強くなってきました。どのようなタイミングで話せぱよいのか、口下手な私が話す事が出来るのかと考えておりましたところ、昨年と今年初めの地区信徒会で、私の信心体験をお話しする事になりました。お話しする内容を頭で整理しようとしてもまとまらず、しかたがないので書いてみる事にしました。書くのも苦手なのですが、パソコンの画面に向かって書くと、書き直し、訂正が簡単にできますので、私の若い頃の縁談についてまとめ、書いてあるのを読むような感じでありましたが話をさせて頂きました。そして、今年の地区信徒会で子供の頃から現在までおかげを蒙った体験をまとめて書き話をさせて頂きました。この二つの体験談を書かせて頂いた事と話をさせて頂いたことにより、私の心は非常にさわやかになりました。この経験で秋に悴達の家族を温泉旅行に招待して、この書いた体験談について話をさせて頂こうと考えております。

投稿No.411 引き継ぐ ムーミン 男性70代  

 特に「信心を引き継ぐ」という事を考えてみたいと思います。最近、ある雑誌に掲載されていた興味深いことわざが目に留まりました。ご存知の方もあるでしょうが、子(ゆず)の大馬鹿が面白くてすぐ覚えました。「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿十八年、人は一生成りならず」二代大先生が昔、青年会の集会で誰かの質問にお答えになったお言葉「そうやな、信心の目的は人間の完成やな」とふと重なりました。そして自分の気持ちが少し楽になりました。つまり、人間の完成というのは生きている間は普通の人には難しいので、だからこそ神のみ教えに従って生きる稽古、祈る稽古をしてそれを後世の子供や孫達が見てどう思うか、そこに真があるかどうか、あったかどうかが継承の分かれ道ではないかと思います。私の好きなみ教えに「親先祖を大切にせよ、神はこれ以上の喜びはない」があります。神とのつながりが一番わかり易く、私はこれで親先祖の喜ぶ信心の継承のおかげを頂きたいと願っているところです。

投稿No.410 やれやれはだめ、これからこれから ふつうのおばさん 女性60代  

 息子たちが私学の高校、私学の大学に通っていました。経済的にはとても大変な時期でした。息子たちが卒業する頃、ああこれで私は楽になれるな。やれやれと三日程思いました。それからというもの我が家では、嵐が吹き始め荒れ狂います。子供は病気になり倒れてしまう。一年後主人が両眼失明しそうになり、即手術致しました。おかげ様で回復、三代大先生のお取り次ぎで「目が見えんところやったんやで!」とすごい恐い顔をしておっしゃいました。次は私が病気になり、会社も一年間休職、現在も治療中。神も仏もあるものかと何度も思いました。甲子園球場のような大きなすり鉢状の黒い穴にはまり込んでしまいました。助けて助けてと叫ぶ自分の姿がありました。あれから20年、やっと静かな家になりました。気をゆるめないようにと思っています。大先生、彌壽善先生のお取り次ぎを度々いただき、この暗やみの中から引き上げていただきました。今はお礼の日々です。ありがとうございます。これからは微力ながら、神様の思いにそって行こうと思います。神様に気障りがないようにしたいです。  最近、おひばちでお話しを聞かせていただいています。初代大先生のお徳のつまったおひばちに、皆さん来られたらいいと思います。お徳をいっぱいいただけます。信心のお話しはとても楽しいです。勉強になります。

投稿No.409 おかげと恩返し(2) 訓練生 男性60代  

 その後1〜2日して、突然私の担当医が交代する。その新たな医師は検査データを自分の大学に持ち帰り複数の専門医の意見を仰ぎ、病気は重度の肺炎と診断され、適切な治療が開始された。絞れば汗が滴り落ちる下着やシーツを昼夜分かたず取り替え、痰で汚れたちり紙が毎日ゴミ箱から溢れるほどになる毎日で、入院・治療は1ヵ月半に亘ったが、医師や周囲のご尽力を仰ぎながら、徐々に回復の道を歩むことになり、1年間を要したが体調はすっかり回復した。 助かりたい一心のお届けがきっかけで、克服させて頂けた大病であった。その後も、仕事・親家族・その他で限りなく数々のおかげを頂いている。振り返ると、これほどのおかげを頂いてはいるが、それに見合った信心を進めさせて頂いてきたとは言い難い。これからは、み教えを一つでも毎日の実生活、取り分け家庭の中で意識して実行し、それを生活の中に落とし込み、自分が変わる努力を1年、5年、10年・・・と焦らず継続することで、何としてもこれまで助けて頂いた神様、歴代大先生への恩返しにしたい。『信心即生活』とあるように信心が生活に反映されて初めて信心となると思うからである。み教えの実行を私自身の神様とのお約束事として、恩返しの心で少しでも多く成就させて頂けるようこれから更に努力したい。

投稿No.408 おかげと恩返し(1) 訓練生 男性60代  

 東京で生活していた30年近く前の冬のある日曜日、余りの体調の悪さから近くの病院に行き当直医に診察してもらった結果、「即入院するように」との指示であった。しかし、入院翌日、翌々日になっても病名は告げられず、治療も始まらない。「こんな病院に入院していて良いのか」と私の不安は徐々につのり、入院三日目の夜、照明が消え薄暗い1階玄関口横にある公衆電話から玉水教会にお届けの電話をすることにした。お教会に電話で事態のお届けをすると、思いがけないことに一呼吸おいて、突然彌壽善先生が電話口に出てこられた。「大阪に向かってお祈りしておけば大丈夫、病院は今のままで・・・」とのこと、治療を開始して頂けた瞬間であった。その翌日の夜、思いがけないことを体験した。突然、三代大先生が私のベットの前にお出ましになったのである。お言葉はなかったが、数メートル離れた私と太い糸のようなもので繋がっている。昼夜分かたず40度を超える高熱が続く中でのことであるが、夢や思い違いでは決してなかったと今でも思っている。丁度、入院直後は二代大先生がご逝去され50日祭を直前に控えた時期であり、私が今こうして生かされているのは、幼い時から何かあったらお願いを受けて頂いていた二代大先生はじめ歴代大先生・彌壽善先生のおかげであると言い切れる。

投稿No.407 未熟なりに 凡人 女性70代  

 このお道で温かく優しいみ教えをいただいています。お礼、お詫び、御願いがそろっての信心が大切ですが、お願いばかりで真の信心ができていません。それでも、弱い身でありながら寝込まずここまで生かされました。み教えに「何事も体が元なり」とありますが、一番のおかげと思っています。問題が起こっても良い方向へと願うは常の事です。事の次第はお結界へお届けし、お言葉を仰ぎます。お言葉が己の思いと異なっても、それは神様のお言葉ととらえ、迷う心は持たずに我を通さず、和賀心で(これは難しいのですが)、しっかりと受け止める事と思っています。生かされた中には、勿論波風も有りましたが、加齢と共に少しは気付かせて頂き有り難い事です。み教えは奥深く、ご無礼お粗末の限りで、申し訳ないことです。かく言う私、親先祖の徳を食い潰しての今日で、真の信心の難しさを痛感しています。これからも、より信心の稽古を願っていきたいと思っています。

投稿No.406 我をなくす努力 訓練生 男性60代  

 随分以前のNHKの音楽番組でのことだったと思いますが、当時既に世界で活躍していた日本のあるピアニストが欧州の有名な指揮者について、次のようなことを話していたことを今でも覚えています。 「オーケストラとソロでの練習中に、彼が何も言わず私に眼を向けて指揮をやめることがありました。私の演奏に対する無言の指摘です。どこが悪いのかと色々考えてようやく解ったのです。それは、自分がうまく弾こうと思ったときに彼は指揮をやめるのです。私心があると絶対ダメなのですね。彼は大切なことを私に体得させてくれました。」 私心を『我』と、指揮者(彼)を『神様』と読み替えますと、私にはこのピアニストの言葉の素晴らしさは一層増します。 私達はお話を聴いたり本を読んだりしながら、日常の生活の中で信心を進めようと様々な方法で『我』をなくす努力をしていますが、なかなか難しいことです。音楽の世界でも同じであることをこのピアニストは語っているように思えます。 『我』の表われである『腹を立てること』を止めようとしても、「チョッとは自分も変ったなあ」と納得できる成果をあげることは難題です。それなのに、神様はさまざまなかたちでおかげを授けてくださっています。まことに有難いことです。 神様に甘えることも時として必要ですが、お祈りを通して、『我』をなくす努力を焦らず生涯の課題として続けたいものです。

投稿No.405 我が家の生神様 すみれ草 女性70代  

 我が家には5人の孫達がいます。嬉しい知らせを運んできてくれたり楽しい時間を共に過ごしたりと色々幸せを与えてくれます。週末には、近くにいる孫達が「ただいま」と、いっぱいの笑顔でやって来ます。あわただしい時間の始まりです。まだまだ手のかかる年頃なので、食事にお風呂に次々段取りをして動いていると、多少体調が悪くてもいつの間にか元気をもらっています。とにかく目まぐるしく時間が過ぎていくので、かなり脳の活性化にもなっていると思っています。「子供が喜ぶ事は、神様もお喜びになる」と私なりに御教えを頂いて食事どきも、孫達の事を優先しています。我が家の生神様やなぁと(笑)思いながら!孫達との関わりで、自分を見直したり、有り様を考えさせられる事も多々あります。先日M先生が「親から子、子から孫へと心と心の繋がりに魂が宿り働きが生まれる」とお話し下さった事がとても心にひびきました。孫達の成長とともに関わり方は変わっていくと思いますが、祖父母としての思いを繋げていける様またその役割と働きが出来るよう願っていきたいと思っています。とは言え今週は、小さな生神様達が長時間の滞在だったので、少々疲れました!!

投稿No.404 私の入信 カスミソウ 女性60代  

 私が18歳になったときに近所のおばちゃんが教会に連れていってくれました。昭和45年万国博覧会の年です。今でもはっきり覚えています。すごく広く凛とした神々しい何とも言えない感じを覚えています。そして「青年会に入りなさい」と言われそのまま入れさせて頂きました。私の意識には金光教玉水教会と言うより玉水青年会しかありませんでした。入会後まもなく、青年会の会報(冊子)の御用に使って頂き、その会報の御用のあるときにだけ来ていました。教会のお参りの意味もわからず、ただ青年会だけの御用でした。18歳から35歳まで青年会においていただきました。そして平成4年に婦人会に入れて頂き今に至っています。勤めていましたので土曜、日曜日のみの御用参加で、何もわからず知ろうともせず気楽で暢気な御用でした。平成24年1月17日に定年を迎え、婦人会中心の生活に変わりました。入会後20年経ってやっと、人並みまではいきませんが、何も知らない知ろうともしない、周りも見えない見ようともしない生活から一歩ずつ踏み込んで初めて、色んな事が見えて来ました、又分からせて頂けるようになりました。お祭りのこと、行事のこと、お道具のこと、お話しを聴くこと、人の大切さや喜ぶことを、まだまだ足りませんが一つずつ一つずつゆっくりと気にかけさせて頂けるようになりました。18歳からご縁を頂き、ここまで何もなく元気で過ごさせて頂き、こんな有り難い事はないと思わせて頂いています。元気な心で元気な体で御用にお使い下さいませ。

投稿No.403 天地の働きとお蔭 アイパッド 男性50代  

 私達は、日々天地のお働きとお蔭を受けております。太陽の働きで、地上の作物、生物は育ち気温、海水温は今のところつり合いのとれた状態で海における生き物も人間が生きる為に大いに役立っております。これはすべての人に与えられた天地のお恵みでありお蔭でありますが、大多数の人はあたりまえのことだと思っており、中には、そんなこと考えたことも思ったこともない人もおられると思います。天地の働きなくして人間は生きていけないものです。最近、経済活動が全世界に広がり、大気汚染、気温水温の上昇、森林の伐採、はたまた各地における戦争、最悪は原発の放射能汚染、天地は苦しみ、いずれそのつけは子孫にのしかかってくるものと思います。子供や孫いやその先の代まで天地の恵みを受けるためには、天地の中に生かされることに感謝し天地の働きが続くことを祈らせてもらい一人でも多くの人が生神金光大神、天地金乃神の信心をすすめることが大切であります。

投稿No.402 徳のある人 白きたおやかな嶺 男性70代  

 なんとなく暖かい包容力のある人、どこかオーラがある人が徳があるのだろう。そのような人は会社でも組織でも上に登り易い。反対に優秀で才能があるのに不遇にある人も多い。世の中はどうも徳が決め手であるようだ。ただこの徳はなかなか少々の努力、行動で積むことが出来ないが、教祖様や初代の大先生は一代で偉大な徳を積まれた。先生の真似はとてもできない、しかしせめてもの徳づみをさして頂こう。人生の残り時間は限られている。教会の御用、社会の御用、家庭内の御用などーつーつ小さなことを積み上げていこう。中でも私の感じる徳のボロモウケは、 (1) 人に理不尽なことで責められた時、自分を反省しその人を祈ること (2) 難儀に合っている人を勇気をもって手を差し伸べ、できればお手引きすること (3) 親の想い、先祖の想いを知ろうと努力すること などであるが、いくら徳を積み上げても“徳の浪費”をしていたのでは徳のある人にはなれないだろう

投稿No.401 神前拝詞はありがたい 白きたおやかな嶺 男性70代  

 ご神前(家でも教会でも)に居ても素直にご祈念に入れない事がある。雑念や自分流の世界からなかなか脱却出来ない自分がある、そこで神前拝詞をいただくと、このような自分から抜け出し易い。まるでお結界でお取り次ぎを頂いているようなものである。お坊さんがお経をあげるのもこの心の調子を整えるためでもあるのだろう。神様はお願いしなくても24時問自分の心の中をモニターされているので、お願いごとはお願いしなくてもよくご存じに違いない。神前拝詞をあげていると、これらの入り組んだ願い事を全て整理して吸い上げて頂いているようなものと思っている。言わばハンディーにお結界のお取り次ぎをいただいているようなものではないか。いつでもどこでも、もっともっと神前拝詞を頂こう。

投稿No.400 すぐに頂けるお陰 心の花 女性70代  

 今年のお正月は、二人のインフルエンザの人の世話をして過ごすことになったのです。日が経つにつれて10日の本年最初の月例祭にお参りさせて頂けるだろうかと気に成り出しました。7日頃から咳が出てきて苦しく、これはインフルエンザをもらったか?と思いました。何とか9日の日に家に帰ったものの、咳が続き9日の夜は布団に入っても咳で眠れません。ああ〜明日は・・・・・と思うばかり。私は毎日ご神米袋をハンカチに包んで一緒に休ませて頂いているので、その日は咳の出る胸に当て、どうか咳がおさまり明日の月例祭へと祈りましたら、いつの間にか眠ってしまい朝目が覚めましたら何と咳が出ません。胸も楽になっていてそれ以降一度の咳も無く、無事月例祭にお参りさせて頂けたのです。御神米のありがたさを教えて頂きました。 また、12日の年賀参拝を前にして御神酒(おみき)のありがたさを教えて頂くことになりました。11日の夕食に魚を食べました折、下手に骨が喉にささりさあ大変、痛い何も通らない、あ〜あ〜ばかり右の方に有るのはわかり乍らどうも出来ない、この時も明日は御本部だと思うばかり。その時ふと御神酒が頭を走り口に含んで、願って骨の所へ流し思い切って御神酒を吐きますと何と一緒に骨が出て来たのです。1.5cm程の少し太い骨が、何も言葉になりませんでした。ただ「ありがとうございます 」 これを何度か口にしただけでした。この二度の短時間でのお陰、素直にありがたく思わせて頂き、本当にすぐに頂けるお陰も有るのだと身をもって知らされました。御神米も御神酒も充分に祈られている事を実感しました。

投稿No.399 頭がシビレる 白きたおやかな嶺 男性70代  

 私は現在月のうち一週間、信州の片田舎で過ごしている。今年は例年に無い大雪で屋根の上の大雪を大阪でいつも気にしている。この冬は寒い日は零下15度と厳しい寒さになるが、そんな時部屋が5度にもなると暖かく感じるから大阪と大違いだ。ところでこの信州にいてる間は当然玉水にお参り出来ない。そこで信心の本をよく読む。するとその中の信心ばなしが海岸の白い砂にしみる水のように、身体に染み渡るように感じる。あまり感銘するので大阪に持ち帰り家で読んで見るとそれほど感銘を受けない。どうしてであろうか。日頃大阪にいると人の雑踏、テレビ・新聞・ネツトなどの情報の氾濫の中で生活していると信州にいるような安らかな感性を失い、ドギツイ事、週刊誌に載っているようなことだけが目についている自分になっている。救いは教会がある事だが頭のシビレはかなりきつい。しかし難儀に合うとこの頭のシビレは少しは治まるようだ。つまり難儀に合うと“み教え”がより親しく感じられるようになる。

投稿No.398 めぐり 白きたおやかな嶺 男性70代  

 今年の二月一日初代大先生のお祭りで頂いた「参拝のしおり」の内容には事のほか感銘を受けた。理不尽な難儀、不幸はこのめぐりから発していることを改めて教えられた。自分と自分の家、親族のめぐりについても改めて考えさせられた。知らず知らずのご無礼、知っていながらするご無礼、はるか彼方の親先祖のご無礼など 「めぐり」を現在も積み重ねている我々である。それにしてもこの時代、社会で報道される数々の悲劇、理不尽なことが余りにも多い。これもめぐりがもたらすものであろうかと恐ろしく感じられる。しかしながら玉水につながっている我々は特にめぐりの深い、不幸な運命をもったものを大先生に助けて頂いていることをまず自覚したい。しかし二代目、三代目になりそこそこ豊かになったり社会的に地位ができたらこの自覚を失うのが常だ。地盤の悪い土地に立派なビルが建って居る。恐ろしいことである。

投稿No.397 お結界に並ぶ 白きたおやかな嶺 男性70代  

 お結界に並ぶとき、前の人が少ないときラツキーと思うことが多いのではないだろうか。反対に前の人が多かったり、また一人の人が長々と取り次いで頂いて居るのをみると少しイライラするのでは無かろうか。それは自然な考えであるが一歩この考えから踏み出して見よう。前の人が取り次がれて居るのを見て、その人の願いが成就できるように及ばずながら後ろ祈念のまね事をしてみよう。神様は大体、お結界に並んでいる自分の願いを始めから知っておられる。心の中におられるのだから。前の人が多いほど待つ時間が長くなり、自分を見つめ人を思いやる稽古をするので、かえって願いは成就し易いのではないだろうか。玉水にお参りしているものは大きなーつの家族のようなものではないか、お互いに支え合って祈り合っていこうではないかと思う。

投稿No.396 中学校同窓会出席 グリーンガム 女性60代  

 先日中学校の同窓会に出席いたしました。 52年ぶりの再会には みんなそれとなく面影を残している方や 「えっ あなたが○○さん」 と目を丸くした方もいらっしゃいましたが 自分の顔は自分で作るとは よく言ったもので52年間の人生が 雰囲気にあらわれているようでした。 懇談会に入ると すぐに52年のブランクはないように中学時代の思い出を熱く話し始めましたが、話題の中心は 「肩が痛い」 「足腰が弱くなっている」 「内臓が悪い」 等口々に自分の健康状態の話になりました。 60数年肉体的・精神的にも頑張って人生を歩んできたのですから、上手につきあっていくより仕方ないと思いました。 しかし、こうやって中学校の同窓会に出席できるのも 金光教を信心し、神様よりおかげを頂いているからと思っています。 親の代から金光教を信仰し、最初は親の後をついて行くだけでしたが 両親共他界して 自分の代になり年々年を重ねるごとに 信心の大切が身にしみてきました。 まだまだ現役で仕事をしておりますが 出来るだけお礼の日参を続けて一層信心生活を大切にしていきたいと思います。

投稿No.395 真の信心、真のおかげ 白きたおやかな嶺 男性70代  

 この言葉は信心の究極の目標と捉えられ、自分が信心することで子孫や親先祖も助かることと教えられている。しかし、通常この教えはスパン(時問の長さ)が長すぎピンとこないときがありはしないだろうか。もっと身近に感じるようにしたいものであるが。私はあるとき人にこの目標を尋ねられて、とっさにそれは「隣のおばさんが助かることではないか」と答えた事がある。自分が信心することにより自分だけでなく自然と周りの赤の他人も助かって行く事ではないだろうかと答えた。それにしても自分だけのことしか考えない人があまりに多いように見受けられるのだが。いや、人のことを少しは思いやれる自分が恵まれているせいであろうか。

投稿No.394 信心はバンジージャンプ 白きたおやかな嶺 男性70代  

 日頃、難儀な事の中に多くのおきづけ、つまり自分の反省点を思い知る事が出来るときがある。例えば身体の調子が悪いとき、日頃の食生活の悪い癖、運動不足、喫煙など思い当たることがある。これは信心のチャンスでもあるが、意外とこれをチャンスにしてしまうことは難しい。習慣をあらためることはバンジージャンプとおなじようだ。思い切ってやって見たら良いが、なかなかその勇気が出てこない。今日、明日と言い訳しながら、そのうち忘れてゆき習慣に流される。なんとかバンジージャンブを実行したいものである。思い切って谷底に飛んで見よう。紐は必ずついて居るのだから谷底に激突する心配はないはずなのだが。

投稿No.393 「神様はご主人、自分は奉公人」 白きたおやかな嶺 男性70代  

 いわずと知れた初代大先生の信心の神髄であり玉水の信者は誰でも知っている。しかし、この言葉を自分のものにするのはかなり難しい。通常このお言葉は奉公という精神に要点の重点がおかれているようだ。しかし奉公という以前に我々は生きた神様、その中に生かされている自分が自覚できていないのが問題だ。つまり、神様をどういただいているかの方がより問題だ。教会に居るときは少しは神様を自覚できるが、一歩外に出ると何事も自分流に考えてやっている。神様そっちのけで勝手勘定、自分流の納得など、ことごとく神様と離れた想いで生活している我々である。そこには神様は何処にも居ないことに時に気づかされる。そんな自分たちが神様に奉公できるはずはない。奉公以前の問題である。

投稿No.392 海外一人旅(2) 訓練生 男性60代  

 関空発の飛行機の隣席は若い男性で、初めて観光で海外に行く母親との二人ずれ。「私も親の写真と二人ずれだ」と会話に花が咲く。10年以上前、彌壽善先生が米国で体調を崩された憲一先生のお見舞いに行かれ、帰国後、「行きの飛行機の隣座席が空席で、そこに二代大先生が座っておられるように感じた」とのお話があったことを思い出す。ほとんど準備ができなかった旅にもかかわらず、大好きな美術鑑賞やコンサート、そして行く先々での何でもない会話のやり取り等を通じて、周囲の人たちの限りなく温かい心遣いに感動した。自分の努力でどれほど準備しても、決してこうはいかないことばかりであった。 後になって、私の今回の一人旅を家族が心から温かく見守ってくれていたことが解った。遠くに住む娘婿が仕事でたまたま同じ時期に同じ地に行っていたときの旅であり、4歳の孫が「じいじとパパのどちらも海外にいっているのよ・・・」と電話で女房に色々話していたようである。おかげは色々な形で何気ない日常生活の中にあるのだと、親の死をとおして実感する毎日である。

投稿No.391 海外一人旅(1) 訓練生 男性60代  

 親の介護は言うまでもなく大切なことであるが、それが長引くに連れて私の心の中に先行きに対する不安が増大し、心身ともに疲れてきた。そこである時、気分転換に暫く途絶えていた海外への一人旅を思い立った。しかし皮肉にも、丁度そのころから、親の身体は老衰が徐々に進行し、心の中で「今そんな悠長なことをしている場合か!」との迷いが芽生えてきた。しかし、一旦決めたことだからと自分に言い聞かせ、訪問先の選定や航空券・宿の手配を進めた。そんな中ある日、病院から「親御さんがたった今亡くなった」との知らせを受けた。私は直ちにお教会に参拝、親が痛み苦しみなく天寿を全うさせて頂けたお礼を申し上げた後に、海外旅行を予定通りさせて頂きたいとお届けした。「行ってらっしゃい」、「あなたが楽しんで来れば親に一番喜んで貰えるよ」、「親の写真を持って・・・」、「宿は以前利用したところと同じなのですね」等々、私の心の後押しとなる温かいお言葉を即座に頂いた。迷いはたちどころに拭き切れたのである。  そして、お教会および多くの方々のご指導とご協力を得ながら、心を込めた遷霊式・告別式と当面の諸手続きを終え、一人旅の実現となった。ただし今回は親の遺影を胸に抱きながらの旅である。「息子の旅行中に自分が死ねば、息子が楽しい気持ちで旅行を続けることにならない」との親の思いを受けた神様のお取り計らいであろう。誠に有難い。  

投稿No.390 ビルに向かってお礼 匿名 男性年齢不詳代  

 堂島のある会社の玄関前を歩いていたときのことです。一人の女性がそのビルから出てこられ、歩道まで階段を降りて来たとき振り返り、ビルに向かって一礼された瞬間を目にしました。訪問者を送り出した人への挨拶ではありません。人はいないのです。私にとって余りにも衝撃的な光景でしたため尋ねますと、某デパートの外商の方で、お得意様から帰る際はそのように心掛けるように上司に言われているとのことでした。お礼の心が大切といいましても、自分を取り巻くありとあらゆる人・物・事象に対し、場合によっては自分の意に反することにまでお礼はなかなか言えません。そうした光景を示していただいた会社にお礼申し上げたく『お客様相談室』にメールを差し上げました。その会社では、お客様に満足していただき、かつ、良識ある行動を従業員が行うようそのように指導しているとのことで、会社としても今後の励みになるメールを頂戴したと、逆に丁重なるお礼の返信を頂きました。今回眼にした出来事は、母親が私にもっと信心を進めるよう激励している表れかもしれません。私の励みにさせて頂きます。

投稿No.389 不思議な夢 光輝く黄金の眩しさ MT 女性代  

 ちょうど父とお別れしまして4年目になります。毎日、朝起きて榊の水を代え、ご飯とお水を代え、ご先祖様に手を合わせています。辛くて、うたた寝していましたら、神様が出て来られ素晴らしい光線で、見あげると見えない力で、守って頂いていると確信いたしました。お墓参りは、遠方なので行けませんが、日々、感謝の気持ちを持ち、願う事とお礼には、教会に足を運んで参拝しようと思っています。お名前、教会の先生になずけ親になっていただいて感謝の気持ちでいっぱいです。子供のころを思い出して清らかな気持ちで参拝したいです。

投稿No.388 玉水青年会100年を振り返る(3) 遊峰 男性80代  

 青年会御用では、お広前に敷いてある畳を肩に担いで、今の駐車場へ運んで日光消毒をした。また、大祭時には掛出の畳を担ぎ、下足札を渡して下足を預かる御用をした。当時は御用事態楽しかった。また、今のご霊地控え所の移転の際、自動車6台で引っ越しに駆けつけ、ヤカンや食事用具その他備品をリヤカーで運んだ。返りには姫路の某ホテルでごちそうになり、大先生のお心遣いを有りがたくお礼申し上げた。夜行での御本部団体参拝の際は控え所食堂にて、覚醒会の人と一緒に朝食の配膳やバケツを持って後片付けをしたことを懐かしく思い出された。

投稿No.387 玉水青年会100年を振り返る(2) 遊峰 男性80代  

 青年会の例会で、二代大先生のご都合の悪い時には白石先生が替わってお話し頂いた。内容は仏教からキリスト教、神道とかあらゆるみ教えをおもしろ可笑しく話をして下された。また、白石先生のご都合の悪い時には、住之江教会の初代教会長高尾先生にご教話頂いた。先生は金光教の内容を微に入り細に入りお話しして下されましたが、話の途中で質問せられるので、皆、勉強してからお話しを聴かせて頂いたものだ。

投稿No.386 玉水青年会100年を振り返る(1) 遊峰 男性80代  

 玉水青年会100年を迎え静かに瞼を閉じて、在りし日を思い出す。二代大先生におかれましては、御結界に永くお座りになり、所員の先生が「御用がございます。お入り願います」と声をかけられたことや、また、寝食を忘れお取り次ぎに専念され、昼間のお疲れのなか、夕方6時に始まる青年会例会にお教話をして頂きました。遅くなるから話の途中でも帰ってもよろしいと気を遣って下さいました。初めは世間話から入って、もう少し、もう少しと思う間、誰一人として帰る人もなく最後まで聴かせていただいたものだ。話の間、眼光は鋭くて、人を引き寄せるお徳をもっておられたように思った。

投稿No.385 力強い後押し 迷走ライダー 男性60代  

 大先生。彌壽善先生。玉水教会の皆々様私の投稿を掲載頂き有難うございます。玉水教会 HP を開けて発見したら心が感激で破裂しそうでした。モニタ画面に私の目は釘付けです。載せてもらって本当に嬉しかったです。しかしもうひとつ別の有り難さが沸いてきました。遠く籬れた今の私が玉水教会と確かに繋がつていると実感させられました。載せて頂いたことが力強い後押しです。初代大先生信話集を読んでも、できんことや迷うことばかりですがどうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。ありとうございます

投稿No.384 お神酒さん よくわかりました 迷走ライダー 男性60代  

 大先生。お神酒さんのお話詳しく読ませて頂きありがとうございます。 60年程前の私は病弱で、すぐかぜをひいたり胃腸の病気を患ったりして家族を心配させていました。戦前から信心しておりました祖父母が当時の二代教会長先生にお願いされてお神酒さんを吹きに私の自宅まで来て頂きました。自宅のご神前の部屋で胸やお腹にお神酒さんを吹いてもらいました。今でもよく覚えております。また私の父は戦前肺浸潤(肺結核の前段階)と診断されました。当時有効な薬や治療がなく学業を1年休んで静養中に初代教会長に何度もお神酒さんを吹いて頂いたそうです。その後、健康のおかげ頂き徴兵されてラバウルで終戦をむかえました。出征前に初代教会長は「この病は20代後半にぶり返すけどそれを乗り切れば後は大丈夫やで」と仰せになったと父から聞かされました。戦後私が生まれて間もなく3ケ月位寝込んだそうです。父は6年前に86才で亡くなりました。初代のおっしゃったとおりの健康のおかげを頂きました。今あらためてお神酒さんに取り組まして頂こうと思いました。ありがとうございます。

投稿No.383 お願いは「幼稚園に子供を送って行くように」 白きたおやかな嶺 男性70代  

 私たち信心をしているものはいつも教会にきてお願いをしています。時には切実なものはお結界にお届けし、大先生・金光様から神様に祈って頂いています。 ところでこのお願いには、比較的簡単なものと思われるものから何十年と祈っているなかなかお陰にならないものまで色々です。そんな基本的に難しいお願いはややもするとあきらめがちにならないでしょうか。 初代大先生は「信念至誠」ともまた「願いは貫け」とも我々に教えられています。この教えは玉水の信者なら、耳にタコがつくほど教えられています。しかし、何年も、いや何十年ともお願いしているとお願いしてるその後から"どうせ〜"という思いが沸き上がってくるのではないでしょうか。毎日の願い事はそれとの戦いの毎日といっても良いでしょう。みなさんはこのような場合どのように心を整えていられますか。基本的なお願いほどお結界に行きにくかったりしないでしょうか。 そこで私は最近お願いすることは毎日、自分の子供または孫を幼稚園に送り迎えするようなものではないかと思っています。子供も一足飛びに大人に成長するわけには行きません。だからといって子供を毎日幼稚園に送り迎いすることは毎日の大切なステツプです。自分のお願い事はかわいい大切な子供や孫なのだと。だから毎日幼稚園に送り迎えするように心の中で教会で祈ってゆくことにしています。先のことは神様任せ、しかし子供がきっと成長するように願いはお陰に成長すると信じています。

投稿No.382 以心伝心、我が身を見る 遊峰 男性80代  

 人生は山びこの様だ。例えば、人を愛するから人から愛される。人を信じるから人に信じられるように思う。陰にまわって人をほめる人は、人からもほめられる。また、まいた良い種は、その通りのものが生えてくるように、野菜食物を見て思う。また、「はたらく」とは、はたの人を楽さすことではないか。人のため、社会のため働くから、自分の生活も守られるように思う。人のため、世のためにつくした種が、良い運命「徳」として生まれてくるのではないか。初代大先生は「陰にまわって、縁の下で舞って努力すれば、それが我が身の徳として生まれる」と云われたように、最近になって考える。

投稿No.381 近況川柳 牛歩 男性80代  

 私は、9年前の平成17年から、大和郡山市内のデイ・サービスに毎週二日(火、金)通所しています。おかげをいただき元気です。要介護2の身ではありますが、毎日の諸事にワクワクと好奇心で挑戦中です。近況の思いを川柳三句でお伝えします。@ よいことが、あってもなくても、歳をとり A 会う人も、また会う人も、福の神 B 100万回、言っても足りない、ありがとう

投稿No.380 おかげさまと言う言葉 遊峰 男性80代  

 我々は天地のお徳により、両親を通して分けみたまとして此の世に生を受けている。また、人との出会いで生活をして、多くの人々にお世話になっている。楽しかった助かりはあなたのおかげ、神様を通し今日ある事を思う時、おかげと言う言葉ほど謙虚でつつましい言葉はないと思う。私たちはたった一人では生きて行けず、めぐりめぐって天地の働きに支えられ今日の暮らしがあると思う。自分で精一杯努力して成功しても天地が有ってのおかげと感謝する。自分のおかげは君のおかげ、相手におかげをつける家庭、互いにおかげを言い合う社会、いつも明るく楽しいもので、生かされる信心を歩もう。すべては天地におまかせして行きたいものだ。

投稿No.379 朝参りの効用 難儀な氏子 男性70代  

 私が朝参りの日参を続けているには理由があります。朝参りの初めは、当時元気であった父にたたき起こされて、やむを得ずでありました。私が33歳の時、その父が突然脳血栓(今では脳梗塞か?)で倒れたため、無我夢中で朝参り、お結界へと日参をしていました。父の事業のことも突然に私の肩にのしかかり、とにかくおかげを頂きたい一心でのお参りでした。その後、母の介護や、保証人の借金返済も合わせたお願い一辺倒のお参りになりましたが、このままでは助からないと一念発起、何度も読み聞きした初代大先生の信話集にある「神様はご主人、自分は奉公人」を試そうと思いました。お結界で大先生に「自分で借金を返すのは止めますから、大先生が代わりに返して下さい」とお願いをし、また、両親からほとんど聞かされていなかった、自分の家では、信心の初代となる祖母の信心に思いを向けて、助かりを祈りました。その結果、全てが好転していくおかげをいただきました。「親先祖を大切にせよ、神はこれ以上の喜びはない」とのみ教えは初代大先生の信心の原点となっていると教えられています。また、朝参りは今では、私の心のバッテリー充電作用をして、欠かせない生活の一部になっています。

投稿No.378 相手を思う 遊峰 男性80代  

 御本部参拝時、車中で教えて頂く。 我々は日常ご祈念させて頂いているが、誠に真剣であろうか?どうかすると自分の気休めになりはしないか。今ご祈念をさせて頂いたのに、終わるなり自分勝手な事をしては人に迷惑をかけている。夫婦でもそうだ。少し相手が間違いを起こすと、小さな事でも大きく言う。人間という動物は、感受性が高く自分の都合の良いときは笑顔で答え、都合の悪いときは怖い顔をして、、相手にいやな思いをさせ、めぐりを積むことが多いように思う。高橋正雄先生のみ教え「見ること、見ること、自分の身を見ること」を絶えず意識し、己を知らなければと思った。

投稿No.377 日頃の言葉に気をつけよう 遊峰 男性80代  

 昔から、「人の口に戸は立てられぬ」と言われているが、人のうわさにやりきれない思いをしたことがあります。人は自分の立場を有利にする、また、利益を得るためとの思いから発した言葉で人を傷つけてしまうことがあります。言葉は人と人をつなぎ、お互いの善意が通じ合い、温かな情が生まれます。言葉は明るい家庭明るい社会を作るために使われることが大切であるように思います。「声は肥やし」と思います。人の心を育てる、温かなうるおいのある言葉の使い方に気をつけて、思いやりの生活をしたいものだと痛切に思います。

投稿No.376 1000日への道のり オリーブ 女性70代  

 千日信行がスタートした直後から右足すねと太ももの筋がひきつり歩くのに支障をきたした。そのため腰に負担がかかり体が左側にゆがんできた。「体は天地からの借り物。修繕は家主の仕事」との初代大先生のみ教えがよぎり、大先生のお取り次ぎを頂きながら痛みに耐えた。昨年10月のご大祭当日、ゆがみと痛みはピークに達し、多くの方々からご心配頂いた。さらに追いうちをかけるように大切な70年祭を目前に、御用中にぎっくり腰をやり背中から腰に激痛が走り、一瞬うろたえたが、信行期間の中でも出来事と前向きに受け止め、1月12日の徹宵勢祈念にも参加させて頂いた。わが身はわが自由にならずで「神様を杖」に初代大先生と二人連れの痛みをかかえての足信心にはげみ、有り難いことに婦人会ご用にも休むことなくお使い頂いた。そして無事70年祭のおかげを蒙り、一連のご用を終えた2月5日、初代大先生の墓碑前にぬかずき、よくこそ1000日もの間「信心辛抱」を続けさせてくだされたことを深くお礼を申し、ここからさらにお礼の日参を続け、一層信心を進めさせて下さいとお願い申したことでした。

投稿No.375 私のメダルは何色? レディ我我 女性60代  

 オリンピックで各国各選手の方がメダルを取って感激している映像をみて、私も感動しました。オリンピックでは練習、努力で技術を磨き、競争して頂点に立つと金メダルが授与される。金色が最高の色です。信心にもメダルが有れば、私は何色だろう。初代大先生は私が見たことのない最高の色を神様からきっと頂いておられるだろうと思いました。一方で、一生懸命信心の努力をして、結果としてメダルを頂いたらそれでいいのでしょうか? 人の心には汚れの色がついている。信心させてもらって、心の汚れを取って頂くことが大切と思いました。日々の信心生活を大切に、生かさせて頂く事で、心が何色に変わるのでしょう。

投稿No.374 ご先祖様とのおしゃべり せーたかのっぽ 男性30代  

 ご先祖様が金光教を信仰し、私で4代目となります。私は道輝会に所属し、毎月末の日曜日の朝には、瓜破のお塚のお掃除をさせて頂いております。瓜破には、私の祖父母をはじめ、ご先祖様が奉られており、会いに行くという感覚です。 墓前で手を合わせると、「よう、来てくれたなあ。元気そうやな。」とご先祖様が話しかけてくれているようで、嬉しい気持ちになります。私は、「いつも、ありがとうございます。 今月も家族・親族、皆元気に過ごさせてもらっています。」と話し掛け、特に祖父母の顔を浮かべながら、今月の出来事を色々報告というよりも、会話をしている感覚です。 私と同じ世代を、見かける事は少なくなりましたが、何が原因なのでしょうか? ただただお墓参りが面倒だから? 子供時代、お墓参りに行くときは、母から「お婆ちゃんに会いに行こう」と言われた記憶があります。祖父母とおしゃべりしていた感覚で、お墓参りをすれば、良いのではないかと思います。きっと、ご先祖様も喜んでくださるし、自分自身も幸せな気持ちになれると思います。 ご先祖様が金光教を信仰し、私で4代目となります。私は道輝会に所属し、毎月末の日曜日の朝には、瓜破のお塚のお掃除をさせて頂いております。瓜破には、私の祖父母をはじめ、ご先祖様が奉られており、会いに行くという感覚です。 墓前で手を合わせると、「よう、来てくれたなあ。元気そうやな。」とご先祖様が話しかけてくれているようで、嬉しい気持ちになります。私は、「いつも、ありがとうございます。 今月も家族・親族、皆元気に過ごさせてもらっています。」と話し掛け、特に祖父母の顔を浮かべながら、今月の出来事を色々報告というよりも、会話をしている感覚です。 私と同じ世代を、見かける事は少なくなりましたが、何が原因なのでしょうか? ただただお墓参りが面倒だから? 子供時代、お墓参りに行くときは、母から「お婆ちゃんに会いに行こう」と言われた記憶があります。祖父母とおしゃべりしていた感覚で、お墓参りをすれば、良いのではないかと思います。きっと、ご先祖様も喜んでくださるし、自分自身も幸せな気持ちになれると思います。

投稿No.373 おかげの花 しだれざくら 女性60代  

 千日信行が始まり心を向けさせて頂いてから一層多くの信心の成長を頂いた。私の長所は向上心と努力だが、それについてくる自分の心は、なかなか静かなものではない。それが欠点なのだが、神様は助けて下さる。私は心を無にすることを教わった。つまり行うことは神様と一緒にさせて頂くこと。結果の良し悪しは全ておかげであること。神様に向かうまことの心に邪念を取り払って下さる。自分の考えも心配も全部神様に願い通しているから神様がちゃんとして下さる。こんなに日々晴々としたうれしいことがあろうか。生まれてきて生きることの嬉しさを感じている。

投稿No.372 おかげの花 針千本 女性60代  

 鍼灸院を開業させて頂いて早くも20年になります。その間、様々なことがありましたが一番の大きなおかげは体調不良で仕事を休んだという日が一日もなかったということです。多くの良い患者さんに恵まれ収入も右肩上がりのおかげを頂き今日に至っております。その間、主人から受けついだ銀行からの借入金、、数千万円も返済できました。苦しかったこと、どうにもならなかったことも神様と初代大先生にひたすらお縋りし信心辛抱のおかげで最後には全て「おかげの花」が咲きました。どれだけお供えしても尽きることのないおかげの花を沢山頂いて今、幸せに満ちた毎日を送らせて頂いてます。これからも頑張りたいと思います。

投稿No.371 自然を見つめて学ぼう 遊峰 男性80代  

 澄んだ泉をながめて居ると心が和む。でも、そこへ泥が混じってしまうとその清水はたちまち濁り何も見えなくなってしまう。同じように私達も毎日の生活の中で、腹を立てたり自分だけの欲を出したりする心の埃が、知らず知らず心を濁してしまい、周りが見えなくなり人を恨んだり憎んだり悪口を言ってしまう。心が澄み自分の心の濁りに気づき心の埃を取り去れば、視界は晴れ今まで気づかなかった喜びが見えてくるのではないでしょうか。喜びと云う種を蒔けば、優しさや思いやりという芽がでてきて、周りも幸と云う花が咲き育てられるのではないでしょうか。高橋正雄先生のお言葉「見ること、見ること絶えず、自分を見ること」をお教え頂いたことを思い出します。

投稿No.370 意外なお話との出会い 玉水信者の驚き 男性60代  

 玉水教会の皆さんにとっては、初代大先生の「我が信心のあゆみ」が、み教えの始めで終わりで、私もその例に漏れませんでしたが、先日、本棚を整理していたら、父が遺してくれた「金光教教理」が見つかり、何気なく手に取ってパラパラとページをめくってみました。すると一行の文章が向こうから目に飛び込んできたのです。 「お願いーぺんにお礼十ぺんというように、お礼を言う心が篤いほどご信心が篤い。こ信心が篤いほどおかげが篤い。」 二度ほど読み直してみました。これは「お願い十ぺんにお礼一ぺん」の間違いではないかと思ったからです。それで前後のお話しも読むうちに、気がつくとその章を全部読んでしまっていました。悩みや苦しみがあればこその信仰だし、その解決まではお願いを続けるのが当たり前なのに、どぅすれぱ「お願いーぺんにお礼十ぺん」が出来るのか、不思議だったのです。その文章は「尋求教語録」という題で、等者は片岡次郎四郎師でした。文章を読んでみて印象に残ったのは、信仰についての理屈以前のご自身の実感が生き生きと語られており、それが読む者の心を捉えるのだと思いました。その中から印象に残ったいくつかのお言葉を並べて見ましょう。 なんぽう学問がある、理屈がよいというても、神様のご信心のことだけは、わかっただけでは役に立たぬ。わが心に食いこんで、事にあたって実際に出てこねば、神樣のお徳はこうむれぬぞ。 「病気災難があったからというて、にわかに神に信心を始めるよりは、常平生から手厚く信心しておれ。手厚い信者であれば、神から心配してやる。いかに大病じゃの九死じゃのという病難でも、絶頂をしのがして全快さしてやる。とかく信心は地を肥やせい」 と金光様は言うてござったぞ。 自分でしようとすると無理ができる。神様にさしてもらう心ですれば、神様がさしてくださる。 この方(片岡次郎四郎)がお参りすると、金光様はいつもたいへんお喜びになって、「才崎の金光は、いつ参ってもいつ参っても、お礼参りじゃ。参る者の大方はお願いに参るのに、その方は、いつもおかげを受けておるお礼に参って来る。神も満足に思うぞ。氏子がお礼に参って来ると、神も喜び、金光大神もいっそうにうれしいが、氏子もうれしかろうが。氏子がおかげを受けてうれしゅうに喜ぱぬと、神も喜べぬ」とおっしゃった。みんなもおかげを受けて、神様にも喜んでもらい、自分もうれしゅうにお礼参りのできる信心をせねばならぬぞ。 僅かな引用文からも分かるように、災難に出会ってからの信心ではなく、平常な日々でのお礼が何よりも大切だと、まず金光様がご満足の太鼓判を押され、片岡師をまるで仲良しのように仰っている。「お願いーぺんにお礼十ぺん」とは、無事の日常での真心からのお礼と祈りを意味しているのだ。言われてみれぱ成る程とうなずけるが、言われないとなかなか見えないことではないだろうか。そして「金光教教理」といういかにも堅苦しそうに思われる書物を読むと、実はこんな素晴らしいお話しに出会えることも忘れないで下さい。

投稿No.369 黒猫ミャー ちゃらんぽらん 男性70代  

 20年と1ヶ月飼っていた黒猫ミャーが死んだ。20年前の8月8日、三代大先生のお供で御本部参拝の帰り、控所を最後に出て、金悦堂で金光饅頭を買うため土砂降りの雨の中を走った。急いで駅に向かおうと店を出た時、段ボール箱の中でへその緒がついたままの生まれたての子猫が5匹捨てられていた。向かいの店の主人に「一匹でも持って帰ってやんさい」と声をかけられ、動物好きの私はその中の一番大きな黒い子猫をつれて帰った。帰りの列車の中で三代大先生が「どうしたんや?」とにこにこと子猫を眺めておられたその猫だ。今日は9月の8日御本部参拝の日、朝出るときはようやくよろよろと歩くのが精一杯で帰るまで大丈夫かなと思っていたら、午後5時15分唯一慕っていた家内に見守られて、ふっと大きな息をはいて死んだ。ミャーを見るたびに三代大先生の事が思い出され、丁度御本部参拝の日に、また、御本部へ金光様の元へ帰って行ったに違いない。妻と二人、ご神前で遷霊式をさせてもらった。

投稿No.368 人を通して教えられる 遊峰 男性80代  

 この頃、お礼という言葉が少なくなったと思う。教祖さんのお言葉に「木の切り株に座っても立つときはお礼を言う気になれ」と。また四代様は「色々な出来事ができたら、いままでの事にお礼を」と言われた。昨今では、自分の思うようにならなかったら、主人や妻、子供等を自殺に追いやったりする。老人の憩いの入浴に行くことがあるが、洗面器を手で元の位置に置いたらよいのに、足で蹴って元に戻したりしている。また、電車内では少し詰め寄って席を空けても知らぬ顔。私も今までだったら席を譲っていただいたらお断りしておったが、その人の好意にまずお礼を言い、その人が降りるときに二度お礼を言う。初代大先生がお商売をしておられたとき、売れても売れなくても出入りにお礼を言われた事を思い、お礼の信心をさせて頂く。朝起きると寝床にお礼を言い、寝るときもご神前でお礼を言って休ませて頂く。教会に出て行くとき、道中無事のご祈念、教会に着くと早速お礼のご祈念とお礼の稽古をさせて頂く。

投稿No.367 自分が歩んだ戒め 遊峰 男性80代  

 (1)お道の教えを元にして人を尊敬出来る人に成れ、やがて人からも尊敬してもらえる人と成る(2)相済まぬ相済まん陰にかくれて相済まんこと(3)暑さ寒さに廻るお百度よりも我はたえず祈り中に生かして下さる大先生にどの様に答える信心を(4)今ここに天地の恵に生かされ生きる喜びを如何に生きん今も今日明日も(5)おかげあるなしは徹し続けよ奉公人(6)やれ病気やれ災難と御祈念するよりも日頃の信心蓄積忘れぬように。

投稿No.366 神様は恐い まろん君 男性40代  

 このところ優しさブームで、宗教も、神様の優しい側面、愛の側面を強調する傾向に傾いている気がする。これは、人権が尊重され、人類が、昔ほどは生存自体を脅かされていないためではないかと思う。それはよいけれど、私の母は、「神様は怒ると恐いから気をつけなさい」とよく言っていた。不徳を積むと神様が怒る。それは時には本当に恐ろしい。天地金乃神様は、もともと日柄・方位の思想に現れる金神であられた。「金神七殺」といって、金神に非礼を犯すと、七つの墓を築かされるというほどの恐るべき荒魂の神だ。この神は人間に、「まこと心」を要請し、背くと厳しくお叱りになるのだ。母は「神様は親というけど、親のように甘くはない。厳しい親方ぐらいに思っておいたほうがいい」とよく言っていた。このごろ思うのだが、私達信徒は、神様の恐さ、怒りの神様という側面を再認識してみるのがよいのではないだろうか。教祖様は「神棚の塵は大目に見て下さっても、心の塵は許して下さらぬぞ」と仰っていたと思う。心や生活に実意丁寧のまことを心がけ、神様の本気の怒りにふれないように注意したいものです。

投稿No.365 方向さえ・・・ 新生児 女性60代  

 ある人に「船が助かりの方向へ向かっているんなら、別にその中でひっくり返っていても、ドッチ向いてても、血吐いててもイイやないの」と言うと「助かりの方向へ向かっているって何で分かるん」と言われた。そして、ある方に戴いた先の言葉に、全く同じことを思ったかっての自分を思い出したのは、電話を切ってからである。あれから時は流れ、いつしかこの言葉は、私にとって、とても大切なものとなっている。しっかりと願いの方向が定まったならば、その方向だけに思いを持っておく。目先の現象に囚われると、心はその方向に向いてしまう。おおらかに、詳細にとらわれることなく、静かに・・・。 若かりし頃は、船の中でも進む方向に向かって整列していなけれぱ納得しない潔癖な自分がいた。年を重ねるのも悪くないと、ほうれい線をなぞりながら思う今日この頃である。

投稿No.364 お礼を土台に 新生児 女性60代  

 四代金光様は、「なかなか有難い思いになれず、腹も立つし、心配もする」というようなお届けをした人に、「お礼申しながら」負の思い(怒る,悲しむ・恨む・・・など)を思うようにみ教えなされたと読んだことがある。我が心が思うようにならぬ、人というものを、そのままに、信心になっていく在り方を教えてくださっている。五代様は「お礼はどの道にも通じます。後はそれぞれの工夫やね」とみ教えくださった。一教の教主が「それぞれの工夫」とおっしゃったことは驚きであり、金光教ってスゴイ!と感動した。四代様の先のみ教えは、五代様のおっしゃる「工夫」にも当たるように、私には思える。

投稿No.363 この赤ちゃんに、息をすることを教えてやって下さいませ 牛歩 男性80代  

 私は、昭和50年に、奈良県、榛原地区の3カ所の信者さん宅を訪問いたしました。1,榛原から、菟田野行きバスに乗車。終点の菟田野停留所付近には、数件の信者さんが居られ一人の古い信者さん方では、金光教の信心の相談所を開かれており、こんな山奥にまで信心の普及がと、驚きました。2,次に菟田野から小さな山を二つ越えた一軒の信者さん宅を訪れました。しかし、そのお家は閉ざされており,200m先の隣家の方のお話では、あのお家は半年前に転居、転居先は不明と。私は折角長時間を費やしたのにと落胆。非常な身体の疲れを覚えました。3,バスで下山。榛原、天満地区内の信者のおばあさん宅を夕方訪問。その時、すばらしい,表題のおかげ話をおばあさんからお聞きすることができました。 娘さんが三ヶ月前に自宅で産婆さんの、手により無事に分娩された由ですが、生まれた赤ちゃんはグッタリされていて、ベテランの産婆さんが色々手をつくされても,回復の兆しが見えず、産婆さんの動転状態を見たおばあさんは、「何も慌てることありません」と、赤ちゃんのお身体を清拭後、自宅のご神前にお供えし、「天地の親神様、ありがとうございます。どうか、この赤ちゃんに息をすること教えてやって下さい。」と一心にご祈念。やがて、赤ちゃんは元気な産声を発声し、みかげを頂きましたとのお話。私は緊急事態に少しもうろたえず、「神は願う氏子におかげを授ける」のみ教え通り、みかげを頂かれた尊いお話をお聞きできて、これ迄の心身の疲れが吹っ飛びました。

投稿No.362 感謝で一杯、81歳男様へ ふれあいの広場事務局 男性60代  

 ふれあいの広場への数々の投稿ありがとうございます。 教会行事やイベント、また教会周辺の史跡、史実を絵図面で表現され、事務局として、通信葉書を楽しみにしていますし、また、大先生にも見て頂いています。残念ながら、ふれあいの広場には絵図面を掲載できる機能を有していません。通信葉書を掲載できていないことへのご理解、ご寛容のほどよろしくお願いいたします。

投稿No.361 発明してくれた人に有り難う 新生児 女性60代  

 本当に便利だなぁと思う小物がたくさんある。日常においては、ホッチキス、セロテー プ、はさみ・・・などなど。そして、これらによって小さな事がスムーズに運ぶたびに思う。 「あぁ 助かった。これを発明してくれた人に感謝せんとあかんわ」と。それができてか ら、多くの人が恩恵に浴し、それはほとんど永遠に増える一方のはずである。こんなに果 てしない人助けになることに、発明した人は、その時点では想像もつかなかっただろう。 それを「土台」としてもっと良い物が発明されるかもしれない。それも、それあってこそ の「次」である。ささやかな、人の助けとなる徳を無限に積み続けた人は、どんな人に生 まれ変わって来るのだろうか、また、反対の場合はどうだろうかと、思いを巡らせる。

投稿No.360 天地大自然が先 新生児 女性60代  

  始まりの頃・・・誰もいない天地に雨が降り、風が吹き、雪が降り、雷が鳴り・・・大自然の 天候に応じて、熊が、イノシシが、移動する。ある日都合の良い所を選んで、人間が家を 建て始めた。そしてその時点から、人里に降りて来た熊や猪は、存在するだけで「凶暴な 悪者」である。天変地異はすでに存在し、自然な生物の生態系があり、そこにヒトが住ま わせてもらうようになった。「気候の急な変動」「凶暴な動物」は人間から見てのことで 、天地は今までどうり運行しているだけであり、熊も今までどうり、行きたい所に行って いるだけである。先に人在りき、ではない。人の世界に「雨が降って来た」のではなく 「雨が降っている地球」に人が住んでいるのである。順序を閻違えると不満になる。しか し、雷は恐いし、蛇は嫌いである。アリには悩ませられ、住宅街では熊さんに会いたくな い。信心して都合の良いお陰を頂いてゆけば良いと思う。

投稿No.359 信徒会N地区委員長のご信心 牛歩 男性80代  

 昭和37年、玉水教会に17区の地区信徒会が新設され、第3区の此花区では毎月1回有志の信者さん方で午後7時から午後9時まで信徒会が開催され、何時も十数名の出席がありました。第3区委員長に就任されたN委員長は信徒会の席上、「毎日1000回以上口に出して、神様ありがとうございますと申し上げるようにしなさい」と教えておられました。 私は始めの内は、一日1000回以上とはつまらないことだと反感を持っておりましたが、心では少しもありがたく思えないときでも、ウソでも、「神様、ありがとうございます」と唱えております内に、段々と心から本当にありがたく思えるような心境に変わってきて、この事は、神様に喜んでいただける近道のよい努力の方法であると感じるようになりました。N委員長は、福島区内で諸病状で苦しんでおられる信者さんに、すすんで、お神酒を吹かれ、全快される方が多く、「福島の金光様」と慕われ、尊敬を受けておられました。

投稿No.358 信徒会K地区委員長のご信心 牛歩 男性80代  

 K委員長は福井県のご出身でたいへん親孝行な方でした。京都市中京区に在住され、職業は京都の室町で女性着物の柄付を手広く実施されていました。戦後のあるとき、とても立派な商品ができ、二代大先生によい方にお買いあげのお届けをされました。大先生は、この件については日本一のおかげをと御祈念。しかし、その着物は長らく大阪心斎橋、大丸百貨店の女性着物売場に陳列されていましたが、買い手が現れませんでした。K委員長は決してあきらめず、必ずおかげをいただけると、継続して御祈念を続けておられましたところ、現天皇陛下とご結婚成約の正田美智子様のお目にとまり、とてもお気に入られ、お買上げの大御蔭をいただかれました。

投稿No.357 生きている神様と出会う貴重な宗教 まろん君 男性40代  

 世界の人は金光教をよく知らないに違いない。外国人が知る日本の宗教は、仏教と、せいぜい「鳥居のマーク」(神社)だろう。だが、実際にはわが国は「宗教の宝庫」と言われる貴重な国だ。非常に宗教が多彩で種類が多い。逆に言えば、世界には宗教が少ないのだ。世界三大宗教を除いて見ていくと、意外な少なさに日本人は驚くことだろう。(原始信仰は到る所に残っているが)。その中で金光教は現代世界で最も重要な意義をもつ宗教だと思う。なぜだろうか?その答えは、現代人類と神との関わり方という大問題に存する。二十世紀最高の哲学者達は、現代は「神は隠れている」と表現した。主としてキリスト教的世界での話題だが、つまり、神が生ける出会いの対象ではなくて、知の対象として扱われるようになったため、神は生ける存在ではなく、一つの概念にすぎなくなったというのだ。「人間の脳が神を生んだ」「心が神を作った」などの言い方に象徴的に示される立場だ。古代には神は生ける交わりの相手(人格)であり、人間は神をyou(あなた)として信仰し、交わったのであって、it(それ)として概念の対象として扱ったのではなったという。現代に於いて、神との生ける交わりの復活が、本当は期待されているというのだ。金光教こそは、他宗教や西洋精神史の影響を受けなかったこともあるが、あらゆる面で、生きている神様との、生々しい現実の出会いの場となっている。神様は目に見えず、声が聞こえないが、金光教では、教義や御教え、拝詞集、御教話、お結界のすべての面で、生きて働いて下さっている神様との現実の交わり(真実なお付き合い)が当たり前のこととして教えて下さっている。極めて貴重な宗教であり、世界がまだ気づかないのは勿体ない限りだと思っている。信徒と言うのもおこがましいような私ですが、思っていたことの一つを素直に告白してみました。

投稿No.356 小さい教会 大きい教会 こだぬき 女性80代  

 今は小さい教会、玉水教会のような大きい教会から小さい教会にと思っていましたが、ふと、私の母が言うた事を思い出しました。私はD教会にお参りしていましたが、耳鼻炎になって手術をするように言われた時、母が玉水教会に初めて連れてくれたのです。その時近くのD教会にお参りしてたのに遠い玉水教会に連れてもらった。ここは大きいから大勢の方がお参りされていました。母に大きい所はありがたいなあーと言うと、そんな事ない、小さくとも大きくてもお祭りされている神様は同じ。でもあんたはまだ一心がでないから、大きな所で皆んなが一生懸命お祈りしている所を見たらありがたく思うやろ。それで連れてきた。あんたが一心にお願いするようになったら、小さい所は神様と一対一でお願いできる。一心ができたら小さい教会でも同じ、自分の心やと言われたことを思い出した。三代大先生が大分に行きなさいと言われて来た所だと思い一心を出して足を運ばせて頂いています。近いから嫁が毎日連れてくれています。息子も会社に行く前早く出て毎日おかげ頂き幸せになりました。

投稿No.355 次男と嫁の信心 こだぬき 女性80代  

 嫁は、次男と一緒になってから信心のお稽古をさせて頂いています。今は私以上に熱心で、毎朝私と朝参りします。このごろは私が教えられることがよくあります。このようになったのも、次男が結婚して痔瘻になり、どこの病院行っても治りませんと言われて悩んでいた時、嫁が、お母さんが一生懸命信心なさってる金光様に行ってお願いしたらと言うてくれて、二人でお参りするようになりました。二人は一生懸命お祈りし、御神酒さんとお祈りで今は跡形もなく完治のおかげをいただきました。それからは夫婦、子供ともに一生懸命で、朝参りして教会の門を開き、会社の帰りに門を閉めに行きます。このようなおかげを頂いているのも、三代大先生が息子のことを祈って下さり、この嫁をいただいたおかげであり感謝しています。

投稿No.354 大きな岩のような石のかたまり こだぬき 女性80代  

 大きな岩のような石のかたまり。私が金光様にお参りをしてても、次から次と何かがおこる。お参りしててもあかんわと思ってた時、創価学会を熱心にされておられた方が私に、「貴女には大きな石のかたまりがある。信心しているから神様が小石にして出して下さっている。信心すればする程色々ある。それは大きな岩を小さくして助けて下さっている。信じてる金光様にお願いして、大きな石を取ってもらったらかならず貴女は先で誰よりも幸せになるよ。玉水教会はりっぱな教会や、人の事は聞かないで自分の信じる神様に一生懸命になりなさい」と言われたことがあります。金光様が言うて下さったと思います。色々ありましたが、その度、二代大先生、三代大先生にお取り次ぎを頂き、今は姉妹中一番幸せになり、息子夫婦孫までも、私より熱心に毎日お参りさせて頂いております。今になって本当に神様ていらっしゃると思いました。私のような方が沢山おられると思いますが、前を向いて一生懸命に神様におすがりください。私も83歳、元気で毎日嫁にお参りに連れてもらっています。家族元気に暮らせますようにと毎日足を運ばせて頂いております。

投稿No.353 親父と孫(私には長男、次男、長女) トンボリ 男性80代  

 親父の運転士は日曜が公休日で、昼の参拝には孫二人が交替で運転のアルバイトで参拝をしておりました。当時としては破格の時給で、大学生の孫は非常に喜び楽しんで務めておりました。親父は車中での色々な会話の中で、特に次の2例のことを繰り返し繰り返し言い聞かせ、説き聞かせていたようです。「わしの家族はとても悪い助からぬ家柄で、金光教玉水教会、初代教会長に救われ、今日の恵まれた生活が出来るようになった。だから、お前達に是非信心して貰いたいのだ。信心を継いでくれたら、どれほど私は嬉しく安心に思う。」 また、「大学を出ても、手に職技術を持たなければ生活はできない。殊に飲食業であるから調理技術を身につければ、家業も継げるし社会に出ても食いはずれはない」と。今日孫3人は親父の教えを守ってくれております。実に恥ずかしいことながら、親として我が子に上記のことを教えたこともなく、話し合った機会もなかったことを白状申し上げておきます。

投稿No.352 親父の信心 トンボリ 男性80代  

 親父は、昭和7年、33歳の時に、初代大先生の取り次ぎを受けて入信、熱心に日参をし、信心を深めてまいりました。昭和20年3月13日大阪大空襲で、店3軒それに居宅と倉庫に寮、全てが灰になって仕舞いましたが、その時親父は、「わしはなぁ、大先生の仰る通りにさせて戴いて、しかも焼けたと言うのは、今一時神様にお預けしてあるのと同じだ。お預けしてあるんだから、きっと返していただける。必ず元通りにして戴ける。これでこそ、ままよ、で一心に信心して居たらええ」と申しました。これこそが、金光教が諭す「誠の信心は“わが心にあり”」でございます。平成元年四月二十日、享年88歳で亡くなりましたが、確か四月十四日、これが最後の風呂となったのですが、いままでは父が声を掛けて、私の家内か、母が交代で御神酒さんを身体の悪い個所に吹かして戴くのですが、その日は相当に痛んだのでしょう、湯船に入ることができない状態でした。掛け湯だけで声が掛かりましたので、母はその状態を知っていましたので、吹く前に母が親父の身体に桶一杯分の掛け湯をしますと、親父は「何を勿体ない事するんや」と怒るのです。親父は風呂で使うお湯は何杯と決めておったのです。湯船に入れぬ身体になってもこれを守ろうとしていたのです。初代大先生の教えを守り通して一生を終わり国替えをさせて戴いたのでございます。

投稿No.351 天王寺のお菊ばあさん 牛歩 男性80代  

 戦前天王寺に明日をも知れぬ重病の娘さんと、二人で住んでいる高齢のお菊ばあさんが居られました。お菊さんは私の今後を看取って欲しいと思っているのに、この子の状態ではと嘆き悲しみ、あちこちの神社仏閣に参拝して娘の病気全快を祈願し、また占いを受けたりもしたがいっこうに効果が見られなかった。ある時近所の方に勧められ、天王寺区内の金光教の教会に参拝して先生に相談された。先生は、私達は皆一生死ぬことのない天地金乃神様のご守護を頂いているのだよ、何も心配することはないと教えられた。お菊さんは真心からありがたいと安心できて、ご神前に長時間泣き伏してお礼申し上げられた。帰宅をして、先生からみ教えを受け助けられたことを娘さんに話された。お前が例え私より先に亡くなっても、私達は生死を通じ天地の親神様に守られていたことを知ったなら、本当に大差があって助けていただけるのだよ・・・・と。それを聞いた娘さんは私も助かりましたと二人で泣いて喜んだ。夜が明けると奇跡が生じ、娘さんの足腰は立ち病気は全快されました。一度お話を聞かれただけで、真にありがたしとすぐにみかげを頂かれたお菊さんは、私の信心の鏡かと尊敬いたしました。

投稿No.350 母の信心のこと まろん君 男性40代  

 平成十八年に75歳で他界した母の信心は、亭主に隠れてしているものだった。父が他の宗教の熱心な信者だったので、母は堂々と玉水教会に参るこ とはできなかった。初代大先生への信心が強かったが、家庭では初代の御写真をお懸けしてお祀りすることもできず柱の一番上を目当てとして、柱を毎日磨き、初代に祈っていた。何かあると必ず御結界にとんで行ったが、父の目を盗んでのことだった。母の信心は、そのように、不自由をかいくぐるよ うな、誠に不行き届きなものでしたが、生涯の最期まで目に見えるお蔭を頂き続けました。誠にもったいないことでございます。

投稿No.349 初代大先生のお取り次ぎ 須可單 男性80代  

 「あんたの家は全滅の運命にある。神さん放したらあかん!!」私の母が初代大先生に戴いた最初のお言葉であります。私の家は堂島の米問屋でした。実権は母方の祖父で父は養子でした。いろいろ悩みもあったんでしょう、母は熱心な信者になりました。長兄の大学卒業論文も大先生に見てもらいました。長兄は半信半疑でしたが、「ここ直し」と言われ、その通りに直したら教授に絶賛されました。その兄も昭和20年戦死しました。次兄は昭和九年医科大学の2年で肺病で亡くなりました。三兄は五十九歳で癌で死にました。末っ子の私は幼児の折り大先生に呼ばれ身体をさすって戴きました。ずっと後になって祈って下さったのだと分かりました。その私は小学4年の時工事現場で自転車がロープにひっかかり、折から通りかかった馬力の前輪と後輪の間に入りひかれました。荷物を積んでなかったのが幸いしてか、一命はとりとめました。昭和20年5月1日付けで特攻要員となりましたが終戦で命びろいしました。戦後は3回大病にかかりましたがいづれも御蔭戴きました。「あんたの家は全滅の運命にある」こう云われた家に生まれ、いろいろな危ないことに出くわしましたが現在88歳を迎えさせて貰いました。初代大先生の祈りがあったからです。凄い祈りです。正に不思議にして人の思いぞ及ばざるです。「一心に願え」これがどれだけ難しいか痛切に感じています。只ひたすら神様、大先生にお縋りしている今日この頃でございます。

投稿No.348 初代大先生のお取り次ぎ YM 女性70代  

 父は祖父からの継承で熱心な信者であり神戸の教会にお参りさせて頂いておりました。昭和の初め頃、叔父が経営する羽子板製造業を継ぐため大阪に来まして、叔父が参拝する玉水教会にお参りするようになりました。ある時、経営に行き詰まり、初代大先生から資金を融通していただき乗り切ることができ、その後経営は順調に発展しました。私が 7歳の頃、初代大先生は私の背中をさすりながら「この子、よう生きんで・・・」と言われ、その時の初代大先生の厳しい眼差しと、いとおしく私の手を引く慈愛に満ちた父の顔が、子供心にも脳裏に焼き付いて離れず、忘れることができません。病弱なために幼稚園にはとうとう行かずじまいでした。 私の6年生の時、父は亡くなりましたが、霊となりましても、父は私の中に生き続け、父を悲しませてはならないという思いが私の生きる原点でありました。結婚を機に、一人っ子であった私は、金光教とは縁が切れると思っていました。しかし、母を見送らなけれぱならず、神戸の教会の大祭参拝だけは欠かしませんでした。平成 12年に母が急逝し、神戸の教会に葬儀を申し出ましたが、春の霊祭と重なり、来て頂ける状況ではありませんでした。はたと困り思いついたのが玉水教会でした。調べていただきますと、昭和 20年に弟が亡くなり、 21年に父 が亡くなり、どんな思いで 20年秋に改式していただいたのか、父の心を量りかねましたが、記録に残つており、玉水教会で母を送って頂き改めて玉水教会にお引き寄せいただいております。  CD 信話第 8 集の第 4 話で、父の羽子板製造業のお話が出てまいりました時には本当に驚きました。初代大先生のご教導に触れさせていただくことができ、おそらく父は神様に一切おまかせする信心をいただき改式したのではないかと気付かせていただきました。このたび二男が父の氏に改姓し、信心を継承させていただくおかげを蒙りまして、初代大先生 70年祭を前に、神様のお計らいを感得させていただいております。

投稿No.347 初代大先生のお取り次ぎ おはる 女性90代  

 昭和の初期、姉の目にばい菌が入り目やにが出て激しく痛みました。十三の自宅から隣の奥さんに付き添って貰い、阪大病院で診察を受けたところ「そこひ」になる恐れがあるとの診断。暫く通院することになりました。2〜3日経った時、市電渡辺橋あたりで小さな風呂敷包みが手に当たり忘れ物だと思い交番へ届けました。後日交番から持ち主が解ったから届けるように連絡がありました。探し尋ねてやっと玉水教会へ風呂敷包みをお渡し致しました。その時初代大先生がおられ、目を患っていることを聞かれ「治してあげるからこれを毎日目に吹きなさい」とご神酒を頂きました。お酒など目に吹いてどうなるのかと、半信半疑で毎日吹いて頂きました。2〜3日した時目やにも止まり快方に向かい阪大病院の先生が不思議がっておられました。風呂敷包みは後に名古屋に行かれた先生の御祈念帳のようで、毎週のように信心について詳しく教えて下さる手紙を頂きました。姉は生涯眼鏡なしで過ごし、亡くなる日迄日参しておりました。私も初代大先生のお徳を思うとき感謝の気持ちでお参りさせて頂いております。

投稿No.346 初代大先生のお取り次ぎ ちゃま 女性80代  

 母は結婚5年目にして初めて男の子を授かった。兄は小学校5年生の時腎臓が悪く、医者に学校に行かせたら死んでしまう家においておかんといかんと言われた。ある時大先生は両親・兄・私とお参りした時、兄に今何食べたいと聞かれお肉と答えると、帰りにお肉いっぱい買って貰ってお腹一杯食べたらいいねんでと言われ、兄はどんなに美味しそうに食べたか・・・と母は話しておりました。それから少し元気になったが受験を控え医者は中学校にも行かせたらいかん、体操もしたらいかんと言われたが、大先生は中学校にも行ったらええ体操もしたらええと言われそのようにした。兄の兵役の時、母は非国民と言われるかもしれんが、死んで帰れとは言わない・・・と送り出していた。戦地にも行った。戦場から家族の安否伺いの手紙も来ていた。現地で将校(幹部候補生)の試験前日に高熱を出し受験する事ができなかった。戦場で将校は先頭に立って突撃しなければいけなく幹部候補生として共に勉強した人達はみな戦死してしまった。復員して就職、結婚と・・・定年を元気に迎えた。兄妹6人とも弱かったがそれぞれにお参りさせて頂き全員定年まで勤めさせて頂き、私もこの年まで元気に暮らしております。

投稿No.345 改式のこと サザンクロス 女性70代  

 私は以前から改式のことで悩んでおりました。こんなに多くのおかげを頂いておりますのに改式することが出来ません。私の嫁ぎ先は浄土真宗で御先祖をお祀りしており、主人は十八代目になりますがこれからも受け継いで行かねばなりません。 数年前の夏高知へ墓参しました時台風が来て落石がある様な四万十川沿いの危険な山道を長時間かけ、やっとの思いでお寺に辿り着きました。 帰りまして御霊前に無事の御礼を申しました時、初代大先生のお写真の額ぶちが私の目にキラキラと光りました。何度見直しても変わりません。私はあとで御先祖参りをしたことを、きっとお喜び下さったのだと気付きました。 霊様のお祭りについては、お広前にお祀りはしていなくても、いろいろな式でお祀りしておられる霊様をも共に神様は祀って下されており「天地の神は宗旨嫌いはせぬ」と仰せられております。まことにありがたいことでございます。私は主人の両親と三十年以上の同居生活でしたが金光教へお参りさせてくださったこと、主人も気持ちよく教会にお参りさせてくれておりますことに何よりも感謝の気持で一杯です。

投稿No.344 初代大先生のお取り次ぎ HK 女性80代  

 戦前、父が小さな商売をしていた頃の話。人に騙されて活き詰まり路頭に迷っていたら、或る信者さんから「騙されたと思って私についておいで」と言われ母が連れてこられたのが玉水教会でした。お賽銭箱の横でお話を聞いていた母に、お火鉢の処におられた大先生が手招きされ、「ちょっと待っとりや」と言われ奥に入られました。そして出てこられると「これ持って帰り」と封筒を手渡されました。家に帰り開けてみたら、 多額のお金が入っていてびっくり! 両親とも経済状態のことなど何も話させて頂いていないのに驚きと共に有り難い気持ちでいっぱいになりました。こうして玉水教会にお参りさせて頂くようになりました。商売も順調にいくようになり、お借りしたお金もぼちぼちお返ししていけるようになりました。その後、大先生の真似事を少しでもさせて頂こうと、病気の友人、知人があれば行って御神酒を吹かせてもらい、信心の話 もさせて頂き、福祉の方にも寄付をさせて頂き、現在は家族共々、信心のおかげを頂いて結構な生活をさせて頂いております。

投稿No.343 延命の誕生日 EM 男性80代  

 昭和13年父が肋膜を患い入院していました。どうして玉水教会にお参りさせて頂くようになったか定かではありませんが、大先生に今日水を抜きますとお届けをしますと、水を抜いたらいかんと言われました。母は複雑な気持ちでどうしたものかと思案しつつ病院に行くと医者は今日の水抜きは中止にしますとのことでした。間もなく病気も回復し退院させて頂き父もお参りさせて頂くようになりました。私が女学校卒業後軍事工場に勤めだし、1週間ほどして病気になりました。母が心配していた病気であり病院に行くと血沈が10以下に対し40もありました。母がお届けをしてくれますと、毎日お参りせんと死んでしまうで・・・と仰いました。定期を買い日参させて頂くようになりました。程なく娘心にあつかましく大勢の前でお届けをさせて頂くと、腕を強く捕まれご祈念をして下さり、もう大丈夫行っておいでと言われ病院へ行くと血沈も7に下がっていました。誕生日がくると何時も思い出します。あの時助けて頂いた・・・と!以来この年まで大病することなく元気にお参りさせて頂いております。

投稿No.342 M先生のお話 牛歩 男性80代  

 昭和19年のある日、私は、教会のお広前お火鉢で、沢山の信者さんと共に、M書生さんのお話を聞いていました。その時、先生はお話の最中に、どうしたことか、大きな音を伴った、とっても臭いおならをされて、その臭いはお火鉢周辺一杯に漂い、信者さんは皆びっくりして、顔をしかめ笑いました。お話が終わった先生は、一旦奥のご用に入られましたが、またお広前に出てこられた時、先程のお火鉢で先生のお話を聞いておられた中の、若い娘さん三人の話し声が耳に入りました。三人の内二人は、あの先生は、とっても不潔やったと、悪評されていましたが、一人の娘さんは、私はとってもありがたかった。先ず、先生は確かに大きなおならをされましたが、私の耳にはそれが聞こえた。次に臭かったあの臭いは私の鼻はキャッチできた。多くの信者さんの嘲笑を伴うそれぞれの顔は、私の目にはよく見えた。それで私は、私の耳も鼻もそして目も総てが健全なおかげを頂いていると心から思えて、感謝できました。

投稿No.341 親先祖への恩返し 訓練生 男性60代  

 高齢の私の母親は多くの方々から介護を受けながら、毎日元気に生活させていただいています。一般に、介護のお世話をする人は、される側の状況を充分把握する必要があり、結構ストレスが溜まるようですが、私の親については、「世話する度に有難うと明るく言ってもらえる。こちらが逆に気持ちが和らぐ。こんな言葉がでるのはよほど若い頃から身に付けられたのでしょうね。とても不思議です。」とお世話する人から喜んでもらっています。そうは言いましても、全て周囲の人にお任せするわけにはいかないこともあります。そうしたことを私がしていますと、徐々にですが間違いなく親への恩返しの心が強くなってきます。親の介護を天職として受け止め、これを通じて信心を進める機会を与えていただいているのだと思います。同時に、親先祖、神様への恩返しの大切さやお結界取次の偉大さを再認識しています。

投稿No.340 入信のきっかけ トンボリ 男性80代  

 私が5才の時で、うっすらと覚えていますのは、確か店の廊下で、「あんな、この おっちゃんにわし、ええ事教えて貰ったんや」。父の話では、店を改造しようとし て、設計を頼んだお方でした。「金光教で江戸堀にある玉水という教会に、大した 立派な先生がおられるのや、一つ、その先生にお願いして商売繁盛の御蔭をこう むらんか」その偉い人というのは「金光教玉水教会長湯川安太郎、初代大先生」 です。 親父は貪欲でしたが、己の力を知っておりましただけに依頼心が強く、そ の頃は他宗教を信仰していました。 昭和七年五月頃、親父はそ一っと覗きにお広前にお参りし、見ておりましたら、 奥から年寄りの先生がお見えになって、御神前と御結界にお礼をして、大きなお 火鉢にお座りになられました。このとき、初代大先生は63歳で、親父は33歳で した。 そこでお火鉢に膝を進めて、初代大先生に次のように申し上げたそうです。 「私は○○さんに聞きまして、お参りさせて頂きました。これこれこういう者でご ざいます。 どうぞ私を業界一の人間にして下さい」。「よっしゃ一!」と即座に返 事されて、親父は全身しびれる程、感激したのです。普通世間では相談しても、 中々「よっしゃ一」なんて言うてくれる人はございません。それからは一日に二 回から三回お参りを欠かしませんでした。振り返りますと、今日のように初代大 先生から助けられ、広大なるお蔭を頂いたのでございます。

投稿No.339 二代大先生のこと まろん君 男性40代  

 亡母は昭和六年、大阪生まれでした。家は難波付近の呉服屋でしたが、昭和二十年の空襲で全焼いたしました。母は父親を早く亡くし、父の ない一人娘でしたが、祖母には複数の独身の妹達がいて、姪っ子である母を可愛がって育ててくれました。戦後、祖母とその妹達と母は、露天商の金物屋として再出発いたしましたが、物のない時代だったので鍋や食器類、石鹸や箒(ほうき)、たわしと いった金物や日用雑貨は飛ぶように売れて、いつしか店を持てるようになったのでした。母は生涯を通じて信心深い性質でしたが、この頃から長く、二代大先生に限りないお蔭を頂き、父の愛を知らない母にとって、お結界におられる二代大先生を 父親のように慕わせて頂いて、信心させて頂いておりました。母は「私には父がないが、お結界に飛んで行けば二代大先生がいて下さる、といつも思った。有難いことだった」とたびたび申しておりました。

投稿No.338 おかげを頂きに行こうU 聖徳太子 男性70代  

 平成9年頃武生教会長先生から私宛に、大阪にも教会があるからそこにお参りさせて頂きなさいと連絡を頂きました。仕事上の都合で自転車にて走行中通りがかりに目に入ったのが玉水教会でした。早速私はお広前にあがり御結界に若い先生がおられたので今日から参拝させて下さいとお願い致しました。ニコニコと優しい笑顔で拝詞集をくださり、ようお参りになられたと・・・現在私はその頃の事を思い出し人と人との出会い、助け合いお世話になったこと、貴重な体験をさせて頂いた。ずいぶんお世話になったなァーと回想致しております。これからも感謝とありがとうと言う信念を持ち信心を勧めていきたいと思っております。

投稿No.337 おかげを頂きに行こうT 聖徳太子 男性70代  

 今から41年前私がまだ若かりし36才、11月下旬頃神奈川県に住む義母からの電話、一緒に金光様におかげを頂きに行こうよ・・・と誘われました。翌日大阪駅で金光行き直行列車にて家内が独身時代お参りさせて頂いておりました福井県武生教会長先生とも合流して夕方金光駅着、翌朝金光様のお出ましをお迎えさせて頂きました。朝3時頃金光様がお通りになる参道の片側に教会長先生と信者さん、義母、私と待っておりました。やがて金光様がお見えになりそのお姿を拝見した義母は地面に正座してお迎えしましたので、私も同じように致しました。好奇心の強い私は顔を少し上げ周囲が薄暗いので金光様の足許を若い先生が提灯で照らし先導されているお姿を拝見させて頂いた。1mしか離れていない足許を見ますと素足の下駄履きのお姿でした。その後何千人と収容出来るすり鉢状のお広前祭場にてご祈念を頂き帰路につきました。

投稿No.336 初代大先生のお取次U H,F 女性80代  

 私の結婚は、戦時中昭和18年で男の人おれへんもん親が初代大先生に先生にしょちゅう良縁のお願いしてたんでっしゃろな、あんたとこは難しいけどおかげ頂こうなと言われた。お見合いして現在の主人、兵隊はいかんで延期願いだして(軍需工場やったから)初代が「もうここらで決めなしゃあないな」言われ「そやけどちょっと気になることあるさかい調べてみ」と仰ったのが生まれ落ちるなりからの心臓弁膜症だったんです。弱い弱い主人でしたが、終戦後直ぐからでしたが私らがお参りするのを自転車でついてきて、私らお参りと言わなかったんです。お参りするようになり青年会にも入れて頂き三人の子宝にも恵まれ三人とも二代大先生の取次で良縁のおかげも頂いております。こうして我が家も絶えずにおかげ頂いております。平成26年には初代大先生70年祭をお迎えし、明くる27年には玉水布教百十年のお年柄をお迎え致します。私達信奉者は、初代大先生より歴代大先生のお取次に助けられて参っております。その恩に報い、喜んで頂くため初代大先生、二代三代大先生、そして現大先生のお取次により頂かれた良い話を皆様に伝えて頂きたく改めて投稿をお願い致します。 * (URA)http://www.tamamizu.org(玉水ホームページ)* (FAX)06-6441-4961郵便でも受け付けています。

投稿No.335 初代大先生のお取次T H,F 女性80代  

 小学校行っているときはあまりお参りせなんだわ、親についてしぶしぶ参っているだけやもん。女学校三年生位やろか一番考えが悪いときや、その時からこの子はお参りせないかん言われて、母も体が弱かった。酒屋をやっていて一生懸命やった。播州の出で大きな土地持ちやった(みんな土地を持っていた)ここへ来たらちょっとも土地あれへん。大先生の傍にいたんでっしゃろな、あんたの願い何や?・・・と聞かれ、母親がうちの一角ほしおまんねんて。えらいこと言う女やな言われはずかしかったというて・・・それがえらいおかげ頂いてな・・・。ちょっともない土地から二代の時におかげ頂いて。初代の祈りがあって・・・まあそんなとこだ!!。何でもちょっと悪いゆうたら3日や一週間ゆうてそんなん分かったはるんかいな思うて、その頃丁度女学校四年生頃、福島にある学校に通っていて、桜橋で絶対乗り換えて江戸堀で下りてお参りするよう言われて、キップあてがわれて、余ったらお参りしてないのん分かるし。せいふく(着物、袴、靴)着て教会の門こぐるの恥ずかしかった。そやけどもう一人か二人お参りしてはったけどわたしあかんねん。お参りしてはんのん?・・・ともよう聞かず分かれてしもてん。けど私は最後までお参りは来てました。

投稿No.334 お参りの貯金 こだぬき 女性80代  

 私は当初母姉に神様に積み立てをしなさいと言われた。昔の信者さんがよく話されていた。郵便貯金はいくら貯めてもあかん。お金で買えない物がある。それは神様に貯金する事、足を運んでお参りすること、そうすることにより、難儀なとき助けて頂ける。難はみかげと昔の人は言いました。難儀なことが出来たら一心がでる。お取次をいただきお話を聞いて帰る。お参りするためには交通費がいるので始めは交通費のおかげを頂いた。だんだん欲が出てきて色々お願いした。今思うと主人の交通事故から子供のこと、自分も体が姉妹のなかで一番弱かったが健康のおかげを頂き姑さんのお世話、自分のこと、今はお金も必要なときお繰り合わせいただける。子供も信心を頂き、孫まで信心させて頂いている。皆様に私の苦労して信心で幸せになった喜びを解って欲しいと思います。信心の無かった主人まで。

投稿No.333 見つめ直し神様にお礼を 遊峰 男性80代  

 我々は五体満足に生まれた事を先ずお礼を。ある信者さん生まれながらに小児麻痺というハンデを持ち頚椎性脊髄手術を受け今後のため障害者職業技能を受け、技能競技大会でも2位の成績を収めた。また不自由な体で大学卒業。中山亀太郎先生両手片足無くても奥城の階段を一段一段と昇って行かれる後ろ姿を見せて頂き手を合わせた。また夏、顔の汗を口でタオルを出し拭いておられるお姿を見せて頂いた時おのずから頭が下がり神様を通して見つめ直させて頂く、先生は「運命を愛し運命を生かされた」事を教えて頂く。

投稿No.326 初代大先生のお取次 60突破の婆さん 女性80代  

 母の信心のお蔭で直接のお取次を頂いた経験はありませんが、いつも私のお願いは私を連れて参り私の前でしてくれました。小学校6年生の時「この子は小さく細く弱いので・・・」とお届けしてくれますと「60才迄は保障してあげます」と仰いました。当時60才と言えばお婆さんという印象が強くそこまで保障して貰わなくてもいいわ・・・と思いました。その間5人の姉弟それぞれの配偶者共々母の信心を受け継ぎお蔭を頂いておりますが、さすが60才を迎える頃になると心配になってきて健康のお願いを始めました。お蔭で大病をすることもなくこの年まで、元気に生活をさせて頂き、日参をさせて頂いております。

投稿No.325 初代大先生のお取次 のんき坊主 男性80代  

 親に連れられてのお参りでした。父は仕事で忙しく主に母とのお参りでした。最初はまえの小さなお広前でしたが昭和10年に現広前が完成し7,8才の頃聞くとも聞かんとも遊び心でお火鉢の大先生と或る信者さんのお話を聞いていたら、その信者さんに「あんたちょっと待っとってや。今着いた電車から降りてきた信者さん急いだはるねん・・・先に聞いてあげるから待っとってや」と話を制しておられた。「この先生よそから歩いて来はる人のことまでわかるのんか・・・」と驚いた又別の日には「霊様のお呼び出しあるやろ、オーオーと呼ばれるのん数が少ないと直ぐお社に遷りはるねんで、数が多いと入りかけては出、入りかけては出、迷ったはるんやで」とお話をされていた。これを聞いた時「この人、人間やのにまるで神様の様な人だなと」子供心に思いました。6人兄弟の4男、のんき坊主として育ち成人してから3度の大病、手術を経ておりながら子、孫、ひ孫まで頂きのんびり暮らさせて頂いているのも初代大先生の祈りのお蔭だと最近有り難く思っております。

投稿No.324 思いつきメッセージ 思いつき信者 男性60代  

 ふと気が付くと、「ふれあいの広場」へのメッセージが思い浮かんでいた。それを書き留めて置こう。何教によらず、神仏を信じて良かったと思われる時とは、自分の願いがその通りに叶えられることだろう。だが実際にはまずそのようにならないのが普通だ。そして本当の信心とは、そこから始まると言えるだろう。願いが叶えられずに悩み、そしてあれこれと思い惑う自分の姿をいやでも見せつけられるのだ。それは、もし願い通りに叶えられていたら、絶対に見れなかったはずの、見たくない有りのままの自分なのだ。こうして様々な事で不足に思い悩んでいるのが、実は自分の心であり、本当はこの心にお蔭を頂かなかったら、いくら財産や地位に恵まれても、人間関係や病苦や死別への不安や苦悩は無くならず、本当の幸せからは程遠いことを思い知るのだ。お道ではそれを、「お蔭、わが心にあり」とみ教えくださっている。このようにして心の修行を積むうちに、やがて人は願う以前にすでに頂いていた、そして今も頂いているのに気付かったお蔭の有り難さが分かってきて、心からの喜びとお礼を申し上げるようになるのだ。不足やご無礼ばかりのこれまでの自分の心の至らなさが、こうして身に沁みて分かれば、続いてそれへのお詫びをもうしあげずにはおれない。こうして不足や不安に始まった祈りは、お礼とお詫びになり、お願いの結果については全てお任せできるようになる。これまでにはこだわらずに、すべてを委ねる祈りを、「今月今日で頼めい」とみ教えくださっているのだ。

投稿No.323 神様の思いに合わせる 訓練生 男性60代  

 私たちは天地の間に生かされているのですから、その道理と神様の思いに合った生き方を求めて信心を進めようと努力しています。信心の目的の一つに『災いを転じて幸せにさせていただくために』とありますが、これは『災いに会わず幸せになる』という目先のおかげでなく『災いを機会に自ら改まり、信心を進める機会とする』というまことのおかげを目指す有り方です。しかし、「我をすてる」、「人を思う」、「心配はお供え」等、どれ一つとっても生涯を懸けての超難題です。他方同時に、私たちには神様の思いに合わせるよう、お結界でお取次いただくという無限の有難い場があります。これは、お結界でお届けし、大先生のお言葉に沿って信心を進める努力を積み重ねれば良いのですが、自分だけでなく親先祖、子孫に喜んでもらおうと思えば、お結界に箸の転げたことでもお届けし、心の中をさらけ出し、課題克服に向けたあり方を気付かせていただくことが必要です。私たちはややもすると目先のことに囚われがちですが、参拝する、お話を聞くこと等も含め、ありとあらゆる工夫を凝らして、しっかり信心を進めさせていただきたいものです。

投稿No.322 「インターネットと信心継承」 IZZY 男性60代  

 今から約15年前、ニューヨークに駐在していたころ、サンディエゴ教会に参拝させて頂いたことがあります。湯川憲一教会長先生は、たいそう喜んでくださり、約1時間、布教10年間のご体験をお話しくださいました。お取次ぎを頂くなか、話題が「信心の継承」に及んだ時、若い人に、難しい信心話しをするより「これをあげなさい」と言って、「www.konkokyo.or.jp 」と記した付箋をお下げくださいました。昨今、次世代との会話機会が少ないと言われていますが、インターネットを、もっと有効に利用すべきと思います。現在では、金光教本部や玉水教会のホームページは、当時とは比べものにならないほど、充実しています。ご家庭で、子供さんや孫さんに、このアドレスを見せて、ホームページを立ち上げてもらったら、自然と金光教に「ふれあう」機会を得られるのではないでしょうか。

投稿No.321 信心の継承 こだぬき 女性80代  

 息子が痔瘻になって病院に行き、診察をして貰ったが治らない。手術をしてもダメだと言われた。それで自分から神様に向い一生懸命に祈っておかげ頂いた。今では嫁も一生懸命になり信心させて頂くようになった。今までは、私の母の祈りと私が一生懸命だったが、痔瘻になって「手術してもあかん」と言われ、「お母さんがお参りしておられるところに行って神様にお願いしましょう・・・」嫁が息子に言ったと聞いている。今では痔瘻もすっかり良くなり、難はみかげとはこのことだと、私は有り難く思いました。

投稿No.320 自然を見詰め信心を 遊峰 男性80代  

 自然社会にはいろいろ教えられることがある。雑草や木は雪や風雨にたたかれ人にも踏まれても根がしっかりしていればやがて花を咲かせ人を楽しくしてくれる。信心も日々考え直すことで根がしっかりしているとやがて徳として花が咲く、人に大事に手をかけてもらったユリやチューリップには強い根がないので、人に美しく見せているが二、三日で散ってしまう。我々も、耐えてきた雑草や木のような信心をさせて頂くことを、絶えず心に言い聞かせ、自然に御礼申し上げ、天地のお徳に感謝しようと思う。

投稿No.319 もう一度自分を見詰めよう 遊峰 男性80代  

 教祖様は神様よりお言葉を頂かれた「世間になんぼうも難儀な氏子あり取次ぎ助けてやってくれ」と神様のお言葉を受けられ人間関係、経済問題、民族の紛争等、絶えず我々が寝ている時間帯にも一年365日風雨の日も暑い寒い日にも、慶応3年11月24日より現5代金光様に至る迄、一日も休まれることなく我々のために御結界にお座りになられている。これらの事もう一度静かに振り返ると「有り難く勿体なくしっかり信心を練らせて頂かなければ相済まない」としっかり強く自分に言い聞かせる毎日である。日々何もないことに喜びが足らないように思う。一旦病気をすると神様に必死になってご祈念する人が多く見受けられる。教えにもあるように病気が治るのが有り難いのではなく、何時もまめであるのが有り難いのだと常々言い聞かせて頂いていてもややもすると自分勝手に生きているように思う。又ある人脳梗塞になり車椅子の生活なので早く自分の足で歩けるようにご祈念しているが、自分の足で歩けるよう努力しながらのお祈りが必要ではないかと教えて頂く。「何事も信心する者は、神心になれよ」と教わっている。事が起こると一生懸命にご祈念するのが我々凡夫である。絶えず初代大先生が言われた言葉に従って信心の稽古をして、事が起きたときは、おかげを頂くときだ。

投稿No.318 おもいやり 聖徳太子 男性70代  

 人は感情がある故に時として、多種多様な形態で大なり小なり死亡にまつわる事故を引き起こすことがある。交通事故では右折車両と直進車両とぶつかりでの怪我や死亡。また車両運転中に車線変更したり割り込みするなど、両方とも相手の人に譲る気持ちが無かったための事故。横断歩道以外での横断や自動車が来ているのに止まってくれるものと思って平気で横断する人。このような事故を起こす行為、これは全て「まあこれ位は大丈夫やろう。心配いらんわ・・・」という安易な気持からだ。「そういうことをしたらどうなるのやろとか、これで安全やろかな」と、周囲に迷惑をかけないやろかという「おもいやり」があったら、事故はなかったと私は思う。またこれ以外にも色々あるけれど、言葉だけでは簡単に言えるが、それを実行するのは難しい。「おもいやり」の心を習慣ずけ努力していこうという真の心を持つ事が大切だと思い、いっそ信心に専心していこう。「おもいやり」の心ひとつで、喜びと感謝が生まれる。

投稿No.317 工場現場でのおかげ まろん君 男性40代  

 我が家の家業は町工場でした。父が始めた工場で母も一緒に働いていました。両親は既に他界しています。仕事はプラスチックで工業用送風機を作るものでした。その工場の作業中に、こんな事がありました。母はモーターのシャフト(鉄の心棒)にプラスチックの部品をはめこんだのですが、その部品が間違いであることに気づきました。それで部品を抜こうとしましたが、指を差し入れる隙間が狭く、部品の穴はシャフトに固くはまってなかなか抜けません。当時仕事は忙しく、残業中のことでもあり、母は抜けずに焦りました。そればかりでなく、当時の父は母に声を荒げて怒鳴り散らすようなことは日常的にありました。母は、その部品が抜けずにぐずぐずしていると、また父の機嫌をそこねて怒られると青ざめるような思いで焦っていましたが、思うようになりません。母は困って、その場で「金光様、大先生」と祈ったといます。すると瞬間に逆作業を思いついたのでした。母の担当は、主としてプラスチックの溶接でしたが、溶接は熱風溶接機で行います。手持ちガン状の細い管から熱風が噴出するものです。思いついた通り、母は熱風溶接機を使ってシャフトにはめた部分を暖めました。すると案の定、その部品はたやすく抜けたそうです。このように、神様は実際のものづくりの現場でも、見守っていて下さり、作業方法を具体的に応用させてくださったのでした。全くありがたいことでありました。

手記No 315 初代大先生のお取次 きょうちゃん 女性85歳 掲載号 2012/6/1 No23

小さい頃から母に連れられ、よくお参りし、お話も聞かせて頂きました。ある時大先生に「友達のお母さんが腹膜炎で死にかけております。助けてあげて下さい」とお願いすると、「わしゃそんなん知んで」と突き放されました。何でも聞いて下さる神様やと思っておりましたのでムツとして帰りかけたら、傍におられた書生さんが「ちょっとまち。その人お参りしてはるんか」と聞かれ、お参りしてはりませんと答えると、「そこんところを言われているのやで、何もあんたがムキにならんならんことないやないか」と教えられ気を取り直してお参りする様になりました。また母が火鉢の大先生の前で最近雨が降らないので困るわネ。と皆で話していたら大先生は立ち上がられ、戸を開け空に向かって手招きされたら空が急変雨が降ってきたのには皆びっくりし又感動をしたと言っておりました。私も後で何でも神様にお願いしおかげ頂くんやでと教えられ、多くのおかげを頂きこの年まで幸せに生活させて頂いております。

手記No 314 愛犬にもおかげ こだぬき 女性82歳 掲載号 2012/6/1 No23

 私が洋裁教室で生徒さんに教えていると、主人から電話がかかってきて「えらいこっちゃ。愛犬が釣り針を飲んでしまった」とのこと。釣り好きの主人がつりに行くため準備をしていた時、つり仲間から電話がかかり、電話を終えその場に帰ってみると、釣り針が4本とも見あたらない、置いていた台の上になめたようにぬれた跡がある。魚の臭いがするのでそんなことになったのかも知れない、内蔵に引っかかれば一大事、お医者さんに電話をすればレントゲンをとり手術をしなければいけないと言われ、主人も責任を感じたのか、「金光様にお届けをしてご神米を頂いてきてくれ」とのこと。それをハムに包み飲ませました。1日経っても2日経っても便がでない、ひょっとしたら庭で・・・となり、探してみると木の根元にしていた。割り箸でつついてみると、真っ白なお剣ざきさんがでてきてそれに引っかかっていた。主人もびっくりして「こんな事があるのかと。これこそ神業だ」と大声で言う。主人にこの信心の有り難さを解らせて頂けた。

手記No 313 葬儀の偲び手なぜ? 浦島太郎 男性70歳 掲載号 2012/6/1 No23

 現役時代先輩社員のお父様が亡くなられた。遷霊式にお参りさせて頂いたとき。にぎやかなのが好きだったので・・・とワイワイガヤガヤと親族で歓談されていた。やがて五十日祭も仕えられ偲び草を頂いたとき、開けてみると紅白のお菓子であった。聞いてみると96才、どこが悪いともなく老衰とのこと、この世を全うしおめでたいとのこと。しかし送る者としては亡くなられた御霊様に心静かに幽世にお移りいただくため音を立てない偲び手の心で送りたいものだ!!

手記No 312 八足台足8本なぜ? 浦島太郎 男性70歳 掲載号 2012/6/1 No23

 結婚した時、一家を構えたので御神璽を頂きお社を買わせて頂き、お祀りさせて頂いた。八足台の話しになった時、ある先生に「高くつくから自分で創りなさい」と勧められた。何の予備知識もなかったが、ただ釘は使わない方がいいだろうと木工ボンドを使った。お社用の台はお榊と共に軽量なので4本足になった。お供え物用の三段一式の台は足8本になった。重量物をお供えする台は斜めの力は加わらないので低い目に小さくした。これは材料の関係で8本に出来ず6本足である。子供達がお供え物をさわらぬようバリケード(玉垣)で囲った。この度のなぜ・どうして?の投稿で調べてみると案の足は8・12・16と8に限られていない(百科事典)。末広がりで8がいいとの説もあるらしい。
 現在、現大先生のお取次を頂き新しい住居のおかげ頂いた時、ご神殿も新しくおかげを頂いた。三段の引き出し式八足台も兼ねている。しかし従来の重量物をお供えする6本足の案はいまだに使用している。おさな孫が来てついうっかりしているとおもちゃにし壊してしまう。よほど気に入っているようだ。その都度木工ボンドの世話になる。これがダメになるとやはり8本足の案を求めることになると思いますが・・・。

手記No 311 No,0261 なぜ・どうしてへ返信 バァバ 男性67歳 掲載号 2012/6/1 No23

 「季節の果物・食物等を神様・ご先祖様にお供えするのに通常三宝に盛りつけお供えしているがある時三宝に載せきれないお供え物を家内がじかに八足台にお供えしていた」との意見の相違についてですが、私ども通常家庭生活の中で食事を家族に出すとき食卓の上に食器に盛りつけ出すのが通常だと思います。そして「もう少し・・・」と言うときは「お代わり」と言うことになるかと思います。載せきれないものは敷き紙を敷きお供えするなりの工夫をされたら如何なものでしょうか・・・?ただ食卓の上に盛りつけたおみかんを一つと要求されたときには、手渡すか目の前にじかに置くかをしますが。

手記No 310 孤独死に思う 五月山の風鈴 男性88歳 掲載号 2012/6/1 No23

 近年高齢者の孤独死が度々新聞紙上及びテレビなどで大きく取り上げられています。私達の子供の時代には孤独死等と言うことはごく稀でしかありませんでした。なぜでしょうか? それにはいくつかの理由がありました。そのうちの一つに隣組組織があり回覧板という連絡板を各町内会別に回覧し、気を付けなければならぬ事、町内会の諸事業及び国からの重要な行事の連絡、特に戦時中は一致団結せよとのスローガンの下、気を引き締めさせ るためでもありました。今はどうでしょうか?自由々という言葉に踊らされて勝手気ままに振る舞う風潮が蔓延しています。これはいけないことではありませんか? 心に食い込むスローガンはないものでしょうか? 考えてみればこういう私も昔は昔だという風潮に流されています。真にばかばかしいことです。そこで隣近所と言葉を掛け 合うこと、道で会えば「今日は」、「今晩は」と進んで声を掛け合おうではありませんか!! 次に隣近所、向こう三軒両隣昔のように横のつながりを密にしょうではありませんか!! これら私も心を入れ替え進んで行いたいと思います。

手記No 309 信心の大切さ しだれ桜 女性60歳 掲載号 2012/6/1 No23

 我々は「心配する心で信心せよ」と教えを頂いております。日々の生活の中でこのことを実践するのは並大抵のことではないと思います。初代大先生はその事を身を持って教えて下さいました。神様にお願いして心配を全部預けて試すべき努力をして、祈るということ、その信心のけいこを日々させて頂くことで必ずおかげにして頂けます。私は暫く何でも心配なことを神様にお渡しできるようになりました。おすがりしたら必ずおかげになります。その信念が大事です。まだそれが分からない時は、自分で人生を切り開くしかない。自分が努力するしかないと言う思いで生きていました。ですから、信心のおかげでどんな心で安心な生活が出来ることかを申し上げたいのです。

手記No 308 放射線照射後膀胱全摘出手術 牛  歩 男性86歳 掲載号 2012/6/1 No23

 私は昭和62年膀胱内に腫瘍が3つでき、掻爬手術でも完治せず、三代大先生に膀胱を全摘出して人工膀胱になることをお願いして、おかげを頂きましょうと言って下さいました。放射線技師は、私の腹部膀胱の皮膚前面にマジックで、範囲を指定し毎週5日間4週間計20日、一日20秒コバルトを放射してから手術をするのだそうです。これは膀胱内の現腫瘍の拡大防止と、手術時の出血を少量にするため。しかし放射線の一部は、必ず膀胱外の良好腹部にも当たりますとのこと。私は三代大先生が、放射線照射後膀胱全摘出手術を無事実施をご祈念して下さり、私は後遺症なく良好のおかげを頂きました。

手記No 307 子供は3歳までに親孝行 訓練生 男性65歳 掲載号 2012/6/1 No23

 『子供は3歳までに親孝行してくれる』という言葉があります。これは「親がいくつになっても、3歳までの子供の可愛さを思い出しあの時は親孝行してくれたものだと感謝する」という解釈が有力だそうです。これに似た言葉『三つ子の魂百まで』は、幼いときの性質や培った習慣は、老人になっても変わらないという例えです。この例えについては、「人格の基本的なところは、自我が芽生えるようになる3歳までに受けた養育の質によって決まるのだから、大切に育てる必要がある」という考え方と、「善悪の判断、基本的な礼儀作法などを教えるには、3歳ごろがしつけの最初の適齢期」という考え方があります。しかし、親は子供に、子供も親や祖父母に教えられているという心を持ちながら過ごせば、いずれの解釈も正しいでしょう。それにしても、大家族の中にいる幼い子供さんがお祖父ちゃんやお祖母ちゃんに連れられてお教会に参拝され少々やんちゃをされていても、私には誠に微笑ましく思われます。お徳の溢れる大広前で、人を思い、礼を言う心がいつの間にか子供たちに受け継がれていくと思うからです。

手記No 306 「ふれあい広場について」 IZZY 男性69歳 掲載号 2012/6/1 No23

 2月19日の総会でご報告があったように、「ふれあい広場」が開設されてから5年になりました。立ち上げのご苦労に敬服するとともに、この素晴らしい広場の発展を祈願しています。「ふれあい広場」設立目的の一つは、子供や孫さんたちが「金光教ってどんな信心しているの?」と興味を持たれたとき、インターネットや印刷物でメッセージを見ることができる、世代を結ぶ信心の架け橋を担うことであったと聞いていますが、今後、この広場が「宝のもちぐされ」にならないように、継続、改良してゆくことが肝要と思います。
ネット世代の若いかたがたが、この教会ならば、この信仰ならば、喜んで継承するに値すると思ってもらえるような環境作りやアプローチが必要でないでしょうか。そのためには、できるだけ若い信奉者や一般のかたに、信心についての疑問点や、納得いかないこと、お困りのことなどを、インターネットを通じ、「ふれあい広場」に投稿して欲しいと思います。その対応に、同世代の目線で若い先生がたも参加していただけないものかと思います。皆でこの「ふれあい広場」を盛り上げていきましょう。

手記No 305 お礼の中に生かされている我が身 遊  峰 男性86歳 掲載号 2012/6/1 No23

 目を閉じて静かに思いを寄せる時、息を吸い・吐く一年365日絶えず無意識のうちに休みなく働き続ける心臓、自分の命を支えて頂いている事を再認識し、人間の力の及ばない不思議な働きがあることを自覚、自分の思いだけでなく日々目に見えて頂いている命にお礼申し上げると共に生かされていることを再認識し、この世に居ることを神様に喜んで頂く信心をさせて頂き前向きに歩みたいものだ。
 信心と言って自分勝手に振る舞っている時があるが自分を見詰めなければと思う。朝起きて神様に命を頂いた事をお礼、又寝床にもお礼、今日一日自分の行動をお届させて頂き都合良く歩ませて頂く、どこへ行くにも無事都合良くいくようお願い、また帰ってきた時もお礼を。夜寝る時もその日のお礼を申し上げ目を覚ましたとき生かされている喜びにお礼を申し上げたいものである。

手記No 304 初代大先生のお取次 U カナ 女性91歳 掲載号 2012/4/20 No22

 結婚もし妊娠を知った時、御結界で前の人が女の子が生まれました。名前を付けて下さいとお願いされていたのを聞き名前も付けて下さることも知りました。次の日にお参りすると霊子と頂いておられ字を見てどういう意味なのかなと疑問を持った。暫くすると亡くなりました・・・とお届けをされて居られました。先の先までお見通しの神様だなと思いを新たに致しました。長女を出産し名前を下さいと申し出た時、花子という名を頂きそれを親族に見せると、こんな古くさい字、名前、へエーと皆が言いました。そこで次の日、大先生にあの花子に花を咲かせて下さい、枯れさせたらいやですよ・・・と願い出た時大きな声で「よっしゃ」と返事を頂けました。いいところに嫁がせて頂き子供も出来、姑を始め親族にも大事にされ幸せな生活をさせて頂いております。

手記No 303 初代大先生のお取次 T カナ 女性91歳 掲載号 2012/4/20 No22

 10才頃京町堀に住んでいた。学校から帰り、夕方散歩かたがた歩いていたら八ッ波の提灯が目に入りました。こんな処に金比良さんがあるのかと覗いてみたら一人お参りの人がおられ怖い顔をされた先生が何かお話をされていたが怖くて逃げ帰りました。明くる日また行きたくなり覗いてみたら2〜3人の人がお参りされまた先生がお話をされていました。みんな一生懸命有り難そうに聞いておられ3日目にはつられ入ってしまいました。神社仏閣にお参りするのが好きでしたがどうして入ってしまったのか自分でも解らない、今思えばこれがお手引きだったのでしょうか?・・・こうしてお参りが始まりました。最初は拝み方も解らず聞くことも出来ず頭を下げて帰るだけだったのですが、先生がいつもお話をされておられたのでちょと聞いてみると、ほんでな、あのな・・・と大阪弁でお話をされておられました。こんな楽しいお話を聞かせて頂いてもいいのかな・・・と思いつつ聞かせて頂くようにもなりました。

手記No 302 「信心の四つの目的」の意義 撫  子 女性72歳 掲載号 2012/4/20 No22

  人は何のために信心をするのであろうか。金光教においては、その大目標が「助かり」であると考える。初代大先生のみ教えでは、神様は「神徳」という財産を氏子へ渡したいと願われている。神様はこの財産を氏子へ渡すことによって神様が助かられるのであり、そして氏子も立ち行き、助かるのである。すなわち、神も助かり、氏子も立ち行くお道のあり方である。それでは、その神徳をいただくにはどうすればよいのか。初代大先生は「受け物」を作らなければその神徳をいただけないとみ教えくださっている。そしてその「受け物」を作るためにもっとも明確な目標として、「信心の四つの目的」を掲げてくださったのだと考える。

手記No 301 初代大先生はえらかった 作州浪人 男性80歳 掲載号 2012/4/20 No22

 玉水教会に始めてお参りしてから、10年経過しました。金光教の教えが少しわかってきました。そして、初代大先生が偉い人だったということがわかりました。初代大先生のみ教えカードを机上に置き、毎日その当日のみ教えを読んでいますが、私の人としていたらぬところを反省し自責するばかりです。中にはズキンとすることもありました。そして昔この教えを知っておればよかったのにと残念に思うこともありました。最も反省したことは

@ 人を責める前に自分が悪いと自覚することが大切。
A 自分というものをよく反省して人としての道をふめ。
B 一旦願いをたてた以上はどこまでも願いきれ、と言う三つでした。

手記No 300 信心の継承 聖徳太子 男性76歳 掲載号 2012/4/20 No22

  信心の継承について事実体験した事柄を書いてみました。私の先祖両親共代々仏教の宗派真宗の信徒でした。昭和43年10月24日京都駅前にあるデパート内結婚式場にて妻と結婚式を挙げました。彼女は金光教の信徒でした。ご両親は現在の中国広東福建省、以前は日本が統治していた時代満州国の郵便局に勤めその近隣に金光教の教会があり信徒であった父親その娘として同じく信心の継承していた。但し私は、仏教徒であり彼女に対して結婚した限りは、仏教に改宗して欲しいと願ったが受け付けてくれず一週間ぐらい二人の間がトラブッタ。私も相当悩がよく考えてみれば過去はどうであれ、これから先の事を協力努力する事と妻を愛し子育て幸福を目指して頑張らなきゃいけないと自問自答し、私自身が改宗しようと決心をして金光教の信者になった。参拝行事等の形体は違うけれども仏教も金光教も根本的には教えは同じであると理解できた。信心の継承は多種多様な、人と人の出会いきっかけを愛する豊かな心で、ふれあうことが大切であると思う。

手記No 299 お礼の心 ニューベアー 男性64歳 掲載号 2012/4/20 No22

 私たちは誰一人としてひとりでは生きて行けません。今では死語といわれるかも知れませんが、これまでお世話になった人、例えば、親、お祖母さん・お祖父さん等の先祖や恩人への恩返しは大切です。先祖ならお墓参りをすることです。ただし、足を運ぶだけでは充分とは言えません。恩返しの心を強く持つには、どうしても先祖を知らなければなりません。一方法ですが、原戸籍を取って家系図ができれば、先祖が何時、何歳で亡くなったか、家族構成、社会状況はどうだったのかが解ります。昔は家督制度・家の概念が大きかったため、親が大切な子を養子に出すことも多かったようです。先祖は、かけがえのない子供を出すことの寂しさを乗り越えてきたかもしれません。自分を祖先の立場で考えてみると、いろんなことに思いを馳せることができます。そうすると、お祈りする中身がずっと深くなります。これが恩返しであり、お礼の心であり、涙がでるほどありがたいと思う心への入口です。どうか、一度お試し下さい。

手記No 298 息子の結婚 こだぬき 女性82歳 掲載号 2012/4/20 No22

 私が洋裁学校に勤めていたので多くの方々から息子の縁談話を頂いた。三代大先生にお伺いさせて頂くと「やめときましょう」と言われるばかりでした。10回目も過ぎると息子もお「伺いするとお見合いも出来なと言い出した。その時私の女学校友達が写真を持ってきてくれた。釣書もない、その写真を見て私は女学校友達の娘さんでもあるし九州だしせめて大阪の子だったらな・・・と思いつつ三代大先生にお伺いに行った。大先生は写真をじっと見詰められ「お見合いさせて頂きなさい」とのお返事、大急ぎで友達に連絡すると直ぐに返事が来て別府でと言うことになり初めてフェリーで九州に行きました。息子も気に入って大先生にお届けさせて頂くと「おつき合いしなさい」とのご返事遠距離恋愛が始まりました。教室の生徒さんの中に九州出身の娘がいたので写真を見せると「ァ〇〇ちゃんや」とその娘のことをよく知っていた。今ではこの嫁も信心の話をすればよく理解してくれ家のご神殿で毎日ご祈念をしている。

手記No 297 初代大先生に内緒のお願い 牛  歩 男性85歳 掲載号 2012/4/20 No22

 女性N,Mさんのことです。彼女は三才の時から母親と参拝を始め、その後一人で初代大先生に、「私、今風邪ひいていますが早く治りますように」とお願いしました。大先生は、「そんな時はお母ちゃんが心配しますのでと願えば、神様は直ぐ治して下さるよ」、と教えて下さり、よく理解出来ました。女学校五年のお正月に参拝して大先生にお届けし、「一心に勉強しますので、学年一番で卒業し、校長先生の前で答辞を読み、他の同伴父兄の誰よりも、母に喜んでもらえますように」とお願いしました。大先生はご快諾されたので、彼女はお結界で立ち上がり、誰にも聞こえぬ小声で「母には今日のお願いは内緒にして下さい」とお願い。学年成績95点。同級生父兄多数から「貴女は良くできる娘さんをもたれお幸せ」と言われ、本当に幸せと喜んでもらえ、親孝行出来ました。

手記No 296 朝参りに起こされる まろん君 男性47歳 掲載号 2012/4/20 No22

 亡母は朝参りをする日に、神様から起こされることがある、とよく言っていました。朝参りは五時に起きないと間に合わないのですが、ある日、母は夢の中で初代大先生に次のように言われたと言っておりました。つまり、『芋の焼ける匂いがする』と。そして目覚めると五時丁度であり、玉水教会へ飛んで行きました。 帰ってくると、七時ぐらいになりますが、お向かいさんがサツマイモを持ってきてくれました。鹿児島の田舎から送ってきてくれた上物ということでした。 私も朝参りする時、または、母の代わりに朝食を作らなければならないときなどに、電話のベルのような音で起こされた経験が何度かあります。全く、ありがたいことでございました。

手記No 295 あじさいの花に そよ風 女性86歳 掲載号 2012/4/20 No22

 何故か小さい時から足元の濡れが苦手、勤務中も小雨でも長靴姿で笑われた。姑にも「あんたまるで水に溶ける様に嫌がって!」と、それにあじさいの花が嫌い。重く汚い感じ。そんな私がある日、前世のご無礼にお気付け頂きお礼とお詫びを申し上げました。また、まためぐりの事も教わりました。それえに気が付くといつか水も苦にならず、花にも美しさと愛しさを感じる心に戻して頂いておりました。身の回りの出来事に、こうして心の目を開かせて頂かなければならぬと教わり、この様な身がよくこそお赦し頂けたと思います。命も神縁もすべて歴代大先生、現大先生の並々ならぬお取次のおかげです。一人でも多くの人に神様の事を伝えお礼の申せる人が増えます様、皆が御神縁頂かれ、信心させて頂いてお助け頂ける様に、お礼信心へのお導きを願っております。

手記No 294 世相の中に生きる信心 遊  峰 男性87歳 掲載号 2012/4/20 No22

 或る親孝行の息子が父親に先立たれ或る会社の役員として勤めておりましたが、母親が脳梗塞で倒れ介護のため会社を辞めざるを得なくなり結婚も出来ず、そのうち母親も亡くなりました。再就職しょうと思うが年齢がいきすぎ働く場所もなくハローワークで職業訓練を終えても直ぐに勤め先を探すのに会社によれば経験のない者には勤めも出来ず自然にホームレスに落ちていってしまった。また役所へ相談に行くが良い返事なく誰に相談をしたらよいか解らない事を聴かされた。我々は信心と言うことを深く知りこのようにならないよう平素信心の貯蓄をしておかげの中に生かされると共に神様に日頃御礼を申し上げねばと思う。
信心とはお礼の中で生活させて頂いておるものだと近頃つうせつに感じるようになった。今迄色々とお話を聴かせて頂いておりながら気にもかけず誠に相済まなく思う。信心する者、安心は心穏やかに祈りの中にあるもの、油断は心を配る事を忘れるからと思う今日この頃。

手記No 293 初代大先生のお取次 F.Y 女性88歳 掲載号 2011/12/1 No21

女学校1年生の時友人に「お習字を習いにいかないか」と誘われ連れてこられたのが教会でした。帰りお参りして帰らないかと言われお参りもして帰り、次に来たとき或る信者さんに「お火鉢に座っていらっしゃる先生に何でも願い事をすれば叶えて下さるよと」言われお取次をして頂くようになりました。またお火鉢でのお話も聞かせて頂くようになり、朝のご祈念にもお参りさせて頂くようになりました。兄弟が出征した時もお取次を頂きました。作戦参謀として一番に敵地上陸をして大勢の戦死者が出る中で兄弟は無事帰ってきました。この事実を見ていた母も姉もお参りするようになりました。良き友達にも恵まれたこともあり、過ぎた家族にも恵まれて感謝の気持ちで一杯です。お取次を頂き数々のおかげを頂いてきましたがお願いするばかりでお礼をさせて頂くことが出来ておりません。最近はお礼の参拝に心掛けているところです。

手記No 292 初代大先生のお取次 みっちゃん 女性68歳 掲載号 2011/12/1 No21

 母に聞いたお話ですが、母と祖母がお火鉢の後ろの方で大先生のお話を聞かせて頂いておりますと母に指さされ「あんた年幾つや40か」と聞かれました。その時20代であったが当時の適齢期を少し過ぎておりましたがびっくりし恥ずかしさもあったが後で気づいたことなのですがその時結婚したいとかそんな願望は全くなく心の中までお見通しなのには驚いたと申しておりました。その後父との縁談話がありその時近くに思う人がありましたが「それはあかんで・・・」と言われたらしい。そして父との話、「調べて良かったら行きまひょか」と言われた。心に思っていた人は1年後肺病で亡くなられ母はびっくりしてしまって先の先までお見通しなのにも驚いたと申しておりました。

手記No 291 初代大先生のお取次 つかちゃん 女性90歳 掲載号 2011/12/1 No21

 厳しい両親であり会話もほとんど無い親子関係で育てられました。私のことを両親はお取次、願ってくれていたと思いますが体が細くひ弱でした。小学校の1年生の頃たった1回初代大先生に手招きをされ、「ご飯何杯食べてるか・・・」と聞かれた。2杯ですと答えるとどんぶり大を形作られ「こんなお茶碗か」と聞かれた。子供のお茶碗小さな物を手で形作ると「たくさんたべやお父さん、お母さんにいっといてあげるから」とおやささしいお言葉をかけられた思い出があります。

手記No 290 口答試問で名回答のおかげ 牛  歩 男性85歳 掲載号 2011/12/1 No21

 私は昭和15年に大阪市内で、尋常高等小学校二年を卒業し、某会社の入社試験を受験。一次の学科試験では、数学の幾何の証明問題が一問不正解。国語は全問正解し、後日の面接試験に進みました。試験官から、25の二乗は?貴方の視力は?と尋ねられ、3問目は、あなたが豊臣秀吉を尊敬する理由は?・・・と聞かれた時、全く予期していなかった言葉が口から出て、「君に忠。親に孝。臣を見ること子の如く。恩を忘れなかったことを尊敬しています」と答え、試験官もこの私も唖然。入社合格のおかげを頂きました。後日、母がお結界で入社試験に合格のお届けをさせて頂いた時、「よっしゃ」のお言葉があり、あの時は神様のお答えと御礼申しました。

手記No 289 初代大先生に三回お届け 牛  歩 男性85歳 掲載号 2011/12/1 No21

 私は18才の時お結界で、次のようなお届けをさせて頂きました。
@ 私は、気の小さい人間です。気の強い人にならせて下さい。
⇒「気の小さいのがおかげじゃ」
でも気の強い人は、神様に丸々おすがりしょうとせず自分を信じて物事が出来ますが、気の小さい私は全てお伺いをして物事をしなければなりません。その事を教えられた様に思います。
A 私は近視(0,1)でございます。目を良くして下さい。
⇒「眼鏡はきらいじゃ」
神様に治して頂かなくとも、眼鏡さえあれば困らないとの内心でした。そのことを見抜かれておられました。
B 会社で、女子工員のある方が膝にできた大きなデンボで、長い間痛みがひどく苦しんでおられるのを真にお気の毒に思いお届け。大先生は「今晩中・・・」と仰いました。その夜膿が多量に出て全快されたのには驚きました。

手記No 288 主人の交通事故 こだぬき 女性81歳 掲載号 2011/12/1 No21

 家を買って直ぐ主人はお祭りするものがないので金光さんに寄ってお社を買ってきたと単車に乗せて帰ってきた。直ぐ棚をこしらえお祭りをした。始めは何も分からずご神体もなくお社だけだった。その年の夏主人の交通事故の知らせがあった。詳細は分からないがかなり重傷らしい、小学校1年になったばかりの息子が神棚に手を合わせ、「金光様父を助けて下さい」とお祈りしていた。私もお婆ちゃんもウロウロするだけであった。病院近くの教会を探し行きかいりにお参りをさせて頂いたが、5日目には足を切断しなければいけないと言われた。その時義母と義姉が飛んできて「足を切断して義足で生活なんて・・・!!」と嘆いた。
 「今すぐ教会に行ってお届けしてきてください」と2人が言う、「主人のことは私らがついていてあげるから・・・」と言うので直ぐ玉水教会に走った。午前10時御結界に大勢の人が順番待ちで並んでおられる、私は前から7番目であった。今晩7時に足を切断、でないと菌が体に廻ると死んでしまう(破傷風である)。お届けの後急いで病院へ帰らなければと思い並んでおられる方々に事情を話し前に入れてもらった。それを見ていた書生さんが横から入らず並びなさいと言われこの書生さんに怒りを感じつつ元に戻り前から2人目になった時二代大先生がお出ましになった、その書生さんへの怒りが感謝に変わった。二代大先生に病院の主治医に言われたようにお届けすると大先生は「絶対切ったらいかんと」ハッキリ言われた。帰りかけるともう一度大声で「切らずにおかげ頂きましょう」と言って頂いた。今でも耳に残っています。そして病院に戻り主治医に言うと「足を切り落とさなければ命の保障は出来ない」と言われた。でも大先生の声が耳について「死んでもかまわない、足をつけておいて下さい」と言った。その時は必死でした。
 主人の身内からは「死ねと言うことか」と攻められる!私の母と伯母は神様を信じましょ・・といってくれる。次の日病院事務所から血清を貰ってきてくださいと言われ以前姑さんの弟がそこに勤めておられ血清を取りに行ってもらった。その日から5日で良くならなければ命の保障はないといわれた。ながーい5日目が来た。主治医の先生が「これで切らなくて良い。今までこんな人見たことない。足を切って助かった人はあるが、足を残して死んだ人も何人もあるこの病院始まって以来だ」と言った。今年86才足も年で杖はついていますが、これまでは杖もつかずにおかげいただいてきました。

手記No 287 家購入のおかげ こだぬき 女性81歳 掲載号 2011/12/1 No21

 結婚当初義妹が1年後に結婚が決まっているので同居といわれていたが1年経っても妹は結婚しない、主人に聞くと私の知っている人だったがその人とはうまくいかなかったとのこと8年過ぎて私に子供が2人になると自分も会社から帰ってきてもゆっくり出来ないということで、家を近くで探しかけた。近所の方から家の紹介で義母は私から主人に話して下さいと言うことになり、皆のいるところで話をしました。義母と義妹と一緒に暮らすから少しばかり貸してくれるかとのこと、主人は母と妹のことと良い返事をしたが二代大先生にお伺いすると、妹さんが結婚するときにあげてもいいが今は貴方達がその家を買いなさいと言われ主人にその事を話すと抵抗無く聞いてくれ私と夫、2人の子供とで住むようになった。義母・義妹も納得思わぬ家購入のおかげを頂いた。家財も何もない新たな家での生活のスタートになりました。


手記No 286 信心の継承 U 浦島太郎 男性70歳 掲載号 2011/12/1 No21

 この娘が長女に続き我が家近くにマイホームを建てた。地神祭の時「何か信ずるものはありますか?・・・なければこちらでしますが」の問いかけ、「あります」との二つ返事、「お父さんお願いします」との有り難い申し出。早速お結界へお願いさせて頂いた。新築清め払いもして頂いた。祭事の時腕白盛りの二人の孫も装束を附けられた祭主先生の振る舞いを神妙な面持ちで見入っていた。親子5人の館これ以上の贅沢は言えない。しかしこの家族にとって他にもっと自分たちにふさわしい環境の処もあったはずなのに・・・と疑問も抱いた、が、夫婦で何度も議論を重ねたとのこと。いつぞや長女家族を交え温泉旅行に行っての孫達との湯上がり、この娘が私を見て「お父さん年取ったネ!!・・・」との一言、何故か脳裏に残る。

手記No 285 信心の継承 T 浦島太郎 男性70歳 掲載号 2011/12/1 No21

 前々号手記番号No,0242 ニューべァーさんのすがすがしい親子愛の投稿美しく拝見させて頂きました。私の次女も同じような年頃で乳飲み子を抱え可愛い可愛いでそだてている。相手をするとにこっと笑みを称え何とも言えないかわいさで反応する。時折もうこのまま大きくならずにおりな・・・との会話も飛び出すしまつ。この子には6才と3才になるお姉ちゃんとお兄ちゃんがいて時折家族で遊びにくる。食事時、遊びもって食べるのでお箸が止まること再三、叱りもっての食卓、そうガミガミ言わなくてもお腹がすけば勝手に食べるよ・・・と言おうものならお父さんはだまっといてと、とばっちりを食らう始末、この娘には親の願い届かぬことも多々あって信心のしかたしばしば反省させられることがあった。

手記No 284 お稲荷様の修理に感謝 U まろん君 男性47歳 掲載号 2011/12/1 No21

 「神は荒れ屋敷をお嫌いになる」と金光様は仰っております。神殿はキレイに清潔に祭らねばなりません。私はそのことを玉水様に申し上げたことはないのですが、翌年の春頃には、玉水様が稲荷社殿の改築作業を始めて頂いたように記憶しています。そして今のようなキレイな社殿にして頂けました。金光様にとっては他宗教になりますのに、このようなご厚情で修理をされたということに、金光教特有の「他宗尊重」の根本的精神を再確認できて感動致しましたとともに、修理は私の願いでありましたから、深く感謝申し上げております。「神様は宗旨嫌いをせぬ」「我が信じる神ばかり尊びて、他の神を侮るなかれ」「釈迦もキリストも黒住も、みな神の氏子であるから、他宗を批判するな。」「藪荒神にも神の位はある」「道端の地蔵にも礼拝して通れ」など、常に他宗教を軽視しないよう諭して下さっている。教祖様の『ご理解集』より

手記No 283 お稲荷様の修理に感謝 T まろん君 男性47歳 掲載号 2011/12/1 No21

 玉水教会の横に小さなお稲荷様が鎮座されています。皆様は、このお稲荷様(荒光稲荷様)は、4年ほど前に修理されてキレイに修復されたのをご存知かと思います。4年ほど前、玉水教会の敷地内、裏の入り口付近に、お稲荷様の御神体が一時的に遷され、相当荒廃していたお社の改築を行って頂きました。実は、この修復工事の前年、私は夏から秋にかけての百日間、母の下咽頭癌の治癒を願って、玉水様に朝参りをさせて頂いておりましたが、母が幼い頃、戦前ですが、難波の稲荷町という場所に住んでおり、氏神の稲荷神社があり、少女時代はお稲荷さんにお世話になった、と母がたびたび申していたことを思い出して、朝参りの帰途には、この荒光稲荷様にも簡単にご挨拶申し上げておりました。ですが、そのお社がひどく荒廃している様子なので私はずっと気になっておりました。

手記No 282 東北地震に思う 遊  峰 男性86歳 掲載号 2011/12/1 No21

 我々は平素何もなく日々健康で楽しく生活をさせて頂けることが当たり前の様で神様にお礼が行き届かない日々である。この度東北地震そして津波で家族、親族を亡くしまた原子力発電所の事故により友人知人もバラバラの生活に思いを寄せるとき、無事に生活をさせて頂けることを振り返って喜び感謝させて頂かなくてはと思う。そして自衛隊、アメリカの軍隊、及び一般のボランティアの方々の復興のために自分を省みず支援されている姿をテレビで見るときこれこそ神心であると共に教祖様のお言葉通り人を助けるのは人間である。又各国より金銭面物質面の暖かい援助を頂くと共にこの度のタイの洪水被害をも見たとき改めて今ある生活に感謝をしお礼を申さずにはおれない日々である。


手記No 281 自分を見つめ直そう 遊  峰 男性86歳 掲載号 2011/12/1 No21

 人々はいろんな事をさせて頂きながら生活をしている。今一度幼少に教えて貰ったことを振り返り、浦島太郎、竜宮城で遊びすぎ、村には誰も知った人がいなくなり、大事な玉手箱を開け白髪のお爺さん。またウサギとカメの話、油断したり怠けたりするとあの遅いカメに追い越されてしまう。初代大先生のお言葉を借りると、この世に働きにきたのだと言われておられるようにもっと日々を考え直そうと思う。知っているつもりが忘れがちである。今つもりを考えました。
 @  高いつもりで低いのが 教養
 A  低いつもりで高いのが 気位
 B  深いつもりで浅いのが 知恵
 C  浅いつもりで深いのが 欲
 D  厚いつもりで薄いのが 人情
 E  薄いつもりで厚いのが 面の皮
 F  強いつもりで弱いのが 根性
 G  弱いつもりで強いのが 我
 H  多いつもりで少いのが 分別
 I  少いつもりで多いのが 無駄
以上書き出したことで、見つめ直して信心に前向きで歩もう。

手記No 280 愛と自然破壊 聖徳太子 男性75歳 掲載号 2011/12/1 No21

 平和のシンボルと言われた鳩が、人間に対して害を及ぼす行為。あるマンション7Fベランダに愛らしい鳩が2羽、お腹をすかせて可愛そうにとパンをちぎりベランダいっぱいにまき鳩はお腹一杯に食べ空の彼方に飛び去っていった。のどかな風景であった。後日大変なことになるとは夢にも思わなかった。えさやりの回を重ねるたびに段々と増えてきて30羽を越えるようになりベランダ、洗濯物に糞がいっぱい、苦情が殺到。
 最近日本海のカニが激減、漁師が嘆いている。小さな物は海に戻し資源枯渇防止に思いを寄せられているという。しかし近海の他の海域では底引き網で根こそぎ捕獲しているところがあるらしい。自然破壊行為であり人間が侵している愚かな行為である。信仰する者の一人として神様より頂き先輩より受け継いだこの資源を大切にといつも願っている。

手記No 279 一人での本部参拝 昨州浪人 男性80歳 掲載号 2011/12/1 No21

 私が3年前まで監査役をしていた会社の広島支店は広島県福山市にあった。私は1年1回か2回福山に行き、支店の帳簿、書類を1泊2日の日程で監査していた。2日目の午後は仕事を早めに切り上げ、福山駅から電車に27分間乗って金光駅に着くのが毎回のことだった。駅も金光町も田舎で静かだった。本部の広前に座り拝詞を唱えて参拝した後、本部前の広場に立ち、教祖生神金光大神様が、お取次をされていた土地を訪れることが出来る幸せを感謝するのだった。金光駅から岡山駅まで山陽本線の電車に乗って、岡山から新幹線で新大阪に帰るのである。しかし体調のよい時は、倉敷で途中下車をして駅前のチボリ公園を訪れ、デンマーク人形をあさったり軽い夕食を摂ることが私のくつろげる楽しみであった。

手記No 278 思いが祈り そよ風 女性85歳 掲載号 2011/12/1 No21

 お道に御縁頂けば、思いが祈りになる事を忘れてはならぬ。素直な心が一番だと、全てを明るい面、良き方から見つめると、自然とお恵みが分からせて頂ける。わからぬ時は"教えて下さい"と祈ればよい。いきなり「金光様、歴代大先生」と取次頂けばよい。私達はお取次頂けてのお徳。大先生は"虎の位を借りる狐に例え「大先生のお徳をもちまして」と願えと。 全てのお道も頂点は無の境地と聞いています。自己を無にした時、我を捨てた時、神様が。"我が内なる神を見よ"とはその事ではないでしょうか。心に頂く言葉に、「こだわらず、とらわれず、しばられず、わらって、あかるく、すなおに感謝」。無への分かりやすい道しるべと思いませんか。お導き頂きお稽古させて頂きましょう。

手記No 277 一つ一つの命 心の花 女性70歳 掲載号 2011/12/1 No21

 人は命を頂いて生きています。空気、水、身体総て自分が作った物ではない力で生かして頂いている事実は誰にお礼を申せばと思わずにおれない我々です。が天地の道理を知ると毎日毎日お礼申さずにおれません。暖かく包んで頂いている天と地、守られていると思うと安心と喜びで頑張りが湧いてきます。自然とお礼の祈りとなって現れます。ひたすら祈るのです。世間の難問題も災難も祈るのです。そこから何かの光が射してきます。守って下さるのです。そんな大きな神様だからです。生き方を教えて頂けます。当然生活のあり方が変わってきます。人に優しく、物に丁寧に、常に穏やかな気持ちでおれるのです。幸せを感じることが出来るのです。朝目覚めらせて頂いたお礼。布団の上で休ませて頂いた布団へのお礼。今日も空気があり太陽の明るさの大きな自然のお礼。トイレでの気持ちよく受けて下さる土地のお礼。そして朝食と・・・どれ程のお礼を申せばと、朝だけでもお礼で一杯ですから一日では・・・それをつい当然のように過ごしてしまっている私、恥ずかしい限りです。先祖代々から受け継がれた子の命の一生、神様に褒めて頂きたいと願います。

手記No 276 「金光教ニューヨーク集会」 IZZY 男性69歳 掲載号 2011/12/1 No21

私は、平成3年から約10年間、ニューヨークに駐在していました。当時、5〜6家族、主に玉水の信奉者家族が、2〜3ヶ月毎に集会を開催されていることを知り、後半でしたが、参加させて頂きました。集会は各家庭持ち回りを原則として、カナダ、トロント教会教会長の岸井貴雄先生をお招きして行われていました。夜行の高速バスで朝6時に到着される先生をお迎えし10時から集会が始まります。拝志によるご祈念のあと約1時間のお説教、そして、信心継承を念頭に子供を対象にしたお話もあり、ありがたいことでした。昼食をはさんで、午後4時頃まで、海外生活で直面する家庭の問題や信心の進め方など、会話を中心としたお話を頂きます。お広前で拝聴するお説教とは違い、集会では家庭教師に信心を導いて頂いたような気がして懐かしく思います。
日米では生活環境が違い一概には言い切れませんが、多様化する現在社会において、問題点も複雑に変化しており、集会のあり方についても工夫をこらさなければならないと感じています。

手記No 275 腹が立つ原因は『自分が〜』の心 ニューべアー 男性64歳 掲載号 2011/12/1 No21

 先日、女房が私に「競争がなければ穏やかな社会になるのに・・・」と言いました。そこで私は「今は競争社会であって、その中で穏やかな心を持つことが大切だ」と言いました。これに対し返ってきた言葉は「それは無理だわ」。私は切れて言いました。「僕は今それをしようと努力しているのだ」と。その時点で私の心に穏やかさがなくなっていました。しまったと思いながら、私は腹を立てた原因は何かと考えました。そして解りました。原因は周囲にお世話になっていることを忘れ『自分が〜』という心がでたためであると。私はこれまで、何の状況に変化がないにもかかわらず、たまにですが、空から星が舞い降りるように、ささやかなことの積み重ねでたまらなく幸せだと感じることがあります。それは周囲のおかげで生かされていることがベースにあるからだと思います。腹を立てたのはそれを忘れてしまったためです。私の生涯の目標は『星の舞い降り』がたまにではなく常になるようになることです。修行はまだまだ続きます。

手記No 274 有り難うございました ハイビスカス 女性74歳 掲載号 2011/12/1 No21

 三月の御本部参拝の時、御祈念の終わりの頃、気分が悪くなり玉水の控所で休ませて頂きました。信徒会の役員様方には色々とお話くださり心強く思いました。明くる日病院に行き診察を受けた時、先生が心房細動のことをお話くださいました。心房細動は不整脈の中でも極めて多い病態で70才以上で5%、高血圧患者の5〜10%に現れるという報告がある。症状には大きな個人差があります。多くは動悸や胸部に不快感を主訴としますが、無症状の人もいれば、日常生活が障害される事態に成る人もいます。神様のおかげを頂いております。色々とありがとうございました。

手記No 273 初代大先生のお取次 和 甫 女性79歳 掲載号 2011/9/1 No20

 祖母が北浜三越の裏側で傘・提灯・ノボリ等を扱う商売をしておりました。祖母と番頭さんそして女中さん方々と(祖父は早く他界)商売をさせて頂いておりました。ご近所の方から信心を教えて頂きお教会にお引き寄せ頂き信心のおかげを頂きました。私は子供の頃には体が弱く大変無口な子でした。そのことが母の悩みの様でした。私は胃も弱く「胃けいれんを」よく起こしておりました。ある日祖母はお参りさせて頂いた時、大先生はお火鉢にお出ましでした。祖母と一緒に大先生のおそばに行かせて頂き、体の弱い私のこと を「おねがい」申し上げさせて頂くと、大先生は「立ってみ、向こう向いてみ、こっち向いてみ」・・・と体 を見て頂きました。多分6〜7才ぐらいでした。それ以来おかげを頂き大病することなく今日迄元気で日々過ごさせて頂き大変おかげを頂いております。今振り返らせて頂けば最高のおかげを頂き益々元気で日々暮らさせて頂き「有り難うございます」とお礼を申し上げさせて頂くのみでございます。

手記No 272 初代大先生のお取次 ぜんさん 男性94歳 掲載号 2011/9/1 No20

 祖父・母が初代大先生にお取次を頂いていた。しっかり信心せんとぜんさんは5才まで命ないで・・・と言われた。そのとおり子供の頃はひ弱な体であったがだんだんおかげを頂き学生の時は登山部で活躍出来るようになった。軍隊入隊の時も母がお取次を頂きぜんさんは偉くならない方がいいな・・・と言われたらしい、フィリピン戦場で、夜間我が大隊砲第一分隊と約5m程離れた所に陣取った第二分隊に敵の砲弾が撃ち込まれ分隊長戦死、隊員3名重傷、当時指揮班長の私に砲隊長から第二分隊長を命ぜられ作戦に参加しました。その後戦死者又熱帯性マラリヤで病死者もたくさんでました。が私が引き受けた第二分隊は全員無事でした。コレヒドル要塞攻撃には砲隊長マラリアで入院、私が隊長代理を務めました。後で耳に入った噂ですがぜんさん隊長の下では今迄戦死者も戦病死者も出ないので安心したとか、思い返せば満州・中国・フィリピンの作戦全てその様な結果であった。祖父・母のお取次のおかげだと思う。偉くならない方がいいな・・・とはどういう意味だったのだろうか・・・?子供の頃お参りさせて頂きお広間にあがると大先生が手招きをしてくださりおじいちゃん、お母さん元気にしているかとよく聞いてくださった事を鮮明に思い出します。

手記No 271 初代大先生のお取次 U 飛47戦隊士 男性89歳 掲載号 2011/9/1 No20

 以来陸軍での軍隊生活では
@ 6ヶ月後の卒業時天皇陛下から恩賜の文鎮を授与されたこと。
A フィリピンネグロス島不時着事故2回97式戦闘練習機(背面となる 出火せず) 関東所沢 4式戦闘機(全焼事故) 小怪我のみ
B 特攻隊(陸軍特別攻撃隊)への任命もなく普通の戦闘機隊
 a. 29爆撃機への体当たり攻撃=振天制空隊
 b. 搬船への体当たり攻撃航空隊操縦士
  として ⇒ 1. 希望しない  2. 希望する  3. 熱望する の中から5分間の猶予で申請回答せよと迫られた。
大先生にお伺いの余裕もなく自分の立場を考えて 3. 熱望する と申し出たが、終戦まで任命もなく最新(2000馬力)4式戦闘機で125時間の戦斗、訓練に終始できました。 特攻隊員の心痛今にして偲ばれます。終戦以来三井造船(岡山)へ復職しこの方面で35年無事定年を迎えることが出来ました。初代以来歴代大先生のお取次を頂きながら現在も働かせて頂いております。

手記No 270 初代大先生のお取次 T 飛47戦隊士 男性89歳 掲載号 2011/9/1 No20

 当時玉水さんへのお参りは母が多く、私も子供の頃から母に連れられお火鉢で大先生のお話を伺うことが多くありました。青年会員になって友人が出来て楽しくお祭りの下足ご奉仕も勤めさせて頂きました。和歌山高商も大先生のお取次を得て入学させて頂き宿舎も湯川家のお塚の傍でよくお参りさせて頂きました。戦争開始は1年生の時、3年間ではなく2年6ヶ月に短縮になってS18年9月23日卒業式、18年10月1日宇都宮陸軍飛行学校金丸原教育隊へ入隊、18年10月8日初飛行で赤とんぼに搭乗、訓練開始と一週間刻みの大変化を味わいました。新設の陸軍特別操縦見習士官"第一期生に応募合格の結果として、この時も大先生にお届けして、従来の海軍予備学生と新設の陸軍飛行隊の2つについてお伺いの結果陸軍へ行けとの即答を頂きました。

手記No 269 結婚のこと こだぬき 女性81歳 掲載号 2011/9/1 No20

 結婚の話の時、母が勧めてくださる方がいたが、その方をお断りして自分の好きな人の処に行くと言ったら自身のことなので自身でお伺いしてきなさいと言われ二代大先生にお伺いさせて頂くと、苦労を承知の上だったらよろしいとのお返事。戦後間もなく家も焼かれはだかできてくれとのやさしさもあったが姑・小姑も同居2間しかない狭い新婚生活大変な苦労の連続、主人の稼ぎが一家の生活費、しかも家計は姑が握り小遣いもままならぬ生活であった。しかしそろってお参りには理解をしてくれ、主人も何事においてもお取次を頂いたとおり物事を実行してくれ数々のおかげを頂いて来ました。

手記No 268 天地の居候 白きたおやかな嶺 男性68歳 掲載号 2011/9/1 No20

 最近月の半分は信州で暮らしている。そこはなんの変哲もない山村であるが、家の周りには豊かな緑と花が咲き乱れている。朝夕小川の欲を散歩したり朝餉に野草を摘んでいただく。人間は自然の中に生かされていると実感する。しかしその天地の恵が都会に出ると商品となり自然の恵みを感じさせなくなる。この度の東北の大地震はこれまでの人生のあり方を考え直す契機となった。人間、いや全ての物は天地に生かされているのだ。それが都会に出ると商品/経済として変身してしまう。初代大先生は「神様はご主人、自分は奉公人」と仰った。大先生にして初めて奉公人と言われたのである。私は天地に奉公することはとても出来ない天地の居候と思う。それでせめて居候は居候らしくご主人天地の物を我が物と思わない努力をしよう。稽古しよう。この東北の悲劇で我々がせねばならないのは、我々が天地の物を我々の物の様に横領してきたことであろう。神様の悲しみと苦しみをおかけしてきたことへのおわびをせずにはおられない。

手記No 267 胃の中に金色の光が 百合 女性60歳 掲載号 2011/9/1 No20

 私の叔父は10年前に胃ガンの手術を受けさせて頂きましたが、85才の今日まで元気でおかげを頂いてまいりました。先日、定期検診を受けさせて頂いた時のこと、胃カメラで検査をして下さっている先生が叔父に「金粉の入ったお茶か、食べ物を摂ったりしましたか?」と尋ねられましたが、叔父はそのような覚えはありません。画像に目をやると胃の中は金色の光を放ち、天の川のように輝いていました。私は叔父の胃の中を守って下さっている神様を感じ、いいようのない有り難さで一杯になりました。姿形の無い神様は時として最新医療機器の中にそのお姿をお現しくだされ「神のご存在」をお示し下されたことを実感致しました。

手記No 266 その後の自動車運転 難儀な氏子 男性71歳 掲載号 2011/9/1 No20

 三代大先生に「スピード違反しても捕まりませんように」とお願いして大先生がお隠れになって10年7ヶ月目、28キロオーバーでパトカーに捕まり「ほんとは30キロ以上やけどまけといたげる」「今日から3ヵ月間、無事故無違反なら白紙に戻るから気をつけてください」とさとされた。「はい」と返事して3ヶ月を何とか過ぎた頃からまた本性がでてきた、というかいっこうに反省をしていなかったのだろう。今年の3月初め、日曜の早朝にいつもは渋滞しているがら空きの国道でネズミ捕りにやられた。「調書を作るのでこちらへ」と二人の警察官はニコニコしながら私を椅子に座らせ、チョット離れて小声で「バイソクや、バイソク」とまたまた嬉しそうにうなずき合っている、面白くない。あとで尋ねると「バイソク」とは制限速度の2倍以上のスピードのことらしい。それで「何も走ってない日曜日の朝に隠れてやらなくても・・・。それにこの測定器は正しいかどうかわからへん」と食い下がると「このあたりは死亡事故が多いんです、飛び出してきたら間に合いませんよ、測定器は間違いありません」という言葉に観念して後日罰金8万円と免停講習料1万3800円をしぶしぶ払って講習と試験を受けやっと免許証を返してもらった。そのときふと「もしこのまま捕まってなかったらほんとに死亡事故を起こしていたかもしれへんなぁ、神様が助けてくださったんや、真面目に取りくもう」という思いになった。三代大先生はこのことを御祈念していて下さったんやと15年後に気がついた。父はよく「お参りしても話を聞かなかったら何にもならん」と言っていたので話はできるだけ聞くように努めてきたつもりだが、ほとんどが頭の上を通り過ぎただけで、普段の生活に取り入れて実行に移す事が少なかった。真の信心とはそのことではないかと60年近く形だけの御参りを続けてやっと少し気づいたらしい、いつまでたっても難儀な氏子である。

手記No 265 「病気をして気づく健康のありがたさ」 IZZY 男性68歳 掲載号 2011/9/1 No20

 十年前、アメリカで脳腫瘍の摘出手術を受けたときのことである。生死をさまよう集中治療室から一般病室に移されて二日目、隣のベッドから「お隣の若い人よ、ラッキーだ、われわれは、今日も生きている。窓を見てごらん、朝日が差し込んでいる」と話しかけられた。その患者は、ジョンといい、ベトナム戦争の退役軍人だった。 銃弾を頭に受け、脳専門病院を転転、治療を受けていた。脳の機能を補佐するため、胸には電子辞書大のコンピューターが埋め込まれ、無数の電線が首筋を通り、脳から受信する電気信号を必要に応じて増幅、往信していた。翌日、左の目のまぶたが半分しか開かなくなって、大騒ぎになり、医者や電気屋さんがコンピューターを調整し、ことなきをえた。どうやら、脳の電圧が下がっていたらしい。われわれは、ややもすれば、目が覚め、周りが見えることを、当たり前のように思って生活しているが、これは、たいそう恵まれていることである。私は、その自覚と感謝が欠けていたことに気づき、以来、反省の日々を過ごしている。おかげを蒙り、今も元気に生活させていただいている。

手記No 264 人の役に立つこと ニューベアー 男性64歳 掲載号 2011/9/1 No20

 私と別に暮らしています母親は数十年にわたり俳句を趣味としてきました。師にも恵まれ教室を開き年配の方々にご指導させていただいたこともあります。その母親が数年前に認知症を発症し病院に行くもその甲斐なく、いよいよお教会へ一人で参拝することもできなくなりました。そしてある日、たまたま私の隣家の年配の方の趣味が俳句であることが解りました。そこでその方に事情を話し、押し付けになりはしないかと思いつつ10年前に母親が自費出版した俳句集を貰っていただきました。その方も思いがけない申し出に驚きながらも心よく受け取られ、私に、俳句を作ったらお母さんに見ていただけますかとの温かい言葉まで添えられました。私は、この出来事を取り急ぎ電話で母親に伝えましたが、本人は何せ自分が出版したかどうかの記憶もありません。しかし、電話の最後に「ありがとう」といってくれました。私にはたまらなく嬉しいことでした。本人が生きてきたこれまでの記憶は遅かれ早かれ大部分消えるかもしれません。しかし、親は病気でもこうした形で周囲の人に役立つことができ、また、私にとってもささやかな親への恩返しとなります。みんなが幸せであるよう心がけたいものです。

手記No 263 主人の死 U 針千本 女性62歳 掲載号 2011/9/1 No20

 主人が亡くなる2ヶ月前には多額の借金も完済できたこと、大切な仕事を持つ私に一日も介護や心配をかけることなく風のように逝ったこと等々、私共二人にとって、それはそれは大きなおかげだったと神様に深く感謝いたしております。「62才は早すぎる」と言われますが、寿命は生まれる前に神様と約束してきていると聞いております。全ては神様のご意志ですので寿命に早い遅いはないと考えております。主人は亡くなる数ヶ月前Y様から金光教式の立派な神棚をいただいてきました。それを主人の意志と受け止め、一周忌を期に仏式から金光教式に改式させて頂きます。そして今秋私の甥が素晴らしいご縁を頂き結婚という嬉しい出来事もあり喜びの毎日です。末筆ですが玉水記念館にて数年間「いきいきサロン」にも参加させて頂き、大勢のご信者様にも大変お世話になりました。この場をお借りし御礼申し上げたいと思います。誠に有り難うございました。

手記No 262 主人の死 T 針千本 女性62歳 掲載号 2011/9/1 No20

 その日は本当に突然やってきました。亡くなる寸前まで「死」という言葉さえ私の中には存在しませんでした。H,22,6,8,午後11時お風呂からでた主人の様子が変なのに気づいてあわてて駆けつけ抱きかかえると「心臓で死にそう」と言って倒れました。急いで救急車を呼びました。救急車がくる間に脈を診たら脈は既にありませんでしたので心不全だと思いました。それから通夜、葬儀とあわただしく時が過ぎました。今こうして静かに振り返ってみますと全ては「おかげの中での出来事」だったのだと思えるのです。脈をみた瞬間、私は主人の死を驚くほど素直に受け入れることが出来ました。死んでしまったものはしかたない・・・色々な思いが去来しましたが、生前主人は「私より先に死にたい」「ピンピン、コロリ」と死にたい・・・と申しておりましたので、主人の願いが100%叶ったのです。悲しむよりむしろ喜んであげようと思ったのです。苦労の多い、しかし健康にも仕事にも人にも恵まれ、全力疾走した悔いのない人生だったと思います。主人も満足だったと思います。

手記No 261 なぜ・どうして? 聖徳太子 男性75歳 掲載号 2011/9/1 No.20

 最初このテーマを書く事の始まりは、自宅に神様をお祭りさせて頂いております。そして季節の果物・食物等神様・ご先祖様に御礼を申しお三宝に盛りつけ・八足台に載せお供えさせて頂いております。ある時三宝に載せきれないお供え物を家内がじかに八足台にお供えしていたのでお三宝に載せなければ神様にご無礼なのでは・・・?との意見の相違。 そこでおたずねをしたいのですが

1, なぜお榊、お花をお供えするのですか?
2, なぜ四拍手をするのですか?
3, 葬儀の時の偲び手はなぜですか?
4, 玉串奉奠はなぜ?
5, 八足台あし8本わかるけど何故8本でなければいけないの?・・・

そんなことも知らないのかと言われそうですが、決まりの由来理由を知り理解した上で信心を深め高揚を計りたいと思います。教えて頂きたく宜しくお願い致します。

手記No 260 もう一度自分を見つめよう 遊 峰 男性85歳 掲載号 2011/9/1 No20

 我々夜安らかに床につき、朝また目覚め1年365日、雨・風・地震・暑い・寒い日にも早朝よりお取次を頂いている事はもったいなく有り難く教祖さんが言われたお言葉に「世間になんぼうも難儀な氏子あり取次助けてやってくれ」と神様のお言葉をお受けになり延々と5代にわたってお取次、ただただ有り難いことである。日常人間関係、経済の問題、民族の紛争絶え間なく、またタイの地震に1年も過ぎているのに食事も満足に与えられない、いまだにテント生活、学校にも行けない状態をテレビで見るとき思いを新たにしお礼を申し上げると同時に日本に生まれ絶えず日々お取次を頂いていることを感謝すると共に自分は何を世間に恩返しさせて頂かなければならないかを考える。

手記No 259 お互い助けられ生きる 遊 峰 男性85歳 掲載号 2011/9/1 No.20

 この度は東北地方の地震により、家も財産も、家族・親族までも津波で失い、また原子力発電所の被災により田畑の作物、海には魚介類への影響、さらに職を失い生活にお困りの人々のことを思うとき、人は働くために生まれてきたことをしみじみ考える。働くとは傍(はた)を楽にさせること、周りの人に喜んでもらえることをすれば、やがて自分に良いことが起きてくる徳として生まれる。お道の信心で人を助ければ一人の神と教えられている。人を助ければ我が身も助かると教えられている通り神を拝む人を拝む、寝たきりの病人を拝む、またどんなに忙しい人でも心の中で人のことを拝むことが出来、神様も喜んでくださると思う。人を助けたら我が身も助かると信じ、今日も喜んで歩む。

手記No 258 無常の風に時を嫌わせる信心 まろん君 男性47歳 掲載号 2011/9/1 No20

 最近、我が家で雨漏りがしだしてほとほと困りました。かつて、亡父の考案で屋根に天窓を開けたのですが、その天窓の周囲に金属部分があり、それが錆びてきて水が漏れるようになったのでした。結局、屋根修 理専門の業者に頼んで、高くつきましたが、なんとか解決したのでした。このように、私達は、ふだん神様に願っていること以外に。思わぬ方面から難儀を蒙る危険性の中に生きています。「ふれあいの広場」に投稿された信者さんの中には「本当に神様っているのか?」とか「願ってもおかげを頂けない」とか嘆かれる方もおられ、お気持ちも分かりますが、神様は、自分で意識していない別の方面のことを守って下さっていることがあるように思います。目に見えないおかげです。例えば私達は、子供の頃、成長しますが、自分の骨が伸びている感覚など持ちません。それでも骨は徐々に伸びていて、それは神様がつかさどって下さっている重要なお働きです。私達信者は、「今願っている当のおかげが頂けないから」と信心を捨てないように気をつけたいものです。

手記No 257 一発で治った病気 まろん君 男性47歳 掲載号 2011/9/1 No.20

 我が家に金光教のお道との御神縁を初めて持ち込んだのは、母の叔母です。私には大叔母ということになります。母にとっては、子供の時から可愛がってくれた十四歳年長の叔母でした。戦前、この人は難波の、あの高島屋に勤めていたのですが、その上司から玉水様へお導きを頂いたのでした。大叔母が信心して間もない頃のことですが、永く婦人病か何かを患っていたそうです。(病名を忘失しました)そして玉水様のお結界におられた二代大先生に次のようにお届けさせて頂きました。「もう治らないと医者からも言われておりますので、あかんやろとは思いますけど・・・」という感じでした。すると二代様は「そんなことあるもんか」 と、多少、怒声めいた言い方で仰ったそうです。ところが、それ以来、きっぱりとその病気は治ってしまったそうです。このおかげ話は、大叔母からも母からも何度か聞きました。大叔母も母も生涯の最期の最期まで、信心を放しませんでした。有難いことでございました。

手記No 256 花を咲かせ続けて 八重桜 女性88歳 掲載号 2011/9/1 No20

 私はいつも「ふれあいの広場」を楽しみに読ませて頂いております。それには沢山の方々の尊い体験談が載せられており、信心の参考にさせて頂いております。現在まで自分自身の人にも言えない悩みや苦しみ等は、毎号の「ふれあいの広場」を読ませて頂きますと、世の中には本当に辛いことを体験された方々が多いと言うこと、それらの方に比べ私自身神様のおかげで辛いことも多々ありましたが教会があったればこそ、大先生がおいで下さったならばこそ辛い苦しい時点を乗り越えさせて頂き、現在日に日に何の苦もなく生活させていただけ、本当に金光教を親が信仰させて頂いていたからこそと改めてお取次下さいました大先生と神様にお礼申し上げたいと思います。

手記No 255 天地の開ける音を聞いて そよ風 女性 84歳 掲載号 2011/9/1 No.20

 "今天地の開ける音を聞いて・・・"の教えに常々どんな音・・・と想っていたが伯母がお徳を頂きお国替えの朝、清々しき雲一つない晴天の日ドーンともバーンとも形容の出来ぬ絶大なるものが心に響き「怖い」と叫ぶ、親族の一人に「しっかりして」と背中をさすられ平静に戻りすぐに心中祈念しました。人を恨み恨まれると双方共に助からず、人は時に知らぬ人や相手の取り違えから憎まれることもある。"知らず知らずの罪・めぐり。親族一族縁者の方々のお礼お詫びを共に祈念させて頂き、初代の"祈りは大きく"のみ教えはこのことかと気づく。すべての教会のご比礼万物への恵み世界真の平和への祈りの道をとお導き頂ける幸せを改めて知る。一重に歴代大先生、現大先生のお取次があればこそ。

手記No 254 初代大先生のみ教え 昨秋浪人 男性 79歳 掲載号 2011/9/1 No20

玉水教会が開教しての100年記念祭の時、私は「初代大先生のみ教え」のカードを頂いた。それ以後、これを机の上に置いて、毎日当日のみ教えカードを読み反省と実践の努力をしている。初代大先生のみ教えは4つである。それらは
@「常に心を清らかに持たして頂くために」
A「角立つ心を丸くするために」
B「災い転じて仕合わせにさせて頂くために」
C「自分の役割をあきらかにして責任を果たさせて頂くために」
である。この中で角立つ心を丸くする。すなわち腹を立てないということがもっとも難しい。私は信心を毎日の生活の中におり込み、生活と信心は一つのものだということが分かってきた。嬉しいときは天地金乃神様に感謝し、困ったときは神様に祈念しておかげを頂いて生活をしている。

手記No 253 初代大先生のお取次 U みさちゃん 女性 92歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 女学校受験に際し合格をお願いし受験に行ったが是非合格のお蔭を頂きたかったので、受験後改めて帰宅前に再度お願いに行った。初代大先生はにこっと笑顔で合格しているで・・・と答えてくださった。まだ今試験を終えたばかりで試験官も採点をしていない時間帯なのに!!・・・ あまりの嬉しさに飛んで帰り母にその事を伝えると、まだ発表もされていないのに、6人同じ学校から受験したが誰が合格しているか判らないのに誰にも言ったらいけないよ・・・と子供心を封じられた。結果私ともう一人合格をしていた。未だ採点もされていない答案を見抜かれていた。

手記No 252 初代大先生のお取次 T みさちゃん 女性 92歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 大正14年父が初代大先生に初めてお会いし信心が始まった。初代のお言葉を頂き天王寺から中之島へ移転、その時から大きな商売のお蔭を頂いた。私の母が健康のお蔭を頂いていたが、信心させて頂くようになってから胃潰瘍になり毎月洗面器一杯に吐血をするようになった。未だ信心が浅く怖いもの知らずで、信心するようになってから、元気だった体が何でこのようになったのか尋ねた。すると大先生は、あんたよお考えてみ!あんたは専業主婦なのでなんぼ寝ていてもいいが、大きな商売をしているのに主人が寝込んだらどうするねん・・・と言われた。私と姉・兄と姉妹5人学校へやらなければ成らずお金もかかる。しかし私が女学校を出てからしばらく病状も変わらなかったが父が亡くなると同時に健康のお蔭を頂き吐血もとまり93才まで病気一つしなく元気な生涯を何不自由なく過ごさせて頂いた。

手記No 251 初代大先生のお取次 遊峰 男性 85歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 昭和7年頃の事です。近所に親一人子一人の家族がおられた。親は文房具店を営んでおられ男の子ばかり9人の子持ちであったが8人まで亡くされたった一人の子に足と手全身へとできものが広がった。近くの病院に1ヶ月入院しても治らなかった。それを知った信者さんが初代大先生にお取次を頂き御神酒1升瓶を全身に吹かれ5日間で全快、それからおばさんがお参り、私の母が貴方どこへ参っておられます?私もいっぺん連れて行ってくださいと言うことになり、母がお参りさせて頂いたのが昭和9年頃、その後私小学校卒業後勉強させてやろうと親の思い陸軍技術員の学校へ初代大先生のお取次により見事合格、母と一緒にお礼参拝始め(昭和15年4月1日)現在に至る。

手記No 250 初代大先生のお取次 やすらぎ 女性 92歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 私23才主人31才の時縁談話があり多くの候補者の中から主人は相手を決めかねていたらしい、兵役が終わり、初代大先生にお伺いしたところ、一番最後に書いてあった私を指名して頂いのでした。そして縁談が調い結納が収まってからのお見合いでした。私もそれからの信心であり婚家は旧家で大変な部分もありましたが一つ一つお取次を頂きながらおかげを頂いてきました。主人も85才まで健康でたった一日だけの患いで帰幽させて頂き、私もこの年まで元気にお参りさせて頂いております。

手記No 249 初代大先生のお取次 U さざれ石 女性 89歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 今より15年前74才の時に三代大先生のお取次を頂き自宅駐車場を取り壊し4階の賃貸マンション(12戸)新築のお蔭を頂きました。神様のお社をお祭りさせて頂く新しい飾り棚が欲しくてデパートにて希望通りの品を購入させて頂きました。後日夢の中で初代大先生が我が家にお越し下さり「神様をどこに祭っているのや」とおっしゃいました。思わず神棚の方を見ますとお社は飾り棚ではなく昔使っていた古い本箱の上にありました。大先生のお顔は優しいお顔でお体から後光がさして目が痛い位眩しく感じられました。形より心が大切という事をお示し下さったと私なりに思わせて頂きました。夢とは言えお亡くなりになり50数年経って我が家にお越し下さったことは大変有り難く終生忘れることのない勿体ない思い出でございます。

手記No 248 初代大先生のお取次 T さざれ石 女性 89歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 両親が信心させて頂いていたお蔭で弱かった私が健康のお蔭を頂き親よりも長寿で今日を過ごさせて頂いております事を有り難く思っております。特に印象に残っておりますことは、8才ぐらいの時と思いますがお広前に座っておりますと、お参りの人をかき分けて初代大先生が近づいてこられ私の頭をさすって下さり背中もさすってくださり終始無言でお立ち去りになりました。後年健康診断で医師より「肋膜をやったことがありますね」と言われ、知らぬ間に病気を治して頂いて居りました事を改めて判らせて頂きました。20才の時女学校の創立20周年記念に学友会よりお祝いの原稿を頼まれ初代大先生にお届け致しましたら「そうか、しっかり書きや」とやさしくおっしゃったお声が耳に残っております。

手記No 247 初代大先生のお取次 U 至らぬ私 女性 85歳 掲載号 2011/4/20 No.19

  私の母が42才で子宮癌になり、大阪病院に入院しました時に、私がお届けに参りますと神様は来年2月にはあかんと仰っているんや、けれど私はなあ4人の子供が女学生と中学生、小学生で一人前に成っていません、なんでも命を継いで下さいと必死でお願いしている。あんたらもこれから一日6回参ってお願いしなさいと言われ、父と子5人が6回お参りして必死で母の寿命を願いましたが、翌年初代が亡くなられました。 2月1日から10日祭の日にお国替えさせて頂きました。私達親子は初代の最晩年の貴重な日々をお取次頂けました。母も壮烈な癌の痛みと闘いながらただひたすら神様と初代のお言葉に従い痛み止めのモルヒネを使わず、頑張って"お前達お参りを・・・"と言う言葉を残して逝きました。

手記No 246 初代大先生のお取次 T 至らぬ私 女性 85歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 初めて母に連れられ初代大先生の前にお届けに行きました。お火鉢の所で大勢の信者に囲まれ左右の書生のお届けを次々と簡単明瞭なお言葉で答えておられました。小さな私を御覧になりあんたそれバセドウ氏病(疲れると首が腫れる)やで!そこに立ってみ!しっかりお蔭を蒙りと仰いました。母に朝晩首にお神酒を 吹いて頂き、何時しか20才位で治りました。女学校も第一志望に落ち絶望的に成っておりましたが東樟蔭高女に行け、そこでないとあかんのやで!と言われ厳しい季節、道のりを往復半里余りを5年間無欠席で通いすっかり体質を作り替えて頂き、今日85才迄健康のお蔭を頂いております。

手記No 245 信心の継承 浦島太郎 男性 69歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 今年孫が中学校入学試験を受けた。この孫は帰国子女であり英語が少し話せる、在米中も日本人学校ではなくアメリカンスクールに通っていた。親として祖父母としてこの家族には何の手助けもしてやれなかった。それだけにお取次を頂きご祈念には力が入った。帰国後も英語を忘れないために弟と共に英会話の塾に通っており住まいも神戸で外国の方が多く住まれるゾーンであり遊びの中にも英語を取り入れている。一時芸能スカウトにも目をつけられたらしい。英語力を付けてやりたいとはパパ・ママの願い。合格祈願を込め私も朝参りを始めた。やがて本人の知るところとなり「寒い中、眠たいのにありがとう、私も頑張るネ」とのこと。発表当日会場かららしく「ジィージうかったヨ!」との電話、「お祝いちょうだいネ」とのこと。「先に御礼でしょ・・・」との言葉がつい出てしまった。後日、自ら御礼参拝を申し出たことには少し心が癒された。

手記No 244 「一心の願い、祈り」 北斗七星 男性 63歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 還暦を過ぎると、あゆみを読んでいるとふとこれまで一番一心に願い祈ったことはなんだったのだろうと思いました。30歳結婚をしたころから55歳ごろまでは日々の仕事に追われていたのか、何を願い祈っていたのか思い出しません。子供が生まれること、仕事がうまくいくこと、子供の入学に関すること、その折々に願い祈っていたことと思います。しかし、仕事に没頭していたのか、『我』に没頭していたのか、記憶が定かでありません。一番鮮明に思い出しますのは、『大学入試の願い祈りです』。高校3年の夏、どうしても大学に入りたいと思い、『○○大学に合格させてください、入学させていただいたら、少年少女会の御用をさせていただきます』とお届けし、一心に願い祈りました。この頃から、3月まで、不思議なように机に向かわせていただき受験勉強に励みました。その結果無事希望大学に入学し、また卒業をさせていただきました。豊かでない家庭状況でしたので浪人できない、学費の安い大学へ入学させていただきたい、病弱な母を何としても安心させたいという思いが、この一心の願い祈りになった気がいたします。一心に願い祈り、一心に努力する。残りの人生、一つでも多くこのような記憶残る『一心の願い祈り、一心の努力』をしたいものです。

手記No 243 「育つ、育てられる」  北斗七星 男性 63歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 数ヶ月前、お広前の掛だし(祭典で参拝者が多くお広前に座れるようにすること)を見ていました。この御用は青年会の役割です。年配の人間から見ると、失礼な表現ですが、日頃はなんとなくいい加減と言いますか、今頃の若者という感じですが、この木組みの御用が始まると、相談もせず、多くの指示もないなかで、きびきびと土台を組み立て、その上にシッカリした床板を並べて行きます。なんとなく見ていてすがすがしい感じがしました。帰宅し晩酌をしながら、自分も若いころ同じように作業をしていたのを思い出しました。 集団で作業すること、早く安全に組み上げるために次に何をしたらよいのか考えること、体を動かし体力をつけること、いろいろなことを知らず知らずのうちに、学んだのだと思いました。この学び育てられたことが、会社の土台の部分でどれだけ役立ったことか。当時は重いも木だ、早く終わらないかなーと思いながらしていたことが、今になると御用をすることにより、知らず知らずのうちに自分自身が育ち、育てられたと思えてなりません。

手記No 242 『若いお母さんの一言』 ニューベアー 男性 64歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 ほぼ満席の大阪・地下鉄車内でのことです。赤ちゃんを抱いて立っていた30歳前後のお母さんが、笑みを湛えながら同年代の連れの女性に、「この子もこうして今抱っこさせてくれているけれど、こんな親孝行してくれるのも3歳位までやねえ」。と話しながら、次の駅で降りていきました。私は彼女のなんでもない言葉で嬉しくなりました。と言いますのも、昼夜なくミルクやおしめの世話等で育児ノイローゼになるお母さんもいると聞きますが、彼女にはそんな気配は微塵もなく育児ができる今を楽しんでいる様子だったからです。もう一つは、彼女は自分の子を一人の人格と認識しながら、親孝行という糸で自分と結びつけていたからです。死語になりつつある親孝行という言葉を、若い方の口から自然に発せられたことは素晴らしいことですし、健全な心を持った子供の育成に役立つこうした考え方は自分のことのみを考えるモンスターペアレントをなくすためにも大切です。将来を託す青少年・若者に元気な心を育む役割は我々おとなにあることを、自らの反省も踏まえ書かせていただきました。 

手記No 241 祈りをベースにさらに踏み込む ニューベアー 男性 64歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 世界的チェリストの堤剛さんは、「音楽は生きる喜びを表す」と教わった師のおかげで、初舞台で聴衆から受ける雰囲気を緊張から喜びに変えることができたと話しておられます。(3月27日NHK教育テレビ放送「N響アワー」) 師の言葉は、音楽のプロとして携わるうえでのご本人への教えではありますが、堤さんと聴衆の間に「一人では生きて行けない」という相互に認め合う考え方や「生きる喜び」の大切さが込められていることに気付かされます。世界の価値観が個人・自分中心へと加速度的に進んでいる中で、何としても、皆で祈りをベースに、今回の大震災で亡くなられた方々や被害に遭われた方々の犠牲を決して無駄にすることなく、また、先人から受け継がれてきた素晴らしい資質を継承し、さらに踏み込んで自らの役割を考え直す機会としたいものです。

手記No 240 初代のお言葉 おかげ U こだぬき 女性 80歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 私が21才ぐらいだったと思います。京都にある会社に勤めていて阿倍野にある百貨店の応援店員として勤めていました。その時初代大先生のお墓が阿倍野にあったのを覚えています。お参りする方が多くおられ、お墓の前ですがりつくように御祈念されていました。私もその一人として毎日お墓にお参りして帰っておりました。ある日初代大先生がお墓から立ち上がって土が崩れるのを夢で見ました。そんな夢を頂いたのは何故か今でも解りませんが、それから身体検査で胸が悪く結核になり会社を辞めて病院で薬を貰いましたが、それを服用せず母がご神米を頂きなさいそしてスッポンの甲羅を丸焼きにしてそれを粉にして頂き入院せず母の一心の祈りで助けて頂きました。何があってもおすがりして祈って祈って助けて頂くと言う事を教えて貰ったのです。全快して、今日まで結核の跡形もなく生かせて頂いております。何事も祈って祈っておかげを頂く、初代大先生のお姿は見えないが私の頭の中では生きて居られます。

手記No 239 目に見えるお蔭 U まろん君 男性 47歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 では、次の場合はどうだろうか。その子が母の胎内にいるとき、母は、神様から「お前が信徳を積んだので、この子をお前にやる」と告げられた場合。そして、その子は、長じるにつれ、やはり親孝行な青年になり、女性は人生の節々でなにかと助けられた場合。この場合は、女性は、「信心して信徳を積んだから、神様がこの子を授けて下さった」と明瞭に認識していることになる。これは目に見えるお蔭となっている。同じ現象でも、自分で気づいているかどうかで、目に見えるお蔭か見えないお蔭かが分かれるが、私達は自分で気づかないお蔭をたくさん受けて生きている(と、金光教では仰っている)。また、平穏無事な日頃は何も起きなくとも、思わぬ厄難に逢わないとも限らず、女性は弱い側面があるから、授けられた子が、やがて思わぬ役に立つ日が来ないとも限らない、という側面も付言しておきたい。

手記No 238 目に見えるお蔭 T まろん君 男性 47歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 亡母はいつも「金光様は、目に見えるパシッとしたお蔭を下さる」と言っていた。さて、目に見えるお蔭と、目に見えないお蔭とはどう違うのだろうか。一例として、たとえば、ある一人っ子の女性が、三十歳で男の子に恵まれたとする。この男の子は、やがて成長し、何かとお母さんの手伝いをしてくれたとする。中学生にもなれば、重い荷物などを持ってくれるようになった。さて、このわが子が出来たお蔭で、始めは一人っ子だった女性が、なにかれとなくずいぶん助けられたことになる、女性は子供が成長して手伝ってくれるのは自然なこと、当たり前のこと、と思っているかもしれない。この場合、女性は目に見えないお蔭を頂いたことになろう。気づいていないが産んだ子によって助けられているのである。

手記No 237 信ずる気持 聖徳太子 男性 74歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 入信して10数年以上になるがいまだに拝詞集を暗記していない、拝詞集を見ながらお広前に座り参拝している。また参拝時心から念じて家族全員と私自身が健康であります様にとお願い申し上げている。いつもおかげを頂いて有り難うございますと申し上げているが、お詫びの言葉は一言たりとも申し上げた事がない。御教えを守っているか?食前訓、食後訓を忘れていることがある。正直申し上げて御教えを全て守り実行しているかと問われたら私自身なにぶんにも怪しいものである。この状況ではおかげはないと思う。おかげは和賀心にあり、と教えの通り自分自身の行い習慣ずけを厳守して正しく歩むことが大切だと思います。

手記No 236 難を逃れる道 遊 峰 男性 84歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 どんなに頭が良くても要領良くとも、いつどんな災難が降りかかるか分からないのが人間である、保険があっても絶対回避できない災難もある。その中に運の良い人、奇跡的に助かる人、単なる偶然とも思えない人達を調べると、本人か又親先祖に人助けをした人が多いように思う。人を助け高慢な心ではなく当たり前のことをしたまでと深く考えない人もある。折角良いことをしてもバカらしいと思いながらする人もあれば自分のことよりも人様のことを大切に考える人の場合人の為に誠の心を積み上げた分徳として自分に返ってくるように思う。世の中に案外楽な生活をしている人、毎日人一倍働いても暮らしの良くならない人もある。これは先祖のめぐり、徳であるように思う。

手記No 235 感謝足らない日々 遊 峰 男性 84歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 我々はお蔭の中に生活させて頂いて居る事を今もう一度原点に振り返って考えてみよう。朝・昼・夜とお取次頂きながら、或る娘さんの親は朝早く起き弁当作り朝食を用意し笑顔で見送り、夜は帰宅笑顔で迎えるのに口も聴かず疲れたと食事を済ませ勝手なことを、今時学校卒業しても活動しても就職できない人、又職を失っても家族の生活の上にお蔭を頂かれ生きて居ることをもう一度見つめ直そう。

手記No 234 神様の目、耳、口 八重桜 女性 88歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 最近教会があればこそ、そして信者様のあいよかけよがあればこそと心の底から思わせて頂いております。それは私自身の問題なのですが、ある日私は熱湯を手から滑らせ右足にかかり火傷をしてしまいました。動転してしまいお願いを忘れ病院へ行き治療を受け少し楽になりました時にお参りしお届けをさせて頂きました。ところが何方かすでに私のためにお届けをして下さっていました。これぞ教会へのあいよかけよの実践ではないでしょうか。心よりお礼申しさせていただきます。これまで身内以外のことを真剣にお願いさせて頂いたことがあったでしょうか。反省しております。今後は人様のことも祈らせて頂きたいと思います。

手記No 233 歴代大先生 八重桜 女性 88歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 おかげを頂き本年も歴代大先生のお祭りを頂くことが出来ました。万障お繰り合わせを願い参拝のかげを頂きました。例年年祭の時は寒さ厳しい時ですが、初代、二代、三代大先生はみたま様ながら当日の無事参拝を御祈念下さったのではないでしょうか? 遠方からお参りのかたも健康にも恵まれ本当に有り難いことでございました。今日のことを常日頃私達信者のためにご祈念下さいました歴代大先生の御霊様に心よりお礼申し上げ感謝の気持ちで一杯です。

手記No 232 ザ KANREKI ムーンライト 女性 60歳 掲載号 2011/4/20 No.19

 この世に命を授けて頂いていつの間にか60年の歳月が過ぎました。その間にどれ程神様のご苦労があり、どれ程のおかげを頂いて生かされてきた事でしょうか・・・再びお引き寄せ頂き、今神様の懐で信心させて頂ける幸せ・・・生んでくれて有り難う、育ててくれて有り難う、守ってくれて有り難う、今両親に御礼を言いたい私・・・神様有り難うございます。親先祖を大切に・・・この教えが広前にあふれています。神様に御縁があるという事はすごい事なのだと改めて実感致します。神様からは絶対に手を放されない。氏子から離さなければ神様はいつも両手を広げて待っていて下さり抱きしめて下さる・・・そう確信します。御縁あった私達は本当に幸せなのですね・・・。

手記No 231 初代のお言葉 おかげ T こだぬき 女性 80歳 掲載号 2011/2/1 No.18

 私が小学校1年生の時、中耳炎で通院をしていました。担当医が明日この証明書を持って入院をして下さいと母に言われたのを覚えています。母はその証明書を持って家に帰らず私の手を引っ張るようにして連れてこられたのが玉水教会でした。お広前に入ると初代大先生が座って居られその前に連れて行かれておじぎをしなさい・・・と言われました。母が大先生に何かをお届けすると私の耳に手を当てられ一週間と言われた事を子供心に鮮明に覚えています。それから一週間母は教会の井戸水をくみ耳に吹いてくれました。それから病院へ行きますと担当医がびっくり、どうして治しました?・・・と聞かれたのを覚えています。こんなおちゃんがとご無礼な事を思っていた小学校1年生の私、何事があっても一週間過ぎれば改めて一週間と願うようになりました。今はお写真をじっと見詰めその日の目を拝見、今日は何かあるなと言うと嫁も納得するようなおかげを頂いております。仕事の方も福祉服飾デザインで特許を頂き、何事も一心にお願いさせて頂くことを教えて頂き、本当に幸せな充実した日を送らせて頂いております。

手記No 230 初代のお言葉 おかげ まろん君 男性 46歳 掲載号 2011/2/1 No.18

 重要な追伸をもう一つ私事で恐縮です。実は、母が初代大先生からお言葉をきいた中で、私のことを言ってくださっています。兄が大学の時、授業にも出ず熱心に小説を書いていました。もともと兄は創造性豊かで、文学でやっていこうとしていたようです。その頃、母は初代大先生にお祈りしていると「下の子がもの書きになる」というお言葉を聞いたと言っていました。そのとき母は、兄のことを可哀想に思ったと言っていました。下の子、つまり私です。その後、親思いの優しい兄は不気味な精神病に侵されて行って、人生が台無しになります。(両親の死後ぐらいには、精神病の症状は治っていました。)大叔母は、兄を思いやり「両親の不仲が、あの子を精神病にした」と言っていました。私に関して、初代大先生は「この子を大学にやったら東京に行ってしまうぞ」と母に言ってくださいました。私は東京の大学にも受かったが、関西の大学に進む気でした。それで兄に相談すると「お前は両親の仲が悪いので、そばにいて仲をとりもとうとしているが、両親の不仲で子が犠牲になるものではない。むしろそんな親を切り捨てて独立するぐらいの気でいるべきだ。東京の大学へ行け。おまえ自身のためにもなる」と言ってくれました。結局、私は東京へ行き、その秋頃から、兄はおかしくなって行ったのです。

手記No 229 初代大先生は私の神様 八重桜 女性 88歳 掲載号 2011/2/1 No.18

 私は5才頃から前のお広前へ父母につれられお参りさせて頂いておりました。父は何事につけても初代大先生にお伺いをさせて頂き決めておりました。私が女学校に進学の時もそうでした。大先生は「この子は商業へやりや」と言われ当時大阪でたった一つの私学である女子の商業学校へ入学をさせて頂きました。おかげで何不自由なくその当時多額の学費がいったのであろうに神様のおかげを頂き卒業出来、戦災で無一文になりましたが、身につけて頂いた勉強のおかげで何一つ不自由なく今日まで暮らさせて頂いております。これ一重に初代大先生のお言葉のものだと日々お礼を申し上げております。

手記No 228 咳が収まり眠れた まろん君 男性 46歳 掲載号 2011/2/1 No.18

 私の母は生涯、不眠症に悩まされました。翌日は工場の仕事なので、眠れない のは相当辛いことだったと思います。ある時、これは、風邪をひいて咳が止まらなくて眠れなかった夜のことですが、母はパジャマのままで、神様に咳が収まって眠れるようにお願いしました。すると神様から(又は初代大先生からだったか忘失)「うつ伏せに寝れば眠れる」と言われ、そのようにすると、咳も収まり眠れた、と言っていたことがありました。全く有難いみかげでございました。

手記No 227 初めてお参りした動機 昨秋浪人 男性 79歳 掲載号 2011/2/1 No.18

 「ふれあいの広場」No,17手記番号0213すぐいただいた大きなおかげを投稿させて頂いたところお参りの動機は何だったのですかとの質問を頂き書かせて頂きました。私は昭和63年から平成2年までの2年間大阪西区で仕事をしていました。そして江戸堀、土佐堀の地区を歩くとき、金光教玉水教会の前を歩くことがあり、教会の内部はどんなところかと興味を持っていました。しかし神社のように自由に中に入ってお参りするところではないと思っておりました。平成13年胸が背中が痛み、病院の内科部長の約半年の診療をうけたにもかかわらず、病名もハッキリせず、病気も良く成らずに困っていました。そこで思い切って神頼みと決意して教会に入りお参りした次第です。

手記No 226 四代金光様のみ教え 至らぬ私 女性 85歳 掲載号 2011/2/1 No.18

 今から27年前、主人が肺癌に罹り、余命数ヶ月と医者から宣告されました。何の痛みもなく、肺炎ぐらいに思っている主人に、私は溢れる涙を見せまいと直ぐにお教会に走りました。次第に容態も悪化し、点滴と輸血と水しか頂けなくなりました。主人が「一度自分に代わって金光様にお願いしてほしい」と申しました。翌日大阪を発ち、御本部にお参り致しました。そこで今は亡き四代金光様に主人の病状、主治医の話等、逐一お届け致しました。金光様はじっと聞いておられましたが「しっかりお礼を申し上げなさい」と仰せられました。「金光様。主人は水しか頂けません、命もあと数ヶ月と言われております」「それがいかん。水が頂ける、有り難いではないか、第一今、空気を吸わせて頂き、尊い人様の血液を頂き、多くの方々の看護を受けている。もったいない事やないか!人は皆、神様にああしてくれ、こうしてくれ、と頼んでばかりいる。それは順序が違うのじゃ。家にはいる時、戸を開けんと入れんじゃろうが。その動作がお礼を申すことにあたるのじゃ。先ず神様に生かされているお礼を申し、戸を開けてからお願いを申しなさい」と噛んで含める様に諄々とお話下さいました。私は本当に目が覚めた様な気持ちが致しました。病院に帰り、賜りましたお話を主人に致しました。主人は其の日から神様、初代、二代大先生にお礼を申し、其の年の7月31日の未明に61才で亡くなりました。残された家族は初代、二代、三代、現大先生の深い御心を頂きまして、本当に幸せに暮らしております。

手記No 225 御 礼 一ツ星 女性 78歳 掲載号 2011/2/1 No.18

 昨年3月大先生、彌壽善先生、先生方の厚いお祈り頂き乍ら夫が他界致しました。その節には思いがけない大勢の方にお見送り頂き何と御礼申し上げて良いかわかりません。ほんとうにありがとうございました。 又その後私の不注意から骨折し多くの方にご心配をおかけしお祈り添え頂きました事に厚く御礼申し上げます。お一人お一人に御礼申し上げたい気持ちですが紙面をお借りしてお御申し上げます。一日でも早く身も心も健康で恩返しが出来ます様努力致します。よろしくお願い致します。

手記No 224 奈良の仏像に癒される旅 まろん君 男性 46歳 掲載号 2011/2/1 No.18

金光教は他宗排斥の気運がまったくない。これは金光教の最大の特質の一つかもしれない。教祖様は各所で、他の宗教も軽視しないよう諭して下さっている。私は現在、服喪中で、満中陰も明けていない身で、この世を去った兄を偲び、晴れやかな連休などに、昨年1300年で賑わう古都を一人で巡礼した。兄が一番喜んだに違いないはずの奈良仏教の国宝級の仏像を拝見したり、二十五菩薩の行列が金色の面を被り練り歩く珍しい供養会も訪ねて、少し心が癒された。仏教のもつ固有の安らぎのようなものには、かけがえのない魅力がある。兄の部屋に張ってあった阿修羅像のポスターを、私は兄の遺体とともに棺に納めたのだが、興福寺の、その国宝・阿修羅像も今度の旅で実物を拝見できた。1300年も前に無数の偉大な尊仏が作られたこと、それを見ると当時の人々の精神的レベルの高さをうかがわせ、当時の人々は、現代人よりずっと健全な希望に燃えていたに違いという良き印象を受けた。また、現代仏教はお葬式のみと関連しているが、奈良時代の仏教は、生きる人間の魂と呼応していたのだろう。金光教には本来無関係ですが、私は仏像などの「偶像崇拝」の価値の再評価について、思いを馳せています。
 
手記No 223 人を通して 遊 峰 男性 84歳 掲載号 2011/2/1 No.18

 信心は人に対する思いやりが肝心と思う、その反対に心掛けの悪い人は悪いこと作って言い散らし聴いた 人は日頃仲良しだった友人に口も聴かなくなり憎しみ教会で会っても顔をそむけその人は病気になりお参り 出来なくなった。人を見せて頂く、心掛け良い人は病気しても全快も早く、悪い人は治りも遅い様に思う。 自分を見詰めて改まらないと・・・と教えて頂く。

手記No 222 おかげの中に生かされて 遊 峰 男性 84歳 掲載号 2011/2/1 No.18

 朝起き夜休ませて頂く時、神様と寝床にお礼、今日一日のご用時間修了のご祈念させて頂く時、乗物費用都合よく、又お礼申し上げられ目を覚まし、今日もまた生かされた喜びを、如何に生きん今、今日、明日も神様にお礼を家でも外でも自分は神様に見守られている事常に忘れずに、人は自分を目立ちたがりたいものだ、初代大先生は目に見えない事は、大きく舞い、おかげあるなしは徹し続けよ奉公人。

手記No 221 運命(さざめ) 聖徳太子 男性 74歳 掲載号 2011/2/1 No.18

 ある日の朝、目覚めのお茶一服飲み干した時、ふと自分の過去から現在までの歩んできた人生が走馬灯のように頭に浮かぶ。足の傷口からばい菌が入り敗血症になり死にかけたところ病院の医師のてあつい治療に助けられたこと。アルバイトで大工さんの手伝いをしていて屋根のてっぺんから転倒落下した時、立てかけてあったサン木に引っかかり助かったこと。退職し年齢制限で再就職出来なかった時、以前勤めていた会社の上司から仕事を与えられたこと。ある時突然社会保険事務所の労務士さんが私宅を訪ねられ京都の会社に昭和28年から31年迄勤めていませんでしたか? 完全に忘れていた私、高卒後の話。手続きにより3年分年金が増えたこと。これらの出来事は本人の持って生まれた運命(さざめ)と言えばそれまでだけど、明らかに他の人の助けと神様から頂いたおかげだと感謝・感謝のお礼を申し上げている今日この頃です。

手記No 220 お国参りが本部参拝へと! 色えんぴつ 女性 ?歳 掲載号 2010/10/1 No.17

 夜行で行ったお国参り、座席のない人の為に列車の通路、デッキにゴザを引いてくださり、その上で座ったり仮眠する人などがいました。私達青年会員は何時も楽しく、けれど寒いデッキで隙間に新聞紙、雑誌、毛布を詰めても風が吹き込み、身もガタガタ列車もガタガタでした。そして深夜に金光到着、直ぐお広前に参拝する人、教主様のお出ましのお迎えのお蔭を頂く人、控所へ行く人色々でした。控所もきしむような階段を上ると、もうこれ以上人が上れば床が落ちるかもと思うほどの人で一杯でした。もそこは私の故郷、祖父母達が「よー来たなー」と迎えてくれている様でした。食事も役員さんが白い割烹着をつけお盆にご飯、おかず、汁物をのせて通路がなく食べている人の頭の上から配膳して下さっていたのを思い出し、また美味しかったあの汁物の味、今でも覚えています。また帰りでの姫路のおそばの味も忘れられません。帰路神戸を出ると車内の掃除です。全て80年間引き継がれてきた宝物。9月から新幹線でのお参りとなります。「楽にお参りが出来るようになってよかったなァ」と歴代大先生が喜んで下さってます。初代大先生から二代、三代と祈り続けられ、これからも祈り続け下される私。大先生本当に有り難うございます。お礼申し上げます。必ずお蔭頂きますのでよろしゅうお願い致します。なく、私のためにこそ、「生きてくれていた」のでした。

手記No 219 兄は「生きてくれていた」 U まろん君 男性 46歳 掲載号 2010/10/1 No.17

工場で二人になった私は、もっと真剣に兄と歩調を合わせるべきでした。たった二人の兄弟なのに、私は大事な兄に冷たくしました。大変きつく振る舞いました。考えてみれば、少年時代には親以上に世話をしてくれたかけがえのない尊い兄貴でした。金光教では親孝行を勧めるが、兄も親であることに気づくべきでした。「幼少の頃を忘れて、兄に不孝のこと」と自分を戒めて気づくべきでした。兄は部屋で飲酒中、高血圧による脳内出血で急死しました。それは、昼間から飲酒する兄の部屋の外で、絶対に言ってはいけない一言を怒鳴りつけた時間帯だったと思われます。人生で一番大事な優しい人を失い、文字通り「痛恨の極み」に土下座して泣き狂っても、戻ってはくれず、答えてもくれません。親や兄は、「生きていた」のではなく、私のためにこそ、「生きてくれていた」のでした。

手記No 218 兄は「生きてくれていた」 T まろん君 男性 46歳 掲載号 2010/10/1 No.17

 三年前に両親を続けて亡くした私は、先日、兄まで亡くしてしまいました。兄は長年、精神病を患い、人間関係と社会生活を損ない、家族からも疎遠にされ、不遇の生涯を、不遇のまま49才で閉じてしまいました。我が家は個人経営の工場を持ち、精神病の兄は、住宅地には住めないので、工場の二階に三畳間を設け、そこに住んでいました。兄は実直で思いやり深く、独創的な信頼できる人でしたが、23才で病に侵されてからは、家族からも疎遠にされるような不遇な生涯でした。対人関係でトラブルを起こすことがしばしばです。中には深刻な事態に発展しかねないケースも少なくありません。両親も私も、兄の病気には大変苦労しましたが、一番不幸なのは、冷静な見方をすれば、兄自身でした。両親をたすけ、日曜も祭日もなく工場の仕事に打ち込むほどに、仕事こそが尊く思えるのです。両親が死んだころは、兄の病状は、専門家の目には(私は大学で精神医療福祉を専攻しました)治っていました。

手記No 0217「海外生活と信心」 その2IZZY男性 68歳 掲載号 2010/10/1 No.17

そんな私に、社歴わずか2年で、社内でただ一人の海外駐在員に抜擢される話が持ち上がりました。満州で苦い戦争を体験した父は私の英国赴任に猛反対しましたが、母は二代大先生にお伺いした後、「行きたかったら、行ってきたらええがな」と私を後押ししてくれました。大阪で苦戦を強いられていた私を見かねた母の願いだったのかもしれません。二代大先生は私の将来をお見通しだったのでしょうが、若い私には、波乱万丈の人生が待ち受けているとは知る由もなく、想像すら付きませんでした。このようにして、始まった私の海外生活ですが、今思えば、あれもお蔭、これもお蔭と思うことばかりです。お互いに信心を進めさせていただく上で、何かの参考なるのではと思い、これから、数回に分けて私の体験をご紹介させていただきます。私も、「ふれあい広場」に参加することで、更なるお蔭を蒙って参りたいと思っています。

手記No 0216「海外生活と信心」 その1 IZZY男性 68歳 掲載号 2010/10/1 No.17

私は48年間の会社勤務のうち、約35年間、欧米を中心に海外駐在させていただきました。海外にいると国内にいるときのように頻繁に参拝ができないし、不慣れな環境での日常生活、多忙をきわめる職責などで、ややもすれば、信心と疎遠になりがちです。いわゆる、「足信心」ができなくなります。その反面、周囲を見渡すと、映画やドラマで見るように、日頃ラフな格好をしている現地の人々が、日曜日になると正装し、家族そろって、教会へ足を運んでおられる光景を見ると、金光教の教会があればいいのにと、羨ましく思う時もありました。私は小学2〜3年生のころ、祖母につれられて、初めて玉水教会にお引き寄せいただきました。今から60年前のできごとです。今でも記憶に残っているのは、お昼になると奥の間から、ご奉仕されている方がアルミのやかんに入ったお茶をふるまわれ、薄暗いお広前の隅で、家から持参したおにぎりを食べたことです。中学生時代はバスで通学していましたので、学校が終わると、帰宅途中、日参させていただきました。学校が休みの時は、毎朝、自転車で参拝し、6時のご祈念をいただきました。そのような努力の甲斐なく、高校入学に失敗した私は、家庭の経済的事情もあって、中学を卒業後、就職し夜学の高校で学ぶことになりました。不幸なことが続くなか、「神様って本当に存在するのやろか」と思ったりしました。

手記No 0215人生は修行中遊峰男性 84歳 掲載号 2010/10/1 No.17

 初代大先生はよく言われた言葉に「良くいってもおかげ悪くいってもおかげ」。まだ若い頃はピンとこなかったが、年をとると良かったことを喜び、悪かったら真剣にご祈念させてもらう。今振り返ればあれもこれもおかげ、ある時青年会員自分一人でご本部へお参りしお礼申し上げ、「人を通してお礼を」とお届けをさせて頂く時「はいはいおかげ頂きましょう」と言われ、「生きている間は修行中です」とにっこり笑ってお言葉を頂いたことを思い出します。

手記No 0214自覚させて頂く遊峰男性 84歳 掲載号 2010/10/1 No.17

朝昼夜と一日中結構なお話を聴かせて頂きながらその時は結構なお話有り難うございますと言いながらつい忘れる。初代大先生は「玄関を出るともう忘れる」とよく言われた。難儀な氏子だ、ある信者さんがお祭り献撰中旅行話とかある信者さんは「糖尿病で、医者にたばこをやめなければ死ぬと言われるが死んでも良い」と言って死んでしまう、またお参りに酒を飲んでお参りをする。お話聴をそれでも聞かせて頂きおかげの中にいかされて居ること教えられる。

手記No 0213すぐ頂いた大きなおかげ作州浪人男性 79歳 掲載号 2010/10/1 No.17

 平成13年8月、玉水教会を訪れた。結界に若い男性が横向きに座っておられた。後にこの方が教会長湯川正夫先生と知った。先生は「金光教の信心案内」という小冊子を下さり、「時々お参りしなさい」といわれた。「玉水100年、まことの信心まことのおかげ」の大きな文字が私の印象に残った。午後2時の一斉の祈念で拝詞を唱え、お参りを続けていると、その時の2月から続いている胸の苦しみと背中の痛みが病院の内科部長の診療にもかかわらず治らないことが誤診ではないかと気が付いた。そこで早速病院を替え検査をすると、狭心症だった。彌壽善先生の指導で12月手術をして元気になった。私は入信後僅か半年以内にこんな「おかげ」を頂いたのだ。

手記No 0212御神縁八重桜女性 87歳 掲載号 2010/10/1 No.17

私の亡き母は正直一途な人でした。その母が戦争中二人しかいない娘の一人を肺結核で亡くしました。戦争中の食糧難で栄養状態も悪く薬も無く只神様に祈るだけでした。朝夕お教会へ日参させて頂き娘の病気全快を祈りましたが妹は19才で死亡しました。その時母は神も仏もあるものかと思ったと申しておりました。その翌年我が家は空襲にあい、家は全焼し、無一文になりました。その時の母の心境は如何なものだったのでしょうか、哀れでなりませんでしたが、神様は私共を見捨てられませんでした。引っ越先の近くに教会の請負に携われた大工さんがおられ、その方のおかげでまた朝参りが出来る様になりました。そのおかげで私の今日があるのだと心からみたま様にお礼を申し上げております。

手記No 0211命の灯火聖徳太子男性 74歳 掲載号 2010/10/1 No.17

突然ダダーン、ドスンと二階から大きな物音、キャンと犬の鳴き声がした。階下に兄(80才)が大きな声で腰が痛いとわめき倒れていた。「何の用事があって二階に行こうとしたのよ」と家族の声「別に何の用事もない。何気なしに行こうとした」この事態が後日命の火を消し去る結果となった。早く救急車を呼び病院に行けば助かったかも知れない。本人が「大丈夫だ」との言葉に行かなかった。これが手遅れになるとは夢にも思わなかった。翌日、頭が痛い体がしんどいと言う兄。救急車を呼び搬送の途中救急士が応急予診をしたところ脳に異常がありと判断、脳神経外科病棟に搬送した。入院中2ヶ間に渡り医師から「今日か今晩がヤマです。ご家族を呼んで下さい」という危篤状態を数十回続けた。それでも命を永らえた。奇跡だと医師は言う。信仰心の強い人だったから、おかげを頂いているなと私は思った。いまだに不思議に思うのは、途中で一旦元気に回復し、言葉が喋れる様になり、見舞いに来た家族に手を握り締めて、後は宜しくと言っていつ迄も手を離そうとはしなかった。誰もが死を迎え辿る道だけれども、生かされていることに感謝し、お礼の気持ちを忘れずに人生を過ごしたい。

手記No 0210信仰心聖徳太子男性 75歳 掲載号 2010/7/1 No.16

 毎月信徒会会費を納める時にあゆみを頂くが平成21年 9月号の教風の中で霊祭を迎えるに当たってと言う文章で警蹕(けいひつ)(オーオーというかけ声)をかけて霊様をお遷しする遷霊式があるがされていない教会もあると聞いたことがあります。さらに霊様の存在にさえ懐疑的な信者さんもいらっしゃるとのことも聞いたことがあります。と言う風に申しますと「ではお前は霊様が確かに御霊殿にお遷りされるのが見えるのか」と問われると正直なところちょっと困ります。しかし私は遷霊式に際し霊殿の前でお参りさせて頂いておりますと二代、三代大先生が私の前で遷霊を助けてご祈念下さっているのを感じます。ここまで拝読していた私は以前甥っ子(義兄の息子)が19歳の若さでくも膜下出血で亡くなり自宅にての遷霊式・告別式にお参りさせて頂いた時のことを想い出しました。故人の大学、友人、近隣の人達参拝の中義兄も金光教の信者、神奈川県にある教会の先生祭主の許に式典が開催された。警蹕(けいひつ)をかけられた時私の耳にかすかに"コト・コト"と階段を一段一段上がっていく音がかすかに聞こえた。式典後、義兄・嫁達が異口同音に「マーちゃんが階段を上り神様の許に行く足音が聞こえたよ」・・・と、"ァー俺も聞いたよ"!後程近隣の人にその話をすると、それはそうでしょうネ。身内の人または信仰心の強い人には聞こえるのでしょうね!私達には聞こえなかったけれど、私には親先生のお話は理解できます。だから霊様が見えなくても遷霊式は神様のご用として間違いなく執り行われていると信じております。

手記No 0209初代のお姿を見たことまろん君男性 46歳 掲載号 2010/7/1 No.16

亡母は、初代大先生の五十年祭のお祭りのとき、応募した詩を当選させていただき、そのときの栞に載せていただきました。母は、「あの詩は初代大先生が載せてくださったのだ」と喜んでおりました。また、今から十年ほど前になるかと思いますが、母は、初代のお祭りの日に、教会の大広前に皆さんと同じように座ってお祈りしていましたが、そのとき、初代大先生が「きれいな立派な着物姿で」現れなさったのを見たと申しておりました。その着物は「青やらなんやら、きれいな立派な」などと申しておりました。思い出したことを書かせていただきました。

手記No 0208毎日がお礼遊 峰男性 84歳 掲載号 2010/7/1 No.16

 近くに住んでおられる体のご不自由な方、電動車で雨の日も車に傘をさして側に息子さんか嫁が付き添って毎日マーケットへ買い物に行く姿を見る時、満足に何不自由なく生活させて頂ける、喜ばねば絶えず金光様初め親先生、諸先生のお取次して頂いて居る事、心して今日一日自分を見詰めてあゆんで行こう。

手記No 0207寝耳に水とはこの事八重桜女性 88歳 掲載号 2010/7/1 No.16

 昨年(H21)秋兵庫県に上陸致しました台風で揖保川が氾濫して佐用町で大きな被害が発生致しました。私の亡き母の実家は丁度その被害地の隣接する村はずれにあり今はいとこ一家が住んでいますが、テレビで裏の川が氾濫したことを知りました。ニュースを見ておりましても従兄弟の所ももうダメだと思っておりましたが、神様に一度もご祈念したこともない従兄弟の所でしたが奇跡的に大きな被害も受けなく助けて頂きました。本当に家から50mも離れていないところに川が流れているのに有り難いの思いで一杯でした。教えにもありますように信心するも者は本当に周りの誰彼の事をも願わなければならないと教えられているのに自分の至らなさにお詫びとお礼を申し上げます。

手記No 0206有り難うございます心の花女性   掲載号 2010/7/1 No.16

最近私は「有り難うございます」のお蔭を何度も頂いております。教会の先生のお話で、又は本や新聞等で何が起きてもまず「有り難うございます」と言える稽古するように教えられておりますが、なかなか素直に実行しがたく思っておりました。何とそれを実感させて頂くご都合を頂き、ただただ恐れ多く改めて信心の深く尊い事を知らされたのです。二度の怪我の時、魚の骨が喉に刺さった時、内蔵の違和感の時、これら全て「有り難うございます」「有り難うございます」で治療を受けることなく完治したのです。これからも数多く色々な問題に出会いましても「有り難うございます」と心から迷いなく一心にお礼申せる様に稽古したいと思っております。

手記No 0205お礼まろん君男性 46歳 掲載号 2010/7/1 No.16

l  このたびは、メールへのご返事及び、「ふれあいの広場」に掲載して頂けるとのことで誠に恐縮でございます。私は、御一日とお祭り日くらいしか参拝できておりませんが、「ふれあいの広場」は信者の皆さんの率直な気持ちが載っているので、毎月楽しみに読ませて頂いております。私の大叔母、そして母、それから父と三年連続で喪い、四人で暮らしていた家庭は、私一人になってしまいました。大叔母は「玉水教会の100年までは生きさせて頂く」と日頃から申しておりましたが、玉水100年を病院で私から聞き、その九日後に息を引き取りました。一番悲しむはずの母は「なぜか悲しくもなんともない」と不思議がっておりました。次に母が死んだ時、偶然にも、父が呆け始めて、父は母が死んだことも知らずに暮らすことができました。つまり、三人は誰も、家族の死を悲しまずに済んだということになります。私は、後々このことを考えると、不思議な思いがします。死ぬ順番が一つ違っていたら、残った誰かがひどく悲しんだはずです。結局、そのすべてを私一人で背負うことになったわけですが、母が死ぬ前にも、父が死ぬ前にも、私一人がそばにいたとき、二人とも、神がかりな言葉を私に告げました。その瞬間だけ、本人の意志とは関係のない言葉を私に告げてくれました。母は病院のベッドに寝ていて、ただ「フライばっかりや」と何度か呟いただけです。それ以外は全く正常でした。「フライばっかり」と何度か言うので、胸の悪い夢でも見ているのかな、と思っておりました。ところが、母が死に、親戚を呼んだ通夜の席で会食を終えた皆さんが、残った料理を見て口をそろえた言葉、それが「フライばっかり」だったのでした。私も同じ印象でした。このとき始めて、母の言った言葉の意味が分かったのでした。

手記No 0204感謝の心遊 峰男性 83歳 掲載号 2010/7/1 No.16

この頃お礼の言葉を耳にすることが少なくなった。有り難うどうも済みませんと言わない老人も若者も多く見受けられる、電車の中でも少し詰め座席を譲っても当たり前といった顔、口先だけでも有り難うの感謝の言葉を言うだけで、お互いの心が明るくなり信頼関係が生まれる。感謝の心を持つ人はストレスに負けず本当に喜べ、感謝をしていると運が良くなるように思います。私も電車の中で席を譲って頂きその人が降りられる時改めてお礼を言ったら、「お気をつけてお帰り下さい」と、暖かい言葉が返ってきた。清々しい気分になり信心の四つの目的の一つ「常に心を清らかに持たせていただくために」の一つを実感しました。

手記No 0203紙一重のおかげ八重桜女性 87歳 掲載号 2010/7/1 No.16

世の中には紙一重のおかげと言われる奇跡のような実話が沢山あります。実際それらの事件に遭遇した本人も、聞かされた周りの者も幾多の感動を受けることも多々あります。しかしその大部分の事例は神様のお計らいであると思います。良いことも悪いことも、特に悪いことについてはその時点でこれ程辛いことであれば死んだ方がましだと思われることも、後日になってみるとあの時あれぐらいのことで済んだのは本当に神様の大きなおかげだった。いわゆるメグリのお取り払いだったのだと思わせられることが沢山あります。そして今幸せに暮らせるのは神様を放さず本当に良かったと有り難く思います。私にとってもやはり難はみかげなんだと思います

手記No 0202有り難うございましたメジロ女性 72歳 掲載号 2010/7/1 No.16

 2月13,14日に三代大先生十年祭の神睦旅行に信者様方と共に参りました。本当に青空で良いお天気でまず夫婦岩を見学し伊勢神宮に参拝させて頂きました。伊勢神宮に参拝した帰りの途中で歩いていたら溝に滑り込んで右肘を骨折し大変なことになりました。家までは痛みもなく帰ることが出来ました。神様のお蔭で右肘は手術をし回復を致しました。信徒会の皆様にはご親切に重たい私を車椅子に乗せて頂き有り難うございました。今は神様のお蔭で元気にさせて頂いております。本当にお世話になった方々にお会いしてお礼を言うべきなのですがなかなかお会い出来ないので書面でのお礼の言葉にさせて頂きます。ほんとに有り難うございました。

手記No 0201社長と従業員デァ・ベア男性 62歳 掲載号 2010/7/1 No.16

ある中小メーカーの社長さんが私に次のとおり話された。「うちの工場がある地域は過疎化のためなか働く場が見つからない。そんな中で、従業員から働けるということはありがたいことですと言ってもらえる。だから、私も従業員のため何としてでも頑張りたい」。健康を損ねて初めてその有難さを知るというが、それに気付いた従業員はもちろん立派だし、その言葉を聞き流すことなく従業員の気持ちを理解し、業績改善と雇用確保に努力する社長もすばらしい。物やお金中心の思考でそれぞれが不平不満をぶつけ合うこ

手記No 0200奉公人に徹して山野草女性 59歳 掲載号 2010/4/1 No.15

三代大先生のお言葉に今でも強く印象に残っておかげ頂いたんだなあと思わないではいられない事があります。それは私の出産でお届けの時「それは大変だなあ」とおっしゃったのです。それと言いますのも43才の高齢初産で私自身とても不安を感じておりました。お届けをした時は三代大先生に初めてのお届けでしたので「それはよかった大丈夫ですよ」といって頂けるものと思っておりましたのに、そのお言葉を聞いて私はちょっとがっかりし、ますます不安になったものでした。でも今改めて振り返ってみますと私がかえって安心しきって不摂生にならないようにリスクの高い高齢出産をきちっとした節度をもったかたちで迎えられる様にあえてあのようなお言葉でおっしゃっていただいたおかげで、高齢初産にもかかわらず15分という超安産のおかげを頂けたのだなあと、今になって改めて気づかされそのご配慮にお礼の申し上げようもございません。今でも鮮明にお結界にお座りになっておられるお姿が思い出されます。本当にありがとうございました。

手記No 0199亡母の初代への信心についてまろん君男性 46歳 掲載号 2010/4/1 No.15

 一月「あゆみ」の中で、親先生より、初代大先生が生きて働いて下さっている旨のお話を頂きました。もったいないことでございます。 三年前に他界した母にとっても、初代大先生への信心が中心でした。母が他界した三ヵ月後、父も他界しましたので、両親と力を合わせて家業の工場を切り盛りしてきた私にとって、途方もない痛手でした。ですが、あの頃ほど、神様の御心を如実に、強烈に実感したことはありませんでした。両親は死んだが、それは神様の、悠遠で強力な、有難いご意志であって、単に、これを不幸と見るべきではないのでした。母は神様から、75歳の寿命と言われており、その通りになっております。のどの癌(下咽頭ガン)でした。また、母は、生涯を通じて、神様や初代大先生からの「お知らせ」を幾つも頂いておりました。末息子である私のことも、幾つか、初代は、言ってくださっています。死の数ヶ月前にも、初代のお知らせを頂き、入院の朝、「入院すな」のメッセージを神様から頂き、死に臨んで、「苦しいから早く死ぬように、初代に祈ってくれ」という願いのときも、そのお蔭も蒙りました。母は昭和六年生まれで、戦時中は大阪大空襲に二回見舞われ苦労もしましたが生涯初代大先生を信仰し、限りないお蔭を頂き、天寿を全うさせていただきました。初代大先生が生きて働いて下さっていることについて、自分の体験を語らせて頂きました。

手記No 0198親孝行させて頂いておりますエ リ女性 36歳 掲載号 2010/4/1 No.15

 私は両親と3人家族です。出かけるときは両親の杖になりいつも一緒です。入信させて頂きまだ3年と日は浅いですが、玉水教会にお参りさせて頂き親先生・彌壽善先生にお取次頂きいつも清々しい気持ちで話をしながら帰路につきます。本当に有り難いなと実感致します。親・先祖を大切にと教えられておりますが、これからも両親を大切にお世話をさせて頂きたいと思います。

手記No 0197神睦旅行に参加してスミ女性 83歳 掲載号 2010/4/1 No.15

三代大先生を偲んで久しぶりの神睦旅行、前日まで降り続いた雨、そしてまた帰ってきた次の日も雨、うって変わったような快晴の中、親先生ご夫妻、大奥様のご同伴を頂き、近鉄上本町から展望貸し切り電車で平成22 年 2 月13・14 日と伊勢志摩方面へ観光を致しました。私も仲の良い信心友達と一緒に参加させて頂き有意義な二日間を楽しませて頂きました。特に私は伊勢志摩は大好きな地で過去何度か旅行をしました。その度に鳥居が他の神社と違い神明鳥居であることに疑問を感じておりました。個人旅行ばかりであったので、聞く事も出来なかったのですが、今回バスガイドさんに聞くと伊勢神宮は女性の神様なので明神鳥居ではなく、神明鳥居であるとのことでした。疑問が解けた意義ある旅行でもありました。

手記No 0196神睦旅行に参加して二宮金次郎男性 69歳 掲載号 2010/4/1 No.15

三代大先生10 年祭の最後の記念行事として2 月13、14日の2 日間の伊勢賢島グルメ旅行に参加しました。前日までの時雨模様続きとはうって変わって、快晴微風のまさに小春日和の中で、待ち望んでいた旅は始まりました。親先生ご夫妻、大奥様、扶美様、正子様のご同伴をいただき、近鉄上本町から展望車貸し切りで参加者180 名の喜びを乗せて、一路賢島に向けて出発しました。途中松阪駅でバスに乗り換え、ログハウス造りのレストラン「山小屋」であの松阪牛の「牛鍋」の昼食を頂き、再びバスに乗り二見が浦で小学生の頃の修学旅行を思い出しながら、「夫婦岩」を見学した後、記念写真を撮りました。その後、宿泊所の「賢島宝生苑」まで約1 時間20 分、午後4 時前に到着しました。ホテルは真珠養殖で名高い英虞湾を見晴らす「展望露天風呂」付きの素晴らしい造りで、早速体を温めました。目をつぶると正に天国! ゆったりした気分で宴会場に向かいました。会場は200 名以上収容できると思われる舞台付きの大広間で、全員椅子・丸テーブルの丁度結婚披露宴を思わせる素敵な場所でした。6時半、親先生のご挨拶で会食が始まり、太鼓の出し物、酒・ビール・その他飲み放題という事もあって、各バス号車より2名ずつのカラオケ大会まで大いに盛り上がりました。笑いあり、踊りあり、最後に親先生のユーモアあふれる審査によるカラオケ大賞2名の表彰の他に豪華景品の当たるくじ引きが多数あり、最後まで全員参加のすばらしい宴会でした。三代大先生がお元気ならきっと『プサン港へ帰れ』か『酒よ』をお歌いになっただろうにと思いながら。翌14 日朝8時半出発、バスで伊勢神宮参拝、大鳥居をくぐり、五十鈴川に架かる白木の宇治橋を渡り、長い砂利道を頑張って歩きやっと内宮らしき所にたどりついたと思ったら、白いシートで中がよく見えず、お賽銭をあげてすぐに戻りました。というのも伊勢神宮内殿は天照大御神がお祭りしてあり20 年に一度建物すべてを建て替える「式年遷宮」という行事があって、62 回目が平成25 年で平成17年よりその準備の祭りや行事があるためだそうです。その為かどうか何年か前に三代大先生と大勢の信者さんと参拝したときとは比べ物にならない程の人出で大混雑をして、帰路に寄った温泉街にあるような店の並んだ「おかげ横丁」も昔の心斎橋並みの人ごみでビックリしました。駐車場にいっぱいの観光バスの中の「玉水教会」をやっと見つけて昼食場所の「志摩観光ホテル」に向かいました。ホテルでの昼食は前夜と同様な大広間で丸テーブル席で全員一堂に会しての食事でしたが、なんとフランス料理で、口にした事もない「黒あわびのステーキ」がだされておいしかった事! 柔らかさにも驚きました。幸せ〜な気分になりましたね。食事をすませて午後2時過ぎ、バスで鳥羽駅に向かう途中、海産物のみやげ物センター「王将」で約30 分土産の買い物を楽しみました。鳥羽駅で列車に乗り込み、快い疲れの中無事に上本町に予定通り午後6時42 分帰着しました。途中、正子さんが熱をだされ親奥様とお帰りになったのが少し寂しいことでしたが、長期にわたってお世話してくださった方々のおかげで楽しい神睦の旅をさせていただけた事に感謝申し上げます。なおそれ以前に旅行を通して「元気な心で前向きの信心」を教えてくださった三代大先生にお礼を申し上げたい、そんな気分の神睦旅行でありました。

手記No 0195有り難うございます三代大先生秋桜女性 51歳 掲載号 2010/4/1 No.15

長女の中学受験のお取次を頂きました時に、「将来、人のお役に立つ人間にならなあかんからなあ〜。」との大先生のお言葉でした。私はその時以来何故か気になっていました。おかげさまで無事娘二人「金光八尾中・高」と進学させて頂き、今度は進路についてのお取次を頂くと又同じお言葉でした。今現在娘達は大先生のお言葉通り、長女は「介護福祉士」となり特別養護老人ホームに、次女は「幼稚園教師」を経て今年より「保育士」にと、現在もそれぞれお役に立たせて頂いております。二人共生後から大先生にお取次頂いてきましたので、その頃よりずっとご祈念下されていたんでしょうね。今でも感じられます。三代大先生有り難うございます。これからも、少しでも大先生にお喜び頂ける様夫婦共々道輝会、婦人会とご用に使うて頂き、まだまだ未熟な私達ですが、子供の成長をもって分からせて頂いたお礼を申し上げたいと思います。

手記No 0194三代大先生の思い出奥の細道女性 69歳 掲載号 2010/4/1 No.15

私が青年会で最初に御用させて頂いたのは、昭和39年2月 1日、初代大先生20年祭からでした。あわてて制服を作ったのを思い出します。雪がちらついて足元では焚火をしてくださいました。例会では大先生の御講話を頂き会員同士の意見交換等がありました。そして冬はスキー、夏は三方五湖への海水浴等々、バスを連ねて連れて行って下さいました。私は殊の外歌を歌うのが好きでしたので、わら半紙一枚に小さな字で所狭しと歌詞を印刷して配りバスの中で「皆さん一緒に歌いましょ」という感じで楽しみました。帰りのバスでは皆、疲れて気持ちよく眠っておられましたが、最初から最後まで私一人で歌っていたことを思い出します。バスから降りる時大先生が「元気やなァ」と声をかけて下さったことを思い出します。青年会時代は職場等で、人間関係で悩んでいましたが、原因は自分自身の気の強いせいである事を気づかせて頂き関係がうまくいかない人の事を一生懸命祈らせて頂いていること自然に心がほぐれてわだかまりがなくなると言うことを学ばせて頂きました。本当に青年会時代は、楽しませて頂いた思い出ばかりです。お礼を申し上げます。ありがとうございました。

手記No 0193三代大先生に初めてのお願い山野草女性 59歳 掲載号 2009/7/13 No.14

三代大先生のお言葉に今でも強く印象に残っておかげ頂いたんだなあと思わないではいられない事があります。それは私の出産でお届けの時「それは大変だなあ」とおっしゃったのです。それと言いますのも43才の高齢初産で私自身とても不安を感じておりました。お届けをした時は三代大先生に初めてのお届けでしたので「それはよかった、大丈夫ですよ」といって頂けるものと思っておりましたのに、そのお言葉を聞いて私はちょっとがっかりし、ますます不安になったものでした。でも今改めて振り返ってみますと私がかえって安心しきって不摂生にならないようにリスクの高い高齢出産をきちっとした節度をもった形で迎えられる様にあえてあのようなお言葉でおっしゃっていただいたおかげで、高齢初産にもかかわらず15分という超安産のおかげを頂けたのだなあと、今になって改めて気づかされ、そのご配慮にお礼の申し上げようもございません。今でも鮮明にお結界にお座りになっておられるお姿が思い出されます。本当にありがとうございました。

手記No 0192三代大先生の思い出元役員女性 80歳 掲載号 2009/7/13 No.14

いつも三代大先生には気にかけて頂いておりました。主人が病気入院中娘達が、父が万が一の時にはお葬儀は教会でお願い致しますとお届けをしておりました。知らないのは私達夫婦だけでした。そして、約束通り教会で葬儀をさせて頂くからな、と言って頂き立派な葬儀をして頂きました。さぞかし故人もびっくりしたことだと思います。本当にありがたく思います。ある時三代大先生より私に信徒会の役員をするように命じられましたので早速お結界に行きまして私如き者がお受けすることが出来ませんと申しましたところ、大きな声で「そんなものなんですか」と申されました、私はびっくりして何も言わずそそくさと引き下がりまして一生懸命ご用に使って頂こうと決めました。地区の皆様にも助けられ、十年間おかげ頂くことが出来ました。これからもお役にたたせて下さいと願っております。

手記No 0191これでおかげくださいの願いさぎそう女性 64歳 掲載号 2009/7/13 No.14

青年会時代からお話を聞かせて頂き色々信心を教えて頂きました。三代大先生には母の胆石手術の時、医者から「体が弱い方なので手術が長引くと手術に耐えられるか、その事が心配です」と言われましたが、大先生のお祈りのおかげで手術の時間も短く一ヶ月でおかげを頂きました。それからお結界にもお届けをさせて頂くようになり、お願いの仕方にも「どうさせて頂きましょう」と「これでおかげ頂かせて下さい」とでは祈り方が違うと教えられました。それで商売の方もうまくいっていなくて、値上げの事を考えておりましたので、三代大先生に迷うことなく「二割値上げさせて頂きます」と申し上げ、大先生からも「おかげいただきましょう」とお返事を頂きました。最初の頃は厳しく苦しかったのですが、月日が経につれ得意先からも高いとも言われず順調に商売繁盛のおかげを頂きました。今日あるのも、大先生のお祈り添えの賜と感謝致しております。

手記No 0190たった一本の電話によるお取次ぎあざみ女性 65歳 掲載号 2009/7/13 No.14

青年会時代まだ信心のこともよく分からず、お結界へ行かせて頂くこともなかった。しかし三代大先生には(当時若先生)集会の時いつもお出まし頂きいろいろ教えて頂いた。グループ内の一人の友から急な電話で寝返りも出来ない身になってしまったとのこと、出勤前の忙しい時間帯、電話でお届けをさせて頂いた。それが三代大先生であった。会社からの帰り気になりその人の家に様子伺いに行くと留守で暫く待っていると、寝返りも出来ない重病人がお母様と一緒に歩いて帰ってこられるのには驚いた。たった一本の電話によるお取次ぎである。かかりつけの医者が畑違いであり、乳ガンであるのがその後わかった。そして適切な手当を受けられ、普通の生活が出来るようにまで元気になられた。人のことを願えと教えられているがこうも簡単にお聞き届け頂けるとはお結界のありがたさをも痛感した。

手記No 0189三代大先生の思い出愛する人女性 67歳 掲載号 2009/7/13 No.14

三代大先生との出会いは青年会でした。私もまだ若かったこともあり、気さくにお話しさせて頂きました。今思いますと失礼なことがあったかも知れません。でもいつも暖かく受け止めて下さいました。時には厳しく又時には心の支えになって下さり、相手の顔を見て話して下さる姿から、気持ちを分かってもらえていたことと思い出します。お正月お結界では、二代大先生と三代大先生とが微笑んで向き合っておられ、とても神々しく見えたことが思い出されます。お礼を申し上げに行くことが恐れ多く躊躇していた私ですが、自然と前に進ませて頂けました。親睦航路では特別室も自由自在に使わせて頂き、各種催し物も数多くあって、お互い名も知らない信者同士仲良く和気会々と楽しませて頂きました。その体験の中で三代大先生の優しさ、相手を思いやる心を学ばせて頂きました。三代大先生のお話の中で、私がいつも教訓とさせて頂いている言葉があります。それは「たまたま私は湯川家に生まれておいて頂いておりますが、湯川家に申し訳ないことをしたら、湯川家から追い出されてしまいます」とおっしゃったことです。その言葉を厳しく心に頂き、日々の生活また婦人会のご用も楽しくさせて頂いております。三代大先生の十年祭を迎えるにあたり、一つでも心の改まりをさせて頂きたいと思っております

手記No 0188三代大先生をお偲びしてしだれ桜女性 57歳 掲載号 2009/7/13 No.14

三代大先生は大変お忙しいお方だったのだと思います。初代、二代の信心を引き継がれ“我が信心のあゆみ”を誰にでも読みやすく書き残して下さいました。初代大先生の年祭には「信話集」を、二代大先生の年祭には「教燈」を残して下さっています。初代大先生、二代大先生のまことの信心をなんとしても我々にさせて頂かなければという三代大先生の願いを分からせて頂けなければなりません。当たり前になってしまっている事が全ておかげなのであることのお礼を申さねばならないと思います。問題が起きてどう受け止めたら信心を進ませていただけ、まことの信心になるのか、神様の願いを常に思わせて頂くよう努めなければなりません。三代大先生は、関西に学校を創設して下さり、神様の願いを受けてご苦労して下さったのだと思います。金光大阪のユニフォームを甲子園で見た時の感動は忘れません。又、サッカーも玉水の広前に優勝旗を見せてくれました。昭和54年頃私は忙しく月一度位のお参りでした。その頃から三代大先生はあゆみに道しるべを書いておられ、お忙しい中にもお結界にお出ましくださっています。私達家族はそのお取次ぎ、お祈りのおかげで今日に至る迄全てにおかげを蒙り続けております。そして、初代、二代、三代、現親先生、弥彌善先生へと続く、生き通しにご苦労下されているおかげで、どんなに悩む人達をも助けて頂けるのだということを申し上げたいと思います。

手記No 0187三代大先生と社長八重桜女性 88歳 掲載号 2009/7/13 No.14

三代大先生がお結界にお出ましだった頃、私がお世話になっている、自分の財力や知力に自信を持っておられた会社の社長がある時「君の参っている神様へいっぺん参ってみようかと思うが」と言われ、全くのひやかしの様な言い方でしたが、私はチャンスだと思い、信心が続きますようにと心中祈念、案内しましたところ、ほんまものであり、日曜日の午後は毎週お供をしておりました。そして毎回お結界へも進まれ、三代大先生に心の悩みを打ちあけられていたようです。それから二、三年経った頃、社長に「何を願われているのですか?」とお聞きしたところ、「死ぬときは苦しまずに死なせて下さいと願っているのだ」と答えられました。誰しも一番望まれることだと思います。それから少し経ってから昼食のラーメンをのどに詰まらせてアッという間に息を引き取られました。生まれて初めて神様に手を合わされたような人でしたが、神様は一人一人をじっと見守って下さっているのだと思いを新たにしました。

手記No 0186昔も今も八重桜女性 88歳 掲載号 2009/7/13 No.14

今から30年位前までは、 朝のご祈念は当番の先生方の講話の後、現在同様に先生のご祈念をいただいております。しかし当時は天津祝詞・大祓の詞を斉唱させて頂きました。私は大祓の詞の意味も何もわからず、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪と口先だけのご祈念でした。でも今は独自のご祈念帳がありますが、このご祈念の時いつも三代大先生の御結界にお座りのお姿を想いだされます。

手記No 0185初めてのお届け針千本女性 60歳 掲載号 2009/7/13 No.14

両親が存命中は親にまかせきりの信心でした。母は家族の願い事の全てを二代大先生にお届けさせて頂いておりました。当然私のことも。しかし二代大先生がお国替えなさり、三代大先生がお結界にお出ましなされてから、私はふと思いました。「今のままではいけない。お届けを母に頼むことは母にも心配かけることなのだ」。なんとか自分でお届けできるようになりたいと。初めは緊張してうまく申し上げられないのではと思い、内容を便箋に書き畏る畏るお出しすると、三代大先生はじっくりお読み下さり、「わかりました」と一言。私はとてもホッとしたことを覚えております。あの時こそ、私の信心の歩き始めた時であったと今思います。それから色々とご心配をおかけいたしましたが、今は少し安心して見守って下さっているような気がしています。

手記No 0184『教会のすごく偉い先生』デヤ・ベア男性 62歳 掲載号 2009/7/13 No.14

祖父のときからありがたい玉水教会にご縁をいただいていますが、私がこのことを意識しだしたのはこの10年に過ぎません。それまでは信心といえるものでは決してありませんが、思い出3件をご披露します。 1.40年以上昔のこと。私の願いどおりの内容にならなかったことに対し、大先生から「まあうまく行くだろうと考えていたあなたに油断があった」とおっしゃった。ビックリ仰天、恐れ入りました。2.20年前、私が転勤先で入院、生死をさまよっていたときのこと。祈っていただいている大先生とベッドに横たわる私が細い糸でピンと繋がっているのをはっきり感じました。今から思うと、まさに命の恩人です。3.ご帰幽1年前、お結界に出られなくなる直前。私のお届けについて、「今が踏ん張りどころ。今諦めたら努力が水の泡だ」と断言されました。大先生の祈りの中で、これが頑張りのもとになったことは言うまでもありません。

手記No 0183三代大先生の想い出だんだん男性 67歳 掲載号 2009/7/13 No.14

三男が三代大先生に名前を頂き、以来三代大先生にお取次ぎを頂いていた。お蔭というのはこんなものなのかなと思い、書かせて頂いた。高校入学に際し友人から三重に水産高校があるのだが受けてみないかと勧められ、そこの教科と施設を見学に行き、その中で海洋科を私の方が気に入ってしまった。しかし決めるのはお前だとゲタを預けた。中学三年の息子に対して酷な話であったかも知れないが、悩んだ末に決めたようだ。一年一学期の成績も二番で、一番か二番であれば三重大学への推薦も受けられる様で檄を飛ばした。私もお願いに熱が入った。三年の父兄会の時、会長、会長と呼ばれているので何の会長かなと思っていたら、生徒会に立候補して会長になっていた。その後も一番の成績を通していたので三重大への推薦も受け入試にも合格、4年間で卒業。就職にも私の友人がアドベンチャーワールドの社長をしており、息子のことが知れて、入社試験を受けてみないかとなり合格をした。本当に三代大先生のお蔭でという実感がした。入社一年目は実習期間ということでいろんな事をさせられるが、三ヶ月した頃アシカの調教師が交通事故に遭い、大勢いる新入社員の中で何故か息子に声がかかり、入社6ヵ月後に主担当になり、なにもかもが順調に進み現在に至っております。これもひとえに三代大先生のご祈念の賜と感謝しています

手記No 0182三代大先生の想い出オリーブ女性 65歳 掲載号 2009/7/13 No.14

10年前、教会からは遠くに勤めていたので思うようにお参りも出来ず三代大先生がご帰幽になられたことを知らずにいました。仕事を終え、たまたまお参りをしたその日がお葬儀の日であり、今、火葬場へ行かれていると言うことを聞き、がく然としました。何も知らずにいたこと、最期のお別れもかなわなかったことが、無念でなりませんでした。退職後5年祭を目前にして、前々から勧められていた婦人会にも何かお礼をと思い、入会させて頂き、ご用のおかげを頂きました。入会間もない私には大変未熟なままのご用でありました。10年祭をお迎えする今年、少しでも大先生にお喜び頂けるようなご用に使うて頂き、これまでのお礼を申し上げたいと思っております。

手記No 0181交通事故梅 里女性 68歳 掲載号 2009/7/13 No.14

ある日、夕食の準備が終わりかけた時、次男が友達からの電話で、「ちょっと出てくる」そう言って出かけ、三十分後また電話があり「もしもし梅里さんですか?こちら○○病院です。おたくの息子さんが…すぐ来てください」。息子が出かけた一瞬不安を感じて心中でご祈念をしたがやはり的中、ご神前で「大先生、神様、子供を助けてください」とご祈念し主人と病院へ駆けつけました。息子はタタキの上の背の高いタンカの上でシートをかけられ耳からは血が出、肋骨が二、三本折れ、足の骨も折れていた、目にも異常があり、見るも無残な姿であった。バイク同士の衝突事故でした。そのまま手術室に運ばれ長時間の手術の後、おかげを頂き命を助けて頂いた。術後、激しく痛みを訴える息子を後にして教会へ駆けつけた。教会は電気が消え、ご神前だけが明るく三代大先生がご祈念中であられた。暫くして三代大先生がお出まし下さり「相手のこともお願いしてあげや」と言われ、私は「なんでや、息子は死にそうになってるのに……!!」。また聞けば相手は無灯火で走っていたらしいのにと心に思いました。その後何度も大先生は「相手のことを願ってあげや」、と繰り返されました。しかし現実は相手が自賠責保険しか入っておらず私のほうの治療費は自費で払うことなど、飲めないことだらけでした。そのころの息子は大手の会社に内定が決まっているというものの、この事故のおかげで卒業時の必要単位取得もままならず、また入社講習にも行けないかもという切羽詰った状況に追いやられていました。ところが信じられないことにどんどん回復していき、肋骨にはコルセット、足にはセラミック、目には眼帯をしても、不死身のように車椅子で病院をスイスイと走り回れるようになりました。病院からタクシーで学校へ連れて行き、松葉杖姿で単位を取り何とか卒業に漕ぎつけ、入社講習にも間に合い、無事入社もできました。奇跡的なおかげでした。どれほど大先生のご祈念を頂いたことか、まことにありがたく感謝の念で一杯です。あとで聞くと相手は同年齢で脳挫傷だったらしく、息子の病状より重いものでした。だから大先生が「願ってあげや」と言われたのだとわかりました。今では相手の方への連絡を取ることが出来ませんが、身体丈夫で立派に社会人としてお役に立たれますように願わせてもらっております。

手記No 0180三代様の想い出八重桜女性 88歳 掲載号 2009/7/13 No.14

いつの頃か記憶が薄れましたが、二代大先生が亡くなられた後、三代大先生以下玉水教会の信者が揃って大阪湾一周のクルージングに出かけました。その時の三代大先生のお元気だったお姿。お孫様を抱かれて、甲板上から和歌山のお塚に向かって長い時間ご祈念されておられたお姿。参加者全員が一家族のように楽しく過ごさせて頂きましたのに、何年も経たないうちに大先生のお姿を毎日お目にかかることもお声をお聞きすることも出来なくなり、年月が流れ本年はもう十年祭を迎えます。お世話になった一同でお迎えさせて頂きましょう。

手記No 0179三代大先生と甲子園八重桜女性 88歳 掲載号 2009/7/13 No.14

高校野球のシーズンがまいりました。金光大阪出場なら先ず一勝を目指してと、……三代大先生ご在世ならばと思わずにはおれません。高校をはじめ福祉大学と先見の明をもたれ、後進の信者の子弟に幸多かれの想いをお持ち下された三代大先生のみたま様に優勝旗をお供えして頂きたい。ご在世中はどれ程甲子園出場を願って折られたことでしょう! これからも全教一丸となって良い成績を上げて頂きたいと願わずにはおれません。

手記No 0178難儀な氏子二宮金次郎男性 69歳 掲載号 2009/7/13 No.14

15年程前のこと、大掃除の日曜日、お広前掃除のご用のため車で教会へ向かっていつもの通り慣れた国道二号線を走っていた。淀川大橋を渡ってすぐ左側で警察のスピード違反のネズミ取りにつかまってしまった。急いでイライラしている上に罰金と減点が悔しかったが、調書に拇印を押してから少し気を取り戻して教会へ向かった。お掃除中ももう一つ気が入らない。今度つかまったら免停かも、それにしてもこんなに朝早くから休みの日にやらんでも……という思いが残ってすっきりしない。他にも軽四貨物で仕事に行く途中の年配の男の人もつかまっていた。お気の毒に、これで日当もパーやろうなと思いながら警官に言い訳と罰金はいくらかと尋ねていた。彼の事も思って腹立ちが消えない。大掃除が終わってから意を決して三代大先生にその事をお届けし「今後半年間は絶対つかまりませんように」とお願いした。大先生はにこにこ顔でうなずかれたが、その後半年はおろか現在までスピード違反ではつかまっていない。1年半前に駐車違反でつかまったことはあるが……!! 最近運転中は毎日奉唱をしている「信心の4つの目的」の始めの二つを頭の中で繰り返しながら走っている。いつまで経っても難儀な氏子である。

手記No 0177三代大先生を偲んで聖徳太子男性 73歳 掲載号 2009/7/13 No.14

毎年春と秋の霊祭には、夫婦揃って参拝させて頂いております。お広前の座席を正面の一番前に着席したい思いが強く、私達夫婦は午後2時から始まる祭典なのに午前10時30分過ぎに到着しました。念願の一番前でお参りする事が出来ておかげを頂いたとご神前に向かって感謝の気持ちでお礼を申し上げました。典楽会の奏楽が始まり祭典が進行する中で三代大先生が出てこられたお姿を見たときオーラを感じ、光り輝き後光が射して見えました。その瞬間自然と頭が下がり両手を合わせ拝礼しておりました。こんなことがつい最近の事のように思い出されます。

手記No 0176三代大先生よりの頂きものそよ風女性 84歳 掲載号 2009/7/13 No.14

人伝てに「お礼は神様からのお下がりで」と聞かされ、「私も神様のおかげで」との思いから三代大先生にお伺いをし、お許しを頂き、参らせて頂いております。なかなか改まりの出来ぬ身を、お礼と共にお詫び申したところ「良い悪いは一切ありませんよ」とおさとし頂き、その意味の真がわかる迄二年足らずほどかかりました。が、今も折に触れ、心にこの言葉を胸に物事を見つめ乍らの毎日。み教えは絶えず聞かされ、頭ではわかっていても“体に覚え込ます”ことが大事だと思います。お言葉通りにはなかなか出来ず、“出来ん出来んで出来ていく”、とのみ教えを杖に、このおさとしが身につけられ、三代大先生からの頂きものとして頂き、お道とお教会の名を汚さぬ様に終生願わさせて頂き進めさせて頂いております。

手記No 0175三代大先生のご英断八重桜女性 88歳 掲載号 2009/7/13 No.14

まだ三代大先生がお元気だった頃、それまで大広前は畳敷きでした。ある朝、畳は突然上げられて椅子席に変わりました。大勢の信者さんはどうしてという思いでした。でもお話によりますと、今後信者さんがだんだんと年をとり足の痛い人が多くなるであろう、椅子席であればゆっくりとご祈念も出来るであろうと三代大先生の深い優しい思いやりのご英断によるものとお聞きしました。今私達はおかげを頂き、どのような大きなお祭りも長いお話もゆっくり頂かせていただいております。あのまま改革がなかったなら足の悪い大勢の信者さんはお参りの足が遠のいていたかも知れません。三代大先生、今私達は親の家の玄関をあがるような気持ちでお教会へお参りさせて頂いております。有り難う存じます三代大先生。

手記No 01730162への返信針千本女性 59歳 掲載号 2009/6/13 No.13

山野草さんのメールを拝見いたしました。文章がとてもお上手で思わず引き込まれてしまいました。大変でしたね。よく頑張ってこられたなあと、唯々感心するばかりです。と同時に、信仰を頂いている人のたくましさと言いますか、強さにも深く感動いたしました。人間はこの世に修行に来ていると言われていますが、神様から与えられた修行を全うされ、合格点を頂かれたのだと思います。私も59年間の間にいろいろな試練があり、そのたびに自分の信心をみつめ直し、神様に助けられて乗り越えることが出来ました。苦難、それは神様から与えられたテストですね。あなたは上級テストに合格し、無事進級出来たのだと思います。苦難を乗り切ったとき、そこから生まれる何かがある。

手記No 0172祈りが強いと神様は……プチとペコ女性 58歳 掲載号 2009/6/13 No.13

友が七年前に拾い育ててきた犬がいる。人を怖がり吠えてばかりいたので、ずっと玄関で飼っていた。何回かアタックしたが庭では飼えなかった。この度、家を建て替えることになり、別場所で仮住まいをしていた。犬もやはりその玄関で仮住まい。新居の設計の段階で玄関が以前の家より狭くなる事になり、彼女はその日から、「新居に戻る時には、この犬が庭で飼えますように。吠えてご近所に迷惑になりませんように」と、約五ヶ月間祈り続けた。家族は皆、「ムリやろう。泣いたら家に入れてやろう」と思っていた。引っ越し当日、クーンと、か細い声を一度出しただけで、その日からずっと庭で飼っている。彼女の祈りの強さと、犬の気持ちまで変えて下さる神様のお働きに感動した。

手記No 0171取次ぎありて運命の切替をそよ風女性 84歳 掲載号 2009/6/13 No.13

父の後妻を「小母ちゃん」と呼び、小学一年の一年間生活を共にした人が病床にあり、看護者が疲れから部屋中を叩き壊し、看護を放棄して里帰りをしてしまった。甥が自ら勤務中の私に電話をしてきたので急ぎ駆けつける。「良く来てくれた」との感謝の言葉。その訳は父の遺産分けの時に呼ばなかった故。「来てくれなかったら、私の葬式出されへんねん」……。それは神様からのおさとしと理解させて頂いた。駆けつけてより十日間は病床の中で水だけ。小母と実妹のみたまと先祖一同、縁者一同のお礼とお詫びを共にさせて頂き、お徳を頂けたのも、玉水の歴代大先生のお取次あってのこと。ただただ感謝あるのみ。お礼の毎日です

手記No 0170法要で思ったことデァ・ベア男性 62歳 掲載号 2009/6/13 No.13

先日、親戚の法要が行われ、あるお寺に参りました。法要のあと、短時間ですが僧侶から、「単に法要をしたということだけでなく、こうした機会に、遠い先祖や日頃何気なく生活している人との係わり合い、時空を共有する一瞬を大切にしてほしい」というお話がありました。また、ちょっとした合間に境内で見た絵馬に、自分のことだけでなく周囲の幸せを純粋に願っている内容が多いことにも感銘しました。絵馬の内容の一部をご紹介します。/人に幸せを与えられる人になれますように/親に恩返しができますように/某さんの会社が発展しますように/お婆ちゃんが元気に退院し、一緒に暮らせますように/いつもありがとう、残り人生を楽しく生きる、その日は二度とない/等です。幸いにもこれらのいずれも、私にとっては、常日頃、お教会で教えていただいていることであり、心に染み渡りました。生活の中でしっかり実行して行きたいものです。

手記No 0169心のお守り八重桜女性 87歳 掲載号 2009/6/13 No.13

自分のしている事は間違いない、と思う心が間違いである。いつ頃に初代大先生が仰せになったか判りませんが、書物で読んで知り、私自身いつも口癖のように心の戒めにいたしております。どなたも心に残るいくつかの教えをお持ちだと思いますが、私は玉水百年の直会で頂いた日めくりを、毎日立つ台所の目に付くところに置き、初代大先生が「忘れなよ……」とお言葉をかけて下さっているような気持で見させて頂いております。それ故、わたしごとき者が毎日大過無く過ごさせて頂き、心から感謝致しております。

手記No 0168念ずればこそ花開く八重桜女性 87歳 掲載号 2009/6/13 No.13

「念ずれば花開く」。この言葉は昔から私の大好きな言葉で、折に触れて、一人口癖のように申しております。この言葉は何時、何処の誰が言われた言葉なのか、いまだに私は知りません。昔の高僧の方が京都智恩院の階段に書き示されたもので、石は今も存在しております。私は神道で、仏教その他はなにも知りませんし、金光教以外の教えは何一つ聴いたことも、教えを読んだこともありませんが、信じれば又念じれば、神仏のご加護、お祈りによって、それぞれの願いは必ず花が開き実を結ぶと、古人は後世の人々に教えて下さっているのだと思います。金光教の教えも、初代大先生の教えもまた同じで、信じ切ってご祈念すれば、花開く良い結果を神様は下さると言うことではないでしょうか?

手記No 0167「お礼・お詫び」新生児女性 56歳 掲載号 2009/6/13 No.13

ご本部の四代、五代金光様は「お礼が土台です」と言い続けていらっしゃる。ある方が四代様にお詫び申し上げて、「どこに詫びよとある!」と叱られたが、教祖様の墓前でついついお詫びしていると、ムクムクと黒い嫌なものが立ちこめ、慌ててお広前へ戻ったら、「あんた、まだお詫びしてるやろ!」と又ひどく叱られたそうだ。私自身五代金光様から、「今月今日、ただ今を大切にして、後ろを振り向かず、前を向かせてもらえば結構です」とのお言葉をいただいた。しかし、「詫びれば、メグリは日向に置いた氷のように溶けてゆく」とあるし、信話集でもお詫びの話は多い。今は分らせていただいたように思う。「それでもここまで来させていただいた。気づかなかったけどお陰授かっていた…」。気づかせていただいた事に始まり、あくまでもお礼を土台としてのお詫びであるべきなのではないか。神の子としてあらゆる恩恵の下に生まれ、存在し続ける自分を土台として、足らぬを詫び、足していただくのか。不完全な至らぬ無礼者、いわば神の失敗作としての自分を土台とするのか。詫びようによってはご無礼になるかもしれない。信話集ではお詫びが目に付くが、初代大先生にとって、お礼は当たり前すぎて、ことさら説くことでもなかったのではないだろうか?

手記No 0166めぐりは自分で作るもの遊 峰男性 82歳 掲載号 2009/6/13 No.13

めぐりというお話を聴かせて頂くが、先祖の話と錯覚するがそうではないと思う。戦時中憲兵をしており兵隊は勿論、民間人をも苦しめて我が物顔。終戦後食糧難で人々が困っているのに、自分は軍の食料を家に運び、優雅な生活を送っていた。その本人が亡くなった後、まじめな息子が定年後病名の解らない病気になり、毎日熱が出て体内のあちらこちらに痛みが発生。あらゆる医者に診て貰っても病名解らず、住んでいる所の方角が悪いと言われ、奈良へ移転しても悪くなる一方という。足腰立たずに車椅子生活。家族も本人も苦しい生活で、最後、気の毒に死亡。我々はめぐりと言えば先祖ばかりと思っていたが、知らないうちに自分自身めぐりを積んでいる事を知る。「絶えず見る事。我が身を見る事」。高橋先生のお言葉。

手記No 0165生かされた命聖徳太子男性 74歳 掲載号 2009/6/13 No.13

寒さ厳しき一月の早朝、けたたましい電話の音で起こされた。眠い目をこすりながら時計を見ると6時30分、何事かと受話器を取ると、悲しそうな声で、「あと二週間の命だ」、と主治医から言われたとのこと。二階中段の踊り場から犬を抱いて階下へ転落し、頭を強く打ち脳内出血。義兄の長女からの電話であった。翌日、私達夫婦揃って神奈川県の病院へお見舞いに行ったが、昏睡状態で声をかけても反応がなかった。その後毎日の様にご祈念をして速やかに快復のお願いをしていた。その甲斐があり、脳内出血も止まり、昏睡状態から眼を開け、車椅子に乗れるように快復をしたと、義兄の嫁から連絡が入った。義兄夫婦も熱心に神奈川県にある教会にお参りさせて頂いているが、私からもお礼のご祈念をしてほしいとの事である。主治医は、「奇跡だ」との一声!!……

手記No 0164お陰への一本道男性男性 65歳 掲載号 2009/6/13 No.13

ごま粒のようなお陰をいただいたことで、少しおこがましいが、お陰の一本道が最近分かりつつある。それは何よりも「お礼」の大切さである。例えばお金に困った時は、何よりも手元にあるお金をトコトンお礼を申し上げ、かつ今まで困っていなかった時のことを数え上げ、できるだけ具体的に細かくお礼を申し上げる。お願いはしなくても神様は心の中をお見通しであるから、それより私達はお礼に力を注ぐことが大切ではなかろうか。健康問題、身体の故障で悩んだ場合、今も故障していない箇所をお礼申上げたり、また故障するまでの過去を一つひとつお礼申し上げることではないだろうか。お陰の一本道に真のお礼が早道であることが間違いなさそうだ。

手記No 0163信心を振り返って男性男性 82歳 掲載号 2009/6/13 No.13

初代大先生ご在世の時お聞きしたお話。ある時、ご旅行中に随行の先生に「あの二本の松を見てみよ」と言われた。先生が「良い松ですね」と言われると、初代大先生は「もっとよく見てみよ」と言われ、「なんぼ見ても解りません」と応えられると、「あの一方の松は、日に当たり土もあるが、一方の松は、岩と岩の陰になり生きているだろう。人間もあの様な生活をしておられる人が多い」とお話しされたそうだ。私も母を想い出し、子供を思う一心で、苦しい中にも愚痴言わずに辛抱した過ぎし日の母の姿、又貧乏生活で子供に風呂敷を渡し、米買いに行かせた母の心の痛みを知る。信心も、体の不自由な人、困った人、貧しい人程、真剣な祈りが出来るが、不自由でない人は只々気休めのご祈念になりがちだ。良くも悪くも、お陰は日頃の信心の貯蓄だと思い、一筆させて頂く。

手記No 0162すべてに感謝の中で山野草女性 58歳 掲載号 2009/3/1 No.12

お参りさせて頂くようになり、お火鉢でお話を聞かせて頂き、信話集を読ませて頂くという日々でした。それから私は大変なおかげを頂くことになりました。結婚してなかなか子供に恵まれず、いつもお届をしていたのですが、完全にあきらめていました。それが結婚して21年目に男の子に恵まれたのです。 43歳の高齢初産でした。それも7ヶ月まで妊娠と気づかず、出産にも15分という超安産というおはからいを頂いたのです。本当に感謝をしても感謝しつくせません。でもその出産直後、子供が1歳2ヶ月の時に、主人が他界というドラマが待っていました。…… それは子供が生まれた2日後に、受けに行った会社の定期健康診断で精密検査をしなければいけないと言われ、帰ってきたのが発端でした。そして2ヶ月後に入院となり、その後すぐに病院から私へ、主人に内緒でくるように言われ、余命数ヶ月の宣告を受けたのです。私はただ呆然とするしかありませんでした。 子供は生まれたばかり。いったいこれからどうしたらいいんだろうと言う不安と主人には告知しないで、主人の前では涙を見せず気丈にしていなくてはいけない……! 主人はやっと恵まれた子供とも一緒におれず、親子の団らんは病院の中でした。2〜3日外泊許可が出ても、又すぐ病院へ戻らなければいけない。主人も本当に辛かったと思います。それを見送る私も辛い日々でした。どうして神様はこんな辛い試練をお与えになるんだろうかと、辛い中でも行けるときにはお教会へお参りしてお届けをして、病院へいっておりました。しかし宣告を受けて1年後、主人は帰らぬ人となりました。どうして神様はこんな試練をお与えになるんだろう!! どうして…どうして…と思いますと、しばらく約1年位はお参りする気力もありませんでした。それでも神様は、良い事がおこっても悪い事がおこってもおかげとおっしゃって下さいます。雨風を凌げる家があり又細々とでも生活に困らないようにしていただいているという事が有り難く、お礼申しあげなければいけないという気持ちになり、再びお参りさせていただくようになりました。主人と一緒に子育てできないことは淋しくむなしいものがありますが、たとえ目に見えなくても何時も傍にいてくれる思いでおりますし、本当にすべてに感謝しても感謝しきれないという、気持ちです。その時1才2ヶ月だった子供も中学3年生となり、私の背丈を超え受験を迎える年齢となりました。なにが起きてもおかげとおっしゃて下さいますが、その時その時に起きてくる事から、ままよままよの気持ちで有り難く、受けていかなければと思っております。そう思いますとすべてに感謝しないではおれない今日この頃です。

手記No 0161神様よりのメッセージ浦島太郎男性 67歳 掲載号 2009/3/1 No.12

何人かの人が以前、神様よりのメッセージについて投稿されていた。その中で何事をするにも、よくお願いをして細心の注意をはらってご用をしておれば、必ずヒントはあるとの提案だったと思う。しかし凡夫な私にはそんなメッセージに気づかない(問題にしない)場合がある。昔、伯母に聞いた話であるが、戦時中私が3才の頃、5才と4才年上の姉と兄が学童疎開に預けられ、父は徴兵、乳飲み子の弟と私を抱え、母は大変だったらしい。そんな時私もこの伯母宅に預けられ、親元を離れての生活。泣きもせず近所でも評判のよい子(?)だったらしい。しかし、ある夜中目を覚まし、伯母を起こしグズッたらしい。今夜に限ってどうしてと、大変困らせたという。その時かすかにコトッという音がしたのでそちらに行ってみると、今まさに燃え上がる寸前だったらしい。消し壺の火の不始末だったという。火の始末を終えお詫びを申し部屋に戻ると、私は何事も無かったようによい子に戻り眠っていたという。神様は何も解らない幼い私を使いメッセージをくださったのでしょうネ! それとかすかな音に気づいた伯母にも……!!

手記No 0160認知症の親に学ぶデァ・ベア男性 62歳 掲載号 2009/3/1 No.12

少し前から認知症を発症した親は、過去の知識はあるが直近のことはほとんど頭に留まらない。しかし足腰に支障なく、また昔からの経験は記憶として残っているため、今のところ迷子や事故に遭遇することなく一人でお教会に参拝している。周囲の方々のお世話になっていることもあるからだが、本人は毎日が楽しいという。私としても本当にありがたいことである。ただし、充電したナビ付携帯電話を常に外出する本人に持たせ、いつでも所在を把握できる態勢にしておく配慮は必須。それ以外は全て神様にお任せである。そうは言っても私自身ストレスがかかることがあるが、それもささやかな恩返しのための修行の場であると考えている。今この瞬間を楽しく感謝して生きる親にエールを送りたい。

手記No 0159信心に想う遊 峰男性 82歳 掲載号 2009/3/1 No.12

少し前から認知症を発症した親は、過去の知識はあるが直近のことはほとんど頭に留まらない。しかし足腰に支障なく、また昔からの経験は記憶として残っているため、今のところ迷子や事故に遭遇することなく一人でお教会に参拝している。周囲の方々のお世話になっていることもあるからだが、本人は毎日が楽しいという。私としても本当にありがたいことである。ただし、充電したナビ付携帯電話を常に外出する本人に持たせ、いつでも所在を把握できる態勢にしておく配慮は必須。それ以外は全て神様にお任せである。そうは言っても私自身ストレスがかかることがあるが、それもささやかな恩返しのための修行の場であると考えている。今この瞬間を楽しく感謝して生きる親にエールを送りたい。

手記No 0158「メグリ」新生児女性 56歳 掲載号 2009/3/1 No.12

「メグリ」を私は自分自身のものと捉えている。産まれようと嫁ごうと、メグリ深き家に入るのは、自分の前世・前々世からの魂の代々のメグリによって、入るべき流れのところへ入ったにすぎない。犯罪者の子として生まれようが、貧乏な家に生まれようが、そこに生まれる理由が先に自分の中にあるはず。「メグリ深い家に生まれたから」とか「先祖がメグリをつんでるから」と親先祖のせいにする前に、例え現世では素晴らしい人であっても、「そういう所へ縁付かねばならぬ、生まれ変わり死に変わりして積み重ねてきた自分の知らぬ自分」が原点である。つれ合いを悪く言う人も多いが、どんな良夫良妻であろうと、右手が左手の悪口を言うようなものであり、子供を嘆く人は、親としてどんなに素晴らしい人であっても、そういう子供を持たねばならぬ自分自身として、おかげをいただかねばならないと思う。全ては自分自身が問題であり、だからこそ自分次第でおかげをいただけるはずである。その為なら「メグリ深い」という自覚は大切なものと思う。

手記No 0157ご神縁あってのお手引きご用そよ風女性 84歳 掲載号 2009/3/1 No.12

私は今、子孫のために、私の知らぬ「あらゆる病気全快根切れ」のおかげを頂けております。玉水教会にご縁頂けての幸せです。苦痛や体の自由のきかぬ時、「子孫がこんな目をしては可哀そう」と祈りに一段と力が入ります。お取り次ぎのおかげで時には「お手代わり」かと分からぬ乍らお礼申しています。ご恩ある「神様、大先生」を子孫に伝えられぬめぐり深き身故「子供が恩知らずになりませんよう」歴代大先生、親先生にひたすら祈りの日々。参拝させて頂けるお礼と子孫がご神縁頂ける日を楽しみに、只々お導きを願う。神知らぬ人、考えた事もない人が殆どの世です。一人でも多くの人がご神縁頂き、この玉水教会にお引き寄せ頂けるようにと、参拝のタクシーの中でもお手引きのご用に使って頂ける日々。お礼の稽古真っ直中です。

手記No 0156“おんぶの子守”と親子の愛情人生の扉男性 54歳 掲載号 2009/3/1 No.12

最近の若いお母さんの子守風景は、赤ちゃんと向き合った「抱っこ」スタイルが多く見られます。昔のように「背負って子守」(おんぶ)するお母さんが少なくなった様に思います。近年、親子関係で不幸な事件が増えているのは、ここに原因の一つがあるように感じます。それは、赤ちゃんが物心付く前から“親と対立した目線”で育ち、親子間に肌の温もりが伝わらない子育てスタイルが自然と親子関係を希薄にしていると感じます。「親子の肌の温もりがしっかりと伝わる背中に密着した“おんぶの子守”が子育ての原点だと思います」。……赤ちゃんが育つ過程で“親と対立した感情”が先に身に付く「抱っこ」スタイルに、少し疑問を感じます。……幼児期に親の背中越しの目線を体でしっかり感じ取り、心の中に親と同じ方向を見る感性がしっかり育まれていれば、“反抗期”になっても、親子は心の中でお互いを理解し合えるはず。親子間の「不幸な事件」を無くす為に“おんぶの子守”が昔のように復活することを望んでおります。 信心は家庭に不和の無きことがもとなり、と教えられておりますが、実生活で活用したいものです。(私の感じるまま書かせて頂き失礼しました)

手記No 0155海のもくずわたるちゃん男性 62歳 掲載号 2009/3/1 No.12

少年の頃、海水浴に行った時、人が死ねばどうなるのだろうか?……と考えたことがある。海水浴で海の汚れを見て、死ねば海のもくずになってしまう、とそんなことを考えた事があり、そんな想いにふけったものです。まことに神様のこしらえられたこの世がそんなものであろうか?……今この体を構成している水分や物質はもともとあちこちに散らばっていた海のもくずの様なものであったかもしれない。しかし神はそのもくず一つ一つを集められてこの偉大な人体を創られたと想われる。有り難いではないか、人の体も新しい生命(子孫)を創り出し自身が死して何も残らないとしても、出来るだけ何らかの功績は遺したいものですネ!

手記No 0154苦しみや悲しみを忘れて八重桜女性 87歳 掲載号 2009/3/1 No.12

報道によりますと100年に一度という世界的な大不況が目前にやってきていると言う事、朝から晩まで事例を挙げて報道されておりますが、お正月の玉水教会は正に春の暖かさに包まれ、楽園の如く幸せ一杯でした。これも一重に昼夜を問わず信者の幸せを祈り続けて下さる歴代大先生のお徳によって、私たちが頂いている神様のおかげの現れだと思わせて頂きました。そこには辛い話も悲しい話もなく、幸せを信じる笑顔ばかりでした。願わくば此の楽しそうな笑顔が一年中続きます様に、そして本年の年越し大祓を笑って頂かせて頂ける様にお願いせずにはおれませんでした。勢を揃えて神様にお願いさせて頂きたいと思っております。

手記No 0153「ふれあいの広場」のおかげ八重桜女性 87歳 掲載号 2008/12/13 No.11

'07の新春「ふれあいの広場」が誕生して早2年になろうとしています。毎回発行されますのを心待ちに致しております。私のようにお参りさせて頂きましても、お話を余り聴かせて頂く機会もなく信心友達と言える人もあまりない者にとって、あゆみと共にお話を聴かせて頂ける本当に楽しみの一つであります。一つの事例についての解釈の仕方、また心の持ち方、本当に勉強になります。初代大先生のお話を聴いて助かる道とみ教え下さいました事が「ふれあいの広場」の色々なお話によってこれは私に対する神様のみ教えなのだと思わせて頂くことが沢山あります。有り難うございます。

手記No 0152入信のきっかけ山野草女性 58歳 掲載号 2008/12/13 No.11

私は22歳の時に結婚して九州の田舎より大阪に出てまいりました。その時にお参りのきっかけとなりましたのは、結婚して間もなく、主人の洋服を買わせて頂いておりましたお店の方と親しくお話をさせて頂くようになってからです。様子を見ておりましても、お話をしておりましても、本当に教えられ感心させられる事ばかりでした。そうこうしております内に、妹の結婚問題で大変な事が起こって参りまして、その方にお話し致しましたら、お参りさせて頂いている所があるからと連れて行って下さったのが金光教であり玉水教会でした。その時お結界に二代大先生が座っておられ、事情をお話しすると身を乗り出す様にしてカッと目を開き、「わかりました」とおっしゃって頂き、それからトントンと問題が解決致しまして、すぐに良縁のおかげを頂き、二人の子供にも恵まれ大変幸せに暮らしております。その時私が求めていたのはこれだと思い、お参りさせて頂くようになりました。

手記No 0151お礼と感謝の日々元へいたいさん男性 83歳 掲載号 2008/12/13 No.11

健康のおかげを頂き誠に有り難く感謝致しております毎日です。終戦を旧満州で迎えました時、敵兵20人余りに銃剣で取り囲まれ殺される処を助かったこと、またシベリア抑留中に交通事故に遭いその時3人が死亡、紙一重の処で助かるおかげを頂きました。シベリア抑留4年有余、冬は零下55℃迄になり零下35℃と少しやわらぐと作業に出るのですが、防寒服は整っておりませんし、食事は悪く少量で、体は衰弱し歩行するのが困難な状態でした。以上のような体験をさせて頂いた経験から、自分一人の力で生きているのではなく、神様のお加護により生かされて生きていることがわかるようになりました。余生を教会への足運びのおかげを頂き、お礼と感謝の日々を送らせて頂く毎日です。

手記No 0150暑き草刈り聖徳太子男性 73歳 掲載号 2008/12/13 No.11

炎天下、気温36℃午後1時自動車運転免許教習所走行コースに散在するグリーンベルト(芝生)上の草刈り中、ふと路上を眺めると炎のように、かげろうが見えた。麦わら帽子をかぶっているが汗が頭から顔面に滝の如く吹き出してくる。思わずつぶやいた。「冷たい氷のかち割りドレッサーを頭から乗っけたいなー」と。次に出た言葉、「何の因果でこんなに苦しい辛い仕事をしなければならないのだ!」草刈り作業が終わり冷たい水をのみながら眺め渡すと青々と芝目が輝いて綺麗に見えた。俺がやったんダ! と苦しかった後の達成感と喜びがひとしお湧いてきた。またこの年になっての急な失業。ハローワークに行っても年がじゃまをして仕事がない。お願いをして昔の上司の所に遊びに行くと、降って湧いたような再々就職話も追い打ちをかける。何でこんなに苦しい!……が、有り難いことである。

手記No 0149妻の病気を通して妻を思う夫男性 85歳 掲載号 2008/12/13 No.11

妻が平成19年9月5日、急に体調に異変があり入院致しました。私はお参りしてお取次を頂く時間がなく電話でお取次頂き「速やかに病気全快のおかげを頂きますよう」お届けしました。書生さんが「ハイわかりました」とお取次をして下さり、その時私の心の中でおかげ頂けたと感じました。ところが平成20年5月20日再入院することになりました。水分と栄養不足とのことでした。私としては足らぬ所を足して頂けると感じました。付添をしながらひまを見てはお参りしてお願いをしておりましたら、1ヶ月で退院いたしました。家族一同これからも健康のおかげを頂けるよう願っております。

手記No 0148御本部参拝車中でプチとペコ男性 58歳 掲載号 2008/12/13 No.11

「今月も何か学ばせて下さい」とお願いしておりましたら、私の席の前に認知症の姑さんを介護なさっておられる方と神様は同席させて下さいました。私は認知症の母に、「音読するように、又計算ドリルをするように、薬飲み忘れないように」と本で得た情報を元に、全然やる気のない母にイライラしながら説得していました。でも認知症の人は、そうすると頭が混乱したり、やる気が失せたり逆効果。それより、今までこうして自分を育て上げてくれたことに想いを向け、そのお礼の気持ちを、優しい言葉に込めて、彼女が安心出来る状態を創ることが一番と、心から納得出来るお話を聞かせて頂くことが出来ました。こちらが願っていたら、神様は、何時も自分に必要な方に出会わせて下さることを最近益々確信できるようになりました。

手記No 0147目に見えるおかげ遊峰男性 82歳 掲載号 2008/12/13 No.11

二代大先生ご在世中、お結界の先生に出産のお取次でもっともらしく此の子を通して妻と親に信心を教えて下さいとお願いを続けた。実はお腹で体が横になり、頭も右に寄り左に寄りし続け、豊中市民病院に2ヶ月程通院するも、正常に成らず、生まれる寸前に首にへその緒が2重巻になったが出産は正常。母が医者にお礼に行くと、「今まで当病院で何千何万人出産したが不思議でなりません。誰か何か信心されて居られるのでは」とこの出産を通して言われた。又私もこの子を通して願い通りのおかげを頂いた。その後学校も公立校を順調に、就職も日本航空6次試験に6千人中45名の難関を突破しておかげを頂く。この事も日常の生活も歴代大先生、親先生のご祈念の賜と深くお礼の日々です。

手記No 0146「神様の思い」新生児女性 56歳 掲載号 2008/12/13 No.11

ネコを2匹飼っている。お風呂が嫌いで、大声で鳴き身をよじって逃げるので、そこそこ洗うのがやっとだが、出てからはゴロゴロと喉を鳴らして気持ち良さそうに寝そべっている。この間ノミをみつけ、ふと浴槽を見て「これにザブンと漬けて思いっきり洗ったら本人(ネコ)も気持ちいいやろなあ」と思ったが、気絶でもしない限りそうはさせてくれない。「人間も同じやなあ。神様が、ああしてやったら後々楽になるからと手をかけてくださっても、その思いが分からず、泣いて逃げ回るんやなあ」と思う。手を怪我して臭い汁が出ているので注射していただくと大声で鳴き、暴れる。薬を飲ませるのも大変だ。こちらにはネコがこの事によって良くなると解っているのだが、ネコにはただの難でしかない。慣れているかゆみや痛みの方が楽なのだ。人間も出産の苦しみや歯の治療は、良くなる為の限られた期間の苦痛であると解っているので耐えられるが、理由もわからず、いつまで続くか分からない難にうろたえるのは、同じやなあと、ネコをみて思う。

手記No 0145人生はお導きの手の中にそよ風女性 84歳 掲載号 2008/12/13 No.11

父と死別して67年、父娘のご縁にお礼申し喜びの報告をさせて頂き、父が私の小二の頃より全累家のご先祖を拝ませて頂き、先祖の助かりを願っていました。その信心を心身に付けさせて頂けたおかげで、玉水教会にもご縁頂けました。異母姉や近所の方が「逆境にあり乍ら、よくそんな優しい清らかな心が持てたネ!」と驚かれ、又第一養母と生き別れ後39年ぶりに再会して「良くその年で(43才)そこ迄の信心が出来てますネ!」と喜んで頂けたのもひとえに父母の陰の祈りのおかげと思います。私の人生は友から小説以上よ、小説に書けばとよく言われました。第一養母は私との生き別れから苦しみの中、信心にご縁頂き、後に大きなおかげを頂ける迄になり、人の命の助かりにも、おかげ頂かれました。人生は全て神様のお計らい、尊いかぎりです。

手記No 0144酒に教えられた信心わたるちゃん男性 62歳 掲載号 2008/12/13 No.11

飲酒歴20年になるだろうか、酒好きの私は酒でずい分失敗もしました。しかし酒も神様が人に与えられたもの、何で悪いのかという気もしないではないが。そんな折仕事が終った後、人がワンカップ酒をくれた時、神様に「神の愛、神のみ霊、いやしの御酒となりたまいて、我心身をいやしたまへ」と祈っておりました。その時思った事、今日一日仕事をしたお礼に神様がこの神酒をくださったのである。ほろ酔い気分の中にそんな神様の情愛を感じておりました。今日働いたお礼に神様が飲ませてくださった癒しのお酒、有り難いと思いました。但しご神意に反した程度を越えた飲酒は自分の責任であって、神様の責任ではないとも感じました。酒好きな方の参考になればと投稿しました。

手記No 0143紙を買う人、紙を売る人わたるちゃん男性 62歳 掲載号 2008/12/13 No.11

紙を売っている? 小学校の遠足で大阪市内を歩いていた時の想い出に、証券を貼る看板を見て腹が立ったのを覚えている。先生が怒っている私の顔を見て笑っていた。都会という所は紙を売っているのか! そんな考えが頭をもたげ腹が立ったのである。最近実際に高齢の方が債券や同じ儲け話にだまされて本当に大金が紙くず同然になった話などを聞く。教典に「バクチは重々の罪」とあったと思う。気の毒だが騙される側もうまい話に乗ったのではあるまいか? 私が大儲けの話とか賭博をしなくなったのは、賭博で勝った金も負けたその人の恨みの金である。また自らが負けた金も賭博に勝った人の懐にころげている。いるものは神様に頂こう。

手記No 0142三代大先生の懐かしい想い出たんぽぽ女性 62歳 掲載号 2008/12/13 No.11

二十年位前の事だったでしょうか。金光第一高等学校(現金光大阪高等学校)創設の頃でした。ある日、三代大先生より「学校の帳簿整理に来ませんか」とのお言葉を頂きました。そこで早速、高槻の同校へ通うことになりました。最初のうちは慣れないこともあり戸惑っておりましたが、皆様に助けて頂き無事整理を終えることが出来ました。その時やれやれ良かったなとしか思っておりませんでした。しかし今改めて大先生がどれほど深くお祈り添え下さっていたかということを、しみじみ思わせて頂き、有り難くお礼申さずにおれません。

手記No 0140気付かせて頂く百会男性 57歳 掲載号 2008/9/1 No.10

私達は、天地の親神様から時々刻々メッセージを頂いております。何気ない日々の生活の上にも、事が起きた時にも、神様の「声なき声」に「気付かせて頂く」ところに、お道の信心の神髄があると思わせて頂きます。又、「気付かせて頂く」ことに信心させて頂いている意味があり、気付かせて頂く時にこそ、信心させて頂いております私達の心に神が生まれ、おかげの鍵とも言うべき「願い、お詫び、改まり」が実践でき、おかげへと道が繋がるのではないでしょうか。私自身、一つでも神様のメッセージに「気付かせて頂く信心」をさせて頂きたいと思います。

手記No 0139なにが有り難い?デァ・ベア男性 61歳 掲載号 2008/9/1 No.10

信心の進化ステップの自己診断のひとつとしてお楽しみ下さい。 ?おかげがあったから有り難い?解説例:おかげをいただいたことはもちろん有り難い。同時に、「神に向かう心」を強くさせて頂いたと気付いたことが有り難い。 ?なにごともないのが有り難い?解説例:なにごともない状態にもかかわらず「神に向かう心」をさらに強くする努力をさせていただいていると気付いたことが有り難い。 ?辛抱が有り難い? 解説例:辛抱して目標成就に向けて、「神に向かう心」を強くさせていただいていると気付いたことが有り難い。つまり、神に向かう心(すべてに礼をいう心で神様に一心に縋りつく心)を強くさせていただくのに、毎日どう骨折ったらよいかが信心のポイントとなります。難しいことですが、皆で頑張りましょう。

手記No 0138難はみかげと助かりの喜びしだれ桜女性 56歳 掲載号 2008/9/1 No.10

玉水教会のお徳の中で取次助けて頂いております。我々は仕事に行きづまり難儀な事ばかりで辛くとも、それがおかげの真っ只中であって、その難儀を乗り切らせて頂くことで成長し信心を進めさせて頂けます。なかなか真っ只中にいるとそうは思えませんが間違いなくその前方には灯明があります。また希望を失いかけても、真の祈り、つまり人の助かりを祈らせて頂くことで自分を保たせて頂けます。初代大先生は「心配は神様に渡せ」と言って下さり、過去の事も過ぎた事を苦にするなと。そして、「未来は悪いことを思うな、先を楽しめ」とも。こんなに生きることに自信を持たせて頂けるほど有り難いことはありません。どうぞ安心して豊かな気持ちになって頂きたいと思います。

手記No 0137またとなき幸への道そよ風女性 84歳 掲載号 2008/9/1 No.10

昭和19年2月1日は、命が危なかった私が親のため、親族のため命乞いをして他人にも不思議がられ乍ら、命頂けた私の記念日。お道に御縁頂けたのが、昭和16年10月10日の就職の日。大きな運命の転換日は何時も大事なお日柄。信心の道は金光教と自覚しているが、「金光様」と祈ることなく、只々「玉水の先生」で、形もととのわぬ身が次々と頂けぬようなおかげを頂かせていただき、自分の事より他人の事を先に願えのみ教えをその頃は知りませんでしたが、振り返るとその通りでした。親と姉一家の事ばかり。昭和22年帰阪後「大先生? 湯川? どこの地名?」そんな私が先祖の助かり、運命の切替えを体験させて頂き、お火鉢の教えが真と分かる。ただ一重にお導きお取次ぎあればこそです。一人でも多くの人が助かり、真のお礼をさせて頂き、三つの親様(魂・教え・肉親)に喜んで頂きたい。縁なき人にも是非この道をと。

手記No 0136神様は無駄事はさせなさらんそよ風女性 84歳 掲載号 2008/9/1 No.10

ある御本部参拝の日、2時間も早く駅へ着き、時間待ちしていてふと気が付けばもう発車時刻。JRで西へは一度も行ったことのない私は大あわて、やっとの思いで本部の控所へ。後年お墓を授かり、改式前で数軒の合祀の故、教会と御本部にお礼とお届けをして、清めのお水も頂き義経の三段飛びではないが、御本部、下津井、香川県の本島と、休日の始発から終電車迄の一日を走り回り、行きずりの人の車に便乗のおかげで御用が一日で出来「ああ、あの時の乗り遅れはこの日の為の予行演習のお導きだった」と気づき、改めて心からお礼申し上げる。便乗させて下さった方が、四国で年一度の観音様のお祭りのお下がりをとお分け下さり、帰宅後開けると紅白のお餅二つ重ね。神様とみたま様のお喜びと感じる。三代大先生の「良い悪いは一切無い」とのお教えは、このことかと。

手記No 0135お盆に想うこと八重桜女性 87歳 掲載号 2008/9/1 No.10

毎年この時期になりますと、誰彼なしに決まって「お宅は神様やからよろしいなァ、お盆が来ても何もしなくてよい」とよく言われます。私はそれに対して何も反論は致しませんし、適切な説明もいたしませんが、仏式ではお盆というきまりに、親先祖を丁重にお祭りをする。「信徒はそれをしなくてもよい、その様な行事は従来からない」という世間一般のおもいはおかしいと思います。仏式であれ神式であれ、要するに大切なのはそれぞれの心だと思います。ご神前がいくら立派でも、いやいやのお祭りでは、みたま様はきっとお嘆きだろうと思います。たとえ菓子箱の古いのをお供えしたとしても、心を込めてお祭りさせて頂けたら、それはそれなりに神様もみたま様もお喜びになるのではないかと、いつも心を神様とみたま様に向けて思っております。

手記No 0134三代大先生の想い出とお礼八重桜女性 87歳 掲載号 2008/9/1 No.10

今日はご本部参拝で教会もいつになく静かでした。私はご本部参拝の度に思い出すことが多々ありますが、中でもある年の二月のご本部参拝の時、三代大先生のお供をさせて頂き、教祖様の奥城へお参りさせて頂いた時、列の一番端で冷たい風が顔に当たり顔面神経痛になりました。それを大先生にお届けをさせて頂きましたところ、ハイハイとお聞き届け頂き、一ヶ月程で全快のおかげを頂きました。思い起こせばその他にも沢山のお届けをお聞き届け下さいました。その三代大先生が私共のお届けを聞いて下さり、世間が未だあまり福祉のことを言わない頃に、すでに大学までお造りになり、大変なご苦労だったと思います。

手記No 0133恐ろしい幻術師の自分わたるちゃん男性 62歳 掲載号 2008/9/1 No.10

私の少年時代は、「神のこと、生きていくこと」にあれこれ悩んだものでした。何故悩むのかと考えたとき、それは賢いから悩むんだと気が付いた。初代大先生が『わが信心のあゆみ』の中で、何が自分を苦しめたのかについて、「自分の腕であった」と言っておられる。教祖様も「我が心の鬼が我が身を攻めるぞ」と言っておられる。仏教で言われる「無明」、つまりありもせぬあれこれを考えだして悩む、要するに心という巧妙な幻術師が自分にあれこれと幻術をかけて自分を苦しめている。悩みは賢い自分を働かせるが、しかしその賢さを自己を苦しめるためではなく、喜びへ向ければ幸せになれるのである。悩むのは賢いからである。その賢さを喜びと感謝へ向けたいと思う。

手記No 0132信心にテクニックの応用?わたるちゃん男性 62歳 掲載号 2008/9/1 No.10

当「ふれあいの広場」に「信心のコツ」という投稿がありましたが、神信心にコツやテクニックを応用するのは如何かと。確かに商売のコツや投資にテクニックを応用して金儲けをした人もあろう。甘いことを言って人をだまして大儲けした人もあろう。神は言葉巧みなコツある人、上手なテクニッシャンの動きに左右されるのであろうか?昔勤めていた水道屋の親方が言っていましたが、水道の仕事を始めてから3年間は水道の仕事をさせてくれず、物運びばかりだったと。これを信心に替えて言えば、信心始めは只教会へ通うだけだった…と、その只教会へ通うだけが尊いのである。神のお誘いであり、おかげである。そのささやかな通い続けると言う心掛けがやがて大きなおかげへと育つ。

手記No 0131ゆたかな心聖徳太子男性 73歳 掲載号 2008/9/1 No.10

大阪造幣局、通り抜けの桜。花見に行く為、地下鉄東梅田プラットホームでふと見渡すと電車乗降口場所に、乗客が二列に整然と綺麗に並んでいる。電車到着、降りる人が終了してから押し合うことなく全員乗車した。心のゆとりのある行動に私は感動した。その時、イギリスのエリザベス女王のエピソードを思い出した。晩餐会にメイドがフィンガーボウルに水をたたえて、来席者に配った。招待されたある外国人が両手で持ちフィンガーボウルの水を飲んでしまった。すると女王も自ら水を飲んだ。食事前手指を洗う水であった。招待客に恥をかかせない配慮をした女王の心のゆたかさである。この二つの事例から信心する者の心構えを学んだような気がします。

手記No 0130すべてに礼をいう心デァ・ベア男性 61歳 掲載号 2008/9/1 No.10

2年前に右目が、さらに1年前に左目に異常が発生した。そしてある日、お取次で「年齢を考え、一度人間ドッグへいくように」とのお言葉。病気のとりこになる性格の私は、精密検査申し込みを決心してから検査終了まで心配をひきずり通した。診察の結果は異常なし。直ちに御礼申し上げた。しかし同時に、心配を打ち消すことができなかったことを心から詫びた。実はその前日までに、「ここまで神様が私を励ましておられるのか」と思わされることが頻繁にあったにもかかわらず心配が消えなかったためでもある。しかし、しばらくして気付かせられた。結果が良かったことは勿論有り難いが、これまでの不都合な2年間がなかったら、「すべてに礼をいう心」の大切さに気付かされることにならなかったのではないか…。これからも、「就寝前のお礼のお祈り」と「お神酒の目薬」を続けることとする。

手記No 0129三代大先生の想い出浦島太郎男性 66歳 掲載号 2008/7/1 No.9

昔、青年会入会当初、三代大先生(当時若先生)のお宅応接室で集会をよく開かせて頂いた。その中で私は、高いところは苦手で高いところに上っての御用は他の人にお願いしておりますとの発言を何度かしたことがある。ある年のお正月、教会の塀に取り付けた幕が風のため部分的にはずれ、それを私が一人で脚立に上り直していると、誰かが脚立を支え手伝ってくれている気配を感じた。下を見ることも出来ず、有り難うという投げかけに無言の返事(支え続け)。作業を終え下に降りると三代大先生であった。有り難うとのお言葉、その背後に二代大先生のお姿。お出かけから帰られたところだったようだ。予期せぬお手伝いにとまどいと有り難さを感じた。

手記No 0128ありし日の三代大先生八重桜女性 88歳 掲載号 2008/7/1 No.9

今から十数年前、三代大先生はお元気で毎朝のご祈念の時、お結界にお出ましでいつも神様にご祈念して下さいました。当時私は夫が難病におかされ神様しか頼るものはなく、毎日毎日それこそ同じお願いをしていました。でも寿命がなくその後夫は他界致しました。三代大先生は大勢の信者さんのお願いの中でも私のお届けをよく覚えていて下さいまして、次のご霊祭の時に難病で亡くなった御霊様と御祈念下さいました。お優しいお心の三代大先生がその後間もなくご心労が重なり亡くなられました。皆様にとっても三代大先生のお国替えはどれ程無念だったことでしょう。いつも想像しますと涙が出て参ります。でも遺されましたスローガンの「まことの信心・まことのおかげ」は私共の心から消えることはありません。ご冥福をお祈りいたしております。

手記No 0127命を繋ぐ糸デァ・ベア男性 61歳 掲載号 2008/7/1 No.9

二代大先生ご帰幽直後の1988年2月体調を崩し、転勤先のなじみのない病院へ急遽入院した。担当医の診断のまずさの中、大きな不安を抱え電話でお届けした。彌壽善先生から「今の病院でおかげをいただこう。大阪の方に向かってお祈りしておけば大丈夫」とのお言葉を頂いた。そんな状況直後のある夜、三代大先生と生死をさまよう私が、ピンと張った細い糸で繋がっているのを感じた。意識が混沌とする中で、今お祈りして頂いている有り難さと祈りの凄さを感じた。その1?2日後、どういう経緯か担当医が急遽交代し適切な治療が開始され、転院することなく無事完治。二代大先生、三代大先生、彌壽善先生の総力で私の命が繋がった。しかし、こうした有り難い出来事にもかかわらず、本当のお礼に気づかせていただくことになるのはずっと後となる。誠に申し訳ないことである。

手記No 0126遺言あやめ女性 88歳 掲載号 2008/7/1 No.9

母と妹と三人家族。戦後間もなく丈夫な母が突然胃癌と言われ次第に苦しい闘病生活に入りました。最期の時、母自ら神棚に灯明を上げ、これからは金光様を離さぬようにと言い残して息絶えましたが、その時は切なる親心もわからず只悲しくて涙に明けくれました。年月を重ねて、あれは母の遺言だったとよくよく分からせて頂き、熱心なお参りも出来ませんが、金光様一筋に迷う事なく、あれもこれも気づかなかったお蔭を沢山頂いた事振り返って有り難く思っております。昨年は米寿のお祝いも頂き益々元気一杯一人暮らしを楽しんでおります。神の杖をつけば安心。まこと今は何も思う事なくお礼の毎日です。

手記No 0125信心に向かう親の辛抱JUN男性   掲載号 2008/7/1 No.9

Aさんは信心のある家庭に育ち特に苦労なく成長。結婚して二人の子供に恵まれましたが、その子たちは、勉強熱心な今で言うよい子ではなく、思春期には親に何かと反発するという問題を抱えることになりました。辛い経験に直面したAさんは、お教会で毎日のように事細かなことまでお取次頂き、そのとおりにするよう努力したそうです。そのポイントは、「子供への注意は最小限とし、見守りきること」であったとされます。Aさんによると、「単なる辛抱ではなく、子供が人間として立派になることを願う親としての辛抱が信心の道ですね。私は今も子供に育てられています。もちろん、子供に対する辛抱のない身勝手な叱責をしないように、親が反省しないと…」とのことです。

手記No 0123人付き合いTease女性   掲載号 2008/7/1 No.9

毎日、幸せに過ごしていたと思っていたのに、ふっと気が付くと自分の嫌なところが目につき出し、試練を与えられたと…。人に相談された時は、聞かせて戴いた話をして分かってもらえても、自分のこととなると冷静さをなくして、嫌な面が出てきて直そうと思うとよりひどくなり、余裕がありません。後でこれも修行と思うのに時間がかかり、お詫びの日々です。気づかせてもらったお礼と嫌なところのお詫びのかぎりです。気を抜くと元の木阿弥です。信心するのに友達はいらないと、良く聞かされます。友達って心から信頼できる人? その時、その場楽しく話せる人? 人の足を引っ張る人? 血を分けた身内でも「土足で入るな」と言われたことがあり、人との関わりは難しいものです。人と歯車が噛み合わないのも惨めな思いがします。本音で話せる人がいればすっきりするでしょうに、自分の我の強さが災いするのか、聞く耳をもたない自分。何を信心しているのかと疑いたくなる…。それでも神様は生かし助けてくださるのですね。

手記No 0122ご神縁頂ければこそそよ風女性 84歳 掲載号 2008/7/1 No.9

袖すり合うのも多少の縁で、会う人に「生命は誰から?」「神仏には?」との問いに十中八九の人が「無関心」と返答。その時しみじみとご神縁頂け、改式までも頂けた有り難さに歴代大先生、親先生のお蔭と感謝。子孫までにも神縁を、そして真のお礼をと願わずにはおれません。神を知らぬ人多き世の中、恵み厚き玉水あればこそ。信心は自分で出来るものではありません。日々のお導きお取次を頂けてこそさせて頂けるのです。私は始め「こんこんさんへ」との誘いに、お稲荷さんと思って断りました。後日大先生の祈りの下に引き寄せられてご縁頂きましたが、お手引きなしの勝手信心で、後から考えると「良くあんな風に思わせて頂けた事」と。只々、日々諸先生のお取次のお蔭です。今は一人でも多くの人にご神縁頂けますよう、祈り・お手引き・御用の稽古中。

手記No 0121お結界あればこそそよ風女性 84歳 掲載号 2008/7/1 No.9

S26年頃、バスに弱く、和歌山墓参は参加出来ず電車での一人参りで堀止停とのバスを頼りに、お結界お届けを杖に参拝。いいかげんな方向に進み、この辺で曲がったらと思いのままに前進。進むうちに墓地の中。どこかも判らずキョロキョロしながらふと右向けばそこが大先生の墓前。迷いもせず無事着けた。この不思議はお結界お届けさせて頂けたからこそと、お礼参拝させて頂きました。また後年ご本部団体参拝が出来ず、後日お届けしての参拝に、二代様、三代様の前の坂道で『いつも先生のお伴で参るのに』と思った途端ありありと二代大先生の笑顔が浮かび二度三度と左右を行き来し『ああ一人でなくやはりお伴をさせて下さっている』と実感し、お届けの確かさ、大切さを知りました。

手記No 0120見えぬ世界の実感わたるちゃん男性 62歳 掲載号 2008/7/1 No.9

一般人にとって霊の世界とか神や仏の世界というのは、何か霧や雲の如くはっきりしないあやふやのものと思われがちでありますが、実はこの現世よりも確かなもの、人間の肉眼で見える世界こそ霊の影の世界であり、この世は神の霊の力によって具現されている影の世界だとも言い得ると思う。初代大先生の「我が信心のあゆみ」のなかに、肉眼で見える世界を現像界、霊の世界を実体界と申されておりますが、まことに私もそう思う。家内がお国替えの後、私が家内を毎日拝むくせが自然とついたのは何を意味するか?教会に自然と参拝するのは何を意味するのか? そこに神や霊の世界との見えぬ関わりを思う。皆様も見えぬ神や霊を大切に、関わりを深められる幸せをお祈りいたします。

手記No 0119玉水200年に向かっての勢祈念昔青年会員男性 83歳 掲載号 2008/7/1 No.9

玉水200年に向かって月に一度でも信徒会の勢祈念をさせて頂けたらと思い、その日を19日と決めお結界に願い出、お許しを得て委員長会議に提案。当日出席の全委員長の賛同を得て実施される事に決まりました。19日は二代大先生のご命日。二代大先生は氏子の難儀を助けるため深夜よりの御祈念、早朝よりのお結界お取次等々、寝食を忘れ命がけでお祈り下さり、氏子一同おおみかげをこうむって参りました。そして日々に大変なご苦労をおかけした事は恐れ多く勿体ないことであります。この大先生のお祈り、お徳を頂いての勢祈念が最高と思ったからですが、19日のご祈念は、二代大先生20年祭で打ち切られ、200年300年に継ぐ事が出来ず、私の祈り・思いの至らなかったことを反省しています。

手記No 0143浦島太郎男性 67歳 掲載号 2008/9/1 No.10

玉水200年に向かってスタートを切った信徒会の勢祈念が二代大先生の月命日19日から三代大先生の月命日13日に変更になったことを提案者として残念に想い、祈りの足らなかったこと、思いの至らなかったことを反省しておられます。振り返れば19日の勢祈念には二代大先生をお慕いする人の参拝で少し遅くお参りをすると座る場所もないくらい大勢のお参りでした。しかし13日に変わったからと言ってもその人数は少なくなることはなく、むしろ増えているぐらいではないでしょうか?昔青年会員様は二代大先生にお世話になったことを強調されておられますが、私の場合は二代大先生にもお世話になりましたが、三代大先生の方がより印象強く心に残っております。また毎月1日の月例祭はそれ以上だとも思います。いまや初代大先生に直接お取次頂かれた方は何人いらっしゃるでしょうか? にもかかわらずその神髄は受け継がれております。玉水200年に向けて勢を揃えて信心を進める上で、そこに至るまでいくつもの節(強化期間)があり、その対応が求められます。それが二代大先生の20年祭であり、三代大先生の10年祭であると思います。今までなかった信徒会の勢祈念を大切に推し進め、すばらしい玉水200年に向け邁進したいですネ!!

手記No 0118神様にお礼を言える信心しだれ桜女性 56歳 掲載号 2008/7/1 No.9

玉水教会は、初代大先生から人が助かることを祈り続けて下さり、歴代大先生のお蔭で今日があります。今現在、悩み苦しむ人々が一生懸命に生きておられます。金光教は天地の神様に歴代大先生がお取次下さり、その並々ならぬご祈念によって私達は助けられています。人は何事も頑張ったらできると思っておりますが、それは恵まれてこそ出来ているので、先ず感謝することが沢山あるはずなんです。それが目前の苦しみの為に気付かずにおりますが、そのお礼を申すことが大切だと思うのです。苦しみはお蔭の受け始めであり、まことのお蔭を信じてお参りして下さい。私は金光教のお蔭で人生に夢を持てます。人々が夢や希望を持って楽しく生きられることが、神様の願っておられることだと思います。

手記No 0117ご神縁頂いております女性 60歳 掲載号 2008/7/1 No.9

私は、今は亡き母に連れられて、玉水教会にお参りさせて頂くようになって50年も過ぎていることに、改めて気付きました。母の口癖は、「金光様を放したらアカン」でした。何気ない会話でも、最後は必ず、金光様のお蔭話になるのです。金光様を信心していると、1+1=2ではない。若い頃はその話が嫌で、又かと思っていましたが、今は素直に受け入れる事が出来ます。母は私に神徳を遺してくれました。2年前に人間ドックで肺ガンを見つけてくれた病院は、母がお世話になったところで、手術を受けた所は、父がお世話になった病院でした。これは偶然ではないと思います。父が、母が、金光様からのメッセージを伝えてくれたのだと思います。そして二人の娘達も、遠方に嫁いでおりますが、帰ったら必ず、お教会でお取次を頂きます。母は自分がこんなに幸せなのは、金光様のお蔭!だと言っておりましたが、今私が、そう感じています。抽象的ですが、今思うと、あれもお蔭!これもお蔭!ということが一杯あります。こうして文章に書いていると改めて「ありがたいなぁ」と実感し

手記No 104思いでの初会さざれ石女性 88歳 掲載号 2008/3/9 No.7

とうとう私にもお教会から米寿御祝のご丁重な招待状が届きました。遠い先のことだと思っておりましたが、本当に感激ひとしおでございました。昔、母が初代大先生に、相続人のお願いを致しましたところ、男の子は授かるが、この子(私)の命はないよとおっしゃったそうです。後から生まれてきたかも知れない姉弟の命を貰って今まで健康で生かして頂いたことは、本当に有り難く思っております。初会には母の写真と共にお参りさせて頂きました。お心づくしの記念品やお写真と共に、平成20年1月3日は忘れることの出来ない生涯の佳き日になりましたことを、改めて感謝申し上げます。有り難うございます。

手記No 103就職出来た喜び聖徳太子男性 72歳 掲載号 2008/3/9 No.7

健康にも恵まれ仕事をしたいという思いは旺盛です。ボケ防止の為にも働くことは良いというのが私の持論です。70歳の5月末迄駐車場の管理員をしていました。持ち主が駐車場を売却したので、翌月から就職活動を多方面にわたりしましたが、年齢制限でアウト。困り果てた時、神様にお願いしました。帰路自然に以前勤めていた会社へと足が向かっていました。常務と何気ない世間話の中で仕事の話にも及び、9月3日から勤務して下さいと即決でした。何気ない会話の中からお陰を頂き、感謝の気持ちを忘れず頑張っております。

手記No 102言いにくい事を言いますが!匿名     掲載号 2008/3/9 No.7

えらい言いにくいことを言うて済みませんが、どなたか教えて頂けませんか。ここで信心させてもらって六年目ですが、お願いしていることがなかなか思うようになりません。それどころかかえってなお悪くなったように思います。それでこれはよっぽど私のどこかがわるいのやろうかと考えても、どこがどう悪いかわりません。神さまはいらっしゃるとは思いますが、これだけお願いして聞いていただけないのなら、ひょっとしてこのまま一生終わるのと違うのやろかと思うことがあり、よけいに悩んでいます。こんな時、どうしたらよいのか、どなたか教えてくださいませんか。恥ずかしいので誰にも聞けません。

手記No 124手記番号0102への返信八重桜女性 88歳 掲載号 2008/7/1 No.9

投稿を読ませて頂きますと、頭から「6年も信心させて頂いて」と言われるが、そもそもそれが不足ではないですか? 神様を信心させて頂いたら必ず見返りに銀行でお金を引き出す如くお蔭がくるのでしょうか。初代大先生の「我が信心のあゆみ」を読ませて頂きましても、長い年月のご苦労の末やっと思うがままのお蔭を頂かれたのです。ましてや罪深い私共、信心をさせて頂いている者には大難は小難へのお振り替えと思わせて頂き、段々信心が知らぬ間に向上していき、何年も経ってあれもお蔭これもお蔭と思わせて頂けるようになるのと違いますか。私はそのように思わせて頂き、今も毎日の稽古をしています。

手記No 107手記番号0102への返信デァ・ベア男性 61歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

人間は一人で生きていけない非力なもので、自分以外の人や物の世話になって生きています。ですから、相手の立場に立って自分の行いを考えてみることが大切です。ところが、自分の欠点は分りにくいため、自ら改まることは難しいという問題があります。このため、信心の4つの目的を実生活の中で意識して落としこむことや、こと細かなお届け、お話を聴く、本を読む、お教会でお役にたつ等ということを通して、神様に心を向け、神様の思いに合わせる訓練をすることが必要です。こうしたことを通して、不完全な自分にもかかわらず、これまで生かされている有り難さに気付かせて頂きやすい状況に心をおくことがポイントだと思います。ただし、悩みは神様にお渡ししましょう。こうした努力が「まことの信心、まことのおかげ」に繋がるのではないでしょうか。紙面でお返事することは私もなんとか出来ますが、実際はなかなか骨が折れますし根気がいることです。二代大先生二十年祭を機に、みんなで焦らず頑張りましょう。私も頑張ります

手記No 108手記番号0102への返信八重桜女性 87歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

教えに、難はみかげというではないか、と教えて下さっております。難があった時、すぐにその様に思わせて頂けるでしょうか? その事についてお礼を申せる人は本当に偉い人だと思います。私など何度もつらい目に会ったりしましても、大難を小難へのお振替と即座にお礼を申せたこともなく、時間がたってのお礼とお願いです。我ながら何年お参りさせて頂いているのと言いたくなります。信心を自分ではさせて頂いているつもりでも、中身はペケばかりで丸はない様です。 遅まきながら今後一生懸命神様に心を向けて、毎日を間違いの無いように信心生活をさせて頂きたいと思っております。

手記No 109手記番号0102への返信八重桜女性 87歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

世の中、何事によらず、事をするうえにコツということがあります。でも信心をさせて頂いて、お陰を神様から頂けるのにコツというものがあるのでしょうか?教会への参拝の道中又は信徒会の集まりの時、あの人は上手にお陰を頂かれる、とか、またお陰をおとされたという話を耳にいたします。仮にその様な事例があったといたしましても、何の努力もなしでその様に神様のお陰を頂けるものなのでしょうか。私はお陰を頂けるコツなんて、どこの神様にお参りしてもコツだけでお陰など頂けるものではないとおもいます。いつも教えて頂いている、一心に願ってお陰は我が心にあり。これ以外にお陰を頂けるものはないのとちがうかな思わせられます。一心こそ神様への心の思いのお届けのコツ。

手記No 110手記番号0102への返信まだお陰なし信者男性 68歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

同じような悩みのお人さんがおられるのやなあと、ちょっと気が楽になりました。私の一番の悩みは自分のどこが悪くて神さまからおかげがもらえないのかが、もうひとつよくわからんことです。悪いところを探せばきりがおません。とてもこれでええと思えることなんか絶対ないと思います。それでお詫びを申すんですが、神さまはなんにもおっしゃらんので結局なんにもわかりません。ただ苦しい目や痛い目にあっているなあというだけが確かです。こんな頼りにならんものはないのですが、しかし辛抱をしているうちに今まで気がつかんかったことが少し見えてくることもありました。それは自分の情けない格好です。もうちょっとましやと思うてたのが、この程度やったのかとがっかりしました。その分えらそうにしてた頭がちょっとだけ低くなったかもしれません。それにこのような人さんのお話を聞くようにもなりました。これでもうすこし神さまがおかげをくれはったらなあと正直なところ思います。

手記No 111手記番号0102への返信同感している男男性 58歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

一読して身に沁みる手記ですね。誰もが出会ったことのある体験ではないでしょうか。正直なところ、私などにとてもお答えできるような事ではないです。その代わりこれまで頂いた神話集15・16集を読んで、そこからの引用文の一部と、その頁を付けてお返事にさせていただきます。「神の願いは、目先ではなく末々までの助かりである」……15集、131頁。「すべては神のお計らい。願い通し、委ね通すこと」……15集、142頁。「教会への慣れが、願いの真剣さを失わせる」……15集、168頁。「自分の姿が見え始めたら、お詫びができ、お願いも変わる」……15集、220頁。「願いも届かず、さらに災難が重なる時こそ、信心を大きくする好機」……16集、145頁。「5年、10年くらいの信心では、神のご真意がわからぬが、願い通せよ」……16集、197頁。「まことの願いなら、最後まで願いきれ」……16集、204頁。

手記No 112手記番号0102への返信わたるちゃん男性 62歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

これ程信心しているのに、何でおかげも無く、いまわしいことが起こってくるのか……。誰しも信心途上で味わうことだと思う。あなたのどこが悪いのかではありません、あなたは立派な神の氏子であります。例えば、経験のない大工さんが最初からいい家を建てられない、しかし長い年月、親方の技を見習っている中に、ああこうするんやなと、分かってくるようなもので、長く信心を積んでいる中に、だんだん分かってくるものです。私も神や仏のことで少年の頃は悩んだことがありました。しかし悩める人はある意味では「賢いから悩む」とも思います。神さまから与えられたすばらしい貴方という存在、大切にして下さい。そのうち素晴らしい人生が待っています。

手記No 113手記番号0102への返信そよ風女性 84歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

元々日本は神国、神は親、私達は内の子(氏子)です。神は人格はなく天地万物をまる生かしで、宇宙を司どり恵みを与えて、全てを生かすお働きをされ、御礼・お詫び・お願いと導いて下さってます。叶う願いとは、成就すると皆が共に喜べるならばOK、与えられても自分達だけが助かり、他の人々が迷惑や悲しみ難儀の伴う願いは成就なし。神の願いが分かれば、日々全てが人の幸せの為の恵みであると分かるはず。3年3年又3年、10年の信心が続いたら、吾乍らに我が心を喜んで祀れとは、我が心に神の分霊で宿って下さっているのが分かるからでしょう。貴方は第二のステップが済み、10年を目指しての旅、何事も御礼の申せる面より見つめて稽古すれば、末のため良き様お導き下さっているのが分かるはず。難はお徳に変わる。難と徳は正比例。

手記No 114手記番号0102への返信私もお仲間女性 64歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

拝見して一目でお仲間がいらっしゃったと思いました。私もこれまで長い間、どれだけ足し算をしたり引き算をしたりして、なんであれだけご祈念したのに、これだけお献備させてもらったのに、この神様は少しもお陰をくださらないのか。このままでは無駄ばかりしていることにならないかと、悩みました。それが最近ちょっと考えがかわってきたのです。「ふれあいの広場」を読まして頂いて、はじめて他人様の正直なお悩みを聞かせて頂いて、そこに今まで見えなかった丸っきりの自分の姿を見せて頂いたのです。そして不足や疑いばかりでどれほどこれまでお陰を下さっていたか、さっぱり気が付いていませんでした。偉そうなことを言うようで恥ずかしかったのですが、思い切って書かせてもらいました。

手記No 101「和賀心」デヤ・ベア男性 60歳 掲載号 2008/3/9 No.7

年末、教祖奥城を参拝する機会を得たが、何度お祈りをしても納得できない。その後ふと、三霊神祭案内書に記載してあった4代金光様の「生きる力の贈りもの」の抜粋、「・・・お願いはお礼をもとに・・・」は、私でも空で言える「天地書附」にある「和賀心」であるのだと、心の襞に飛び込んできた。理屈でなく心で受けとめた。奥城で自分が納得できなかったのは「和賀心」の欠如が原因と思う。そんな気持ちでお礼をお祈りしていると、何度言っても気付かない私に対する教祖や歴代大先生のご苦労が申し訳なく、泣けてくる。自分中心主義のこの社会と「穏やかですべてに礼をいう心」を生めるのは、祈りとお届け以外にはないと思う。自分では何もできないことを胆に命じよう。

手記No 100人生の終わりに一番大事な事そよ風女性 84歳 掲載号 2008/3/9 No.7

高女卒業の時、「金金様」(コンコン)にとの誘いに、「お稲荷さん信心する気ありません」と「そうですか」で立ち消え。昭和16年父死去。養育費での生活が打ち切りとなり、必要に迫られ役所勤務。短い昼食後の散歩時に「ここは何屋?」。看板読めず、ある日、人の出入りの多さと柏手の音で「ハハン神様か」。幾つ叩く、好きなだけ叩いて祈る。お火鉢気になり乍ら近寄れず、勇気出してやっと傍へ。「人が死ぬときは、その家にとって大きな節目」。今迄お世話になった事を知らず、重ねていた御無礼のお詫び、御霊様の安心と後々の立行きをすぐに祈りお届けなさいと。初めて聴かされた話で人生の終わりの大事なことを教えられ、『なんと行き届いた教え!! 本当に人を助ける神様やな』と得心。以後のお手引きなしの勝手信心も、大先生の祈りに引き寄せられての入信でした。

手記No 99平凡の中に神を思うわたるちゃん男性 61歳 掲載号 2008/3/9 No.7

奇をてらうと言うことがある。人は何か奇跡的な事とか変わったことに関心を引かれ心奪われることが多い。たしか禅関係の本で、あまり奇跡とか心霊的な奇術なようなものにこだわるべきでないと言うような事を読んだことがある。私は過去に宴会を予定した時、神前で「次回の宴会は何名でしょうか」と伺ったところ、神様より25名とお知らせがあったような気がして、先方の宴席へはその数の食事を申し込み(この時点では申し込み15名)そのとおりになった事がありました。しかし人が奇跡とか神秘とかをほめるのは(全部ではないが)おおむねあらぬ欲望から出ている事が多いのではないかと思う。平凡な日常生活の中にこそ。神の恩を思い感謝して生きることこそ奇跡と思う。

手記No 98年が明ければ米寿八重桜女性 87歳 掲載号 2008/3/9 No.7

これまで毎年お教会での新年の行事で、米寿の御祝を共に慶ばせて頂き、それは人様の事のように思っておりました。先日年賀の行事通知を頂きまして、毎日無事に今日まで生きさせて頂き、お礼の思いで一杯です。それは毎日信者の為に祈り続けて下さいました初代から現親先生のお祈り無くしては、現在の幸せは無かったと感謝しております。大難を小難に、小難を無難にお振り替え下され、今日こうして両親よりも妹よりも長生きさせて頂き、また今日の生きにくい世を何事もなく生かさせて頂き、ここに米寿を迎えさせて頂きましたこと、お礼申し上げます。よくも不足の多い私如き者をお許し下さいまして、心からお礼申しあげます。

手記No 97自分の役割を果たすことデァ・ベア男性 60歳 掲載号 2008/3/9 No.7

遠縁の年老いた人から、ご主人の訃報を受けた。話を聞くと、自宅で静養中体調が急変。掛かりつけの病院に断られ、やむなく馴染みのない病院に入院。ところが、病室も都合よい所にしてもらえるなど色々配慮を受けたあと、3ヶ月後のある日の早朝、自分や遠方からたまたま見舞いに来ていた娘さんに看取られ、静かに亡くなったとのこと。臨終に立ち会えなかった看護責任者が詫びられたことや、娘さんから「お母さん、色々経験してきてね」との労いの言葉を受け、ありがたいとも付け加えられた。私はそれらの話を聴いて、本当に嬉しかった。なぜならその家族のことを、ささやかではあるが祈らせてもらっていたし、私自身この話に感動したからである。今年の年初、私は「これからは恩返しを心がける」と決心したが、自分自身思い悩むことも多々ある。しかし今回、遠縁の人の話を通じて、「自分の役割を果たす」ことの大切さを改めて気づかされた。

手記No 96母の葬儀にそよ風女性 84歳 掲載号 2008/3/9 No.7

母の葬儀に真っ白な木の香り高き霊柩車。「日本一」、「日本一」と参列者ひそひそ話。どんな徳人か会いたかったと運転手。何でこんな車をと疑問を持った。業者が隣人であるからだろうか。しかしそうでもなかったようだ。偶然の徳人扱い、恐縮の極み。葬儀の夜、貴女のお陰であんなに立派な葬儀をと、生前信心に縁無き母が夢の中へ。母は・・小町、私は不細工。「せめて心だけは清らかに」と幼少よりの願い。日々誰を恨むこともなく、卑下する事もなく来れたのも、一重に歴代大先生のお導き、お取り次ぎあればこそ。ご神縁頂ける幸せ。お礼信心のお導きを!

手記No 95初代大先生の教え八重桜女性 87歳 掲載号 2008/3/9 No.7

初代大先生は誰にでも解り良く沢山の教えをお残し下さいました。その一つに「自分のしていることが間違いないと思う心が、間違いである」と教えて下さっています。ずばりそのもの。人間誰しもうぬぼれや思い上がりを持っております。それが自身のものか知れませんが、今改めて初代大先生のみ教えを頂く時、反省の多い事ばかりです。これらの教えの一つ一つを繰り返し繰り返し心に刻ませて頂いて、今後少しでも、人を悪く思うことも自分自身落ち込むこともない様、お参りさせていただいているだけのお陰を頂けるよう切に願っております。地位も名誉もいらないけれど、さすが玉水の信者さんだけの事がある、と思われたいと望んでいます。

手記No 94入信のきっかけ針千本女性 58歳 掲載号 2008/3/9 No.7

私は祖母、両親から金光教の信心を継承いたしましたので、「入信のきっかけ」というものがございません。しかしそうでない方々は「一体、どのようなきっかけで金光教にご縁を頂かれたのかなあ」とよく思うのです。是非、この広場でそのドラマを聞かせて頂けたらと思います。

手記No 115手記番号094への返信エリ・コウ女性 55歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

私の入信のきっかけは、親しくおつき合い頂いているある御夫妻のお姿を見せて頂いてのことでした。ご夫妻とも非常によくできた方で、お互いの存在を認め合い助け合って物事を進められておられ、私共も信頼し尊敬をしておつき合いをして頂いております。ある時さりげなくご主人が言われた一言でした。この人(奥様)の信心も素晴らしいですよ!! 私はこの一言が心に残りました。こんな時、私共家族に悩みがあり、神様に助けを求めていたところでした。この奥様にお願いし、連れて行ってもらったのが金光教であり、玉水教会でした。教会の門を初めてくぐった時、絶対ここで助けてもらえると思い、今もその心にいただいた強い気持ちを忘れず、信徒会にも入れて頂き、日々足信心をさせて頂いております。

手記No 116手記番号094への返信わたるちゃん男性 61歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

友人もなく孤独で寂しい少年の頃、私は一水道工事人として現場で働いていたのです。玉水教会の前を通って勤めていた会社へ通っていた頃を思い出しました。そんな孤独な私が大阪ふれあい会を発足させ、多くの会員さんに囲まれ頑張っております。今思えばその頃から金光様と御縁があったのかと思いを偲ばせております。ふと立ち寄った古書店で偶然見つけた初代大先生の「我が信心のあゆみ」は感動的でした。孤独で友人もなく、仕事にも今ひとつ熱がはいらなかった時でした。どんなに勇気付けられたことでしょうか。仕事にもハナを咲かせピリオドを付け、そして今ではサークル活動に活躍しております。一配管工のあの時の私が……孤独な人に手を差し伸べられる神様、只々感謝あるのみです。

手記No 93お国参りについて針千本女性 58歳 掲載号 2008/3/9 No.7

 お国参りに思うのですが、「お国参りはお礼参りで、お願いはしないものだ」と教えられたことがあるが、本当なのでしょうか? 私はお願い事がたくさんありますので、お礼よりもついお願いの方に力が入ってしまいます。皆様はどうなさっておられるのでしょうか?

手記No 105手記No.0093への返信デァ・ベア男性 61歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

天地書附にあります「おかげは和賀心にあり」は、「おかげは穏やかですべてに礼をいう心にあり」だと思います。そうすると、ご本部だけでなくどちらの教会においてもまずお礼だと思います。毎日の生活にかかわるひとつひとつがお礼の対象であって、「お礼を土台にしたお願いでなければ、おかげもちがう」と言われるのは、このことではないでしょうか。「そうはいっても……」とのご意見、解りますが、ご自身がこれまでに遭遇された問題を乗り越えてこられたからこそ、現在の自分があると考えますと、お願いよりもお礼がし易くなるのではないでしょうか。もちろん、ご本部でもそうですね。一度お試し頂ければ幸いです。次にお願いですが、私はご本部でお願いすることは決して間違いではないと思います。ご本部に近い方は毎日朝晩ご本部でお祈りし、お願いされているかもしれません。しかし現実に私達は、毎日岡山まで日帰りすることはできません。だから、国内外あちらこちらにお教会があり、そこでお祈り・お取次ぎをいただく、ありがたい場が我々に与えられていると考えれば、疑問の解消に役立つのではないでしょうか?

手記No 106手記No.0093への返信そよ風女性 84歳 掲載号 2008/5/1 No.8.

親様には喜びの報告を。願い事は不足のことを言うので心配をかける故、お国参りは喜びのお土産を持って御礼参拝が大切と思う。玉水教会があってこその私達だから、何としても親先生、彌壽善先生のお供をさせて頂いてのお国参り。御縁頂いた“大きな喜び”を心に、皆勤12年を頂く中で杖ナシでは歩けなくタクシーでお教会へ、そして蟻の歩み乍ら杖と共にお結界へ。体の無茶使いをお詫び申しつつ、2、3日は杖無しで、蟻の如く一歩二歩と同じ状態ながらご本部参拝へ。友に「御広前からだけ」と言い乍らも、心は何としても奥城にも、三代様、四代様にもと向かう。矢張りお詫びし乍ら無事参拝させて頂ける。主人の国替え後はその不参加の分もと、3年間団体参拝の他に毎月お届けの上参拝。「いつもはお供で」と思った途端、二代大先生の笑顔が目に浮かぶ、立ち止まると左右へ二度三度と。「お届けあればこそ」の御礼参拝でなければ、歴代大先生の教えの忘れ物では……?

手記No 1こちらには無関係のものゴルファー女性 30歳 掲載号 2007/1/3 No.1

こちらには無関係のものですが、どうすればよいのかがわからず、教えていただきたくまいりました。母(60才)が大腸ガンの手術を受けたのですが、リンパ腺と子宮に転位していて、医師から「あと半年の命だが、摘出するか、しないか決めてくれ」と言われました。父(65才)は「して下さい」と申しましたが、その父も今年の三月に胃ガンで全摘手術を受けたばかりです。 これから病後の父と、その世話に明け暮れてきた母にゆっくりしてもらい、親孝行をしたいと思っていたやさきだったので、目の前が真っ暗です。どうすればよいのでしょうか。どうか教えて下さい。私は三十才になるプロゴルファーです。

手記No 2手記No.0001への返信浦島太郎男性 65歳 掲載号 2007/1/3 No.1

女子プロゴルファー様へこの世に一人しかいらっしゃらないお父様、お母様を思う心、美しく拝見いたしました。私も会社勤めを卒業し、これから社会に何か恩返しをと思っていた4年前突然肝臓ガンの疑いありとの診断を受けました。何の自覚症状もない私は「何を言うかしっかり診ろ」と反論しましたが、大病院へ行くと間違いないとのこと。私も目の前が真っ暗になりました。今まで医者に殆どかかった事がなく元気だった私は、「ガン=死」と思っていたのです。しかし私には年老いた母がいる。遠く異国の地で出産・育児と頑張っている長女にも話せない。しかし自分には病気を治す何の手だてもない。そんなとき思い出されたのが「祈れ薬れ」という教えでした。つまり神様に病気全快を願い、医者の言う事を信ずるのです。それしかないと確信しました。9時間にわたる大手術。幸いにも転移していなかったようだが又でるよと言われ、今年すでに三度の手当を受けています。その度に「祈れ薬れ」の願いです。

手記No 19手記No.0001への返信Y.K.男性 77歳 掲載号 2007/4/20 No.2

没落したお店を二代大先生にお取り次ぎ頂き、独立開業のおかげを頂きました。苦労を重ねてきた母にその姿を見て頂くおかげを頂いたことは誠にありがたいことです。もし母におかげを頂いた現実を見て頂け無かったら一生悔いが残ったことと思います。そこを二代大先生にご心配を頂きおかげを頂きました。そのご祈念のご様子は別の機会に申し上げます。 独立開業から4ヶ月ようやく落ち着いて、年が明けて今年は親孝行をするぞと思っておりました矢先、母のぐあいが悪く診察の結果胃ガンで数ヶ月の命と告げられ、あなたの思いと同じく大変なショックでしたが、悔いの残らないよう、お広前にてお通夜(私の場合午前二時まで)のご祈念を一ヶ月させて頂きました。独立開業を見て頂いたお礼と延命のお願いをさせて頂きました。お墓は木の墓標でしたが、母の終わりの住家としては申し訳ないと石碑を建立、一年祭と合わせて建碑式をさせて頂きましたが、当時で25万、開業間もなく余裕はありませんでしたが、親へ尽くす思いを神様は必ずお聞き下さいます。親孝行のあり方はあなたがお決めになることです。悔いの残らぬようおかげを頂いて下さい。お母さんはあなたがトーナメントプロとしての活躍を期待し祈っておられます。がんばれ

手記No 3手記No.0002への返信ゴルファー女性 30歳 掲載号 2007/1/3 No.1

突然の取り乱したメールに、優しくご返信いただき、有難うございました。 私には初めての衝撃で、おろおろするばかりでしたが、少し落ち着いてきました。 決して私どもだけの出来事ではないのですね。ただ知らなかっただけで、いろいろな苦難に黙って耐えていらっしゃる方々がおられるのですね。 いま目の前に居てくれる父と母に、一生懸命親孝行をいたします。 有難うございました。心からお礼申し上げます。 どうか匿名のご無礼をお許しください。

手記No 4歩ける喜び薩摩隼人男性 82歳 掲載号 2007/1/3 No.1

それは三年前の十一月の朝だった。電話が鳴ったので受話器を取ろうとしたが、手が動かないのだ。体温が次第に下がり、意識が薄れる。すぐに救急車で運ばれ、緊急入院したらしいが、もう意識がなかった。硬膜下血腫で、危なかったそうだ。手術後十日目にまた出血して再手術、翌年には全頭切開する三度目の大手術を受け、その後は一人で歩けなくなった。落ち込んでいたら、担当医の一人だった吉村先生が「佐藤さん、今晩きてあげるから、歩く練習をしましょう」と思いがけなく言ってくださり、それから毎晩私の病室で手を取って特別訓練をしてくださった。一日のお仕事の疲れを押しての先生の本当に温かいお気持ち。お陰でまた歩けるようになった幸せ。いくらお礼を申しあげても足りない。

手記No 5どなたか教えて下さい!鈍行列車     掲載号 2007/1/3 No.1

いっぺん誰かに聞いてみたいとずっと前から思っていたのですが、お広前の正面に長い間かけてあった「まことの信心 まことのおかげ」の額のことですが、まことの信心と、そうでない信心と、どこがどう違うのか、わかりやすく教えていただけませんか! お陰も、まことのお陰とそうでないのと、どこでわかりますか! ええ年して今頃何ゆうてるねんと笑われそうで、名前は堪忍してください。すみませんがよろしくお願いします。

手記No 20手記No.0005への返信普通の信者男性 62歳 掲載号 2007/4/20 No.2

信心には、頭の信心と心の信心があります。頭の信心で一番よく動くのは口で、心の信心は身も心も働かせます。頭の信心はよく不足と文句を言い、心の信心はお詫びとお礼を言います。頭の信心は願い通りのおかげを求め、心の信心は何が本当のおかげかを学びます。頭の信心は自分の都合が悪いと知らんふりをしますが、心の信心はありのままの自分を神様に向けます。頭の信心は他人を容赦なく批判しますが、心の信心は他人と自分を区別せずに詫び祈ります。頭が一番頼りにしているのは自分自身で、その頭が頼りにならないことをイヤというほど思い知らされてから、やっとまことの信心が始まるようです。

手記No 43手記No.0020への返信鈍行列車   60歳 掲載号 2007/6/9 No.3

早速にご返信をいただいて、有り難うございました。だいぶん耳が痛うなりました。ついでにと言うとえらい恐れ多いことですが、もう一つだけご教授をお頼みします。頭と心を字を見てたらその違いはよう分かりますが、いざそれが自分のこととなったら、どこがどう違うのか、どうやったら頭から心にいけるんか、さっぱりわかりません。いちいちなんでもよう聞きよる奴やとしかられそうですが、この「鈍行列車」にもようわかるようにぜひお願い申します。

手記No 63手記No.0043への返信普通の信者男性 62歳 掲載号 2007/9/1 No.4

「簡単にわかりやすく教えてくれ」とおっしゃるのが「頭の信心」で、毎日の生活の中で信仰の実体験を自分自身で一つ一つ積み重ねながら反省していくのが「心の信心」だと思います。それをなんとか手っ取り早く簡単にというのは、残念ながら無理だと思います。「まことの信心とは?」と尋ねたら、十人が十通りの答えをするのと違いますか。ですから自分の生活の場で自分の信心の苗を植え、信話集を繰り返し読ませていただき、「広場」での色々な方のお話にも耳を傾けて、そこから得たものを肥料にし、寒暑風雪に耐えて日々大切に育てれば、やがて「私の信心」と言える本当の実が成るのでしょう。少しでも「まことの信心」に近づけるよう、これからもご一緒にあゆんで参りましょう。

手記No 21手記No.0005への返信匿 名女性 68歳 掲載号 2007/4/20 No.2

信心を始めるきっかけは、初めは大抵何か願いがあるからだと思います。もしその願いどうりになったら、おかげ頂いたと思うし、そうでないと、信心がまだ足らんと思うか、この神さまはあかんと見切る人もあると思います。いずれにしてもここでは、自分の願いが一番大事で、それ以外のことが本人さんにはまだ見えていないのと違いますか。それが思いがけない病気や事故災難に出会ったら、その願いよりはこれまで毎日元気で無事に暮らせていたことの方がどれほど有り難いかと私は気づかされました。そしたらまずそのお礼を申し上げずにはおれず、知らず知らずのこれまでの自分勝手な思いのお詫びも申さずにはおれませんでした。心からお詫びとお礼を申し上げてそれからお願い申し上げるようになったので、やっとまことの信心のお道へ入らせていただいたのやなあと思います。

手記No 6二代大先生の思い出二宮金次郎男性 66歳 掲載号 2007/1/3 No.1

30年余りも前のこと、父が突然たおれて寝たきりになった。それで従業員30人ばかりの会社を引き継いで5年後、自分の不注意から夜逃げをしなければならないほど借金を背負うことになり、生まれて初めて自分でお結界に並んだ。正座したままの長い順番待ちも足のしびれもよく覚えていない。その年の決算書は経理担当者の手書きを古い湿式コピー器でコピーしたもので大変読みにくいものだった。二代大先生は私でも見づらかったその決算書を虫眼鏡を使って横目で一枚一枚丁寧に最後まで御覧になりご祈念をしてくださった。その間約20分、書生の広田先生が大先生の後ろで両手をついて「お時間でございます!お早くお入り願います!」と大声で繰り返しておられ、私の後にまだ大勢の信者さんが並んでおられ気が気ではなく汗びっしょりになっていた。後になって大先生はその日も殆どお休みになっておられなかったとの事、眼が緑内障でかなりご不自由であった事を知った。涙がいつまでもとまらなかった。

手記No 10匿名の方へアリストテレス男性 65歳 掲載号 2007/1/3 No.1

お話しを読ませて頂き、私の信心始めの頃を思い出しました。学生だった私は好い成績を取りたい一心で試験前にだけお結界へお願いに行く、ただそれだけの事でした。卒業する頃、私の青年会入会を大先生にお願い申し上げたから出席するようにと父から言われました。五、六回集会にも出席しましたが、とても私には馴染める様なものではありませんでした。夜の集会で仕事疲れと空腹、堅い信心の話ばかりでたちまち睡魔に襲われるのが常で、もうこんな集会はこりごり、お願いして入れてもらったがお断りをしなければと、長蛇の列に並びました。あと五人か六人という番になった時、大先生が大変怖い顔で私を見られた様な気がして、そのまま帰ってしまいました。そんな事が何回かありましたが、とうとう退会もせず、仲間にも引っ張られて青年会、道輝会へと歩んできました。今では退会どころか明日、あさってにつながることを考えています。

手記No 7二代大先生の思い出日本丸男性 71歳 掲載号 2007/1/3 No.1

若いころは自分の力を過信して、万一難儀なことに出くわしても神仏に頼ることなく、自分の力で解決しようと意気がっていましたが、それも年を重ねて結婚もし子供も出来て、進学、いじめ、就職、結婚と難しい問題が続くと、自分の力だけでは到底解決出来ないことに気付き、家内やその両親を介して、その都度、二代大先生のお教えを頂いて乗り越えさせて頂きました。優しくにこやかなお顔の時、また首を傾けられ厳しいお顔の時と、私たちの心配事に優しく解り易くお教え頂けた様に思います。他では得られないだろう大きな喜びと安心感、そして勇気を私たちに与えて頂きました。

手記No 810月の御本部参拝北斗七星男性 59歳 掲載号 2007/1/3 No.1

10月の御本部参拝で嬉しかったことが二つあります。「生神金光大神大祭」の式典が本部広前祭場で執りおこなわれました。嬉しかった一つは、このお祭りを頂きながら非常に一体感を感じたことです。こんな一体感を感じたことは久しぶりです。エコードルチェの皆さんも参加された合唱が厳かに開式を感じさせ、祭場に参拝された人々すべてを祭典のなかに溶け込ませ、神前拝詞、取次唱詞奉唱が祭場に木魂しました。ありがたき祭詞を教主金光様が奉上され、最後に「親神のよざしのままに」を斉唱。流れるような感謝と喜びの祭典であったと思います。もう一つは、御本部参拝の出発時のご祈念で、座席に座ったままご祈念してもよくなったことです。小さなことですが、年配の方が多くなった昨今、連結の多い出発時は大きな揺れが多く、危ないと感じていましたので、ありがたいことです。

手記No 9あゆみのおかげ八重桜女性 86歳 掲載号 2007/1/3 No.1

私が6歳頃、両親が入信させていただいたのはまだ前の古い教会の時でした。以来歴代大先生のご祈念とその目に見えないお陰をたくさん頂いてきました。その中でこれだけは是非お聞かせしたいお話しがあります。それは親の代からの信者さんで10年以上も神様をほっておかれた方がありました。ある時信徒会の活動でその方のお宅へも毎月新聞とあゆみを配らせていただくことにしました。二年が過ぎたある日、その方が来られ「今日から主人がお参りさせていただきますので、新聞もあゆみも自分で頂いて来ます」と言われ、ご自身も信徒会に入会されました。ただこれだけの話ですが、あゆみにどれほどご祈念をこめていただいたかと本当に有り難く感動いたしました。親先生、諸先生方のご祈念にお礼申しあげます。

手記No 11結界取次北斗七星男性 59歳 掲載号 2007/1/3 No.1

結界取次ぎは金光教では、大切な手続きの一つです。しかし若い方や入信されて間もない方はお結界で先生にすらすらお届けできますか! 出来る方は、大変な局面にあり一心に助かりたいと思っておられる方でしょう。多くの方は、私もそうですが、取次ぎして頂きたいことの一部しか話す事が出来ません。又話すことが周囲に聞こえないかと気にもなります。最近は、「取次ぎ頂きたい事」を紙に書いていきます。こうしますと、何をどのように取次ぎ頂きたいか考えることも整理も家で出来ます。その中で特に強くお願いしたいことやお礼を言う事のみ、話せば済みます。話すのが苦手という方は、こんな工夫もされてはいかがでしょう。急な海外出張時には、電子メールやホームページの書き込みで取次ぎを願い、帰国後に改めてお結界へいかれてはどうですか。「今月今日」P52 お結界取次ぎを見ながら書きました。いい本です。

手記No 23手記No.0011への返信生駒山のおばあ女性 70歳 掲載号 2007/4/20 No.2

お届けをする前、心中で神様に「どうぞ、ちゃんとお届け出来ます様に」と祈り、その内容を全部お願いします。何事も自分ですると思わず、どうどお付き添い下さいとご祈念しつつ並びます。お届けが終われば、さがって来て、「これこれお届け致しました。どうぞおかげにしてください」と、ご祈念してそこで初めてお届けが終わったんだと思います。思いつきのついでのお届けにならない様、内容をよく確認して,その上でおかげを頂き、お礼を忘れない様にしてゆくべきです。お届けをした事柄は、自分も勿論ご祈念しなければ相済みません。先生が身をけずって、昼夜を分かたずご祈念下さると言うことを、忘れてはならないと思います。

手記No 12健康のお陰大阪城男性 83歳 掲載号 2007/1/3 No.1

赤ん坊というと、普通は丸々と肥えて、手足に輪が入っているようなものを思うのですが、私は産まれた時もガリガリで、叔父が「この子育つかしらん」と言っていたほどです。商業学校へ入って二年生の時に肋膜を、四年生の時には肺結核を患いましたが、それでも学校は一年遅れただけで卒業出来ました。暫くは家で静養していました。戦時には赤紙がきましたが即日帰郷でした。就職して数年後には夜も塾でそろばんを教えるようになり、定年の年になってもまだ勤務を続けた後、辞めて塾一本でやってきました。傘寿をとっくに過ぎた今も教えています。これもひとえに歴代諸先生、とりわけ二代大先生のご祈念のお陰と、有り難く思わせていただいております。

手記No 15二代大先生の思い出S.I男性 62歳 掲載号 2007/4/20 No.2

皆様は、二代大先生にお取り次ぎを頂いておられますが、私は小学校の頃から体が弱く、1年近く学校を休む状態でした。祖父に連れられカブスカウトに入隊、教会で青年会・道輝会とお引き寄せ頂きましたが、就職は自分勝手に決め、その尻ぬぐいのお願いは父母に任せっきり。結婚に関しても同様で、自分自身で父母の病気のお取り次ぎ頂いた時は、二代大先生が御病気で、若先生(三代大先生)にお願いし、63年大先生お国替えの時には母も入院中で、私が病院に報告に行ったときの母親の思いはいかばかりだったかと思います。 二代大先生ご葬儀の当日祭・50日祭で大役をつつがなくお陰頂けた事で、大先生御取り次ぎのように出来なかった事へのおわびと御礼になれば有り難いことです。祖父のように、これからも教会・信徒会・道輝会のお役に立たさせて頂けますよう、初代・二代・三代大先生に願うばかりです。

手記No 16二代大先生の思い出M.N.男性 67歳 掲載号 2007/4/20 No.2

お結界取り次ぎのお姿が、眼をつむれば今も思い出します。当時思えば毎日同じ状態が続いていたと思います。私も何度かお結界に並んだ時、大先生に会える前にお入りにならないか、そればかり気になって、並んでいても所員の先生がいつ出てこられるか心配したものです。自分勝手に、怖い先生と感じたり、にっこり笑ってくださったと喜んだりしたことを思い出します。

手記No 17母の遺産大阪城男性 83歳 掲載号 2007/4/20 No.2

母が亡くなったとき、母の貯金通帳のお金を兄弟5人で分けました。私はそのお金を頭金としてお墓を建て、後はローンで毎月払っていこうと思っていましたら、兄弟たちが「自分の分も使ってくれ」と言ってきましたので、ローンにすることなく全額即金で支払いました。それまでうちにお墓はなく、父の親許のお墓に詣り、又そこへ納骨させて頂いておりましたが、父はともかく、母は肩身がせまいと思っていました。後日お教会で大先生(二代)に申し上げました。大先生は何もおしゃいませんでしたが、内心では「よくやった」と思っておられただろうと自負しております。

手記No 18御役立ち信心北斗七星男性 59歳 掲載号 2007/4/20 No.2

私は、玉水100年に向けて、「勝手信心」から「御役立ち信心」へという願いを立て、それまでの自分の信心を整理し、信徒会等で話をさせて頂きました。 それまでは「仕事を頑張ることが信心」と勝手解釈し、仕事は一生懸命しましたが、まさに自分の腕を、頭を頼りにして、御祈念がなおざりになり、参拝・御用の回数が減るということになっていました。30代には、胃潰瘍で40日間入院し、気づかせて頂くところですが、仕事が気になって、信心の仕方が間違っているということに気がつきませんでした。私は、15歳の時に肝臓病を患い40日入院し、そのときに竹中先生に「これで、一生信心出来ますね」とお話を頂き、まさに20代の信心になりました。しかし、玉水100年祭の前後から、私の周囲に困ったことが、いろいろ起こり始めて、やっと信心の仕方の間違いに思い当たり、「御役立ち信心」にもう一度向かおうと思い至ったわけです。

手記No 22末安心のおかげあやめ女性 86歳 掲載号 2007/4/20 No.2

ワォー!私に米寿祝いのご通知がきた。人ごとのようで実感が涌かないけど、涙が出るほど有り難うございました。戦後はずっと人生の底辺で神様にどんなにお願いしてもどうにもなりませんでしたが、振り返れば暖かい人の心に包まれた歳月は、おかげだったと思います。そして元気に今日を迎えられ、現在末安心のおかげを頂いたと感謝でいっぱいです。頼る人もない私には初代大先生が父のようで、おまいりしたときはお写真と心の対話、なんだかこの頃は喜んでくださっているようです。後日立派な記念写真を頂き有り難うございました。「米寿まだ上に歳あり明けの春」「一日一日丁寧に生かさせて頂く」、帰途に頂いた言葉をこれからの私のモットーにしたいと思います。

手記No 24命に強運が湊 喜兵衛男性 81歳 掲載号 2007/4/20 No.2

3年前A病院女医より狭心症の疑いありと言われ、早速循環器専門B病院にてカテーテル検査の結果、心筋梗塞一歩手前と診断された。お教会に電話でお届けのうえ即ステント治療を受ける。医師よりグッドタイミングと言われ、何よりのこと。 2年前、突然体調不具合になり、A病院長より脳梗塞と診断された(2度目)。ご神米を頂き、病床をお広前にして、ご祈念したら、リハビリの必要もなく無事退院出来た。医院長から、「今回は恐ろしい結果が予想されていた」と知らされた。A医院女医から、「あなたは命に強運がありますね……」とのこと。いずれも恐ろしい大病のところお助け頂きましたのも、神様におすがりさせて頂き、親先生のご祈念御取り次ぎを賜ればこそです。有り難きこと、もったいなきことの至りです。

手記No 25二代大先生の思い出T.O女性 70歳 掲載号 2007/4/20 No.2

二代大先生の思い出はいろいろございますが、その中でも結婚の折り、母についてしぶしぶお結界に行きましたら、大先生は直ぐ「きめとき」と申されました。当時私はこわいもの知らず。「大先生。私、お道に行きたいのです」と申しますと、「信心のないところへ行くのも神様の御用やで」と申されました。尚も「大先生、背が低いんです」と申しましたら、「最後はあんたがきめるんやで」と申されました。結局その話は断りました。がその後いろいろあり又その話がまとまり、その上もう一つ縁談が来ていると銀座の親奥様に言われましたが、こちらの話を先におとどけしましたので、奥の話は断りました。その折りお結界で大先生が、「早うきめ、早くやで」と申されたとか母が申しておりました。今日まで47年間「神量らいは奇すしくて人の思いぞ及ばざる」。今頃つくずくおもいます。

手記No 26No.1 二代大先生の思い出湊 喜兵衛男性 81歳 掲載号 2007/4/20 No.2

玉水の学生会に入らせて頂き、吉田宏様(後の生田教会二代教会長)に親しくご教導頂き、私も次第に神様へ心を向けさせて頂きました頃、戦局極めて悪く、昭和19年即戦力将校養成のため、特別甲種幹部生募集がありました。二代大先生は、募集要項を御覧になりながら、優しく「受けさせて頂きなさい」とのお言葉。合格し久留米の予備士官学校に入学。卒業後、有明兵団牛深の弧島守備独立中隊の小隊長として赴いたが、直ぐ終戦になり、翌月復員し、9月1日付にて宮内省より正八位に叙すの位記受けました。赤紙で行った同僚は、原隊姫路部隊より満州から過酷なシベリヤに抑留され、数年後の復員になりました。「何事も無理に思わないで、天地金乃神にすがればよい」。ただ有り難くもったいない限りのことです。

手記No 27No.2 二代大先生の思い出湊 喜兵衛男性 81歳 掲載号 2007/4/20 No.2

昭和23年、財閥系M信託会社より就職案内がありましたが、日本経済は破滅的打撃を受け、物価も急騰、極めて不安定の時期のうえ、長期金融機関の信託会社にとっては、主要顧客の没落に加えて財閥解体による制約を受け厳しい窮状でした。二代大先生は優しく笑みをもって静かに、「行かせてもらいなさい。但し4年間やめてはいかん」とのお言葉。何の迷いもなく入社しました。信託会社を救ったのは、昭和27年6月(入社後丁度4年)誕生した貸付信託制度でした。以後これを基盤に急成長、大発展を遂げ、私も32年間健康でお勤めのお陰を頂きました。有り難く勿体なきこと。神の仰せで、都合が悪いようでも後になってあれもお陰、これもお陰ということが分かる信心の大切さをつくずく痛感させられました。

手記No 28神話集CDを聞きながら北斗七星男性 59歳 掲載号 2007/4/20 No.2

定年間近になって、こんな信心で恥ずかしいですが、「聞くは一時の恥、聞かざるは末代の恥」とありますので投稿します。 神話集CDを聞きながら、今わからないことがあります。「神様は主人、自分は奉公人」という初代大先生のみ教えを、サラリーマンは如何に実践させていただいたらいいのだろうかということです。自分で店を構えて商売をしておられる方にはわかりよいみ教えですが、サラリーマンである私には、いま一つ実践の仕方がピンと来ていません。どう理解させていただいたらいいのか、定年まで残り少ない時間ですが、何かをつかんで定年を迎えたいと思っております。読まれた方のご理解をお教え頂ければ幸いです。

手記No 39手記No.0028への返信デャ・べァ−男性 60歳 掲載号 2007/6/9 No.3

企業に勤務する人達が「奉公人」であったら、その人達の上司が「ご主人」ではないのかと疑問が湧くとの尤もなご意見です。そうであれば、上司は人事異動で変わりますし、相性の善し悪しが部下を評価することにもなりかねませんから、「ご主人」が変わったり、「ご主人」に嫌われたりすることになります。個人で仕事をしている場も同様で、いろいろなお客さんが「ご主人」になってしまいます。しかし、私達が求めているこのお道の「ご主人」は「神様」です。つまり、上司やお客様との係わりは、実意をもって自らの役割を果たす人間にならさせていただくという目標を、日々の生活の中に落とし込むことが大切だと真に気付かせていただき、それを実行する骨折りのプロセスではないでしょうか。言うは簡単ですがこうした大変な難問に、実は私も日々悪戦苦闘しています。全てについて、自分で気づくのではなく「気づかせていただく」状況に身をおくことがキーワードのように最近思っています。

手記No 40手記No.0028への返信お悩みが例えば     掲載号 2007/6/9 No.3

お悩みが例えば、神様か会社の上司かどちらに従えば、というのなら、ごもっともですね。 上司の指図に背いて、自分の信念を押し通すことは大変ですね。心に副わぬ仕事をせねばならないこともありますが、その時は「お詫びと祈りと願い」ではないでしょうか。仕事の上では上司でも、やはりあなたと同じ神の氏子ですから、その上司のことも合わせて、「お詫びと祈りと願い」をさせていただかれたらどうでしょうか。この世に生きている限り会社員でも自営業でも、思い通りにならないことばかりです。それでも、人のために出来ることは大切に一生懸命させていただき、そこから先はただ一人のご主人である神様へ「お詫びと祈りと願い」をさせていただくしかないとおもいます。それを「おかげ、わがが心にあり」と教えてくださっているのではないでしょうか。

手記No 29二代大先生の温顔薩摩隼人男性 82歳 掲載号 2007/4/20 No.2

昭和21年(1946年)2月に、兵役を解除されて復員したとき、「教会は焼けていないよ。残っているよ」と聞かされたので、直ちに帰国の報告にお参りをした。お結界におられた二代大先生は体を乗り出すようにして、「おお帰ってきたか。よかったなぁ」と喜んでくださったときのお顔を忘れることが出来ない。それから2年後に、およびだしがあり(当時は、電話がないので)「子供のために少年少女会を創りたいので」と、活動のご用をいただいたのである。ある日のプログラムに、当時は阿倍野にあった初代大先生の奥城にお参りすることを組んだとき、「大丈夫か。気をつけてな」とのお言葉があり、全員が無事に帰って、お礼を申しあげたら、ニコニコとあたたかな眼差しで喜ばれ、嬉しくなったことなど……。種を蒔かれた少年少女会が「大きに50年」を迎えたとき、もしおられたら、どんなに喜ばれただろうかと、大先生の優しいおだやかなお顔が浮かんでくる。

手記No 30信徒会総会で大牢府男性 52歳 掲載号 2007/4/20 No.2

先日は、信徒会総会での会計報告有り難うございました。この度の情報公開は透明性のある開かれた信徒会に向けての大きな一歩であると存じます。信徒会活動に関して多額の補助を教会にご負担頂いておりますのは誠に申し訳なく相済まないことと存じます。早急に信徒会会計の健全化が図られる必要があると存じます。@会費の改定A一人複数の納入可とするB金光新聞の実費負担など、いろいろな案が考えられますが、一番ご理解・ご承諾頂きやすいのは金光新聞の実費負担ではないかと考えます。信徒会の活動費用は信徒会にお世話になっております私ども会員自身で担わせて頂くという原点に立ち返り、これ以上のご負担をお教会におかけしないためにも、早急に信徒の総意をまとめて改訂策を実施頂ければと存じます。他の会員の皆様の意見は如何なものでしょうか。この「ふれあいの広場」を通して出来るだけ多くの方のご意見をお聞き出来ますことを願っております。

手記No 58手記No.0030への返信M.H.女性 77歳 掲載号 2007/9/1 No.4

地区の信徒会でも話題になっていました。会費の件ですが、長年会費の額も変わらずに今日に至っている現状で、お教会にご負担を頂いている事は大変相済まないと思います。この際、会費の改定(一人複数)をされては如何でしょうか。おっしゃているご意見に賛成です。よろしくお願いします。

手記No 31一度石の設置は? わたるちゃん男性 61歳 掲載号 2007/4/20 No.2

神社に百度石と言う事がありますが、その百度と言う言葉を聞いて尻込みする人もあるのでわないか……。私は読書をしても途中でやめたことが殆どでしたが、その私が40巻の本を読了したのは、自分に「一日一行でも善いから」と自分に言い聞かせたことでした。「一日一行でよい」。この言葉が40巻の本を読了させた威力であります。 教会に一度よりも二度、二度より百度、千度より一万度……切りがありません。数量を追いかけるそんな人生よりも、少ない数でも中身のある人生が大切なのではあるまいか。海洋を乗り切ったとか、偉大なることをしたとかよりも、私に言わせれば、幼子が水におぼれた蟻を助けた事の方が何倍もすばらしいと思う。お百度石の代わりに一度石も又如何なことかと思う。

手記No 32信心の目覚め八重桜女性 86歳 掲載号 2007/4/20 No.2

私は子供の頃から、「初代大先生は、神様や」と言われつづけて、大きくなりました。その私が小学6年生の4月、父が大病を患い生まれて初めて母の言いつけで、その神様である大先生に、父の病気のお願いに参りました。大先生はじっと眼を閉じておられ、やがて「三日でなおるで」と仰せになり、「帰ってお母ちゃんにそない言や」と言われ、本当に父は三日でお陰を頂きました。子供心に「すごいな……」と思いました。その後何年かたって、あゆみの記事に、「ある時、子供が二人、親の病気のお願いに来た。何故その時、この子供達の将来をお願いしてやらなかったのか」と、当時の書生さんに言われたという記事を見て、これは私のことだと思って、子供心に改めて大先生有り難うございますと申し上げました。今、私は幸せです。ご恩は忘れません。

手記No 33二代大先生の思いで秋冬の旅人男性 77歳 掲載号 2007/6/9 No.3

初代大先生は、み教えの中で「信心すれば、あたかも木に餅がなるように、願うお陰がすぐ頂けると思う人が多いが、この道はそう簡単に木に餅はならない。五年十年と真の信心を求め続け、信心稽古の努力を積み重ねて初めて、真のお陰を受けることが出来るのだ」と話された。 二代大先生はそこのところを「辛抱しいや、信心は辛抱が大切やで、辛抱して神様にお願い申して助けて頂くんやで」と私達を励まされた。 昭和二十年の敗戦当時は、戦争で夫を亡くし、乳飲み子を抱えた寡婦たち、家財を焼かれ商売の目途(めど)を失った人々、両親を失い戦災孤児になって路傍をさ迷う痛ましい子供達、闇市に頼って今日の食べ物をやっと手に入れるという、真に暗い絶望の日々だった。 明日への希望を失い、今日一日をどう生きるかが精一杯の時代に、二代大先生は時には父親代わりとして、時には人生相談の相手として、時には厳しい道の指導者として、ご自身の命をかけて、皆の願いを真正面からひしと受け止められ、願う氏子を励まし、その助かりを一心に祈り続けてくださった。 二代大先生の昼夜を分かたぬ真摯なご祈念は、一生を通して変わることなく、文字どおり世のため人の為に辛抱を体現され、神人一如の理(ことわり)を貫かれた、無私のご生涯であった。

手記No 34玉水様にお参りしてB型のお姉さん女性 61歳 掲載号 2007/6/9 No.3

今年の4月6日で主人が亡くなって7年になります。今年の7年祭は見送って玉水様の御大祭へお参りしようと思い、今日4月20日に広島よりお参りさしていただきました。神前拝詞を唱えだした途端、涙が出て止まらなくなりました。先ず主人の事を思い出したのと、玉水様にお参りが出来て有り難く勿体ないという感謝の気持ちからでした。お祭りが済んでからの親先生のお話しもとても有り難くて、大阪まで来させて頂いたかいがかいあったと、広島へ帰ってまいりました。これからもなお一層の信心をさせて頂こうと思います。本当に有り難うございました。

手記No 35二代大先生の思いで八重桜女性 86歳 掲載号 2007/6/9 No.3

毎回、心に思いつくままに、教会のありし日の事を、一人でも多くの信者さんに聞いて頂けたらと、投稿させて頂きます。朝参りで一番印象に残っているのは、二代大先生の真剣な御信行のお姿です。もう30年ほど前になりますが、お届けやお礼をされる方々が始発電車で参ってこられ、我先にとお結界へ並ばれます。その列の長さがお結界からお賽銭箱の近くまでになり、途中で所員の先生が「奥に御用がございますので、 お入り下さい」と大先生にお願いされても知らん顔で、私共のお届けを聞き続けて下さいました。これぞ信者にとって、現人神(あらひとがみ)であらせられ、お亡くなりになられた後も、あいよかけよの生神様のお姿を、いつまでも私共一人ひとりの心に焼き付けてくださいました。二代大先生、有り難うございました。

手記No 36月例祭に思う生駒山のおばあ女性 70歳 掲載号 2007/6/9 No.3

毎月三回、月例祭を頂きますが、雅楽の調べと共に先生方がお出ましになっても、いつまでもザワザワと話し声がしているのを、お感じになった事ありません!以前はもっと厳粛な気持ちで、シーンと静まり返っていたように思います。お教会のためにお祭りをされているのではなく、我々信者が日頃のお礼を申すお祭りに、出社の先生方が参列して下さるのだと思います。婦人会の班会では、いつもこのお話しをしております。地区の信徒会でも話し合って頂きたいと思います。

手記No 37おかげのおかえし湊 喜兵衛男性 81歳 掲載号 2007/6/9 No.3

お陰を頂いて、有り難いというだけでなく、人にそれを伝えることが神へのお礼で、神はそれを喜ばれると示されています。私は、頂いたおかげは、なるべく書き綴るようにしております。嫁いできて、ご神縁を蒙らせて頂いた嫁達には、先ず読んでもらい、孫達にはいずれ伝えさせて頂きます。地区信徒会では出来るだけ伝えさせて頂いたつもりです。書き綴らせて頂くことは、人に伝えるだけでなく、自分の中でも信心を確かなものにしていく上で、よろしいようです。またお手引きの上でも、お役に立つと思います。お陰を伝える上でも、この「広場」は絶好の場所だと思います。お陰をいただいてこられた沢山のお話しを、次々とこの「広場」にお伝え頂ければと思います。さすれば神様はさらに次のお陰をお授けくださるでしょう。

手記No 38おそれいります、三代大先生湊 喜兵衛男性 81歳 掲載号 2007/6/9 No.3

お結界にお出ましでなくとも、後ほど「御祈念帳」で私共の願い事をご祈念、御取次ぎ下さるとはいえ、お徳の高い先生方がお出ましの時は、有り難く、安心させていただきます。その上、先生方は私共の願い事のその後についても心にかけてくださっているのは、まことに勿体ないことです。ある人と意見が対立した時も、あれはその後、どうなりましたかと三代大先生からお尋ねがありました。私は早速自分の考えを数頁の紙に書いてお届けしますと、一頁もお読みにならず、「読まなくても分かっている。これでは解決にならん。別の観点から検討しなはれ」と厳しいお顔をされました。それで別の角度から見直して相手の人に見せると、「お任せします」と言ってくれました。それで改めてお伺いさせて頂いたら、「やはりそうでしたか」と、お顔を和らげて下さった。それから間もなく、ご心労が重なり病床に伏せられたと聞き、ご回復を祈りました。

手記No 41心配と信心子供二人と暮らして     掲載号 2007/6/9 No.3

子供二人と暮らしております。お教会にお参りしてお届けもさしてもらってますが、一人でご祈念をしてますとあれもこれも心配のほうがふえるばかりでご祈念がなかなかできません。仕事(ビルの清掃)をしている時が何も考えなくてすんで一番楽です。心配が始まると胸が痛くなって病気にならないかとまた心配になります。こんな時にはどうしたらよいのでしょうか。一人でわかりませんのでどうかお教えください。名前はお許しください。

手記No 54手記No.0041への返信デャ・べァ−男性 60歳 掲載号 2007/9/1 No.4

「仕事をしている時が何も考えなくて気が楽」であるとありますが、「気が楽」になるのは「一心」に仕事をしているからです。一方、お祈りとなると心配が湧いて「一心」になれないのは、一言で言うと神様がおられることに疑問があるからです。とはいえ、心配が消えないのですから、お取次ぎくださる姿が見える先生に、箸のこけたことでもお届けしお力を頂くことです。お結界とはそういうところです。同時に、周囲にこれまでお世話になった人が何人かはおられるでしょうから、お祈りの内容に、ご自身だけでなく、その人達へのお礼を入れ、その対象を徐々に広げてゆくことです。自分以外の人たちへの祈りがきっと心配を減らすことになるでしょう。

手記No 55手記No.0041への返信針千本女性 57歳 掲載号 2007/9/1 No.4

お気持ちは大変よくわかります。このことで悩んでいる方は多いと思います。私も例外ではありません。心配があるから私達は信心をさせて頂いているとも言えるのではないでしょうか。だからこそ心配についての教えもたくさんあるのです。例えば「心配はおかげのお断り」、「心配する心で信心せよ」。初代大先生は「我々には心配する力なぞないのだ」と教えられております。まさにそのとうりですね。心配して問題が解決するのなら、なんぼ心配しても損はしません。心配してどうにもなれへんからまた心配するということで、まったく無駄なことをしているわけですね。そこで、私の経験ですが、心配し出したら「生神金光大神様天地金乃神様」と心の中で、または小声で、ひたすら一心に御名を何百回も唱えます。すると心が落ち着きますし、心配していた心が「もう神様にすべてお任せしよう」という気持ちに変わっていきます。そこからおかげの道もひらけてきます。ぜひ実行してください。

手記No 66手記No.0041への返信そよ風女性 84歳 掲載号 2007/9/1 No.4

神様を知らない人は心配が絶えません。神様と御縁頂けば一切心配いりません。それは歴代大先生、親先生の並々ならぬ日々のお取次ぎを頂いているからです。すでにお陰を頂いており、これからも頂いていけますよ。生命も体も全てお恵みを頂いているのです。何事もお預けしてしまうことです。初代大先生はコップの水に例えて教えて下さいました。空っぽのコップには一杯はいる。我で心配した分にはその残りだけしか入らぬと。必要なことは全て与えてくださいます。人は支え合っています。子供さんを頂けて幸せでしょう!。親が子を、子が親をお届けして祈る時、思う以上にお陰を下さいます。子供さんにもお届けを教えてあげて下さい。一生の宝です。仕事先のトイレは御祈念させて頂ける最高の個室で、お気付けも頂きやすいですよ。

手記No 42神様って本当にいらっしゃるのですか?ちょっとお尋ね     掲載号 2007/6/9 No.3

ちょっとお尋ねしたいのですが、常々心に浮かんだりきえたりしている問題がありまして、皆さんのお考えを教えて頂けたらと、と思って書かせてもらいました。正直な ところ、笑われるかもしれませんが、神様って、ほんとうにいらっしゃるんですか。私もいらっしゃると思って手を合わせているんですが、もしおられなかったらなんにもならんのにと、ふと、思ってしまう時があるのです。こんなこと思うこといかんと判っていても、どうしたら本当にいらっしゃることがわかるのですか。よい方法があったら、どうか教えていただけませんか。

手記No 52手記No.0042への返信わたるちゃん男性 61歳 掲載号 2007/9/1 No.4

「神様ってほんとうにいらっしゃるのですか!」の手記はまことに正直な信心始めの心だと思う。頭ごなしということがあります。「これがまことの神や仏だから、何でも疑うことなく祈り信ぜよ」では、まさに信心の暴力であります。教会にお参りしている人の中にも「ほんとうに神様はいらっしゃるのかしらん」と思う人もあるのやないですか。実は私もそうでした。それでいいのです。そこから信心の道に入ればいいと思う。「神や仏にお参りして何になるのか」・・・一つだけたしかに言えることがあります。「あの人は神仏にお参しているひとだ」と言う雰囲気がやがてその人に出来てくることです。その雰囲気が高まると、実感として自然と神や仏の存在が分かります。

手記No 53手記No.0042への返信デャ・べァ−男性 60歳 掲載号 2007/9/1 No.4

同様の気持ちを持っておられる方は意外にいらっしゃると推測します。神様がおられることを遮二無二理屈でわかろうとしても、空気をこの眼で見ることのできないのと一緒で、なかなか困難です。しかし、大事態に遭遇したときに、裸になって神様にすがりつきさえすれば、きっと神様がおられることが解ります。ところが、誰でもそんな苦労をしたいとは思っていませんから、神様がおられることに疑問をもつのは当然です。だから日頃から、いつでも神様にすがりつくことができる心になるよう、日々努力をしていかれたらいかがですか。無理をして解ろうとしても自分を苦しめるだけで成果は少ないでしょう。焦らないことです。

手記No 56手記No.0042への返信針千本女性 57歳 掲載号 2007/9/1 No.4

これは本当に一言で説明出来るほど簡単なことではありません。しかし誰の心の中にも多少なりともそういう気持ちがあるのが自然だと思います。その第一の理由は神様の姿形が見えないことにあるのだと思います。では、見えたら信じられるのかといいますとそうでもありません。形があるのはいつかは消滅するので頼りになりません。このことはいろいろの苦労を重ねた人がよくわっかておられることだと思います。私はこの年になって、ようやく「人生において本当は神様しか頼りに出来ない」と言うことがわかりました。何故そう思えるようになったかと言えば、私のいままでの人生の中に起こった様々な現象を考えたとき、神様の働きを抜きにしては起こり得ないことを多々体験してきたからです。そういう積み重ねで「やっぱり神様はおられる」と確信できるようになりました。神様の存在の有無を考えるより、純粋な心でご自身の人生を振り返ってみて下さい。あなたはきっと神様のお働きに気ずかれることでしょう。それが信仰だと思います。そこからまた新しい人生が開かれると思います。

手記No 59手記No.0042への返信北斗七星男性 59歳 掲載号 2007/9/1 No.4

「本当に神様はおられるの!」「おられる」と信じることです。歴史上全世界の高名な神学者が研究した結果、誰も証明できていないのではないでしょうか。「信心」とは神様がおられると信じることから始まるのではないでしょうか。教祖様、初代大先生が、天地金乃神様を感じられ、話が出来たからこそ、金光教、そして玉水教会が生まれたのではないでしょうか。そして多くの人が助けられました。このことこそ間接的ですが、神様がいらっしゃる証明ではないでしょうか。すべての信者が、徳を積んで、お国替えになるまでに、信話集第2集P253にあるように、「本当に神様に縋り、神様に会うて物語がしたい」という信心を実現すれば、自分自身で神様の存在を証明できるでしょう。人間自分が出来ないと納得できないものだと思います。

手記No 60手記No.0042への返信単純な信者女性 68歳 掲載号 2007/9/1 No.4

「ちよっとお尋ね」を読ましていただいて、なんとお幸せな方だろうとうらやましくなりました。世の中、広いですね。神様がいなくてもたいしてお困りじゃない方もいらっしゃるのですね。私みたいに箸がこけても神さま神さまと手を合わせるような人間は、この方から見たらどうでしょうかね。でもなぜか生まれてからこれまで一度も神さまがおられるだろうかしらと考えずに来れたことを本当に有り難いと思っています。なぜかと聞かれてもちゃんとしたお返事ができませんが、いつも神前にいる母の背中を見て育ったからではないでしょうか。一心にご祈念させていただくと考えるひまがないので心がしずまりますよ。

手記No 62手記No.0042への返信わたるちゃん男性 61歳 掲載号 2007/9/1 No.4

「本当に神様はおられるの?」について。まめに神様にお参りしていれば「あの人は神仏にお参している人である」という雰囲気が自然と出来上がってくる。そして本人自身にも神様はあるとの「実感」が出来てくる。信心にとって大切なのはこの「実感」と思う。もう一つ神があると納得するものに、その宗教が奇跡的な事をしてみせて、「神がある」と示すこともある。しかし、キリストの教えに「汝、神を試すなかれ」とあるように、その奇跡が手品やからくりではどうするのか。又「御利益があったから信心する、儲かったから信心する」では真の信心といえるのであろうか? やはり神様の存在を知るには、まめにお参りし信心をして、神の存在を自然と「実感」することが大切だと思う。

手記No 67手記No.0042への返信そよ風女性 84歳 掲載号 2007/9/1 No.4

神様はいらっしゃいます。困っている人、難儀な人を見た時、可愛そう、助けずにはおれんと思うでしょう。その心が神心で、私達は皆分霊として持たせて頂いています。心と体は魂とその洋服です。呼吸、血のめぐり、思考力、飲食、消化、排泄、睡眠、何一つとして、自分の力で出来るものではありません、全てお恵みを頂いてこそ、させて頂けるのです。その恵みを下さるお働きを神と申し上げていると私は信じています。時には難も授けられます。助ける為の信心への種。今この真の神の道に御縁頂けて最高の幸せ。改式のお陰も頂き、先祖も助けて頂きました。今、子孫が各自に心の目を開かせて頂き、神にお礼を申せる真の人になるようにと願っています。人しか信心は出来ません。

手記No 75手記No.0042への返信 ノイローゼから神を知るわたるちゃん男性 61歳 掲載号 2007/11/1 No.5

少年の頃深刻なノイローゼに陥ったことがある。今日一日何をして生きたのか分からない、自分とは一体何者なのか?……明日への希望も見えず空しく過ぎる日々、こんなノイローゼが10年程心を巡る(分かりますかこんな心境)。しかし今日一日何をして生きたか分からない日々を養ってくれた何か大きな力を私は感じることが出来た。ノイローゼ中の私の心臓を何かの力が鼓動してくれた。又ノイローゼの中でも、過ぎゆく日々を何かの力がかもし出してくれた。自分以外の大きな力の存在を私は感じることが出来ました。教典に「天に任せ、地にすがれ」と小さな生命を守ってくださる神の愛を称えたいと思います。

手記No 44初代大先生の夢M.K.男性 72歳 掲載号 2007/6/9 No.3

今まで誰にも話さなかったのですが、でも匿名でもよいそうなので、初めて話させていただきます。私は小学三年の頃、母の病気のことで初代大先生にお届けにいったことがあります。それから四十年余りの歳月が過ぎたある夜、突然まざまざと初代大先生のお姿を見たのです。今の家の座敷で、テーブルの向こう側にお座りになって、杯を手にしておられました。私がその時に抱えていた悩みについてお尋ねすると、「誰かに聞いてごらん」とおっしゃったので、「大先生のほかに、誰に聞いたらいいのですか」と申しあげると、少し微笑みながら静かに杯を明けられました。私が台所の家内に「お代わりをお持ちして」と声を掛けると、「もう、いい」と手を振られて、お立ちになりました。夢はそれっきりですが、御霊様はずっといらっしゃるのだ、とその時に知りました。

手記No 45神我を助け給ふ八重桜女性 86歳 掲載号 2007/9/1 No.4

教会へお参りされている方々は皆様共々に明るく楽しそう、と拝見させて頂いていますが、今「ふれあいの広場」を見させて頂き、神様を杖に生きておられる方々の如何にお強いかを思わされます。私は、両親始め身寄りは全部死にまして、只今は一人で生活をしております。私はみなしごハッチなのです。でも教会がありますし、誰彼なしに言葉をかけて下さる信者さんがおられます。でもそれだけで全てが解決というわけには参りません。私は今一人で暮らしており、体も強くありませんので、日参出来かねています。でも神、我を助けたまうです。電話がありますので、お教会や親先生には申し訳ございませんが、電話でお届けさせて頂けます。それで心がとても楽になります。心の安らぎ、体の痛みの回復を頂きます。神様、ご無礼お許しください。親先生、お許し下さいませ。

手記No 46御縁あやめ女性 88歳 掲載号 2007/9/1 No.4

昭和の初め、江戸橋にまだ市電が走っていた頃、玉水教会の玄関でウロウロしていた子供の私が、優しそうな先生にお菓子を頂きました。沢山の人で、子供心にもその熱気に驚いたことを昨日のことのように思い出します。奥の火鉢には初代大先生がおられたのでしょうが、今思えば、それが知らずの御縁を頂いたはじめです。戦争を経て大切な母を亡くし、主人の会社の倒産、死別、そして独りぼっちになりました。暫く阿倍野に落ち着き、近くに玉水教会の熱心な信者さんがおられ、誘われて信徒会にも入会、はや30年近くなります。すっかり周囲は様変わりしましたが、玉水教会の御門は昔のままで想い出につながり、我が家へ帰ったようです。初代大先生の最後のお引き寄せが有り難く身に染みております。

手記No 47あんたは重病人か?わたるちゃん男性 61歳 掲載号 2007/9/1 No.4

私は毎晩5,6回トイレに行くことがある。医者に言わせれば「あんたは重病やから入院せないかん」と言われるかもわからない。私はトイレで小便をする度に「神様、毎々小便のお取払い有り難うございます」とお礼を申しております。神様が一晩中私の体から小便を取り払って下さっている、それがどんなに有り難いことか・・・。只々感謝、感謝の心あるのみです。私は大阪ふれあい会という会を30年近くしていますが、少年の頃、医者から「アカン」と言われたが、おなじアカンのやったら日本中旅行して死のうと思った。しかし旅に出たら病はなおっていました!!神様がよくして下さったすばらしいこの体を、小便おとり払いと共に感謝しています。

手記No 48泥棒もお手上げの防犯態勢湊 喜兵衛男性 81歳 掲載号 2007/9/1 No.4

皆様とご同様、日々ご近所共々盗難、火難その他災難なきこと御祈念。玄関、勝手口の施錠(勝手口は格子戸に磨り硝子を挿め込んだものに金属の爪が下から上へ差し込み式にて締めれば横に引くとも開かず)。玄関、勝手口、窓という窓にはご神米を御祈念して添付。過般真夜中に勝手口で戸のきしむ音がした(泥棒が戸を持ち上げ手前に引き寄せようとする音)。熟睡中のところ神様にお知らせ賜り、忍び足にて確認すると、磨り硝子に泥棒の立つ影。咄嗟に戸をガタつかせ、大声にて「誰だ」と怒鳴ると、泥棒慌てて遁走。後日警察から、捕らえた泥棒が、お宅にも浸入したと自白したが被害は!、とのこと。警察によると、姫路での殺人強盗容疑者の由。神様のお守り、おはたらき、ただただ有り難く勿体なき窮みです。

手記No 49涙なくしては八重桜女性 86歳 掲載号 2007/9/1 No.4

今私はこれまでの御大祭に頂きました御直会の数々を読ませて頂いて居ります。中でも二代大先生の御祭の折りに頂きましたお直会、「教燈」の中の数々のお写真を拝ませて頂きますと、二代大先生御在世中のことが今にしてよみがえって参ります。大勢の人を助けお導きくださいました「アラヒト神」であらせられた二代大先生。涙なくしては読ませて頂けません。よくぞこれまでのお写真を私共にお残し下さいました。若くしてこの世をお去りになりました三代大先生、有り難う存じました。さぞやご無念な事でしたでしょう。涙なくしては拝読させて頂けません。今私は身寄りもなく病気がちですが、お教会がある限り元気が出てきます。神様を杖にと教えられた通り頑張ります。

手記No 50「光が見えた」北斗七星男性 59歳 掲載号 2007/9/1 No.4

デァー・ベアーさん大変有難うございます。「神様ご主人、自分は奉公人」は信心の4つの目的の4番目ですね。「社会の中における、企業の中における、家庭の中における」自分の役割を常に考え求めていく。1求めて気づかせていただいた役割を、実意を持って果たすべく努力をし続ける。2その努力が思いに終わらぬように、毎日の生活の中に落とし込み、日常生活そのものにする。この理解であれば神話集第2集の「背負いの呉服屋さん」の姿もよく理解できます。自分の役割を、しっかり認識され、それを行動に移された。そのことが商売繁盛につながった。サラリーマンであれば、企業の中の自分の役割をしっかり認識し、実意を持って果たしていくことが、奉公人の努めであろう。

手記No 51勤務地のことS.M.男性 84歳 掲載号 2007/9/1 No.4

私が勤務していた会社は、京都の東九条にありましたが、その会社が奈良の王寺に移転することになりました。今までは車で12分で行けたのに、車・近鉄・マイクロバスで1時間半かかります。ずっと以前から夜は家でそろばんを教えていました。二代大先生に「どうしたらよろしいか」とお伺いしましたが、いつまでたってもお言葉がありませんので、今日は駄目かと思って、すごすごと帰宅しました。しかし、会社へは返事をしなければなりませんので、数日して又お参りしましたら、今度は即座に「王寺に行きなさい」とおっしゃいました。お言葉通り王寺に通い、帰ってから塾で教えました。弱い体でこんな無茶な勤務でしたが、体をこわすことはありませんでした。大先生がどれ程心を痛められ、どれ程御祈念して下さったかと思うと、本当にもったいない事でございます。

手記No 57「忙中閑」あり」北斗七星男性 59歳 掲載号 2007/9/1 No.4

定年前になって、自分が本当に頑固者だと教えられた。その結果、周囲(家族)は、身を固めて私の攻撃から各自を守っていた。自分を擁護するならば、「必死で仕事をしていて気が付かなかった」ということでしょうか。還暦まじかになって、やっと気づかせていただいたという気持ちで、素直に改めようというすがすがしい気持ちになれました。素直にごめんなさいと言えました。自分が変わると周囲が変わると言うことを聞いたことがありますが、今までの自分は、自分は変わらず周囲を変えようとばかりしていたのでしょう。「忙中閑あり」。忙しいという字は、心を滅ぼすということ、現代においてはみな忙しい。心を滅ぼさないでおくためには、閑を作ることであり、それはまさに御祈念の時間ではないでしょうか。御祈念しながら、日に三省すれば、忙しくとも、心を滅ぼさずにすむのではないでしょうか。

手記No 61門をくぐりさえすれば・・・八重桜女性 86歳 掲載号 2007/9/1 No.4

毎日毎朝地下鉄の一番に乗ってお参りさせて頂いた頃は楽しかったな……、と毎朝家の神様にお礼申し上げます度に思い出します。足の骨折がもとで朝参りが出来なくなり十年。初代大先生が教会の門をくぐりさえすれば助けてやるとおおせになりました通り、私如き者でも親先生のご祈念を頂き毎日元気で働かせて頂いて居ります。

手記No 64信心継承のこと湊 喜兵衛男性 82歳 掲載号 2007/9/1 No.4

核家族化が進み信心継承の形の変化、家族宗教から個人宗教へと、信心を伝える難しさが問われるご時勢である。信心継承のみ教えは、わが道しるべに信心生活に根ざした伝える側として、熱意をもって、自然体で勤めさせていただくことが特に求められていると思います。 わが家族一同打ち揃い、おかげのなかで、ご神縁を蒙らせて頂き、信心の稽古台にたたせて頂いておりますのも、次の事柄が基盤かと思っております。私は、戦時中玉水の学生会に入らせて頂きました。妻は道広教会で少年少女会に入らせて頂いておりました。息子達はそれぞれ玉水のスカウトに入らせて頂き、男孫達も玉水のスカウトに入らせて頂きお世話になっております。それぞれの活動にあって、次第に心を神様に向かわせて頂き、神様に出会わせて頂く心に預からせて頂きました。有り難いことです。息子達の嫁も、神様中心のわが家にあって、おかげで早々ご神縁に預かり、おひきよせ賜っております。息子達玉水スカウト当時、信心継承につき尋ねましたところ、@親が信心しているからAスカウトに入らせて貰ったこと、の2点を挙げましたことを思い出します。

手記No 65昔お火鉢で教わって そよ風女性 84歳 掲載号 2007/9/1 No.4

初代大先生は教会の敷居を一歩跨げばお陰にしてやると教えて下さっています。お参りしても自分だけで拝んで帰ったのでは市場に行ってそこらを見渡しただけで帰るのと同じ、何のために来たのか分からん、先ず今日のお引き寄せ、昨日のお礼を申し、足らぬところのお詫びを申してお願いをお結界へさせて頂いております。 毎日同じ願いでもそれは日々が新だから心改めて願うことが大事であり、喜びと共に。金光教はお取次ぎを頂き教話を聞いて助かる道であるとも教えられております。お参りのあと話を聞かぬようでは駄目だ。 困ったことや悩みも打ち込んでご祈念していれば、行きずりの人の話や、目に付く活字や、人の歌声にも答えを下さることがあります。ふと思うこと=神からのメッセージ、しっかり気づかせて頂くことだと思います。時々、あの時お気付け頂いてたのにとよく失敗しました。

手記No 68お手引きについて八重桜女性 85歳 掲載号 2007/9/1 No.4

私は子供の頃から親についてお参りさせて頂いておりました。その頃周りの大人の信者さんがよくお手引きと言っておられるのを聞き、お手引きって何や、と親に聞きました。親も子供に分かるような説明は出来ませんでしたが、その後毎日朝参りをさせて頂き、お話を聞かせて頂いたり、お参りの往復で皆様方のお話を聞かせて頂き、おぼろげ乍ら私なりに分かりました。しかしその実行の如何に難しいか、ということでした。自分自身花の咲くようなお陰を頂いておればですが、次々と問題も起こってきました。しかしそれでも神様のお陰、大先生の御祈念でこんにちこうして幸せにさせて頂いております。それをどの様に聞いて頂いて、その方なりに解釈をしていただけるにはと、いつももどかしさで一杯です。

手記No 69忘れられないこと淀川の葺男性 82歳 掲載号 2007/9/1 No.4

ボーイスカウトのキャンプに出掛け、ブッシュ(草むら)を切り拓く作業が始まって間もなく、「隊長、T君がケガをしました」の声……あわてて駆けつけると「隊長、お剣先さんをください」。当時、隊の救急箱にお剣先さんは入れていない。とっさに個人携行の袋から取り出して渡すと、「有り難う」と言って、傷口に当て、ニッコリ笑ったスカウトの姿が忘れられない。 2)隊の集会が終わり、広前でのご祈念の後、記念館への道すがら何気なく「Y君、神様は、何処におられると思うか」と、尋ねたら一瞬と惑った顔をしたが(自分の胸を抑えて)「神様は、ここにおられます」と言い切った姿、これこそ、シンジンの現れかと、指導者として教えられたことである。

手記No 70衣・食・住の願い浦島太郎男性 66歳 掲載号 2007/9/1 No.4

昔初代大先生に衣・食・住のお願いをしなさいという教えを伯母から聞かされた。これは奥が深いで、とも言われた。私なりに考え、生活の基本かなと理解していた。そのお陰で28歳、独身の時、親元近くにマイホームのお陰を頂いた。結婚、2人の娘が小学校の頃ローン完済。もう少し広いところをと改めて願いを持ったとき、市の区画整理地域になったことを知らされた。また第三者への転売もしてくれるなとも言われ、頭金にすることも動くことも出来なくなった。定年もあと1年と迫って来てリフォームを考えていた時、区画整理計画も具体化、しかし、その補償はわずかで、老後にと貯めていた虎の子を足しても新規購入には足らないし、計画は押し寄せてくる。願いが真剣になってきた。そんな時変化が起きたのが、社員持ち株制度の株価であり、タイミング良く買い手が付いたことである。ローンを組むことなく25年間の願いがここに実現し、初代大先生、伯母にお礼の毎日。4LDKの新築マンションへ2人の娘が孫達を連れ遊びに来ても、別室で遊ばせておき、親娘は団らんの一時である。

手記No 71昔お結界で教わってそよ風女性 84歳 掲載号 2007/11/1 No.5

お結界で並ぶ時はお伺いとお願いをしっかりと区別して、整理しておく事が大切であり、待っている間に心でまとめておく稽古がいると思うし、長いお届けの人にはそれだけ大変なことがあるのだろうと助かりを祈らせて頂くくらいの心の広さが必要ではないでしょうか?人生には辛抱せねばならん事がたえずある。今その稽古をさせて頂いていると思って心を円くするように、心に角を立てないこととも教えられております。取次ぎを書いて下さる先生の足元と並んでいる所の絨毯の色が違う。色が変わったらお結界の内と心得て、私語は慎むこと。たとえ上段の先生がお留守であったとしても書いて下さる先生はお手替わりであり。先生を区別してはお陰を落とす。全て大先生のお導きと心得てお届けをさせて頂く態度が重要だと思います。

手記No 72自動車運転免許取得湊 喜兵衛男性 82歳 掲載号 2007/11/1 No.5

私は、現役時、運転の必要もなく、また愛飲家でもあり、運転には全く関心もなく過ごさせて頂いておりましたところ、何となく、運転免許を取得してみようと言う気になり運動も兼ね自動車学校に通い免許取得をしましたのは還暦後のこと。時経ずして、母が次々患うことになり、妻共々病院、医院往診医師の送迎には大いに役立たせて頂きました。また信徒会の御用では、お参りから遠のいておられる信者さんの様子をうかがいに、遠近問わず回らせて頂きました。神様にお縋りさせて頂いておりましたら、神様の有り難い思し召しが蒙れます。有り難いことです。

手記No 73お詫びとお願い 八重桜女性 86歳 掲載号 2007/11/1 No.5

信者さんのくせに、という陰口はよく耳にします。そして私も何度かこれまでに申しました本当に御無礼やとかお陰を落とすとか、私には御無礼は判りますがそれならどうすれば本当に神様にお喜びを頂けるのか、お話を聞かせて頂いても、直ぐに反省の出来るときは上等の方で、散々人の悪口を並べており乍らご神前では神様どうかどうかとお願い申し上げております。本当に過去が白紙に出来ればお詫びばかりしていて神様が過去の御無礼をお許し下さって助けて下さるのかと。大きなお陰を頂かれた方々はどんな風に信心をされているのだろうか。でも行き着くところはいつも神様に一度でも多くお詫びを申し上げて今日よりは明日の幸せのお願いしかないことになります。皆様はどうなさっておられるのでしょうか?

手記No 74「願いを持ち時節を待つ重要性」デヤ・ベヤ男性 60歳 掲載号 2007/11/1 No.5

この夏、観光で米国ワシントン・アーリントン国立墓地を訪れた際のことです。J.F.ケネディの弟・ロバート元米国司法長官の墓地の前には、遺言どおり、ごく浅い深さの水辺を作り、その水辺の表面が僅かに波うつようにしてあります。この遺言には、「国を治める者であろうとも、一人で改革するには限りがある。一つの考えと行動をつうじて、時間と辛抱が必要で波うつ水辺の表面のように、徐々に着実に広げて行くという考え方が大切である。」との故人の思いが込められているそうです。公私にわたり何ひとつ自分の思いどおりにならない毎日の生活の中で、願いをしっかり持ちながら時節を待つことの重要性を実感できたワシントン訪問でした。

手記No 76川の流れのように わたるちゃん男性 61歳 掲載号 2007/11/1 No.5

美空ひばりさんの唄「川の流れのように」ではありませんが、高齢者の会「大阪ふれあい会」を始めまして早30年近くになります。年取ることを嘆く人がありますが、年が過ぎること、年齢が増えると言うことは生きてきた生命の流れの様なものではないかと思います。年齢の増えるのを嘆くのは川の流れを嘆くようなものです。水の流れぬ川とは如何なものでしょうか?年過ぎるのを感謝し年を取るのも感謝しようではありませんか!それでこそ生命も信心も生き生きとしてくると思います。但し、年を取ると言うことと老人になると言うこととは全く関係のないことで、80でも90歳でも若い人は居られると思います。過ぎし日を神に感謝しょうではありませんか!

手記No 77二代大先生の思いでY.K.男性 77歳 掲載号 2007/11/1 No.5

二代大先生をご存じの方はその気品あふれるお姿を瞼に焼き付けられておられることだとぞんじます。南九州にお供をさせて頂き宮崎神宮に参拝させて頂いたとき、礼拝所に向かっておりますと奥の本殿から玉砂利を熊手でこちらに向かって筋目を付けておられた神宮の方が玉垣を開いてご遠方よりよくご参拝になられましたどうぞ本殿の方にお進み下さいと案内されました。私は一番若手でしたので最後尾についておりましたら、次に続いておられる一般の方には、ここからは入れませんと玉垣を閉めてしまわれました。神宮の方は私までがお供の者だということをご存知ないはずで服装も九月の初旬で一般の方と同じような半袖の服装です。そのことを考えますと、お徳の高い大先生を神宮の祭神の神様が大先生を鄭重にお迎えされたとしか思われませんでした。大先生のご高徳は教内だけでなく世間一般に慕われ敬われるお徳の高い二代大先生でしたが、そのようなことを再三見せて頂きました。

手記No 78子孫への宝 そよ風女性 84歳 掲載号 2007/11/1 No.5

父は我が家の全先祖の日拝を、又毎月の墓参りには必ずお供を、別宅住まいの為帰宅時開口一番「仏さん拝んでいるか?」小二の子供心に「嘘は言えぬ」と、ランドセルを置くなり先ず日拝。父の手作りの毛筆の日拝表。お経の本の同字の平仮名辿りつつ。小学6年で第一室戸台風の日、電線のスパークに火花、この風、もう駄目、死を覚悟。般若心経念じつつ「母と家のお守り」を皆は泣き、私は「心中祈念」で平静、低学年の二階建て校舎は倒壊。皆の無事祈念。父の教えに守られて。正に信心は杖を体覚。後年玉水教会に御縁頂き、日々の教えも同じ。頂点からの流れと悟る。父は禅宗、子に渡す宝信心、私も願いつつなかなか出来ずお導き願い稽古中。子がお参りさせて頂く日を楽しみに。何事も歴代諸先生の取次ぎで。時節を待たず苦をする事の教えの下に。

手記No 79母 S.M.男性 84歳 掲載号 2007/11/1 No.5

子供が多かった時代でしたが、母は11人の子供を産んで特別でした。内姉2人は赤ん坊の時に亡くなりましたが、それでも9人の子供を育ててくれました。皆元気でしたが私だけ虚弱でした。そのせいで私が一番心配をかけたと思います。わたしが病気で寝ていた時、よく枕元に来てご神米を頂かせてくれました。その母がある時、お教会から帰ってきて「若先生(二代大先生)がかわいそうにと言ってはったで」と言うことを聞いて、何万人も信者がいるのに私如き者をそれ程思って居て下さったのかと有り難さで一杯でした。今も子供達にそろばんを教えています。これも歴代大先生のおかげは勿論ですが、この母あればこそとしみじみ思っています。

手記No 80めぐりについて 八重桜女性 86歳 掲載号 2007/11/1 No.5

めぐりって本当はどういう事なのかしらどの宗教にもそれぞれ独特の言い方があるようですが日頃何気なく口にしているめぐりについて本当は何なのかといつも思っております。品行方正の方はめぐりをつまないでいられるのか、でも本人は別として先祖からのめぐりってよく言われますし知らず知らずの罪汚れは即めぐりとなるのであろうか、我が身が知らずして過去から現在にたまりにたまっていくのであろうか、自分の毎日毎日が少しでも善であれと願いつつも、知らず知らずのご無礼ばかりです。注意しておりましても人を傷つける事の多い生活を反省しつつ、日々の生活も反省しつつ信心させて頂いておりまして、このような有様では信心なければどんないやな人間になっていたのかと反省させていただいております。

手記No 81二代大先生二十年祭を迎えるに当たりY.K.男性 77歳 掲載号 2007/11/1 No.5

二代大先生二十年祭を迎えるに当たり、改めて二代大先生に頂いた、お陰を一つ一つにお礼を申し上げさせて頂きましょう。しかし、ただお礼を申し上げるだけでは、申し訳ありません。ここから更に信心を進めさせて頂くことを信徒会の集会で話し合うことが大切なことではないでしょうか。二十年祭をお迎えする、私のテーマは「祈誓の実践」で祈誓が出来たのは二代大先生がお亡くなりになられて五十日祭にできました。来年で二十年になります、その間、祈誓を千回位申し上げているかなと単純に計算したら千回どころではありません。祈誓は「します。いたします。」と誓っているのです。それで、一つぐらい「しました。いたしました。」と申し上げられるように努めさせて頂きたいと思っております。

手記No 82年賀の晴れ着Tease女性   掲載号 2007/11/1 No.5

秋風が肌に心地よい季節となり、物思いに耽るこの頃、毎月19日に二代大先生の映像やお話を伺っていてなんと申し訳ない時を過ごしたことかと……。若いときはただお参りをしたいときに参り、言いたいことを言って先生を困らせたことでしょう。「人の道を歩んでや」と言われたことがこの年になって解りかけるなんて……。年賀のご挨拶の時も晴れ着を着ているときは、にこやかに微笑んでくださいますが、ある時いい加減な気持ちで常と変わらない服装でご挨拶したら厳しいお顔でした。「日々がさら」と言われるように気持ちの上で引き締まりがないのがいけなかったのかと後悔したことがあります。大切なことは、新しく綺麗な晴れ着でなく、日々がさらなきもちだったのですね。

手記No 83二代大先生へのお伺い八重桜女性 86歳 掲載号 2007/12/19 No.6

30年程前、私は会社がいやになり、信徒会で話をさせて頂きました処、大先生にお伺いをして決めるべきだと教えられた。その事を二代大先生にお伺いすると、12月迄と仰せになり、9月だったので12月迄気楽な気持ちで出勤しておりましたところ、社長の方に次々と問題が起こり、教会へ一緒にお参りをしてお届けをされるようになりました。私は奇跡が起こった如く感じました。またその私が会社も辞めることなく86歳の今も現役の社員としてお陰を頂いております。信心を知らない一人の人間に、私を介してお引寄せ頂き、亡くなる2ヶ月前までお取次ぎを頂かれました。神様に手を合わせたことのない人に二代大先生は神の存在を教えて下さり、安心立命のお陰をお授け下さいました。私のことと共に、お礼の毎日です。

手記No 84「御神酒を朝晩にな」二宮金次郎男性 67歳 掲載号 2007/12/19 No.6

父が66歳で、私が勤めを辞めて父の仕事を手伝ってから7年目の33歳の時、協同組合の理事長室で、父が突然脳血栓で倒れて病院に運び込まれた。すぐに二代大先生にお願いすると、「頭に御神酒を頂きなさい、朝晩にな」とおっしゃいました。朝参りの帰りに一升ビンを守衛さんに見つからないようにして、父の頭に力いっぱい吹きました。しかし晩には医師や看護士さんが多く、御神酒の持ち込みが禁じられており、吹くことも出来ず、朝だけで済ませておりました。言葉がしゃべれず、左手が少し動くぐらいの重度の障害で、3ヶ月経っても余り変化がないとのことで、自宅に連れて帰りました、それから12年間その状態のまま亡くなりました。その後、大先生に頂いた「朝晩にな」のお言葉がなぜか頭から離れず、これは大変重要な意味のある事ではないかと思うようになりました。つまり朝晩とは始めと終わりが大切で、朝だけでは半分の祈り、半分のお陰になってくるのではないか、残念な事をしたなあ、とおわびをしています。とはいえ、いまだに実行は出来ていませんが、大きな意味で人生の終わりに向かって、せめて信心の継承に努めていきたいと思います。

手記No 85良縁のお願い浦島太郎男性 66歳 掲載号 2007/12/19 No.6

昔、青年会時代の集会で二代大先生に良縁のお願いをしなさい、と教えられた。まだ十代で青年会にも入りたて、ピンと来なかったが願いだけは持った。そしてこんな私にもお陰を頂いた。第一子、第二子と妊娠が判ったとき、新たなる良縁のお願いが始まった。長女は学生時代、将来の海外生活を夢見たらしい。商社に就職、職場結婚のお陰を頂き、海外赴任生活も経験させてもらった。私共も訪問、そして観光と良い体験をさせて頂いた。これも良縁のお陰なんでしょうか?次女は失恋の痛手の時に気の進まぬ数合わせの合コンに引っ張って行かれたらしい。また彼も気の進まぬ合コンだったと後で聴く。眼に見えぬ糸で結ばれ今や家族のため朝早くから夜遅くまで一生懸命頑張っている。この息子の健康のお願いも忘れていない。夫々が一女一男の母になった。この孫達の行方いつまで見せて頂けるか判らないが、しかし良縁のお願いだけは持ち続けたい。いつまでも……

手記No 86「人生が変わった一言」北斗七星男性 59歳 掲載号 2007/12/19 No.6

私が大学4年生の就職の時、私は父が勤務していた会社へ就職をしようと御結界にお伺いに行きました。その時二代大先生から一言、「もっと大きな会社に就職をしなさい」とお言葉を頂きました。特に就職活動をしていませんでしたが、迷うことなく先の会社への就職をやめました。少しして大学院を受験しないかという話になり、合格しませんでしたが、その後すぐに教授から、37年間勤務することになる会社を紹介頂きました。今思い返しますと、父が勤務していた会社は同族会社であり、又色々な人の関係もあり、苦労していたと思います。お伺いし、お言葉を頂いたことで、振り返ってみると、自分の能力以上の仕事をさせて頂き、又満足な仕事が出来たとお礼の気持ちでいっぱいです。本当に私の人生は、一言で変わったと思います。

手記No 87守られて・・・紀ノ川女性 67歳 掲載号 2007/12/19 No.6

40年近く経った今も、ハッキリと見えないお陰ということを思い出されます。二代大先生の頃でありました。それは夢はでありますが、玉水教会大広前、お賽銭箱の辺りに私が座って御神殿の方を見ておりますと、天井近くの宙を泳ぐようにウネウネと大蛇(大人の男性の両腕が廻らない程の太い蛇)が三匹お広前後方から御神殿に向かっていきます。なんと恐ろしい事とあ然としておりましたら、御神殿近くの玉垣手前で、高い大きな天井から突然太い柱が三本ドーンと落ちてきて、大蛇三匹の頭が串刺しになりました。玉水教会のお徳、大先生の御祈念を頂いていることに有り難く、恐れ多い事と思っております。

手記No 88不思議の波に流されてそよ風女性 84歳 掲載号 2007/12/19 No.6

養母と私は生まれ方も生い立ちもネガ一枚。違いは、養母の父は信心なき普通の人、私は父に信心を教わり乍ら特定の何処にも縛られず導きを、何事にも一途になる性格故。不思議の思いに引き寄せられて玉水へ、後は気儘に勝手信心。異母姉の危篤に急ぎ大連へ。渡満前のお結界は一切無知、お届けもなし、日々姉一家の為勢一杯。12月末に発病、入院、「ああ!この子、今日未だ生きているで、どうなってんねんやろ?」が話題の毎日。昭和19年2月1日午後6時、下熱し蘇生。形のお祀りも、お届けもない私が、親の為、家族の為お徳授かる。「玉水の先生」との心中祈念だけで。思い返すと、お導きのお陰で祈りも一心も。信心は素直が一番、盲目的に信じ切って体得する。赤子のように求めよ、との教え。無心の信心を、子への宝、親なれば。

手記No 89神様のおつげについてわたるちゃん男性 61歳 掲載号 2007/12/19 No.6

「神様のお知らせなど聞いたこともない」そういう人もあると思う。初代大先生が信者時代に神様からいろいろと指示をうけて商売をされた話がある。実は我々にも神様の指示は常にあるのである。例えばお腹がすいて何か食べたくなるときがある、これは神様が何か食べなさいという指示であると言える。急にトイレに行きたくなるときがある、神様からの指示である。遠い懐かしい人を思い出して手紙でも書きたくなる、これも神様のお知らせである。只神様は人の言葉を使わず感じや思いによって人に指示を寄せられることが多いと思う。私がこの投書をしたいと思ったのも神様が出しなさいとご指示下さったのだと思う。

手記No 90命がけの信心わたるちゃん男性 61歳 掲載号 2007/12/19 No.6

教会にお参して「神様これこれをよろしくお願いします」と御祈念したのはよいが帰り道「何を御祈念したんだろうか」と忘れてしまうことがある。時には教会で御祈念だけが習慣になっていることがある。初代大先生は商売繁盛をお願いしたからには売り上げが皆無であっても信心を貫けと教えられていたように思う、只人との約束は覚えているのに神様との約束願いがこの有様では神様が消えてしまう。我願いは合わせて神様の願いでもあります。神様がかなわぬはずはありません、只そこに自己利益や打算や深欲さが介すればかなわぬ事もありましょう。教典に「心配する心で信心せよ」「命がけの信心」あなたももう一度ご自身を見直してみませんか。

手記No 91役に立つことTease女性   掲載号 2007/12/19 No.6

人の為に思いやると言うことに欠けているのだろうか!毎朝御神前で今日も人のお役に立たせて下さいと祈っている。ある時学友と話した折帰り際に楽しかった、「たわい無い話に付き合ってくれて、無駄な時間を過ごさしてごめん!」と、満足して帰っていく人達。向こうから来るのを拒むことなく、ただ話を聞かせてもらうだけで自分から手を差し延べる訳でもない。だけど、こちらが教えられることも多い。相手は喜び自分は勉強させてもらっているのだと思う。時には疎ましく思ったときは反省しお詫びする。私の出来ることはこれ位なのかもしれない。

手記No 92御神縁八重桜女性 86歳 掲載号 2007/12/19 No.6

去る11月18日教会では例年通り盛大なバザーが催されました。私にとって本年のバザーは本当に嬉しい一日でした。それは生まれて初めて金光教の教会へお参りしたいという方をご案内出来たと言うことです。神様は全部新興宗教の如くこれまで仏教一筋に来られた方ですが、私がいつも教会へお参りに行くと言っておりますのでご自分から一度参ってみようかなと思われていたご様子のところ丁度バザーがありチャンスだった様です。このことこそ神縁まことに不思議にして今この道に出で会ふを得たりの気持ちで一杯です。願わくばこの後共に神様のお引き寄せを頂かれもっともっと幸せになられることを願っております。