金光教玉水教会
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教風 大先生の講話
玉水教会月刊誌「あゆみ」に
毎月連載されています
巻頭の「教風」より転載しています。

 御用について



 私たちはたいていにおいて、目先のことに目をうばわれ商売繁盛とか病気全快を「どうぞ、どうぞ」と夢中に祈り、そして神さまはそれを聞き届けてくださり、おかげをいただきます。しかし神さまの本当の思いは、ただ目先のおかげを蒙らせてひとときをしのがせてやろうというようなことではありません。本人ばかりか家族、さらに先祖も子孫も助けてやりたい、末安心の遠大なおかげを授けてやりたいというお心です。つまり、神さまは私たちに信心させたいがためにおかげをくださるのです。

 ですから私たちとしては、信心を磨いて神さまのお心を知るということが何より大事です。

 そしてそのために不可欠と言っていいのが、御用するという場です。玉水教会でも道輝会、婦人会、育成機関と、さまざまな御用の場があります。その御用について二つ三つ考えてみたいと思います

「見返りを求めない」。神さまの愛というのは無償のもの、決して見返りを求めないものです。御用するということは神さまのこの愛を、自らのこととしてまねていくということがいります。
 
例えばお祭りに参拝者が参って喜びの心に包まれれば、神さまはそれだけで喜んでくださっているはずです。御用する人は神さまのお喜びを体感し、ともにありがたいというわくわくする気持ちにならなければ御用する価値がない。さらにその思いを忘れず普段から見返りを求めない生き方を身につけていくことが御用する人の行き方であると思います。

 他人に何かしてあげて、たとえ先方が恩にきてくれなくても、させてもらえるような立場においていただけることがありがたいと、御用を通じてそういう信心にたどりつけたら、素晴らしいことです。

 「信心は遊ぶ」。教祖さまのみ教えに「神さまを信じる者は、何をするにしても遊ばせていただくのである。広前の奉仕で遊ばせていただき、商売でも農業でも遊ばせていただいているのである」とあります。御用こそ遊ばしていただくものです。と言って、この遊ぶは、息抜きとか、気を抜いてもよいなどの意味ではもちろんありません。

 二代大先生が初代大先生のお広前奉仕を「少々体調がわるくてもお広前に出ておられると元気になってしまう。そのくらい、楽しそうにうれしそうになさっていた」と回想し「それは生命をかけて打ち込んでおられたからだ」と説かれ「お祭りの御用でも、下足係のようなみながやりたがらない御用でも生命をかけて打ち込んでいけば、必ずそこから道がひらけていきます」と保証されています。喜んで喜んで生命をかけていくというのが「遊ぶ」ということなのです。

 「実意丁寧」。やはり二代大先生のお話に、ある先生の「これくらいのことは構わんだろう? という考えを捨てた」という言葉をご自身のよすがとして道を求められたくだりがあります。

 私たちは、日常生活を振り返るとつい「まあこれくらいはいいか」と自分に甘え、他人にも甘えがちです。

 教祖さまの道は、十二分に心をつくしても「凡夫の身ゆえ、どこにご無礼があるかわかりません」という厳しい道です。ひとつひとつのことに心を込めて、精いっぱいしていくのがこの道です。

 日常生活でつい「このくらいは」としてしまっていても、神さまを直接向こうにみている御用の場では、さすがに実意丁寧ということを意識せざるを得ないでしょう。

 以上三つのことをとりあげました。これだけでも信心を磨くうえで、御用がどれだけ大切なことかお分かりいただけると思います。





<2018年6月掲載>
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