金光教玉水教会
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教風 大先生の講話
玉水教会月刊誌「あゆみ」に
毎月連載されています
巻頭の「教風」より転載しています。

 二人三脚



教祖金光大神さまが、まだ農業に携わりながら信心を進めていた時代のこと。
 神さまから「秋中 行せ」とのお言葉があり、はだしで農作業に出るよう命じられました。教祖さまは早速、仰せ通りにはだしの行に取り組まれました。

 しかし奥さまが反対されました。大霜の降りた日にいつものようにはだしで出かけようとすると「体裁が悪い。信心ばかりして、わらじもつくらないのかと言われる」。
 それまで神さまのおかげを数々目にしておきながら、いまだに世間体を重んじる奥さまのことばを教祖さまは苦々しく思いました。それでもそれからは奥さまの言い分も認めて、鍬(くわ)や棒など農具の先にわらじをくくりつけて農作業に出ておられたのでした。「はだしの行」のご事蹟です。

 なんだ、教祖さまも甘い、妥協するのか、という見方もあるかもしれません。しかし私はこれこそ「あいよかけよ」のお姿だなと思います。
 
 ○人の思いがわからずに神さまの思いは
 金光教学院で担当の先生から、「神さまと二人三脚で」としょっちゅう言われました。でも二人三脚とは案外難しいものです。
 あるとき夫婦で二人三脚の競争に出ました。息を合わすことがむずかしくて転んでばかりでした。夫婦であってもこうなら、二人三脚とは簡単なことではないんだ、とわかりました。

 「あいよかけよ」というと、神さまと人間との関係のみを指すとお考えの向きもあるかもしれません。いえ、そんなことはありません。
 三代大先生は修行生に厳しくのぞまれました。修行生がぼやぼやしていると、特別失敗していなくても叱(しか)られる。それは、修行とは師匠が何を考えているか、何をしようとしているかをいつもくるくる考えていくことだからです。師匠の一挙手一投足を見ながら先んじて先んじて段取りをしていく。

 では、なぜそこまでしなければならないのか。
 人の思いがわからないようで神さまの思いがわかるはずがないからです。つまり教会修行とは、神さまの思いを察していくための稽古なのです。

 もちろん二人三脚ですから師匠の方でも弟子をいつも目の中に入れているわけですが。
「あいよかけよ」が、まず人同士から始まるということがおわかりいただけたと思います。

 となると、ことは教会修行に止まりません。みなさんや信奉者それぞれの家庭でも変わりません。

 信心さしていただいたからこそ、ここまでこれたのだ、信心しなければだめだ、と親は言いたいでしょう。しかしそれを頭ごなしに言っては「あいよかけよ」になりません。

 二代大先生は、子どもがぜいたくなものに凝っているなと思っても叱らずに「どう使うねん、どこが面白いんや」と聞かれたそうです。そう聞かれれば、こうでこうでと懸命に説明します。「そうかあ、大事に使いや」と言われると、自分の気持ちがわかってもらえたと、逆に大先生の言葉が素直に入っていきます。

 こういうことが「あいよかけよ」です。
「なんてことしてるんだ。ご無礼ではないか」と決めつける前にじっくりと言い分に耳を傾けること。相手の気持ちがわからずに二人三脚は成立しないのです。





<2019年8月掲載>
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