金光教玉水教会
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教風 大先生の講話
玉水教会月刊誌「あゆみ」に
毎月連載されています
巻頭の「教風」より転載しています。

 願いは貫く



 この頃でも、若い先生方から「神徳を頂きたい」という話題が、会話の中でのぼってくることがあります。具体的には、神さまから直接お知らせを頂けたらいいのに、という意味合いのようです。神さまからお言葉を頂けるようになれば、信者さん方も楽におかげを頂ける。そして、お参りも増える。ひいては教会の経営も安定する、というようなことらしい。

 お知らせをといえば、初代大先生は信心して十一カ月目には神さまからお知らせを頂けるようになり、三年目には道を歩いていても、その場でお言葉を頂けるようになりました。驚くべきことです。

 ところが初代大先生は、どうしてこのような神徳を得られたかということについては、あまり踏み込んで語っておられません。あんなに信心について理知的に、明快にわかりやすくお話しくださるのに、「どうしたらそのような神徳を受けられるか」という理由については、ご自身のことなのにはっきりしません。神徳を受けようと苦しんだのなら答えもわかるでしょうが、そのような考えはさらさらなかったからです。

 そこで初代大先生の信心のあとをたどってみると、神さまからのお知らせを頂けるようになっても、すぐにおかげを頂けたわけではなく、実にそれから十年も苦しまれたということに気づきます。

 例えば、「二十四銭三厘の話」、小売り商売初日のご事蹟をみてみましょう。

 剣先スルメをかごにいれて行商に出た安太郎青年ですが、ちっとも売れない。道で立ったままお伺いすると「いろまちへ行け」というお言葉を頂き、新町の花街へ行きます。しかし一枚も売れない。近くの堀江にも行くが売れない。時計を見ると四時。「日暮れにはまだ二時間ある。なんでもこの二時間で」と、へこたれず回りはじめるとバタバタっと売れだし、すっかり品物がなくなったというご事蹟です。

 お知らせを頂いてもすぐ売れ出したのではない、ということが大切でしょう。それでも神さまを疑わず、行きつくところまで行くんだと、立てた願いを引っ込めずに突き進んでいったところにおかげがあったのです。そして初代大先生は、ここのところの心の持ちようを、丁寧に私たちに説いてくださっています。

 大事なのは、おかげになるのにはお知らせを頂けるかどうかではない。願いを貫きとおすことだ、というわけです。
 
 ○元気な心で
「信心は我が足にあり」というのは初代大先生のお言葉ですけれども、それなら、お参りを続けていれば必ずおかげになるのかというと、それはちょっと違うような気がします。迷いながら、どうだろう、どうだろうと揺れ続けていてはおかげになりにくい。お参りすることで自らの信念がかたまり、強い祈りができていくところから、おかげにつながるのです。
 といっても、お参りしたらなにもかも変えてはいけない、などとは言いません。手術せずに病気全快を願ってお参りしだしたものの、セカンドオピニオンを聞いたりした結果、やはり手術を、というのは間違いではありません。元気になって働かせていただきたいというのが願いの根本で、手術云々(うんぬん)はその手段なのですから、お結界にお届けしていけば良いだけです。

 ともかくも、どこまでも元気な心で、へこたれずに進んでいくのが信心の生命だということを、肝に銘じてまいりましょう。




<2018年9月掲載>
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