金光教玉水教会
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初代協会長湯川安太郎師 金光教玉水教会の初代教会長湯川安太郎先生の講話は、 「我が信心の歩み」をはじめ、多数の著書としてあゆみ社から発刊されているほか、 あゆみ社発行の「あゆみ」(月刊)にも、「遺教」として連載されています。
この欄では、初代教会長の教えの数々を、順次紹介していきます。

[九十八]  結びの言葉


この間も、ある方が
「先生、貧乏で困っています」
と言いますから、私はその人に、
「そうですか。それは金持ちになる前の段階だから結構ではないか。誰も貧乏しないでは金持ちになれない。お金が持てないのは、まだ貧乏が足りないのだ。一ぺん貧乏してこないことには、お金の有難さ・尊さが本当に腹の底にしみ込まない。この頃、学校を出ても就職口がないと言って困っているようだが、困ったらいいのだ。でないと、折角、会社に入っても、いい加減なことで終ってしまう。今、困っておくと、就職した時に、一生懸命に仕事をするようになる。一ぺん苦しんだらよく分かる。私は長い間苦しんだ。それでやっと、すべてが分からせて頂けるようになった。あんたも、せいぜい貧乏して、よく分からせてもらいなさい」
と言っておきましたが、お互いは、まず苦労から先にさせて頂く用意をしていたら問違いはありません。

 今日も、ある方が
「先生、こう景気が悪くては、やりきれません」
と言いますので、
「いや、まだもっと悪くなるかもしれん」
「ええっ」
と言って、大きな目をむきましたが、こんな方は、よい時、よい事ばかりが続くもののように思っているらしい。晴天があったら必ず雨天があります。春があったら、夏があり、その次が秋で、秋の次には冬がきます。これは世の常として、当然すぎるほど当然なことです。この世渡りには、大小の違いこそあれ、苦難というものがあって、どうしても、そこから逃れることができないものです。それは、一日のうちにも、昼があれば夜があるようなものです。物事が裏目に出てくる時もあるのを、覚悟しておかなければなりません。

 『まめなとも信心の油断をすな』とも教えられてあります。〃まめな〃すなわち健康であり、生活が順調にいっておる時でも、信心に油断するなと戒められているのです。
  そこで、お互いが、難儀に直面した時の心の持ち具合いですが、つらいと言って泣き顔になってはいけません。

 『信心する者は、驚いてはならぬ。これから後、どのような大きなことができてきても、少しも鷲くことはならぬぞ』とありますように、あわてず、がっちり構えて、すべてをおかげとして受けさせてもらうことです。

 『これほど信心するのに、どうしてこういうことが、できるであろうかと思えば、信心はもう止まっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる』と言われる御教えの通りに、神様を離さないように一心におすがり申して、

 『病人や、代々難儀の続く人が、神のおかげを受けるのは、井戸替えをするに、八、九分替えて、たいくつしてやめれば掃除はできぬ。それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば、病気・災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気・災難は根の切れるまで、一心にまめ(壮健)で繁じょう(昌)するよう、元気な心で信心せよ』との御教えの通り、むしろ、事が起きたら「おかげ頂く時がきた」と思って、元気な心で取り組んでゆきましたら、どんな苦難にも打ちかたせて頂き、おかげを蒙ることができるのです。

 その点、人間よりも草木の方が、よほど賢く立ちまわって働いているように思われます。以前に、靱(うつぼ=西区)の裏通りに、桜の木が植わっていました。私はそれを見て、「木というものは、うまく働くものだなあ」と思いました。春になると、芽を吹いて、だんだんと枝を伸ばしていきます。伸ばす時には、一生懸命に幹をふとらせ枝を伸ばします。梅雨は植物にとっては、最良の時節ですから、木という木はうっそうと繁ります。梅雨がすむと、土用になります。日はかんかんと照りつけますから、植物はたまりません。日中は、葉はきりっと巻いてしおれがちです。まったく命がけで、土用を越すといった格好です。すると、やがて秋になります。やれやれ、これで耐えがたい暑さを通り越したと思うと、冷たく吹きつけてくるものは、秋風であって、葉という葉は容赦なく吹き落されてしまいます。

 ところで、難儀に出あうのは、これでおしまいかというと、なかなかどうして、それですみません。今度は、霜や雪に襲われます。葉が散ってしまったのは、お互いで言いましたら、すっかり財産がなくなったようなものです。その上を霜と雪とでおさえつけられるのです。こんな時、木はどうしているかといいますと、幹や枝には大して力を入れないで、ままよと任せて、根に力を入れています。上に伸びないかわりに、人目には見えない根にうんと力を入れています。これを修行時代といったら、当たっていましょう。桜の木の様子があまりにもみすぼらしいので、枯れているのかしらと思い、枝を折ってみますと、枯れてはいません。やはり血がかよっています。葉は散ってしまっていても、枝につぶつぶがついています。これは希望の芽であって、このつぶつぶは放しません。
 ですから、ひとたび春風がおとずれるようになりますと、その希望の芽は次第に大きくふくらみ、芽ばえ、枝葉は伸び、幹もふとってきます。
 これが人間であったら、どうでしょう。人間が、あの木のように尾羽打ち枯らしたとなったら、その内面は外見以上に哀れです。その精神的打撃は、まったく惨めであって、〃人間ともあろうものが、そんなざまでどうするか〃と、草木から笑われても文句なしです。お互いは、草木からも、自分の思いの足りないところが多いということを学ばなければなりません。

 このお道は『めでた(目出度)めでた(目出度)の若松さまよ、枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は、子孫繁じょう(昌)・家繁じょう(昌)の道を教えるのじゃ』と仰せられているお道でありまして、『神も助かり、氏子もたちゆく』のですから、『信心しておかげを受けてくれよ』と、神様の方から、恐れ多いことながら、手をつかんばかりにお頼みになっているのです。この神様に一心におすがり申していて、どうして助からないことがありましよぅ。

 東京へ行こうと思ったら、大阪駅に行きなさい。プラットホームには、東京行の列車が横づけになっています。お互いは、その東京行の列車に乗り込めばよろしいのです。いかに東京行の列車だからといっても、「あれが東京行の列車だ」と言って、プラットホームで立ちん坊して、ながめているだけではいけません。お互いは、信心という〃行く末安心行〃の列車に乗り込まねばなりません。

 お互いはみな、頼りなく、めぐりの深いものであって、おれが、わしがで安全に世渡りしようなどと思ったら、それはまるで、盲人が杖を持たないで走るようなものです。危険この上ないということが分かりましたら、こういったお互いのためにご苦労下さる神様にお頼り申し、おすがり申してゆくべきであって、そこに生活の不安は除かれ、苦難も影をひそめることになるでしょう。

 御教えのお言葉通りではありませんが『神が心労して十分なおかげを授けても、氏子の方では、どうやらこうやらゆがみなりのおかげと思うているので、愚痴不足が出るのじゃ。愚痴不足と勝手勘定と取り越し苦労は、おかげの断りを言うているようなものじゃ』と仰せられてます。よく考えて下さい。神様は、万事にご心労下され、末ためのよいようにと、ご都合下さっているのです。お互いが、愚痴や不足や勝手勘定や取り越し苦労で、それを無にしてしまっては、まことに相済まないことです。

 お互いは、神様を信心させて頂いたからには、とことん信じきらせて頂いて、『真心の道を迷わず失わず、末の末まで教え伝えよ』
『改まりによって、親先祖より子々孫々に至るまでおかげを蒙る』ということに打ち込んでゆきたいものです。

 以上、いろいろと、私の信心のあゆみ方について話させてもらいましたが、みなさんにも、私同様におかげを蒙って頂きたいと思いまして、私が受けた尽きないおかげを、話にして聞いて頂いたのであります。多少でも、みなさまが信心を進められる上に、ご参考になりお役に立つことができましたら、この上なく有難いことであります。
                                  完
<2013年9月掲載>
(「我が信心の歩み」は今回が最終です)
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