金光教玉水教会
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初代教会長 湯川安太郎


美志道輝真柱大人 小伝(3)


初代大先生五年祭『志乃びくさ』

(昭和二十五年四月二十日発行)より

布 教


 明治三十八年四月二十日から、いよいよ同所に於いて御取次一方の道に進まれたのであります。無から出発。奉公人は衣食の心配はせぬもの、神様に食わせて貰わねば親子四人餓死、死ぬ迄も御奉公出来れば名誉の殉職と覚悟を定め、友人の生活支援の申出も一切ことわり、不用のものは却って身を煩わすものと家財もごく簡単にして土佐堀裏町え引移って来られた時の有金が五円、米が一斗五六升でありました。

 総てが神様から恵まれたもの、我物は一つもない、という立場から考えれば如何なるものも有り難く受けられる、どんな僅かな物にも無量の感謝が湧く。どんな小さな数も、零の何倍に相当するか計り知れないのです。師は腐った魚も、一枚のチリ紙も、せまい住居も無限の感謝を以って受けて行かれました。最小の物に最大の価値を見出し得た師にこそ、最大の物に恵まれる資格が具ったのであります。

 師は又自分を無能無力と観じ、力を神様にまるまる足して頂くことを第一の念願とせられ、お道のお取次というものの真髄に徹して居られました。これが師の超人的な働きの源であったのです。因みに、玉水教会発祥の大広前は四軒長屋の一角。階下六畳二間、師一家の寝食の住居はその二階四畳と四畳半の二間でありました。

信者の味方


 責任感と義侠心の強さによってそれだけで立派に完成されていた師の人格が、自己を奉公人と観じ、実際に神様のお手がわりと立たれ、そこに思う存分の働き場所を得られた事になるのです。しかして師の教導を受けた誰しもが感じた第一の印象は、師が神様えの忠実な奉仕者であるよりも、信者の味方、今師に接している自分自身の味方であるということです。

 しかし、師は信者の苦しみをそのまま自己の心に移し取って、或る時は信者の立場に同情する余り、神様に対して腹立ちを感じて迄も、常に必死の思いで祈り続けられました。神様に腹立ちを感じ神意に反して迄も人を助け様とする愛、それこそ神様の愛を代表したもので、師はそうして人を助けた結果神様から手厚い礼の言葉を受けられました。

 師は又自ら「私は下品なお取次をしている」と語られ、その下品さに徹して居られました。生活即ち衣食の問題を度外して、一旦精神的に救われたと思っても結局は又生活問題の為敗れ去るという例が多いのです。

 師は前半生を生活問題の為に苦しみ抜き、信仰によって真の解決を得られ、大安心の境地に達せられたのです。そこで人を助けられる重点を先ず第一に生活問題におき、その方法が心なき人々から下品だと評せられることは予て承知の上でありました。師が御神前に捧げられる祈りの烈しさは、衣類に血の汗がにじみ、夏に三枚も衣類をくさらせたと伝えられることからでも知られます。

教話にいとまなし


 師は骨折り次第で誰でも神様に会う事が出来ますと約束せられました。師の教話は神様に引き合す為の道案内であり。聞く者の胸裡に生きた神様の像を刻み込む為のものでありました。「教話の無い処におかげはない」と断ぜられ、唯一人の信者を相手にでも夜を明し、定った食事の時間を持たず、実に教話に暇なく欠伸というものを知られぬ師でありました。

せまき門


一身上に降りかゝる苦難に対しては改りの機会、おかげの頂き場所と、勇んで立ち向かわれる師でありましたが、布教の道、人助けの道にも亦色々と狭き門がありました。 そう云う事実を発見された時程師にとって意外にも情なく感じられたことはありませんでした。

その狭き門故にすがりつく諸衆を振り捨てゝ過ぎ去ることは師の到底忍び得ろ処でなく、その為に苦悩、身もだえ、遂に「死して自由の身となって人を助けられんものか」と迄思い詰められましたが、本部の教祖様の奥城に詣で、教祖様から「金光教会はどこでも金光大神の教会である。信者も亦金光大神の信者で、そこには自他の別がない」「道に居るものは道をけがす、居らぬものは却ってけがさない、どしどし教えてやれ、総てにとん着するな」との御言葉を感得せられ、因って胸中苦もんも解け益々布教に盡すいされることが出来ました。

元々師には教会修行の経験なく、教務上不慣れなことが多く、為に信心友達二人を監視役に頼み、よくその苦言を受けられ、教師として定規を逸することなきよう、充分に配慮せられましたが、然し教義の理解の仕方からして、師自身に納得し実証し得た理解の仕方であり、師が元々いわば町の布教者であったことから考えても「道に居て道に居らず」式の型破りもあり、そこを目差しての批難は後年迄も続きました。

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