金光教玉水教会
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初代教会長 湯川安太郎


美志道輝真柱大人 小伝(4)


初代大先生五年祭『志乃びくさ』

(昭和二十五年四月二十日発行)より

金光教玉水教会創立


 明治三十九年、師三十七才。当時の規則では、布教所が或程度の布教実績をあげるようになってから、始めて其の筋え届け出で認可を受け、正式に教会の取扱いを受けるように定められていたのですが、神人双方から懇望されて御取次奉仕に就かれた師に対して求信者が集まらぬはずはなく、教会としての内容は十二分に充実して、六畳二間の大広前は初めから狭あいを告げ、拡張の必要にせまられて居りました。

 同三十九年八月、程近き江戸堀上通一丁目七番地の角家を借受けて移転、大広前の畳数は三十となり、其後南隣え、次いで東隣え、隣家を借受け合併、大広前を拡張する事二度に及びました。玉水教会は参拝者が殖え弾切れつつ大きくなったので、教会建物が大きくなりつつ参拝者が殖えて行ったのではありません。

 同四十年九月。三十八才、金光教教義講究所に入学。教会は公式のものとなっても、師は未だ公式に金光教々師としての資格がありませんでした。形式的な資格は師に取って大した問題ではなかったのです。しかし神様が早く本部の講究所へ入って教師の資格を得て来いと仰せになるのです。

 当時、先代銀座教会長が廿一才で御取次の手伝して居られ、師が不在となれば、その留守番はあるわけですが、徳能に於いて相違があり、参拝者も不安に思いおかげが頂けないというようなことがあるかも知れず、例え数ケ月の間にもせよ、そういう不安を持ったまま本部へ出掛けることは師に取って忍びぬところでありました。

 そこで、「自分が不在であっても、自分が居ると同様のおかげが御結界に現れるという事を保証して頂かねば講究所えは行けませぬ」と神様と膝詰め談判の上、遂に「代理聴届ける」と神様から言質を受け取られました。そして実際に師が不在であっても御取次の徳が低下しないということが、この時既に試験済みとなったのであります。しかして、それは又師の祈りがここにあって離れない証拠であります。

焼け太り


 同四十二年七月、北区に大火あり、その罹災地に大部分の信者があり、玉水教会はその為に滅びるだろうと迄教内でうわさされたそうですが、そういう災害のあればこそ布教の必要があったので師の祈りに益々拍車がかけられ御取次に精進、家族の方にも朝何時に床を離れられたか、夜何時に床につかれたかわからぬ日が続いて行きました。そして罹災の信者が焼け太りにおかげを蒙ると共に教勢も益々発展して行きました。

信者に頼らぬ


 大正四年、船町橋附近へ移転。最初から無資本、神様からのお下がりを唯一の財源として、有りたけを布教の費用に、困っている人えの同情金に費つてしまわれる師に於いて、その後の教会移転、拡張に要する臨時の費用が前以って用意されているはずがありません。

 しかもその臨時の大きな費用がどうしてまかなわれて来たか、この答えこそ師の布教が神に頼ってなされていたものでるか、信者に頼ってなされていたものであるかを最も分明する処であります。助けようとする信者に助けられては宗教というものが根本の使命を、生命を失って仕舞い、寧ろ世の寄生物となってしまうのであります。

 師は世話係同志の頼母子講の計画も打ちこわしてしまわれ、婦人会の御神具御供えの相談もことわってしまわれました。信者のふところを痛めずとも必要な費用は必らず神様から授かるという信念で只神様にだけおすがりして、実に堅実な、しかし人間的に考えれば実に危い橋渡りをして、より経費のかさむ方面え飛躍して行かれました。


教会新築


 大正九年、江戸堀上通一丁目八番地に教会新築。従来は普通家屋を修理して大広前に当てておられたのですが、今度は新規に教会建物として建立されたのです。土地の買收から数万の金員を要し而も何の金策もされなかったのですが、そういう事情を関知しない一信者の全くの自発的金融の申出により入費は調うたのであります。

 今度の大広前、教場は七十畳、それもすぐに狭くなり、四十畳の掛け出しから職員の居間迄拡張され、春秋の大祭は三日に亘り参拝者を三区分して行うという盛況となりました。時を分たぬ大量の参拝者にもかかわらず一人一人の参拝者に行届く師の教導は益々円熟して幾千の人から慈父の如く仰ぎ慕われたのであります。

大先生の由来


 二代教会長湯川 茂師は大正十二年、二十四才で若先生として御結界の坐に就かれました。若先生に対して師を大先生と申上げるようになつたのですが、後には師の徳風の大をいい表す尊称となりました。「父としてはきびしい、こわい父上であった。しかし段々と御無礼ということにも心付かせて頂き次第に神様に近づけて頂いたことは何より有難いことである」と述懐せられます。

弟子の養成


 師と仰ぐ者総ては弟子でありますが、ここでは特に金光教々師として布教に従事する者をいうので、それは信徒の中から秀英を選ぶという方針でなく、多くはめぐり深き者を救い、廃物を生かすという心からでありました。師に取り立てられて大阪及びその近郊はもとより、東京、名古屋、伊勢、山陽に布教して教会を設立する者四十に及んで行きました。



大玉水教会の建立


 昭和十年、師六十六才、江戸堀北通一丁目十五番地。五百余坪の土地も狭く宏麗の教場、神殿及附属舎が建立されました。神徳広大の表現、信徒報恩の結集であります。

つつましさ


 大きな教会の主となられてからも、師の私的生活は実につつましやかなものでありました。食膳に副えられた魚の切身も、「皆迄食べるのは勿体ない」とて半ば迄は食せられず、チリ紙は必らず半切して用い、衣服の新調も「やめといて貰いましよう。死んだ時のかたみを買うようなものや」とお聞き入れになりませんでした。

保 養


 師七十才。昭和十四年十月、軽微の脳溢血に罹患、同じ事がその翌年、又翌年と回重なり、次第に右半身不随となられました。周囲から転地、保養をと切に勧められましたが「大広前奉仕に心を忙しくしているのが、私の第一番の保養である」とて聴き入れられませんでした。
 師は魚釣に格別の趣味を持たれ。晩年には時たま釣に興ぜられることもありました。しかし、およそ娯楽というものに対しては、それが何んであろうと一生懸命になるに違いない性分の持主である自分は、近寄らぬに如かず、好きなるが故に嫌いとして一生遠ざけられました。高齢と成られても修行精神はごうも衰えず常に生き生きとしてい

大願成就


 「俳優は舞台で倒れるのが本望であるように、自分は御結界か御神前で死に度い」と、師は平素から洩らして居られましたが、果して昭和十九年一月十七日御結界奉仕中脳溢血に罹患して重態となり、同月二十二日の月次祭には重態を冒して御神前に参拝、玉串を奉奠(ほうてん)せられ、為に容態更に悪化してまた立つあたわず、二月一日午後八時半、七十五才を一期として遂に帰幽、神上られたのであります。

 死を以つて御取次の道を生かし、身は死すとも御取次の精神を御神前、御結界に、永遠に留められたのであります。斯くして師の平素の願は成就せられ師―代の信心が大きな完成を遂げたのであります。師の容態悪化を伝えられてより、信徒も又昼夜分たず平癒を祈り続けました。この誠の祈りは、師の御取次の徳が永遠に、大広前に、又各々の心により強く生きられることによって報われたでありましよう。

延 命


 師が三十六才の時、神様から「其の方の寿命はもう十年である」と仰せられましたが、「せめて三十年生きて御用をさせて頂き度いが、それが叶わねば十年間に三人前の働きをしよう」との決心で努力せられ、結局は四十年に延命のおかげを頂かれたわけであります。三人前で三十年、四人前で四十年と反比例に延命のおかげを受けられたので、師は実際四人前の働きをしておられたのでありましよう。

手向草


 師の金光教団に対する貢献は、実際布教によって教団の大を加え、金光教の名を高めたという他は、総て蔭の、縁の下の働きであって、ここに表示することは却って師の本意ではありますまい。そして何等求めずして管長様から特選議員機務顧問にも任ぜられました。
 社会公共の事業の為資を寄せられること少なからず賞勳局よりのほう章を始めとして各方面よりの謝状も枚挙に暇がありません。

 帰幽と共に、金光教教主様より、権大教正に昇せ、湯川美志道輝真柱大人とおくり名せられました。告別式に会する者、万を以て数えられ、霊柩車の一行が通る街の四辻、電車の乗場からまで、有縁無縁の人々の拝礼を受けつつ、遂に阿倍野の葬場に送り、だびに附されました。

 師に与えられた名誉も、告別式の盛大さも、師一代の功労に比べればそれはささやかな、或は一時の手向草に過ぎないでありましよう。
 遺骨は阿倍野墓地に鎮められ、慕い参ずる者あとを絶ちませぬ。
(註、墓地は阪神高速道路建設に伴い現在瓜破霊園に移転。年齢は数え年)

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