初代大先生と恩
初代大先生、湯川安太郎は明治三年(一八七〇)の生れです。和歌山市の郊外の御膳松というところでした。六歳のときに父・安兵衛さまが亡くなりました。母サトさまが妹二人を連れて実家に帰ることになり、安太郎少年は親戚に預けられることになりました。
親戚が迎えに来た朝、安太郎少年の姿がない。さびしいのだろう、とみな不(ふ)憫(びん)に思いつつ探すと、田んぼで麦を刈っていたという。「私が行ってしまうともう母さんの手伝いができない。自分が刈れるだけ刈っておけばいくらかは母さんの手伝いになると思うてこうしてる。案外はかどった」こう六歳の少年が答えたそうです。母親思いの子でした。
親戚に預けられて小学校に通います。ここで一生忘れることのできない話を聞きます。一つは、狩人がうたた寝しようとすると猟犬が激しく吠える。あまりうるさく吠(ほ)えるので狩人はカアッとなって猟犬の首を切り落とした。すると切り落とされた猟犬の首は舞い上がって、上の樹からいましも狩人を襲おうとしていた大蛇にかぶりついて狩人を救ったのでした。
もう一つは、獅子の檻(おり)にはいって獅子に食い殺される刑をうけた囚人が檻にはいったが獅子は襲わず囚人は放免になった。それは囚人がかつて手負いの獅子を助けたことがあり、それがまさにその獅子でちゃんと獅子が恩人を覚えていたからなのでした。
この二つの話から「恩を受けたら恩に報いる。それができないのは獣にも劣る」。もともと親思いの少年にこの言葉は強く響きました。
明治二十三年二十歳のときに大阪へ出て奉公しました。ところがその暮れ大病にかかってしまいます。医者にも見放された瀕死の床で、安太郎青年は天地金乃神という御名を思い浮かべます。提灯屋にかかっていた提灯に書かれていた御名でした。この神さまならたすけてくれるかもしれないと懸命に祈ります。すると不思議なことに病気はたちどころに治りました。
ただ「助けてください」ではなく「大恩ある親をおいてこのまま死ねません」という恩に根差した安太郎青年の願いが神さまのお心に通じたのでしょう。
そして安太郎青年はこの神さまが金光教の神さまであることを知り、大阪教会の門をくぐり金光教の信心生活が始まっていったのでした。
恩を軸に幼少から入信までの初代大先生の人生をたどると以上のようになります。恩を知る、とは初代大先生を信心に引き寄せ、命を救い、大先生の信心を育んだものです。
初代大先生の信心は恩を知る、ばかりではなくたとえば商売をなさってお金に苦労するなかで到達した「神さまは御主人 自分は奉公人「という信心の境地もあります。
このたびの八十年祭の記念刊行として同名の本が出されますのでしっかり読んで初代大先生の信心を少しでも身につけましょう。そのことこそが初代大先生の恩を知る、第一歩です。
それにしても四年に及ぶコロナ感染症の災いがようやく下火になってこのように八十年祭のお祭りを堂々とお仕えできるというのは、まことにありがたいことです。
初代大先生のお徳の現れとしか申しようがございません。このお祭りを契機にさらに、ともどもに信心を進ませていただき「おかげの花」を霊前にお供えさせていただきましょう。