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おすがりして

 前号で、商売不振の酒屋さんが親孝行に取り組んだことで商売が好転したという話をしました。明治末から大正の初め、いまから百年以上前の話です。
 今回はその続き。初代大先生に言われての付け焼刃の親孝行でしたが、みごとにおかげを頂きました。
 ところが、おかげのもとである親が亡くなってしまうと元の木阿弥、大きく儲かると算段していると大きな欠損、なんとかやれるかと思ってもやはり足りないという状態に戻ってしまいました。
 そのうえ奇妙な病気にかかってしまいます。
 ある日初代大先生が表を通りかかると、奥さんに招じられ中へ通されました。酒屋さんがうつぶせになって亀のような恰好で寝ています。のどの病気で食べ物がのどを通らない、唾液を呑み込むのでさえ痛いのでうつぶせになっているということでした。
 時分どきになり、奥さんに勧められるので初代大先生は「ではご馳走してもらおうか」と鶏料理にお神酒をつけてもらい、まずご自身が杯をとり「君も」と酒屋さんに勧めます。とても、と固辞しますが、大先生に勧められると飲めます。料理ものどを通り久しぶりに満腹するまで食べられました。
 翌日、息子が参ってきて、あれからまた食べられませんとお届けしました。何とかして参るようにとことづけすると、必死の思いで参ってきました。また食べさせてもらおうと思ったのでしょう。
 初代大先生は「あんたは口が悪い。口でご無礼してきたのだから口で善いことしなはれ」とご祈念帳を渡しご祈念するように言いつけました。
 その方は教会のお献具を手伝うほど熱心に御用に当たる人でしたので、ご祈念帳の大切さや、ご祈念帳を繰ってご祈念する御用の重大さもよくわかっていたので、尻込みしました。
 しかし初代大先生は、口のご無礼の御詫びだと命じました。ふうふう言うほどに息があがり、汗をぼとぼと流しながらのご祈念により、それからは病気も癒えておかげを頂きました。

○「すがる」と「願う」は違う
 病気は治りましたが商売の方はそのままです。そこでご本部に参って、金光様のお取次を頂きました。
「日勝り月勝りのおかげをくださる神さまを信心さしていただいて、毎月足らんというのは勘定に合いませんなあ」
 やはり欠損のしかたが、神さまのご意志によるものだということを暗におっしゃっているのでしょう。「うろたえんように、我が力ですると思わずよく神さまにおすがり申せば、追々楽になります」というお言葉がさがりました。
 初代大先生は「おすがりする」とはどういうことかわかったか、と何度もたずねます。「わかりますがな」と酒屋さん。「ほんとうにわかったか。〝おすがりする〞はただ〝願う〞とは違うねんで。私も商売して十年ぐらいして〝おすがりする〞とは、ハハーンこういうものかとやっとわかったぐらいなもんや」と、しつこくしつこくご理解を重ねて、その方の商売はようやく軌道に乗って行ったのでした。妙な形の欠損の出方も病気も、神さまの布石と申すかご神意であって、初代大先生の懇切な導きでその酒屋さんは立ち行くことができました。
 これを古い時代の、今とはかけ離れた話だと取れば、それまでです。しかし信心するものからすれば、「御詫びの心で改まれば神さまに通じる」「我が力ですると思わずおすがりする」など、こんにちの時代でもそのまま要になる、信心のポイントを押さえた話だと言えます。信話集を読み込み読み込んで、自分にひきつけて頂き直して、それぞれがおかげを蒙ってまいりましょう。

(玉水教会 会誌 あゆみ 2024年7月号 に掲載)

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