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信話集を読み込む

 昨年のことですが、岡山県に住むご夫婦が参ってこられました。
 ある時信話集を手に取って、自分は金光教の信心をしよう思い信心を始めたそうです。信話集を読むことが信心のかなめで何度も何度も信話集を読んで信心を進めていかれたそうです。ところがだんだんおかげがいただけないようなことになっていかれました。そこで信話集を読みながら考えた。どうすればいいか。
 自分は岡山県に住んでいる。ご本部がある。日参しよう、と本部広前にお参りして金光様のお取次ぎをいただき、そして会堂で信話集をひろげて信心の研鑽をすることにしたのだそうです。すると次々におかげをいただき、湯川安太郎の教会である玉水教会にお礼参りされたということでした。

 お結界からご霊殿前の最前列に移り、ご祈念されてました。ふとみると姿がないので帰られたかなと思うと少し後ろに下がって、信話集を開けて読んでおられました。徹底して信話集を読むことを大切にされているということがうかがわれます。
 考えてみるとこのご夫婦の行き方はおかげいただいてきた信者さんの定石通りであるともいえます。
 玉水の信心はお話を聞くことと祈り、それもお広前に参ってのご祈念によりつちかわれるのです。みなそうやっておかげいただいてきました。いくら、ご祈念してます、といっても家で拝んでいるようなことではおかげにならない。お広前に足を運んでお広前のお徳に浸ってこそ信心は伸びていくと、昔から玉水では言ってきました。
 このご夫婦もお参りするようになって、しかもご本部広前、おかげがどんどん蒙られるようになった。至極当然のことです。
 そして信話集を何度も何度も読んで信心の指針とする、これもすばらしいことです。信話集は十六集もある大分量の書ですが、何度も読んでいるとさすがに流れが頭に入ってきます。このおかげ話のあとでこういう展開ということもなんとなくわかります。ではありますけれども小説とは違って、だからつまらないとはなりません。わかっていたつもりの話でも、教話で朗読されたりすると、これまで気が付かなかったがこういうこともおっしゃっていたのか、とかそこまでひろげての話であったのかとか聞くたびごとに新鮮な思いがします。それは聞いているこちらの問題意識が変わるからでしょう。皆さんも心当たりがあることでしょう。初代大先生がわかりやすくそれでいて深いところを説いておられるからです。
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 信話集を読み込みお参りを繁くしておかげをいただいていく。金が儲かるとか健康になるとか、それは決して卑しいことではない、しかしそれだけではやはりつまらない。せっかく信心しているのですから。「奉公人の八つの役前」でおおせられているように、神様が私たちに懸けてくださっている願いを少しでもわからせていただくことが大事だと思ってます。もう少しいうと、自分が足りてないことを痛感すべきということ。自分が何とか回っているのは、私が能力あるからではない、神様がたくさん足してくださっていてこそ、さらに初代大先生のお徳という踏み台に乗って、であること、その自覚をいつもいつも手放さないようにする。「自分は足りていない!」という自覚こそ信心する者の、神様にご祈念していく者の第一歩であると思います。いつも神様を意識して進んでまいりましょう。

(玉水教会 会誌 あゆみ 2025年2月号 に掲載)

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